支倉令は、3月が嫌いだった。
大切なものを失った季節だから。
支倉令は、3月が好きだった。
失ってしまった大切な物を、そっと思い出せる季節だから。
「令ちゃん! 」
令をそう呼ぶ人間は、リリアン中等部には2人だけいた。
一人は姉妹同然に育ってきた島津由乃。そしてもう一人は、リリアンで唯一、令を「お菓子作りや可愛いものが好きな“普通の”女の子」として見てくれる先輩だった。
「あ、先輩。どうしたんですか? 」
リリアンで、名前を呼ばずに“先輩”と呼ばれるのは珍しい。
これは、彼女が剣道部所属で令の先輩だからという訳ではなく、150cmに満たない身長で、いつまでたっても1年生と間違われる彼女が、下級生から1年生と間違われるたびに「私のほうが先輩なんだからね! 」と何度も念を押している姿を見かけられたことから、自然と周囲から「先輩」と呼ばれるようになったといういきさつがあってのことである。
ゆえに、1,2年生はおろか、3年生までもが、親しみを込めて、彼女を“先輩”と呼んでいた。
「見て見て! また可愛いノート見つけちゃったの! 」
そう言って彼女が令に見せたのは、ピンクの表紙の片すみに、ちょこんと白い子猫が丸くなって寝ているデザインのノートだった。
「わあ、良いですね、これ。どこで見つけたんですか? 」
「ふふーん! M駅のロータリーの裏路地に、小さな文具屋さんがオープンしたのよ! 」
そう言って少し誇らしげに胸を張る彼女。色素の薄いこげ茶の髪が、仕草に合わせてふわふわと揺れる。
「今度、そのお店教えて下さいね」
「うん、後で地図書いてあげる」
二人はその後、しばらく談笑した後、微笑み合うと「それじゃあ、また」と、それぞれの居場所へと戻っていった。
まるで、二人は何も関係が無いかのように、別々に。
令が「先輩」とこんな関係になったのは、9月の末からのことである。
こんな小さな体で実は演劇部の看板女優である彼女が、M駅そばの雑貨屋で舞台に使えそうな可愛い小物を捜していた時のこと。たまたま一人で買い物に来ていた令が、雑貨屋のショーウィンドゥに飾られていた綺麗なガラスの小瓶を眺めていると、突然隣りにいた彼女が「綺麗なブルーよね」と、微笑みかけてきたのがきっかけだった。
令に自覚は無かったのだが、よほど熱心にガラスの小瓶を見続けていたらしくて、自分もその小瓶を気に入っていた彼女は、思わず話しかけてしまったのだそうだ。
お互いの好みが似通っていたこともあり、たちまち意気投合した二人は、その場ですぐに仲良くなった。彼女は演劇で、令は剣道で、互いにリリアンではちょっとした有名人であったことも、二人を打ち解けさせる要因だったのかも知れない。
小さな体に、ふわふわなびく少しクセのあるこげ茶の髪。くりくりとした大きな瞳とちょこちょこ動く仕草。令は彼女と話しながら内心「ポメラニアンみたいだな」と思ったものだ。
可愛らしい小物。食べるのがもったいないような綺麗なケーキ。夢見るような物語やお姫様みたいなドレス。そんな自分たちが大好きな物について語り合ううちに、時間はあっという間に過ぎていった。ショーウィンドゥの前に立ち続ける苦痛すらも感じない程に。
令にとって、由乃以外の人と過ごす時の流れを、こんなにも早く感じたのは、初めてのことだった。
そんな令も、彼女が「あ、もうこんな時間! ねえ、お喋りの続きはリリアンでしない? 」と言われた時には、魔法が解けてしまったような気がして、ひどくがっかりした顔を見せたのだった。
そんな令の顔を見た彼女に「どうしたの? 」と聞かれ、令は「リリアンでは・・・ちょっと・・・ 」と言葉をにごした。
令にも自覚はあるのだ。美少年と呼ばれるにふさわしい顔、細くしなやかに長い手足、中等部にしては高い身長に短く刈った髪。のちに「ミスター・リリアン」と呼ばれる素質が、この頃から令には備わっていたのだ。
「似合わないから」「周りの人達に変な目で見られそうだから」そんな言葉を、令は飲み込んだ。それを言ってしまえば、好きな物を、本当に嬉しそうに「好き」だと話す彼女に、卑屈な自分をさらけ出すような気がして、令は黙ってうつむいてしまった。
しかし、そんな令を見て、彼女は少し考えた後、「そう。じゃあ、続きは2人だけのときにね? 」と微笑んだ。
見透かされている。周りを気にして卑屈になる自分を見透かされている。彼女の気遣いに、令は途端に自分の態度が恥ずかしく思えた。
思わず言い訳を口にしようとしたが、それすらも卑屈に思えて、また黙り込んでしまう。
すると彼女は、こう続けた。
「人にはそれぞれ、超えられない境界線があるもの」
「え? 」
「でも、その境界線を決めるのは、令ちゃん自身だからね」
やはり彼女には判っているようだ。リリアンで周囲から持たれているイメージから外れる行動に、令が恐れを感じていることを。そして、令がそんな自分を恥じていることを。
そのうえで、リリアンで自分をさらけ出すかどうかは、令自身で決めろと言っているのだ。
演劇とは、「演じる」とは、人間の内面をいかに捉え、捉えたものをいかにして観客に伝わるように表現するかということである。その「演じる」過程で、彼女には他人の内面すらも捉える術が備わったのかも知れない。そんな彼女だからこそ、演劇部の看板女優になれたのであろう。
聞きようによっては、突き放す感じにも思える彼女のセリフ。しかし令は、ある種の心地よさを感じていた。
自然に「令ちゃん」と呼ばれたこと。そして、令の想いを理解し、令自身の決断を尊重する彼女の言葉に、令は、かつて感じたことの無い暖かな感情に満たされていた。
令は、高等部で江利子と出会うまで、その感情に付ける名を知らずに過ごすこととなる。
1月、令は演劇部から出演依頼を受けた。
演目はシンデレラ。令にはその王子様役を演じて欲しいとのことだった。
実はこの舞台、卒業する3年生が、中等部での演劇活動の集大成として、卒業生を送る会で在校生への置き土産として演じるというものだった。令は特別ゲストとしての参加らしい。
ほとんどの生徒がエスカレーター式に高等部へと進学するとはいえ、演劇部にも受験生が全くいない訳ではない。そんな時期だから、普通に考えれば、かなり無理のある舞台である。
だが、3年生達は、自分達の3年間の集大成を発表すると共に、かつて2年生や1年生と共に演じた事のあるこのシンデレラを、あえて自分達だけで演じることにより、後輩に目指すべき道を示したいとの思いから、この舞台を計画したのである。
むろん初めは3年生のみで演じるつもりだったのだが、あいにく背の高い舞台映えのする男役が3年生にいなかったこともあり、また、主役を演じる「彼女」が令の参加を強く押したため、令に王子様役のオファーがまわって来たという次第である。
令は、演劇の経験などなかったので、少し悩んだが、結局はオファーを受けることにした。それは、多分に最後の舞台にかける、彼女のためであった。
2月。シンデレラの稽古も、佳境に入っていた。
「そろそろ演じることにも慣れてきたかしら? 王子様」
稽古の合間をぬい、休憩中の令にいたずらっぽく笑いながら聞いてくる彼女に、令は「少しだけ」と答えた。そんな令を見て、彼女は嬉しそうに微笑む。
演技に入った彼女をそばで見る機会を得て、令はあらためて「看板女優」の凄さを思い知っていた。あの小さな体のどこにこんなエネルギーが潜んでいるのかと思うほど、舞台に立つ彼女の存在感は圧倒的だった。令は、そんな彼女の中等部最後の舞台を盛り立てるべく、素人なりに必死に演技に打ち込んでいた。
元々、剣道部にいることもあり、体を動かすことには慣れていたので、舞台での動きは良かった。セリフはお世辞にも上手いとは言えなかったが、彼女の熱心な指導もあり、なんとか舞台を盛り立てる役には立ちそうなレベルまでは上達できていた。彼女以外の3年生にも、「大丈夫よ」と、お墨付きをもらえた程に。
舞台に参加することになり、令には良かったと思えることがふたつあった。
ひとつは、彼女の演技を一番近くで見るポジションを手に入れたこと。
もうひとつは、彼女と一緒にいる時間が増えて、稽古の合間とはいえ、楽しいお喋りの時間が増えたことだった。
「先輩、お疲れ様でした」
令はそう言って、彼女にタオルを差し出す。2月とはいえ、演技に熱の入る彼女の額には、汗の雫が光っていた。
「ありがとう」
嬉しそうにタオルを受け取り、自然に令の隣りに腰掛ける彼女の姿に、令はまた暖かい気持ちを感じていた。
「令ちゃん、髪伸びたねぇ」
「ええ、もう少し伸ばしてみようかと・・・ 」
「そっか」
令はこの時、少し髪を伸ばし始めていた。
ありのままで自分に接してくれる彼女のお陰で、ほんの少しだけ、自分の中の「女らしさ」を表に出す行為に、抵抗を感じなくなってきていたから。
令自身に、自分らしさを表に出す時期を決めろと言ってくれた彼女の優しさに、少しでも応えられているような気がして、令は少しだけ、自分の髪を誇りに思っていた。
彼女も、そんな令の気持ちに気付いているようで、何も言わずに令の髪を優しく見つめていた。
そのまま二人で、しばらくは何も話さずにいた。話さずとも、お互いの心は通じ合っていると思えたから。
「・・・演技のことはいまだに良く解かりませんけど、舞台のほう、かなり完成されてきたんじゃないですか? 」
令がそう聞くと、彼女はまた嬉しそうに笑った。
「そうね、もうかなり手ごたえ感じてるところよ。なんせ最後の舞台ですもの」
そう言って、きゅっと拳を握る彼女を見て、令が微笑みながら「まるで人生最後の舞台みたいな入れ込みようですね」と言うと、彼女はふいにうつむいた後、小さな声で「ある意味そうかもね」と答えた。
「え? 」
彼女は、令の顔を真正面から見据えて語り出した。
「・・・・・・私ね、中等部を卒業したら、フランスへ行くの」
令の微笑みが消える。
「3月に、お父さまがフランスへ転勤するの。私もそれに付いて行く事になってね・・・ 」
この人は何を言っているんだろう。令は呆然と、そんなことを思っていた。
「きっと、フランスには永く住むことになると思うから、日本では最後の舞台になると思うの」
嘘。嘘だ。
頭では彼女の言葉を理解しているが、令の心は理解する事を拒んでいた。
「フランスでも、演劇は続けようと思うんだけど、フランス語を覚えたり、むこうの生活に追われたりで、今ほど演劇に没頭できるかどうか判らない」
高等部に入れば、また会えると思っていた。
リリアンにいる限り、貴方のそばにいられると、勝手に思っていた。
そんな思いが頭の中を駆け巡り、令は眩暈すら感じていた。
「だからね、令ちゃんには、私の最後の晴れ姿を、しっかりと見ていて欲しいんだ。一番そばで」
貴方がいなければ、私は・・・
令は、微笑む彼女の顔を見て、そのセリフを無理矢理飲み込んだ。そして・・・
「・・・良い舞台にしましょうね」
旅立ちを決意した彼女のために。
そんな自分を見ていて欲しいと言う彼女のために。
令は精一杯、だがぎこちなく、微笑んで見せた。
「うん! 」
そう答える彼女の微笑みもまた、少しぎこちないものだった。
( きっと、先輩は私の演技なんかお見通しなんだ )
それでも令は、「演技」を続ける。
( それでも私は、貴方のために笑ってみせます )
どうしようもないほどの絶望を押し殺し、「演技」を続ける。
( それだけが、旅立つ貴方への、ただひとつの・・・ )
涙は、旅立つ彼女の足かせになると気付いてしまったから。
涙をこらえているのは、自分だけじゃないと気付いてしまったから。
3月。卒業生を送る会当日。
「令ちゃん・・・ 」
舞台の控え室に現れた令を見て、彼女は驚いていた。
「やっぱり王子様だったら、このくらいの髪でしょう」
そう言って笑う令の髪は、以前のように、短く切りそろえられていた。
彼女は、少し寂しげに微笑むと、令の頭を優しくぽんぽんと叩く。
「さあ、もうじき開演ですよ! リリアン中等部の看板女優の大舞台、一番そばの特等席で見せてもらいますからね! 」
「・・・うん」
無理矢理テンションを上げる令の言葉に、彼女は急速に、女優の顔へと変貌してゆく。
全ての想いを込めて。前だけを見つめて。
( 先輩、ごめんなさい )
令は、心の中だけで、彼女に詫びていた。
( 私は弱いから、貴方がいないと、自由に生きることすらできそうにありません )
切りそろえた髪に触れながら、令はせつなさを押し殺す。
( だから、私の髪も、想いも、先輩と一緒に、フランスへ連れていって下さい )
令の目の前で、偉大な女優が静かに舞台へと歩き出す。
今、最後の舞台が幕を開けた。
さまざまな想いと供に。
卒業式当日。
「これで、お別れだね」
そう言って微笑む彼女に、令も最近では慣れてしまった作り笑いを浮かべる。
「ご卒業、おめでとうございます。先輩」
「ありがとう」
本当に伝えたい言葉は他にあるけれど、令は親愛なる偉大な女優のために、最後まで笑顔の演技を続ける。
意味も無く、卒業証書をもてあそんでいた彼女は、令とは視線を合わせないまま呟いた。
「・・・令ちゃんも、ちゃんと卒業するんだよ? 」
「 ? ・・・あと一年ありますよ」
突然、真剣な顔でそんなことを言い出す彼女に、令はそうとしか答えられない。
彼女は伝えたかったのだろう。令が卒業せねばならないのは、リリアンでのことではなく、それは支倉令自身の・・・
「そう・・・だね」
彼女は令の答えに、ぎこちなく微笑む。
伝えたい言葉は、彼女にもある。でもそれは、令が自分で気付かなければいけないことだから、彼女はあえて、言葉にしなかった。
彼女は伝えたかった。いつか、令が今の自分を卒業できたとき。そのときこそ、私は貴方を・・・
彼女はふいに令を見上げると、そっと呟いた。
「さよなら。私の大好きな令ちゃん」
その時、彼女の笑顔からは、透明な雫が流れ落ちていた。
それは、支倉令が目にした、偉大なる女優の最後の素顔だった。
支倉令は、3月が嫌いだった。
襟足に感じる冷たい風に、あの頃の自分を思い出すから。
支倉令は、3月が好きだった。
あの頃とは違い、今、本当の意味で卒業のできる自分を、少しだけ誇らしく思えるから。
( 先輩。私も今、卒業します )
由乃という支えを自ら手放し、「リリアンの支倉令」や「由乃の令ちゃん」から卒業し、「ただの支倉令」へと。
( 私は馬鹿だから、あの時の先輩の気持ちに気付くのに、3年もかかっっちゃいました )
卒業証書を手に、遠く空を見上げる。海を越え、フランスまでも見通すように。
「令ちゃん」
少し目の赤い由乃が呼びかけてくる。
「・・・いえ、支倉令さま。ご卒業おめでとうございます」
ひとりの人間として、今までの支倉令から卒業しようとしている令を送り出すために、あえてそう言って微笑んでみせる由乃に、令は、自分の本当の意味での卒業を願ってくれた、親愛なる女優の面影を重ねる。
「ありがとう」
卒業のさみしさはあるけれど、令は心から喜びの微笑みを浮かべていた。
卒業できた自分自身のために。
卒業の意味を気付かせてくれた由乃のために。
そして、遠くフランスの地で、今も変わらないであろう、彼女のために。
令は、短く切りそろえられた髪に触れる。
( この髪は、あなたと供にすごした証として、今では私の誇りです )
西の空を見上げ、彼女の笑顔を思い出す。
( ありがとうございました。あなたとすごしたあの時間があったからこそ、私もこうして卒業することができました )
晴れやかな笑顔で、令は“先輩”の笑顔を思い出す。
「・・・・・・・・・もう。また中等部の“先輩”のこと思い出してたんでしょう」
「 え?! 」
拗ねた様子で突然そう言う由乃に、令は心底驚いた。
「よ、由乃・・・ 今なんて? 」
「毎年3月頃に西の空を見上げて感慨にふけってるんだもの。気づかない訳ないでしょ? 」
「そ・・・ そうだったんだ・・・ 」
「だいたい、中等部には、私もいたんだから。令ちゃん探してたら、嫌でも逢引の現場に出くわしたわよ」
「あ・・・逢引って・・・ 」
「ご丁寧に、卒業生を送る会に合わせて髪切るし。その後、さびしそうに襟足を触るようになったし」
「気付いて・・・たの? 」
急にしどろもどろになる令に、由乃は微笑みかける。
「・・・・・・でも、あの頃のことも、きっと今の令ちゃんを形作る、大切な時間だったんだよね」
「由乃・・・ 」
「忘れないでね? いくら令ちゃんが卒業して、どれだけ変わろうとも、今までの思い出が無くなる訳じゃないんだから」
「うん」
「見違えるほどに令ちゃんが変わったとしても、それは、別の誰かじゃなくて、成長した支倉令だから」
「うん」
「私も変わってゆくのだろうけど、令ちゃんが・・・大切な人なのは・・・変わら・・・・・無い・・・」
令の旅立ちを祝うために、今まで必死にこらえていたのだろう。由乃の言葉は、次第に嗚咽まじりのものにかわってゆく。
「だから・・・・・・だから・・・ 」
とうとう言葉にできなくなってしまった由乃をそっと抱きしめ、令は呟く。
「忘れないよ。大切なものは、いつでも、いつまでも私の中にあるから」
泣きながらうなずく由乃の姿に、令は、最後まで泣かなかったけれど、本当は泣きたかった中等部時代の自分の面影を見る。
あの頃、自分に正直に生きることのできなかった令のかわりに、由乃が泣いてくれているようで、令は少し、心が軽くなったような気がした。
( ありがとう。由乃 )
令はふたたび西の空を見上げる。
( ありがとう。私のもうひとりの・・・ )
令は、遥か彼方で暮らす彼女に、心の中で、彼女の名前とも、“先輩”とも違う呼び名を、そっと呟いた。
“お姉さま”と。