【1005】 白薔薇のつぼみコンサート・マスター  (沙貴 2005-12-30 01:47:05)


 時刻は午後九時五十五分を回った。
 夜も更けて、と言う言葉が適当だろうか。
 とは言えインターネットも手掛ける現代っ子である二条乃梨子に取ってはまだまだ活動時間であり、ベッドで電話の子機を弄びつつごろごろと転がっていても眠気なんて全く感じない。
 だけどさすがに今更外出をしようとは思わないし、電話をおいそれと掛けられる時間帯でもない。
 例えそれが親類のお宅であっても――リリアンの姉妹のお宅であっても。
 
 かちかちと小さな音を囁きながら回る時計の秒針は、さっき見上げた時から勿論休まずぐるぐると回り続けている。
 放っておいても止まることはない。止まることはないから時間はどんどん過ぎていく。夜が深まる。
 もっと外出したくなくなるし、電話を掛けること自体が非常識な状況になってくるだろう。
 残された時間は決して長くない。
 迷っている時間は、そのまま自分にとって不利にしかならないことも判っている。
「うー。でもなー」
 呟いて、子機を軽く手の上で放った。
 すぐに落ちて乃梨子の手に戻ったそれは、「どうするの?」と問い掛けるように通話口を上向かせている。
 
 別に大した用事ではない。それが、通話ボタンの上に掛かっている乃梨子の指を止めている最大の理由だった。
 言いたいことがある。
 もうすぐイタリアに向けて経ってしまう志摩子さんに、どうしても言っておきたいことがある。
 でもそれは些細なことだ、言葉にしてしまえば11文字くらいの正に”一言”。
 もう随分遅い時間になってしまっている現在、それを告げるためだけに志摩子さんのお宅に電話を掛けるという迷惑に理性人の乃梨子は踏み出せない。
 言ったところで志摩子さんがどうこうなる訳でも無いし、言わなかったからとて志摩子さんが怒ったり悲しんだりするようなこともないだろう。
 結局は自己満足なのだ。けれどその分、言わなければきっと後悔する。それには自信があった。
 
 ”帰りを待っているから”。
 
 その一言はでも、大きい。
 帰りを待っているのは乃梨子。帰ってくるのは志摩子さん。
 それは言わば保険のようなものなのだ。
 なぜなら乃梨子はこれから、ちょっと大変なことになるかも知れないから。
 自分から望み、願って、大変なことに足を突っ込もうとしている。
 だからもし、それが失敗した時。手痛いしっぺ返しを受けた時、自分は一人じゃないんだって信じれる何かが欲しかった。
 
 志摩子さんが傍に居れば、乃梨子はずっとそれを信じられる。何の理由もなく盲目的に確信できる。
 でももうすぐ志摩子さんは一週間程度の修学旅行に行ってしまう。
 その間――二年生がリリアンから一斉に居なくなるこのタイミングでしかできないことだから、これから乃梨子がやろうとしていることに対して志摩子さんに付き添って貰うことは元々できない。
 できないから、せめて、何か。特別な何かが欲しい。
 それはほんの一言の掛け合いで良い。
 今日の放課後、いつも通りに別れただけの掛け合いじゃ足りない。
 女々しいと笑わば笑え。私は女だ。志摩子さんが大好きなんだ。
 
「良し」
 気合一言、上半身を跳ね上げるようにしてベッドから起き上がる。
 見下ろした子機は「掛けるのね?」と確認するように通話口を上向かせていた。
(勇気を頂戴、志摩子さん。帰ってきた時に、胸を張って会いにいけるように)
 
 ぴっ。
 乃梨子は遂に通話ボタンを押した。
 時刻は午後十時を回っていた。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
「可南子さん。今日は何か用事ある?」
 二年生が修学旅行に行ってしまってから数日が経った日の放課後。
 物寂しい学園内の空気に一年生や三年生も慣れ始めたそんな日、帰り支度を進めている可南子さんに乃梨子は声を掛けた。
 驚いたのは可南子さん。アンド、乃梨子の後方で軽く手を上げていた(乃梨子を誘おうとしていた)瞳子。
 乃梨子を挟んで、緊張が一瞬行き来する。
「特には無いけれど」
 先に振り払ったのは可南子さんの方だった。
 そして乃梨子からも視線を外して、鞄の整理を再開する。
 不快感を露にしている訳では無いけれど、居心地は悪そうだ。その理由は、何となくわかる。
 
 訝しげに眉を寄せて乃梨子の背中に目をやっていた瞳子に振り返って、手と顔で小さくごめんした。頭の良い瞳子はそれだけで大体判ってくれる筈。
 期待通り、瞳子は「仕方ないですわね」と口にこそしなかったものの、肩を竦めて目を伏せて、軽く首を振るジェスチャーの全部で答えてくれた。
 流石女優、語る術は口だけではないってことか。
 満足した乃梨子は再び可南子さんに向き直って、言った。
「じゃあさ、今日一緒に帰ろう」
 体良く瞳子払いを終えた乃梨子の後ろに、可南子さんの機嫌を損ねる人影はもうない。
 するとそれを顔を上げた可南子さんが確認した所為なのか、元々その気だったのかは判らないけれど、可南子さんは短く「良いわよ」と言ってくれた。
 でも「別に」と続いたところをみると余り乗り気では無い、か。
 
 構わない。
「ん、じゃちょっと待ってて。私も鞄持ってくるよ」
 乃梨子が可南子さんを誘うこと自体がレア・ケースなのだ。ノリノリで「まぁ嬉しいわ乃梨子さん、是非ご一緒致しましょう!」何て言われたら乃梨子の方が引く。
 有り得ないそんな想像に頬を緩めながら、乃梨子は教室を出る瞳子とすれ違って席に戻った。
 
 
 冷たい風がリリアンの隠れた名物、銀杏並木を吹き抜ける。
 そろそろにスクールコートを出した方が良くないですか、と勧めて来るような風は綺麗に紅葉した銀杏の葉を散らして、隣を歩く可南子さんの長髪を棚引かせた。
 同じ風に、綺麗に切り揃えたおかっぱを揺らす乃梨子が天上を見上げる。
 広い空を脇から狭める銀杏の枝条が乃梨子らの上に広がっていた。
 
「それで、私にどんな根回しをするつもりかしら」
 途切れた会話の合間に、可南子さんは不意打ちのようにしてそんな事を言った。
 装飾も何も無い、気遣いとか社交辞令なんてどこ吹く風。身も蓋も無いとはこのことだ。
 見上げた乃梨子は思わず顔を顰めたけれど、可南子さんは対象的に唇を小さく吊り上げていた。
「何の打算も無くて私を誘ったのなら、それはそれで面白いけれど。そうじゃないわよね」
「お見通しなんだ」
 顔を前に戻して乃梨子が言うと、可南子さんは小さく息を吐いた。
「疑り深くなっている、と言うべきかしらね。昔からそうだったんだろうけど、最近は特にそう思うわ」
 ひゅっ、と。
 二人の間を風がすり抜けた。
 
 鞄を持ちなおして、可南子さんは再び語り始める。
「昨日ね、薔薇の館で紅薔薇さまと話をしたのだけれど」
 その言葉に思わず乃梨子は「えっ」と仰け反って可南子さんを見上げた。
 だってそんな話乃梨子も知らない。修学旅行中は薔薇の館の仕事は無いはずではなかったか。
「薔薇の館? 何かあったっけ?」
 お手伝いの可南子さんが行って、白薔薇のつぼみの乃梨子が行っていないなんてことになれば、志摩子さんに会わせる顔がないじゃないか。
 わたわたとかなりみっとも無くそんな事を聞いてしまったが、可南子さんは軽く首を横に振って否定してくれた。
「いいえ、ただ忘れ物を取りに行っただけよ。そうしたら何故か紅薔薇さまがサロンで劇の台本を読んでいたの」
 
「その時にも険悪なんだかそうでもないんだかな会話になって……良くわからないけれど、とにかく、私は自意識過剰なのかしらって思ったの。疑心暗鬼になっている、と言えるかしらね。まぁ、あの人の底が知れないという部分も大きいけれど」
 そう言って可南子さんは再び溜息。
 台詞の殆どは全く意味が判らなかった。祥子さまに関する後半は大いに同意できるけれども、話の本質はそこじゃない筈だ。
 そして乃梨子はそこで、今更ながら”そうか”と思い当たる。可南子さんはまだ薔薇の館で居場所を見つけられていないってことに。
 自分で言うのもなんだけど図太い乃梨子、身内が元々館に居た瞳子と違って、繊細で顔見知りなんて祐巳さまくらいしか居なかった可南子さんにとって、薔薇の館は決して安息の場所じゃないんだ。
 体育祭の賭けに負けた結果のペナルティ、それが学園祭の手伝い。
 可南子さんは良くも悪くもその立場を崩そうとしない。
 だから居場所が見つからないのか、居場所が見つからないから立場を崩そうとしないのか。
 乃梨子には判らなかった。
 
 
 マリア様の庭まで、ぽつぽつとその時の話をして。
 お祈りを奉げ終わり、地面に置いた鞄を持ち直したタイミングで今度は乃梨子が口火を切る。
「それで、手伝いは続けていけそう? 嫌じゃない?」
 可南子さんは少し驚いたように目を丸くして、でもすぐに微笑んで頷いた。
「勿論。嫌だからといって逃げ出すような真似はしないし出来ないわ」
(それ、嫌だけど我慢してるって意味じゃん)
 思わず口を付いて出そうになったそんなツッコミを乃梨子は飲み込んだ。
「じゃ、学園祭が終わったら」
「私はお役ごめんね。瞳子さんは残るかも知れないけれど」
 
 ぐっ、と乃梨子は言葉に詰まる。
 言わせたくなかった言葉と引き出したかった単語が交じった一言だ。狙って口にしたなら可南子さんはかなりの意地悪と言うことになる。
 前半を撤回させるべきか、後半を引き伸ばすべきか。
 数秒とは言え散々悩んで、乃梨子は結局。
「そんなこと言わないでさ、そのまま手伝い続けてよ。遊びに来る感覚でも構わないし」
 お役ごめん=もう館には顔を出さない、と言った前半を撤回させることにした。
 瞳子との確執修正も大事だけれど、その前には”館に居る可南子さん”と言う前提が必要なんだ。
 
「それはできないわね。館に居る理由が無いし、私もそんなに暇では無いわ」
 薄く笑って答えた可南子さんに対して、乃梨子は嘘だ、と思った。
 理由は無かったけれど乃梨子の直感。志摩子さんは良く当たるわと褒めてくれる乃梨子の直感。だからきっと当たっている。
 嘘だ。
 館に居る理由がなくなるのは確かだけれど、何の部活にも入っていないしこんな10月近辺の中途半端な時期に入部することもないだろう。
 可南子さんの家庭事情に明るい訳じゃないけれど、少なくとも現在は薔薇の館のお手伝いが出来る以上、どうしても放課後は抜けられないなんてこともない。
 理由が無ければ館に居られないなんて校則は無い。
 暇がない訳じゃない。
 でもそれは、可南子さんを館に留めさせる理由には程遠い。
「可南子さん」
 呼んだ乃梨子の声は、銀杏並木の風に吹かれて消えた。
 可南子さんはだから、振り向いてくれなかった。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 可南子さんと一緒に帰った翌日の放課後、乃梨子は瞳子の席に向かった。
「瞳子。一緒に帰ろう」
 そしてそう言った時の瞳子の顔、恐らく乃梨子は一生忘れられまい。
 前日も痛感したことだったが、瞳子は女優なのだ。正確には女優志望の演劇部員だが、演技の素人である乃梨子にとってはそれらに余り差を感じない。
 ぱっ、と華を咲かせたような笑顔を見せて、ぱんと両手を打って、ぴょんと小さく跳ねて。
 今日の題目は”幼児”らしい。ちょっと瞳子の姿が十歳児くらいに観えた。
「まぁ嬉しいわ乃梨子さん、是非ご一緒致しましょう!」
 クラス中に響く瞳子のそんな声に流石の乃梨子も半歩引く。
 
 ちなみにその頃、可南子さんの姿はもうクラスに無かった。
 
 
 冷たい風が人に拠って好き嫌いの激しいリリアンの隠れた名物、銀杏並木を吹き抜ける。
 そろそろにスクールコートを出した方が良いですよ、と勧めて来るような風は勢いこそ昨日よりも弱いものの温度は低く、隣を歩く瞳子の体を震わせた。
 同じ風に、首を竦めて髪を揺らす乃梨子が天上を見上げる。
 広い空を脇から狭める銀杏の枝条が乃梨子らの上に広がっていた。
 
 うきうきと何処か浮ついて歩を進める瞳子は良く喋った。
 元々口数の多い子だったがその日は特に舌が回り、良いことでもあったのか悪いものでも食べたのかと思わず心配してしまう程で。
「本当失礼ですわね、乃梨子さん」
 乃梨子が無意識にそんな本音を漏らすと、瞳子はそう言って唇を尖らせた。
「良いことがあったに決まってますわ。乃梨子さんに誘われたんですもの」
 おっ、と。
 ジャブを食らった。良いパンチだ。中々良い左を持ってるじゃないか瞳子――。
「そ、そう言えば私から誘ったことってなかったっけ?」
「ありません。もっとも? 私の方が部活で忙しいということもありますけれど」
 火照る頬を誤魔化すように早口だった苦し紛れの返答は、でも瞳子の即答で切り捨てられる。
 本当に一瞬の間も無く「ありません」の一言、これは結構根に持ってるとみた。
「そう……だっけか」
「そうですわ」
 これは、相当根に持ってるとみた。
 
 マリア様の庭がそろそろに見えてきた頃、静かに瞳子は口を開く。
「昨日は可南子さんと何を?」
 来たか、と乃梨子は静かに気持ちを引き締めた。話の流れは予想の範疇、と言うよりお祈りを済ませてもまだその話題が出なければ乃梨子から振っていただろう。
「気になる?」
 気持ち歩幅を狭めて乃梨子が言うと、合わせて歩くスピードを落とした瞳子は言いよどむように視線を彷徨わせる。
 数秒間の奇妙な沈黙が流れたあと、最終的に瞳子は視線を並木の脇道遥か先に向けて答えた。
「まぁ、多少は。乃梨子さんが可南子さんを誘って帰るというのも珍しいですけれど、その翌日に私が誘われた事を考えれば強ち無関係と言う訳では無い。そうでしょう?」
「お見通しなんだ」
「乃梨子さんのことですから」
 そっぽを向いたままそう答えた瞳子の耳は少し赤かったけれど、乃梨子は勿論突っ込んでなんてあげない。
 「乃梨子さんの顔だって赤いですわ」と言われれば終わりだからだ。
 ひゅう、と。
 二人の間を風がすり抜けた。
 
 
「学園祭の終わった後がね、不安なんだ」
 乃梨子はそんな言葉から話し始める。
 瞳子は基本的に意地っ張りだけれど、本当に大事なことを茶化したり嘘で誤魔化すことは嫌いだ。
 だから回りくどい話し方より直球の方が有効。それは可南子さんとの交渉と似ているようで、でもその本質は全然違う。だから二人は反発するんだろうと乃梨子は考えている。
「私はね、瞳子と友達になれて良かったと思ってる。これからも友達で居たいと思ってる」
 いつもなら瞳子からの合いの手が入りそうなそんな台詞も、今ばかりは流された。
 きっと瞳子は乃梨子の言いたいことが既に判っているんだろう。
 だからこそ、続けた。
「可南子さんともね。知り合いになれて、一緒に薔薇の館で仕事が出来て。まだちょっと友達って言うにはお互い距離があると思うんだけど、私はそれを詰めたいと思う。ちょっとずつでも、長いスパンでさ」
「良いんじゃないですの? 私も勿論お手伝いしますけれど、私は部活動がありますから学園祭と言う大義名分が無くなれば中々行き辛くなるかもしれませんし」
「それじゃ駄目なんだ。嫌なんだよ」
 
 瞳子は歩を止めて目を丸くした。
 はっきり言い切ったことが瞳子の気を引いたらしい。振り返って、乃梨子は重ねる。
「この三人が良い。学園祭の後も私はこの三人を続けていきたい」
「乃梨子さん、それは」
「勘違いしないで。別に薔薇の館での話じゃないんだよ。何もかも、全部なんだ」
 そこは強調しておかなければならない部分だった。
 薔薇の館で仕事をずっとしていきたい、と言うことは言わば瞳子と可南子さんにそれぞれ祐巳さまと由乃さまの妹になれと言うことと等しいから。
 
 本音で言えば。
 瞳子らのことを考えないで乃梨子だけの考えを言わせてもらえれば、それは正しく”理想”だ。
 三人、これからの高等部での生活を薔薇の館で過ごすことがほぼ確定するから。お互いの距離はもっともっと詰められるだろう。
 薔薇の館はまた騒がしくなる。
 乃梨子と言う異分子を取り込んだ時のようにごたごたはあるだろうけれど、祥子さまや令さま、志摩子さんや祐巳さま由乃さまの尽力できっとどうにでもなる。
 乃梨子だって頑張る。瞳子と可南子さんを館に留めさせる為の努力は惜しまない、そう、今のように。
 でもそれは。
 乃梨子が口出しして良いことじゃない、とも思う。
 傍から見ていて祐巳さまと瞳子、由乃さまと瞳子、祐巳さまと可南子さんの相性自体は悪くないと判るけれど、だからって未来の姉妹に直結するのは浅慮だし、何より瞳子らに対して失礼だ。
 だから乃梨子は、その話題を避けている。
 少なくとも、今はまだ。
 
「体育祭とか、学園祭。修学旅行。何でもさ、三人で楽しめれば良いと思わない? 一人より二人。二人より三――」
「思いませんわ」
 そんな乃梨子の願いは、瞳子の一言で両断された。
 さも不快、と全身からオーラを発信し始めた瞳子は言う。
「一人より二人、二人より三人。それなら三人より四人でしょう? それに、その三人目がどうして可南子さんなんです」
「やっぱり駄目?」
「駄目」
 即答して首を振る瞳子には取り付く島も無い。
 乃梨子は重い息を吐いて、再びマリア様の庭に向かって歩き出した。
 
 
「どうして駄目なの?」
 いつものマリア様にお祈りを奉げ終わって、再びそのタイミングで乃梨子は言った。
 主語も目的語も抜かした一言だけれど、瞳子には必ず通じるだろう。
 案の定、瞳子は不快オーラを出したままとは言え答えてくれた。
「考え方が幼稚なんです、彼女は。男嫌いがどうこうというだけではありませんけれど、少なくとも私は相容れようとは思いません。きっとこれからもずっと」
「瞳子の方が歩み寄る、って選択肢は?」
「ご冗談」
 ふっ、と瞳子は笑った。正確には嘲笑った、か。
「可南子さんが幼稚だからと言って、私がそれに合わせたらただの甘やかしですわ。私は彼女の保護者じゃありませんもの、そんな事する必要なんて」
 
 駄目だ。
 乃梨子は率直にそう結論付けざるを得なかった。
 瞳子と可南子さんが犬猿の仲と言うことは良く判っているつもりだったが、乃梨子の考えはまだまだ甘かったのだ。想像の及びもつかない確執が二人の間にはある。
 可南子さんの方がどうかはまだ判らないが、瞳子の方が偏執的にそれを固持している。
 瞳子の琴線に可南子さんの何かが触れるのだろう。
 それが判らない限り、そしてそれが直らない限り、乃梨子が如何に手筈を整えても可南子さんが仮に歩み寄っても、瞳子の方で跳ね除けてしまう。
 駄目だ。
 少なくとも、今はまだ。
 
「瞳子」
 悔しくて悔しくて、負け惜しみのように呼んだ声は小さくて。
 とてもじゃないけれど、遠い瞳子には届く訳も無かった。
「ああ。それで昨日は可南子さんを説得に誘われたんですのね」
 傍の瞳子はそう言って、くすくす笑う。
 「仕方ないですわね、乃梨子さん」と続けた瞳子の声は優しかったけれど、寸前の嘲笑が耳にこびり付いていた乃梨子には寧ろ不気味にすら思えてしまった。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 ばたり。
 典型的な擬音と共に自室のベッドに倒れ伏した乃梨子は、枕に顔を埋めて「ん゛ん゛ーーー」と良くわからない呻き声を発した。
 胃が痛む。
 しくしくだか、きりきりだか、表現は乃梨子の中でも纏まらないが兎に角胃が痛む。
 ある程度予想はしていたが、嫌な意味でその予想を裏切ってくれた瞳子らのお陰だ。全く、好い加減に手の焼ける。
(おせっかいだとは判っているけど、さ)
 
 枕から顔だけ上げて、「あ゛ー」と再び奇声を上げた乃梨子はでもそれで何とか立ち直った。
 とりあえず胸のうちに堪った愚痴とか厭世的な気分とかは、粗方吐き出すことが出来ただろう。後は部屋に篭ったそれらを追い出すだけだ。
 ぱたぱたと窓辺に駆け寄って、窓を一気に開け放つ。
 太陽は完全に落ちていて、大きく開いた窓からは秋の宵闇が流れ込むように冷たい風が吹き込んだ。
 机の上のプリントはそれで何枚か床に落ちたけど、思惑通り乃梨子の口から吐き出された負の空気は無くなった。そんな気がした。
 
 数日前、修学旅行に出発する寸前の志摩子さんに電話を掛けることで貰った勇気。
 それを貰ってまで瞳子と可南子さんの仲を取り持とうと思ったのは、実は、単純な思い付きだ。
 特にこれ、というイベントがあった訳ではないから。
 強いて言えば学園祭の演目発表時とか、先代黄薔薇さまからのバラエティギフトが届けられた時の、仲睦まじかった志摩子さんら二年生ズが羨ましかったということはあるけれど、それは要素の一つであって切っ掛けじゃない。何もこのタイミングで、乃梨子が頑張らなければならない理由にはならない。
 でも乃梨子は思ったのだ。
 志摩子さん、祐巳さま、由乃さんのような三人が羨ましい、って。
 そして思ってしまったのだ。
 それを自分を含めて実現するなら、乃梨子、瞳子、可南子さんの三人になるんだ、って。
 近くに居た三人を集めただけかも知れない。乃梨子、瞳子、可南子さんの繋がりはただのクラスメイトと、薔薇の館の住人+お手伝い。突き詰めればそれだけの関係性でしかない。
 でもそうなるに違いないんだ、って。
 思ってしまったのだ。
 
 乃梨子が羨ましかったのは、薔薇のつぼみ三人衆の仲が良いことじゃない。
 同じ学年で仲の良い三人が、羨ましかったのだ。
 だから乃梨子は瞳子ともっと仲良くなりたいし、可南子さんともっと仲良くなりたいし、瞳子と可南子さんに仲良くなってもらいたいと思った。
 まぁ、その野望は呆気なく費えた――いやいや、まだ中途だけど。とりあえず座礁してしまったことは間違いが無くて。
 そりゃ奇声も上げたくなるってものだ。
「はぁ、志摩子さん。予想外に厳しいよ」
 寂しくなって、傍に居ない志摩子さんに呼びかけてしまったりもするさ。
  
 人工の光に負けた星空は殆ど見えなくて、真っ暗な空が天上に広がっている。
 この空の向こうで今頃志摩子さんは何をしているだろうか。
 イタリアは八時間ほど引けば良いから、丁度午前中の観光が進んでいる頃か。それならきっと忙しい、この夜空にぼんやり顔を浮かばせたりしてくれる暇なんて無いな。
 自嘲気味に笑った乃梨子は窓を閉めた。体が良く冷えてしまっていた。
 

 部屋の暖房を強くして、乃梨子は呟く。
「良し」
 諦めるにはまだ早い。座礁しているだけさ、船が大破した訳でも海が干上がってしまった訳でもない。
 頑張ろう。頑張ってみよう。
 乃梨子、瞳子、可南子さんの三人で何かをするなら。今後何かをしていくなら。何かをしていきたいなら。
 率先して動かないといけない。
 瞳子の背中を押して、可南子さんの手を引っ張って。
 
 そうして努力してきっと初めて、私達は志摩子さんらに負けない三人になれるんだ。
 笑って怒って宥めて慰め合える、そんな三人に。
 頑張ろう。頑張ってみよう。
 私は二条乃梨子、白薔薇のつぼみ。いずれはリリアンを背負って立つ生徒会長の一人になる。
 たった二人の友人を仲良くさせることも出来なければ名前負けだ。
「良し!」
 部屋の中でガッツポーズ。
 
 見ていなさい、瞳子。可南子さん。
 あなたたちの不協和音を、私がきっと立派な演奏に変えてみせるんだから――。


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