【1855】 禁断の果実勘弁して下さい身勝手なお願い  (若杉奈留美 2006-09-13 10:53:56)


(第1幕・晩夏の苦悩)

「どうしようかな…」

M市郊外のとある豪邸の一室。
17世紀に作られたというアンティークな机の上に積まれた、ノートやレポート用紙の山。
それを前に1人の少女は大きな溜息をついている。

「これじゃあとても始業式前に終わらないよ…」

英グラマーの長文和訳、数兇量簑蟒検古文の「源氏物語」の「桐壺」の巻の現代語訳、読書感想文、その他諸々。
さらに姉から出された「シミュレーション・ある主婦の1日」などという、タイトルを聞いただけでは想像もできないような宿題。

「なんとかならないかなあ…」

自分が放っておいたのだから文句を言うのは筋違いなのだが、そこは承知の上でなおも悩む。
おりしも外ではつくつくぼうしが夏休みの終わりを告げている。

紅薔薇のつぼみ、瀬戸山智子。
今日も盛大に散らかる部屋の中で、彼女の思考もまた散らかっていた。



(第2幕・メイドさとみの尽力)

ドアをノックする、控えめな音が響く。

「どうぞー」

けだるい返事をすると、入ってきたのは智子の部屋担当メイドチームの一員、
井上さとみである。
20畳もあるとさすがに1人では掃除も難しく、4人のメイドがチームを組んで担当している。
これは両親の部屋も同様である。
しかも部屋担当の仕事は掃除だけではない。
食事やおやつを部屋でとる場合も、食べ物を運ぶだけではなく、
話し相手にならなくてはいけない。
お酒の相手もメイドの仕事。
酔っ払って失敗しても黙って後始末。
さらに1人で眠れないときは、ベッドサイドで寝かしつけなくてはならず、
場合によっては添い寝する。
さすがに両親夫婦はそこまでする必要はないが、
それでもご主人様と奥様のご要望には可能な限り応えるのが部屋担当メイドの仕事である。
そしてまた、それが可能なのも瀬戸山家のメイドならではである。

「お嬢様、お茶をお持ち…」

さとみの言葉が止まってしまったのも無理はない。
なぜならもはや床には彼女の歩くべき道がないからである。
彼女はお茶とお菓子をのせたトレーを持ったまま、そこで固まってしまった。

「お茶?ありがとう。そこらへんに適当に置いといて」

智子はさとみの方を振り向きもせず、力の入らない返事をした。

「あの…お嬢様?何かお悩みごとでも?」

この家にきて1年。
当初は家事仕事でいっぱいいっぱいだったさとみも、だいぶうまく動けるようになってきた。
それ以上に智子の人間性にも惹かれ、今ではすっかり瀬戸山家のメイド服が板についている。

「ねえさとみ…あんた、四大出たんだよね?」
「え、ええ、確かに…」

次の瞬間、さとみは我が耳を疑った。

「ここにある宿題、全部やってくれる?」
「…お嬢様、今なんとおっしゃいました?」

智子の不機嫌モードが加速した。

「聞いてなかったの?ここにある宿題、全部やれって言ったのよ」
「そうおっしゃられても…」

渋るさとみの手に、なにやら紙の重なったような感触。

「ごめん!少なくて。これで好きなお菓子食べていいし、
お父さんに臨時ボーナス支給してくれるように話しておくから」

普段は決してお金で動くことはないが、そこはやはり庶民。
「臨時ボーナス」という言葉に動かされ、さとみはつい引き受けてしまった。

「わ、分かりました…お引き受けいたします」

手渡された封筒の中には、なんと20万入っていた。

「じゃ、頼むね。私ちょっと出かけるわ」
「いってらっしゃいませ」

(どうせ断ったって押し付けられるだけなんだから、やっちゃったほうが身のためよね…
それに20万って、けっこう大きいじゃない?)

さとみはわずか2時間で、すべての宿題を終えていた。


(第3幕・お姉さまと接近遭遇)

出かけると言って出てきたものの、とくに行きたい場所があるわけではない。
しかたなく、郊外にできた新しいショッピングモールに行ってみることにした。
さすがに新しくできただけあって、平日でもかなりの人込み。
そのなかに、智子はよく知った姿を目撃した。

(お姉さま…)

あの背の高さ、独特の髪の色。
妹である自分が見間違うはずがない。

(また掃除道具買いにきてるのかな?)

いつもなら声をかけるところだが、この日に限っては声をかけられない。
その隣に、これまた見覚えある縦ロールがあったから。
それと、自分の行動に少なからず後ろめたさを感じていたから。
智子はそのまま、その場を去った。
自分が犯していた計算違いには、まったく気づかずに。

その頃。

「…あら?」
「どうかしたの?」

ちあきは瞳子と一緒に買い物にきていたのだ。

「今さっき、智子がいたような気がしたんですけど…」
「智子ちゃんが?気のせいじゃないの?」
「いいえ確かに智子の気配を感じました…まさかこんなに早く宿題を終わらせるなんて…」

鋭い目つきであたりを見回すちあき。

「ちあき、いったいどうしたの?なんだか顔つきが変わったわ」

さすがは女優志望の瞳子。
人の表情のわずかな変化も見逃さない。

「お姉さま、少しの間こちらにいてくださいますか?
私、ちょっと探してきます」
「待ちなさい!ちあき!」

瞳子が止めるのも聞かず、ちあきは動き出した。


(第4幕・追跡)

ちあきが自分を探して動き出したころ。
智子は3階のアクセサリーショップにいた。

(うわ、これかわいい…え、何、1500円?安っ!
これさとみに買ってあげようかな)

さっそく茶色の小さなバレッタを買うと、そのまま店を出て別の店に行った。
そのわずか5分後にちあき到着。

「すみません、こういう顔の女の子がきませんでしたか?」
「ああ、そのお客様でしたら、先ほどまでこちらにいましたよ。
その1500円のバレッタを買われました」

(逃げられたか…)

その後智子は2階のブティックへ。
ここは最近人気の出てきたブランドの店である。
そこで気に入った服が見つかり、またそこで買い物をして出た。
その間わずか15分ほど。
その直後、またまたちあき到着。

「ああ、そのお客様でしたら、今の今までこちらでお買い物されてましたが…」

エレベーターで4階に向かい、電化製品売り場へ向かう智子。
こちらではさすがに欲しいものはなかったのか、見るだけですませて6階へ。
確かここにはお気に入りのカフェがあるはずだ。

(もしかしてとは思うけど…私、お姉さまに追われてる?)

出てきたアイスラテもそこそこに、智子は急いでカフェを出た。

「ああ、その方でしたら、つい先ほどまでここでアイスラテを召し上がっていらしたんですが…どこへ行かれたかは、ちょっと…」

やはりここでもちあきは逃げられていた。

(なんて逃げ足の速い子なのかしら…)

くそっ、と思わずリリアン生らしからぬつぶやきが漏れたところで、
突如携帯が鳴った。

『ちあき、いつまで待たせるつもりなの!?』
「申し訳ありませんお姉さま、あと30分ほどで戻りますので、
もう少しお待ちいただけませんか?」
『30分ね?』
「はい、そのくらいはかかると思います…あ、あとお手数ですけど、美咲ちゃんに連絡をとっていただけませんか?…
ええ、智子は美咲ちゃんに頭が上がらないし、あの子はこのモールの近くに住んでいるはずです…
だめそうなら無理しなくていいと伝えてください…分かりました。連絡お待ちしてます」

電話を切って、ちあきは再び追跡を開始した。


(ふ〜…ここならお姉さまも追ってこないよね)

5階の本屋にたどりつき、人込みの中にまぎれることにした。
幸いここはかなり広いし、すぐには見つからないだろう。
安心して立ち読みを始める智子だが。
向かいの売り場に姉を発見し、またまた逃走するはめに。

「こらっ!待ちなさい、智子!」

逃げる智子に追うちあき。
やがてちあきの携帯に美咲からメール。

『ちあきさま、事情は分かりました…今旧世代のお姉さま方で、予定がない方々に連絡をとっています。
黄薔薇ファミリーからは江利子さま、白薔薇ファミリーからは聖さまと志摩子さまと乃梨子さま、
紅薔薇ファミリーからは祥子さまと祐巳さまが本館を固めています。
小野ちゃん(注:涼子)と理沙さんにも連絡をとりました。
別館の包囲網を固めるそうです』

ちあきは電話帳から美咲の番号を探した。

「ごきげんよう美咲ちゃん、さゆみと純子はどう?」
『さゆみさまは用事があるそうですが、終わり次第こちらに向かうと連絡がありました。
とりあえず別館に行ってもらうようにお願いしました。
純子さまはあまり長い時間もいられませんが、出来る限り協力するとのことです。
残念ながらその他の方々はつかまりませんでした」

その他の方々とは蓉子、令、由乃、菜々、真里菜である。
この5人を除く全員に、美咲は協力を取り付けたのだ。
なんという行動力だろうか。

(次期世話薔薇総統は美咲ちゃんで決定かもね…)


(第5幕・別館包囲網)

このモールには本館と別館があり、別館のほうもかなり広い。
こちらもかなりの混雑で、人込みにまぎれて逃げるにはちょうどいいと思われた。

(我ながらとんでもない人の妹になっちゃったなあ…)

いいかげん逃げるのも疲れてきた智子。
どこかカフェでも、いやさ休憩所でもないかとあちこち探していると、
目の前にコーヒーショップがある。
思わず吸い寄せられるようにその店の前に立ったとたん。

「智子さま、逃がしませんよ!」
「げっ、理沙ちゃん!」

ものすごい速さで追ってくる理沙。
智子も全速力で走るが、意外に理沙はしぶとかった。
どうにかトイレに逃げ込んでまいたのはいいが…。

「いや〜、まさかこんなところで鬼ごっこするなんて思わなかったねえ、志摩子」
「智子ちゃん、よほど宿題が嫌だったんですねえ」
「まあ逃げても無駄なんですけどね…」

まぎれもない、旧白薔薇ファミリーの声。
智子はトイレから出られなくなってしまった。

(ああもう、早く出てってよ、白薔薇!)

やがて声が聞こえなくなって、ようやく智子は個室からの脱出に成功した。
ここは別館3階。
すぐ近くに雑貨屋がある。
その店ではオープン記念の福袋の売り出しをやっているらしく、
店の前が黒山の人だかり。

(よし、あそこに隠れよう)

福袋を買いに来たふりをして、身を隠そうとしたのだが。

「そんなとこで何してんですか〜、智子さま〜?」

この声は涼子だ。

「俺の目はごまかせませんよ…って、逃げやがったな!待て!この甘えん坊将軍!」

その後別館2階の輸入食品店に逃げ込んだが、そこにも理沙がいてまた逃走。
さらに事情を察した瞳子が、智子追跡チームに参加を申し出たのだ。

「こうなったら瞳子も参加させていただきますわ!智子ちゃん、逃がさなくてよ!」

(こんなことになるんなら、宿題まじめにやっときゃよかった…)

山百合会メンバーに追われながら、智子は至極当たり前な結論にたどりついていた。


(第6幕・逮捕!)

いくら若いとはいえ、朝の9時ごろから何も食べないで広い店の中を走り回っていると、さすがに足元もふらついてくる。

(もうお昼…ってか2時じゃん)

時間を認識したとたん、智子のおなかは盛大な鳴き声を上げた。

(お、おなかすいた…でもカフェだとまた誰かいそうな気がするし…食べなきゃ倒れるし…どうしよう)

とりあえず近くにあったサンドイッチの店で生ハムサンドとオレンジジュースを買っておなかに放り込む。
その上でまた逃走ルートを考えることにした。

(こうなったらいっそここから出て、別の入り口から本館に戻るか…)

エスカレーターで別館1階の南口にたどりつくと、智子はあたりを見回した。
すると、うまいぐあいにすいている入り口があるではないか。
しかも山百合会メンバーは誰もいなさそうである。

(よし、あそこから本館に戻ろう)

その頃、追跡チームは本館で作戦会議を開いていた。

「これじゃあラチがあかないわ…」
「智子ちゃん、意外に足速いんですよね…」
「でもいくらなんでも逃げ疲れたんじゃない?もうそろそろ逮捕できるかもよ」
「主だったところはすべて固めたのに…智子のやつ、どうやってこの包囲網をすり抜けたのかしら」
「意外にあの人、そういうとこには知恵がまわるんですよ。
俗にいう悪賢いってやつで」

上から順に、祥子、祐巳、聖、ちあき、涼子。
5人が大きく息をついて顔を見合わせていると、もう1人発言する者がいる。

「皆さん、これをご覧下さい…このモールの見取り図ですが、すでに主だった場所は
しらみつぶしに探しました…でも、1つだけ私たちが見残したところがあるんです」

さゆみが示した場所。
そこは本館の裏側、メインの入り口である第1駐車場前入り口から100m以上離れた入り口だった。

「この店に来る人たちはたいてい車できますし、電車だとM駅3番出口から徒歩10分ほど歩かなくてはいけません…
その場合一番近いのは別館の正面入口になります。
智子さんの家からここまで来るのに、一番便利なのはM市役所前経由市営団地ゆきのバスに乗り、モール前のバス停で降りるルートです…
私たちは智子さんがバスで来ることは想定してませんでしたが…」
「この図だとモール前のバス停に一番近い入り口は…」

期せずして声をそろえる山百合会。

『本館北入口』
「そうです。智子さんも、もう逃げ疲れて帰ろうとか思っているはずです。
M駅ゆきのバスに乗って、けやき通り2丁目で降りれば瀬戸山家の豪邸は歩いてすぐです」

ここまで走りづめで疲労困憊していた山百合会に、再び生気が戻った。

「急げ!本館北入口だ!」

山百合会の推理は的中し、見事智子は逮捕された。


(第7幕・結末)

翌日の瀬戸山家では、智子が宿題の処理に追われている。

「まったく…去年と一緒じゃないの」

確か去年も担当のメイドを買収して宿題をやらせたが、数学の答えがことごとく間違っていたことから発覚し、
瞳子たちから大目玉を食らっていたのだ。
ちなみに今年はちあきが面倒を見ることになった。
智子の部屋には立ち入り禁止の札がかけられ、部屋担当のメイドチームでさえ出入りすることができない。

「うわ〜ん、さとみのバカ〜!」
「うるさい!叫んでるひまがあったらさっさとやりなさい!」

さとみはとてもきれいな字を書くメイドで、智子の読みにくい字と正反対。
智子の宿題にしてはあまりにもきれいなため、別のメイドが怪しく思ってちあきのもとにノートを持ち込んだことから発覚した。

(泣きたいのはこっちよ…)

頼み込まれて2時間で終わらせたのにバカ呼ばわりされ、しかも字でばれてしまってボーナスの話はパー。
一番の被害者は、智子に一番忠実なメイド、井上さとみであった…

















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