【1978】 絶対妬かない薔薇魂大橋さゆみの動揺  (若杉奈留美 2006-11-05 22:40:06)


11月。
マリア様のお庭に集う少女たちが、晩秋の訪れを知る伝統の行事がある。

『ダンス・コンペティション』

10月に行われる学園祭とはまた違った華のあるこの行事。
2学期から始まった社交ダンスの授業の集大成として、
成績のよかった者のみが出場を許される。
自分のクラスから出場者が出ることは名誉なこととして認められており、
優秀な成績をおさめた生徒は山百合会メンバー同様、学校中から羨望と憧れの
まなざしを向けられる。

そして今年の11月も、どことなくそわそわと落ち着かない感覚が
リリアン内を支配し始めていた。

2年桃組、大橋さゆみ。
彼女もまた、そんな雰囲気とは無縁ではいられなかった。

その日の体育の授業後。

「今年もダンス・コンペティションの季節がやってきました。
今年は皆さんのクラスから代表者が出ます」

体育担当、吉岡先生の言葉にざわめく生徒たち。

「今から名前を呼ぶから、呼ばれた人は返事をして立ってくださいね」

(ダンス・コンペかぁ…今年は誰が出るのかな)

もともとそれほど興味のある行事でもない。
浮き足立つ生徒たちの中で、さゆみは1人つまらなさそうに
先生の顔に視線を向けていた。

「大橋さゆみさん」
「は、はいっ!」

自分の名前が聞こえて、はじかれたようにさゆみは立ち上がった。
それと同時に沸き起こる拍手。

「大橋さんには、ソロ部門に出場していただきます」

吉岡先生が誇らしげに言う。

「おめでとう。頑張ってね」
「うん、頑張るよ」

内心やっかいなことになったと思いながら、さゆみは通り一遍な返事を返していた。
その姿を、苦虫を噛み潰したような顔で見ている生徒がいた。


ダンスの経験がないわけではない。
むしろ、他のどの生徒たちよりも長く踊っているだろう。

(問題はダンスの中身なのよね…)

ソロ部門とワルツ部門があるこの競技。
たいていはワルツだと社交ダンスの経験者、
ソロだとバレエを習っている人が優勝したりしている。
もちろんジャンルの縛りはそれほどないが、なぜか歴代の優勝者は
そうした「いかにも」な人たちばかりなのだ。

(果たしてフラメンコで、どのくらい通用するものか…)

フラメンコを始めたのは小学校2年のとき。
激しい情熱と胸に迫る哀愁に彩られた強いダンスに、
あっという間に魅了されてしまった。
渋る両親を1週間かけて口説き落とし、ようやく習わせてもらえたときの嬉しさを、
さゆみは忘れていない。
練習はハードだったが、それでも辞めようと思ったことは一度たりともなかった。
赤いドレスを身にまとい、床に足をたたきつけているとき、
まさにこの世の天国を感じていたから。
しかし今、その天国はさゆみの中で遠いものになろうとしていた。

(もしかしたら…ダメなのかも)

さゆみの脳裏に、自分をにらみつけたクラスメートの表情がよぎった。


放課後。

「さゆみさん、ちょっとよろしいかしら?」

一見ていねいそうだが、どこかとげとげしい感じの声で呼びかけられた。
一瞬ムッとするが、それをおくびにも出さずに返事を返す。

「春代さん」

宮島春代。
体育の授業で、自分に嫌な視線を送ってきた、あのクラスメートである。

「ごきげんよう。何かご用かしら?」

あくまでごく普通に返事したつもりだった。

「あなたはご存知ないでしょうけど、歴代のダンス・コンペの優勝者は
全員社交ダンスやバレエの経験者なのよ」

どういうことだ。
さゆみは自分の中に、妙なとげが生まれるのを感じていた。

「それが何か?」

さゆみの瞳に現れた動揺を見てとったのか、春代は不敵な笑みを浮かべる。

「あなたのダンスは背筋も伸びていないし、動きも鈍くてぎこちない…
なぜあなたが代表に選ばれたのか、分からないわ」
「だったら先生に直接聞いてみたら?私はあくまで選ばれただけだもの」
「あら。フラメンコなんかで優勝しようと思っているのかしら」

忘れていた。
こいつは社交ダンスのプロ選手と日本トップクラスのバレリーナを両親に持つ、
とんでもなく鼻持ちならない女だ。
自分のダンスこそが最上で、それ以外はクズだと本気で思っている。
今回のコンペでも、自分を代表に選んでくれるように、親を使って直訴したらしい。
もちろんそんな方法は通用しなかったが。

「あなたがどうやって先生方に取り入ったのか分からないけど、
これだけは言っておくわ。
うちのクラスに、ひいてはこのリリアンに、恥をかかせないでちょうだい」
「恥、ですって…!?」

怒りのあまり絶句するさゆみに、

「それではごきげんよう。ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン」

言いたいことだけ言って春代は去っていった。


「ストップ!」

スタジオに、フラメンコの先生の厳しい声が飛んだ。

「大橋さん、またステップが乱れてる。もう一回やり直し」

言われたところをもう一度やり直すが、それでもうまくいかない。

「…今日は調子が悪いみたいね。次の練習までにもう一度復習してきなさい」

今日のレッスンは、そこで終わった。
帰り際に先生は、こんな言葉を投げかけた。

「今日のあなたの踊りには、アイレがないわ」

アイレとはスペイン語で『空気』という意味である。
フラメンコにおいては、踊り手の持つ雰囲気や観衆を惹き付けるオーラなど、
一言ではいいあらわせないニュアンスを持つ。
いつもなら「あなたにはアイレがあるわ」と言ってくれる先生だが、
今日はまったく逆の言葉。
さゆみの心を支配していたのは、絶望だった。



『うちのクラスに、ひいてはこのリリアンに、恥をかかせないでちょうだい』

思い出したくもない言葉が、グルグルと頭の中を駆け巡っている。

(どうして、フラメンコが恥なのよ…)

全身に鉛のような重みを感じながら、さゆみは家へと向かっているはずだった。
しかし気がつくと、家とはまったく正反対の方向に歩いている。
すでに夕日も沈んでしまい、真っ暗な通り。
その向こうに見えたのは、親友で同じつぼみの瀬戸山智子の実家だった。

(確か智子さんは出ないらしいけど…)

だらしないところはあるが、それでも優しく穏やかな親友に、
さゆみはどうしても会いたかった。

(だけど会ってしまえば、私はきっと壊れてしまう…)

豪邸のインターホンを押すことなく、さゆみはもときた道を家へと引き返した。


翌日の4限目終了後。

「さゆみさん、智子さんと純子さんがいらしているわよ」

クラスメートの1人が自分の席に来て言った。
思わず教室の入口を見ると、見慣れた2人の笑顔。

「どうしたのよ、2人とも…」
「いいから、いいから」

わけの分からないまま、さゆみは薔薇の館へと引っ張られていったのだった。


「ああ、宮島春代ね。気にすることないよ」

智子はあまりにもあっさりと言ってのける。

「そうそう。自分が選ばれなかったからってひがんでるだけ。
ダンスのダの字もできないくせに」
「ねぇ」

智子たちの間ではすでに暗黙の了解らしいが、起承転結の起と結だけがあって、
承と転がない。

「どういうことなの?」

純子は少しいたずらっぽい顔で言った。

「実はあの子、極度のダンスオンチでね」

ダンスオンチ?
運動オンチとかなら分かるけど、ダンスオンチって?
疑問だらけのさゆみだったが、その後話題が別の方向へ行ってしまい、
質問する機会を失ってしまった。
しかしのちに意外な形で、さゆみは真相を知ることになる。

それから何日かあとの昼休み。

「さゆみさんも相変わらず下手よね」

例によって春代がからんできた。

「あなたみたいなダンスオンチに言われたくないわ」

そのセリフはどうやら春代の痛いところを直撃したらしい。
耳まで真っ赤になっている。

「ダンスオンチですって!?」
「あら、私は事実を指摘しただけよ」
「私はダンスができないんじゃないわ、やらないだけよ」
「じゃあやってみせなさいよ」

突如として始まった口げんかに、クラスメートたちはなすすべもない。
おろおろしている間に、5時間目が始まってしまった。

放課後、いつもなら薔薇の館へ直行するさゆみだったが、
どうしてか今日は足が動かない。
というより、昼休みに春代が見せた態度がどうしても気になっていた。
このままうやむやにしてしまうのは、性に合わない。
さゆみはどうしても真実を知りたかった。
どうやらそれは春代も同じだったらしい。
しばらく2人はにらみあっていたが、やがてふっと春代がため息をついた。

「あたし…ダンス始めてから結構長いんだよね」

いつもの気取った言葉遣いとはぜんぜん違う。
どうやら春代は生粋のリリアンっ子ではないらしい。

「いつからなのよ?」
「幼稚園に入ったあたりからかな…実はね、あたしの親、
プロのダンサーでもバレリーナでもなんでもないの。
ただの果物屋の親父とおかみさんよ」

驚きのあまり、思わずのけぞりそうになるさゆみ。

「だって…プロのダンサーとバレリーナって…」
「周りにはそう言っとけって、きつく言われてたからね…
母方のじいちゃんがやってる店を手伝ってるだけ」

春代は自嘲的な笑みを浮かべた。

「親父はダンスの試合の前に、審査員に賄賂贈ったのがばれてダンスの世界を永久追放。
母さんはバレエ団でのトップ争いに負けて追い出されたクチよ。
2人ともいまだに過去の栄光にしがみついて生きててね。
地元のバレエ教室に無理やり通わされて、そりゃもう大変だった。
でもこの学校の連中って、みんなそれなりのとこのお嬢様ばっかりじゃない。
そんなの知られたらどんな目に遭うかわかりゃしないわ。
だから隠してたの」

どうやら春代も、いろんな苦労があったようだ。
でもそれと、さゆみに対する態度の悪さは別である。

「今回のコンペにも、あたしが親使って直訴したとかなんとか言ってるバカがいるけど、現実はまったく逆よ。
親が学校に乗り込んできて、『春代をコンペに出せ』って騒ぎまくるんだもん。
いい加減嫌になってたのよ」

さゆみは何だか胸が痛くなってきた。
春代にとってダンスとは愛という名の見当違いなお仕着せの象徴だったのだ。
それでも両親を喜ばせるために必死で踊り続けたのだろう。
たとえ基礎的なステップさえうまく踏めなくても。
そこに現れた、大橋さゆみという(春代から見れば)コンペに出るほどの力を持つクラスメート。
その名前を聞いたとき、どんな気持ちだったのか。

「言っとくけど、辞退するなんて許さないからね。あたしに同情なんて無用なの。
今度のコンペには両親連れてくるから、あんたはあの両親の前で完璧に踊ってみせなさいよ。
そしたらあたし、あのバカ夫婦に言ってやるから。
『これが本物のダンスなんだ』ってね」

春代はそういい終わると親指を立ててみせた。
もう、その表情に卑屈なものは感じられない。

「分かった。本物のダンスがどんなものか、その目ではっきり見るがいいわ」

さゆみも親指を立てた。

「あんた、意外に話が分かるね」
「意外は余計よ」

2人はまるで親友のように、お互いの肩をたたきあった。


翌日のダンスコンペ。
ワルツ部門には真里菜と美咲がペアで出ていて、見事に優勝した。

『これよりソロ部門に入ります。エントリーナンバー1番、大橋さゆみ。
曲目はLa Esperanza〜希望〜』

フラメンコ特有の、激しい情熱と深い哀しみを伴ったメロディラインが体育館を満たす。
それにあわせて、さゆみの両足は力強く床を打ちつけている。
ドン、ドンという強い音が、見ている者の心まで響き渡る。
さゆみの中に、一度は遠ざかった小さな日々の喜びがよみがえった。
このままずっと踊っていたい。
そんな感覚の中でさゆみは叫んだ。

「オーレ!」


『ソロ部門、優勝は…エントリーナンバー1番、大橋さゆみ!』

その名前を聞いた春代は、両親に向かってこう言った。

「ほらね…あの子こそ本物のダンサーなんだよ」


別れは突然やってきた。

「えっ、転校?」
「そう。今の店をたたんでね、もう一度別の場所でダンスをやり直すんだってさ…もうそろそろ親が学校に来るころだ。
学園長に挨拶したら、しばらくあんたともお別れになる」

2時間目と3時間目の間の休み時間。
意外にすっきりとした表情で春代は話す。
その表情を見て、さゆみはふと聞いてみたくなった。

「ねえ、春代さん。私たちって…友達、だよね?」
「もちろんさ」

春代は自信たっぷりにうなずいて見せた。

「あたしのことは、春代でいいよ」
「じゃあ私も、さゆみでいいから…絶対、連絡しなよ!待ってるからね…春代!」

校舎に鳴り響く予鈴の音。
遠ざかる背中に、さゆみは声の限り叫んだ。

「そっちこそ、忘れるなよ!さゆみ!」

さゆみは一言つぶやいた。

「バーカ…死んでも忘れてやんないからね」

その頬に、一筋のしずくが伝わっていた。


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