【1980】 未来の由乃  (まつのめ 2006-11-06 23:00:27)


 いや、確かにそうなんだけど、意味はあってるけど……(題名にツッコミ)
 このシリーズ、どういうわけか書くのにとても時間が掛かります。
【No:1912】→【No:1959】→【これ】
(ご注意:これは天野こずえ著『ARIA』『AQUA』とのクロスです)
(ご注意2:これはクゥ〜さまのクロスSSが背景にあるような話になっています)
(ご注意3:でも、まつのめがそのSSにインスパイアされて勝手に書いてるだけで正統な“続き”というわけではありません)




 ≪アテナさんのアルバイト≫


 目を覚ますと、まず高い天井が目に入った。
 そして漆喰っぽい壁。落ち着いた色のカーテン。
 部屋はしんと静まり返り、窓からは朝日が差し込んでいた。
「えっと……」
 なじみの無い空気に一瞬、自分が何処にいるのか判らなくなる。
(ここ、何処だっけ?)
 ふと、左腕の暖かい感触に意識が行く。
 首をそちらに向けると黒い頭と布団に広がる長い髪が目に入った。
(……ああ、そうだった)
 ようやく、寝ぼけた頭が覚醒してきて、昨日の続きであることを思い出した。
 突然、知らない世界に放り出されて、そこで親切な人に助けられたのだ。
 ここはその親切な人、アテナさんの部屋。
「由乃さま?」
 とりあえず、何を勘違いしたのか乃梨子の腕にしがみ付いて眠る先輩の名を呼んだ。
 が、由乃さまは「ん〜」と起こされるのを嫌がるように絡める腕を抱きこんで更に額を乃梨子の肩に押し付けてきた。
「由乃さま、起きてください。というか腕を離してください」
 このままでは、起きようにも身動きが取れない。
 腕を引き抜こうとすると、
「んんん……」
 こんな感じで余計にしがみ付いてくるし。
「由乃さまってば……」
「だめ〜。令ちゃんはここに居て」
 寝ぼけている。
 令さまに添い寝してもらってる夢でも見ているのだろう。
 想像はついたけど、こんな甘えた声をだすんだ。由乃さまって。
 揺り起こそうとしたけど空いた方の手を肩まで届かせるのが難儀なので、手っ取り早く目の前の頬をぺちぺちと叩いてみた。
「や」
 そう言って由乃さまは顔を布団に埋めた。
(しょうがないな……)
 朝から疲れたくなかったのだけど(というかもう疲れた)、この調子では埒があかない。
 乃梨子は左手にしがみ付かれたのをそのままに強引に上体を起こした。
 もちろん引っ付いてる由乃さまがいるから真っ直ぐ起きられないが、その分、由乃さまを引きずった。
 下は布団だけど顔面で引きずられた由乃さまは流石に目が覚めたらしく、両手をついて身体を起こし、
「んもう! 令ちゃん何するの……よ?」
 そこまで言って乃梨子の顔を見て固まった。
 というか、元々しがみ付かれていたから、顔が近いんですけど……。
「な……」
 喉の奥から絞り出すような声で由乃さまは言った。
「なんであんたが私の部屋にいるのよ!」
 って「あんた」呼ばわりかい。
 至近距離で理不尽に怒鳴られて、乃梨子はちょっと言い返したくなったけど、一応先輩であるという認識があって、思いとどまった。
 そして努めて冷静に言った。
「……由乃さま、まず周りを良く見てください」
「周り? なによ……」
 とりあえず爆発してから落ち着く由乃さまの行動パターンはそれとなく知っていたが、案の定、怒りは続かず、由乃さまは辺りを見回した。
「……え?」
「あっ!」
 由乃さまと一緒に向かいのベッドを見て、乃梨子も思わず小さな声をもらした。
 そこには既に着替えたアテナさんが座ってこちらをじっと見ていたのだ。


「お、おはようございます、アテナさん」
 乃梨子は、そう挨拶した。
「おはようございます」
 アテナさんを見てようやく昨日からのことを思い出したらしく、由乃さまも彼女に挨拶をした。
「おはよう、良く眠れた?」
「ええ、おかげさまで」
「よかった」
 そう言って昨日と同じように微笑むアテナさんだけど、いつから観察していたのだろうか?
 そんなことを考えていると、アテナさんは言った。
「あのね、今日は仕事を手伝って欲しいんだけど」
「え?」
「仕事ですか?」
 仕事って水先案内人の?
 乃梨子は由乃さまに目配せしつつ答えた。
「ええと、お世話になっているので、お役に立てるのなら喜んで。でも……」
 由乃さまが何か言いたそうにしていたので乃梨子は言葉を止めて、目で促した。
「……私達、元の時代に戻る方法を探したいんです。ね、乃梨子ちゃん」
「はい、それに今後の事もあるし……」
 来たくてここに来たわけではない。
 帰れなっかったら、なんてことは考えたくないのだけど、いつまで滞在することになるか判らないのは事実だった。だからアテナさんに一方的に世話になりっぱなしという訳にはいかないのだ。
「判ってる。それには協力するわ」
 アテナさんはそう言ってくれた。
「ありがとうございます」
「だから、その一つとして、お仕事なの」
「はい?」
「ちゃんとお給料もでるのよ」
 そう言われて思わずまた由乃さまと顔を見合わせてしまった。
 アテナさんの話によると、「今日は」って言ってた通り、手伝って欲しいというのは継続的なことではなく、単発のアルバイトみたいな仕事なんだそうだ。
「ここは大きい会社だから、探せば幾らでも仕事はあるの。わたし一応、偉い人にも顔が利くから」
 本人はあまり意識した事は無かったそうだけど、彼女は業界では割と有名人だそうで(後で聞いた話だけど「割と」じゃなくてトップ3の一人(!)だった)、会社では割と発言権があるとか。で、それを今行使しないでいつ使うのかってことらしい。


 乃梨子たちはアテナさんが用意していたここの制服に着替えてから、アテナさんの説明を聞いた。
「新企画ですか?」
「うん、『一日ウンディーネ体験コース』って言って、観光客にゴンドラを漕ぐ体験をして貰う企画なの」
「つまり、私達はそのテストケースですか」
「そうなの」
 今日はアテナさんに付き合って、その新企画の予行演習みたいなのをするらしい。
 要は、乃梨子と由乃さまを観光客に見立てて、アテナさんが漕ぎ方の指導したり、実際に運河を回遊したりとかをして、コースの中身を煮詰めるってことだった。
 その為に、今日アテナさんは観光案内の予約は取っていないそうだ。


    ◇


 一通りの説明を聞いた後、朝食に向かう途中。
「由乃さま? どうかしました?」
 由乃さまが、なにやら妙に嬉しそうにしているので思わずそう聞いた。
「乃梨子ちゃん、どう? 似合う?」
「は?」
 よくぞ聞いてくれました、みたいに振り返って、由乃さまは胸を張ってポーズを決めた。
「いや、なんかね、ここの制服格好良いから着てみたかったんだよね」
「はぁ……」
 まあ、その意見には半分賛成するものの、リリアンの制服とは正反対に体型を強調するようなこの服を、アテナさんみたいな人と一緒に着て並んでるって状況はあまり嬉しくなかったりする。
 身体にフィットするマーメイド・ラインのワンピースの上に丈の短いセーラーシャツ。頭の上には白い帽子。
 デザインはいいのだ。デザインは。
 そう思いつつ自分の胸元に目を向ける。
 そしてアテナさんの方、主に胸元を見る。
(あのくらいあれば見栄えもするのにな。ウエストも細いし……)
 さらに、由乃さまの胸元も見る。
「こらっ」
「……なんでしょう?」
「いま、私の方見てあからさまにホッとした顔したでしょ?」
「し、してませんよ?」
(しまった。顔に出てたか)
「怪しいわね」
「ただ、アテナさんってスタイル良いなぁって思っただけです」
 って言った瞬間、頭を叩かれた。
 そうだった、由乃さまは先に手が出る人だった。
「なんでそこで殴るんですか」
「思った後、意味ありげに私の方向かないの」
「それは失礼しました」
「なんか腹立つわね……」
 そこで、アテナさんがくすくすと笑いを漏らした。
 二人で注目すると、アテナさんは言った。
「仲、良いのね」
「そう見えます?」
「うん」
 思わずまた顔を見合わせる。
 由乃さま、ちょっと頬を赤くしてる。
 アテナさんは続けた。
「聞いてなかったけど、お二人はどんな関係なの?」
「同じ学校の先輩と後輩ですけど?」
「そうだったんだ。なんだか乃梨子ちゃんは由乃ちゃんに敬語使っているからどんな関係なのかなって不思議に思ってたのよ」
 そういえば、後輩が先輩に敬語なのは良いとして、呼称がリリアンは独特だから、知らない人が見たらちょっと悩むかもしれない。
 乃梨子は恐る恐る訊いてみた。
「あの、最初どう思われていたんですか?」
「由乃ちゃんがお姫様で、乃梨子ちゃんは御付きの召使いかなって」
 確かに。言葉遣いだけを聞けばそうかもしれない。
 さしずめ由乃さまは、“わがままなお姫様”といったところか。
 なんて思っていたら由乃さまは言った。
「なるほど、乃梨子ちゃんは口うるさいメイドさんって感じよね」
「だれがメイドですか」
「……それで、由乃ちゃんがわがままなお姫様」
 ぼそっとアテナさんが呟いたのが、乃梨子のツボに嵌った。


「……もう、乃梨子ちゃん笑いすぎ」
 食事中も頬を膨らます由乃さまだったが、腹がよじれて乃梨子は一番遅く朝食を終えることになってしまった。
 後で考えるとそれほど笑うほどの話ではなかった気がするが、笑いのツボというのもは得てして本人にも不可解である事が多いのだ。


    ◇


 朝食を終え、仕事に向かう白い制服達に混じって外に出て、昨日の船着場までやってきた。
「これを使うんですか?」
 目の前には昨日、乃梨子たちが乗ってきた古びた黒いゴンドラがあった。
「ううん、これは修理に出して、代わりに整備したのを受け取ってくるわ。だから修理工場まで練習」
 というわけで、早速ゴンドラ漕ぎの練習。まず由乃さまがオールを握る事になった。
 選抜の理由は、“より慣れてない”からだそうだ。
 アテナさんは最初に由乃さまに言った。
「そこに立ってみて」
 なんでも、初めての人は大抵バランスを取れなくて運河に落ちるそうで、だからここに来る時、一回も海に落ちずに来た二人は非常に見込みがあるとか。
 でも、ここでは体験コースの予行なので立つところから始めるそうだ。
「楽勝ね」
 ゴンドラの端に立って由乃さまが偉そうにしてる。
「ここは運河だから」
「波が無いんですね」
「うん」
 そんな会話をしていると、向うから中型の船、多分水上バス、が近づいてきた。
 そしてエンジン音を響かせてすぐ横を通過して行き、それが起こした波でゴンドラが揺れ、由乃さまがバランスを崩して焦っていた。
「ここは大きい船が良く通るから気をつけて」
 アテナさんはそんなことを言いつつ何やらメモに書き込んでいた。

「じゃあ漕ぎ方だけど……」
 立ち位置やオールの握り方などを指示しつつ、アテナさんの指導が始まっていた。
 乃梨子も見て覚えるように言われたのでその様子を見学していた。
 そして、実際に漕ぎ出す。
「……これって、結構力居るのね」
 そんな文句をいいつつも、フォームが決まったせいか、昨日に比べたら格段に上手く漕ぐ由乃さまだった。
「そうでもないのよ。上達すれば余計な力が入らなくなるから」
「そうなんですか?」
 乃梨子がそう聞くと、アテナさんは、
「だから見習いは両手に手袋をつけるの。これが上手くなっていくと片手になって、一人前になると手袋をつけなくなるのよ」
 なるほど、アテナさんは手袋をしていない。
「両手はペア、片手はシングル、手袋なしはプリマって言って、そのままウンディーネの階級みたいなものを表しているの」
 それで、着替えた時に社内でも手袋をしているように言われたのか。
「一日体験はペア扱いなんですね」
「そう」
 でもアルバイトの乃梨子たちは客でも見習いでもないが、どういう立場なんだろう?
 ……なんて疑問が浮かんだが、“見習い以下はペア扱い”が正解でいいのだろう。
 つまり乃梨子も由乃さまも今はウンディーネ見習い(ペア)だ。
 由乃さまの漕ぐゴンドラは、水上バスに追い越されたりすれ違ったりしながら、広い運河を進んていった。
 運河の両側には、装飾的な立派な建物や、窓から蔦のように垂れ下がって花が咲き乱れてる建物とか、あと大きな教会のような建物まである。
 しばらく行くと運河に掛かるアーチ状の木製の橋が見えてきた。
「アカデミア橋よね」
 由乃さまが呟くとアテナさんは言った。
「知ってるんだ?」
「地球のオリジナルを見たことありますから」
 なんか偉そうだ。偶々覚えていただけじゃないのかな?
「すごい」
 でもアテナさんは単純に驚いていた。

 橋をくぐってからも、アテナさんの操舵方法指南は続き、ゴンドラは運河を進んで海岸線まで出てきた。
 そこでアテナさんは言った。
「由乃ちゃん、どう?」
「……疲れました」
「じゃあ、交替して。次、乃梨子ちゃん」
「はい」
 由乃さまと場所を交替して乃梨子はゴンドラの端に立った。
 海まで出てきたので波があってゴンドラが揺れるが、昨日の航海でたいぶ慣れていたせいか足元が危ういという事は無かった。
 座席に落ち着いたところで由乃さまが手を挙げて言った。
「はーい、先生質問!」
「はい、由乃ちゃん」
 って何処の小学校だ。
 アテナさんはひそかにノリが良いようだ。
「あれは、なんですか?」
 由乃さまは空を指差してそう言った。
「ああ、あれ?」
 アテナさんが空を見上げる。
 つられて乃梨子も見上げるとそこには、例の浮遊物体が浮かんでいた。
 霞み具合からして、やはり相当に大きさのある物体だ。
 昨日は空気が澄んでいて建物らしきレンガ色や木々のような緑が良く見えたが、今日はちょっと青く霞んで色がはっきりしない。
「あれは浮き島」
「浮き島、ですか?」
「そう。アクアの気温を保つ為に熱を放出している気象制御装置なの」
「へえ……」
「アクアにはあれと同じような浮き島が無数にあって、人が快適に暮らせるように気候を調節しているのよ」
 どうやって浮いてるのかは訊いても判らないだろうから訊かないけど、結構重要なものだったようだ。
 ついでに乃梨子は疑問に思っていたことを訊いてみた。
「木とか建物が見えるんですけど、人が住んでいるんですか?」
「うん、街があるわ。ロープーウェイがあるから今度行ってみる?」
 気軽に行ける所と判って、乃梨子はちょっとしたカルチャーショックを感じた。
「いえ、そうですね、機会があれば……」
「ちなみに、さっきから上を通過したりしてるあれは、飛行機?」
 上空をあちこち見回していた由乃さまがそう言った。
「あれは宇宙船」
「宇宙船?」
 アテナさんは海岸に向かって右手の方を指差し言った。
「あっちに国際宇宙港があるの」
 その方角には、赤茶色っぽい高い塔と、直方体に見える大きな建物が見えた。
「ええと、地球とかに行ってる宇宙船ですか?」
「そう、マンホームとアクアの間を行き来する定期便がほとんどよ」


「じゃあ続けましょう?」
「はい」
 由乃さまと同じように乃梨子もアテナさんの指導を受けた。
 まずはゴンドラの向きを変えるためにオールを水中に入れたまま捻りこむように漕ぐやり方を教わった。
 なるほどオール一本で向きを変えるには効率が良いと思った。
 それから、さっきの国際宇宙港があったのと反対方向、歩道のある海岸沿いにゴンドラを進めて、アテナさんの指示で一つの運河に入った。
「この先がゴンドラ造船所」
 その運河を少し行くと、この街では初めて見た木造の建物と、その手前に船を陸揚げしやすいように傾斜した河岸、そして陸揚げされて横を向きになったゴンドラがあった。
「そこに留めて」
「はい」
 造船所の手前に桟橋があって、乃梨子はそこにゴンドラを留めた。
 ゴンドラを降りたアテナさんはそこで作業をしていた小父さんに声をかけ、乃梨子たちが乗ってきたゴンドラを指差してなにやら話していた。
 そのうち、造船所の人がゴンドラを陸揚げして点検を始め、乃梨子たちも呼ばれた。
「こりゃ、個人所有だな、しかも相当古い」
「誰のか判ります?」
「さあ? シリアルが打ってないから捨てられたも同然だ。コイツの持ち主は所有者失格だよ。拾ったのはお嬢ちゃんたちか?」
 小父さんが急に振ってきたので乃梨子たちはうんうんと頷いた。
「一応、海運局に問い合わせてみるが、多分判らんだろうな」
 その小父さんの言葉を受けてアテナさんは乃梨子達に聞いてきた。
「どうする?」
「え? どうって?」
「手入れしてなかったから酷い有様だが、これはまだまだ使える船だ。お嬢ちゃんたち、乗ってくれるか?」
「えっと……」
「乃梨子ちゃんと由乃ちゃんのゴンドラにするってことよ」
「ウチで引き取ってもいいんだが、拾ったってのも一つの縁だ、ゴンドラがお嬢ちゃんたちに乗って欲しいって言ってるのかもしれんしな」
 乃梨子は困った。
 いきなりゴンドラをくれると言われても、使い道が判らないし。
 まあ、決して安いものではないだろうから、売って金にするなんて使い道もあるだろうけど、この職人さんにそんなこと言ったら殴られそうだ。
「貰っておきなさいな」
 そういうアテナさんに答えたのは由乃さまだった。
「判ったわ。そういうことなら私、このゴンドラ使うわ」
「って、何に使うんですか?」
「とりあえず、練習。あとは考えるわ」
 乃梨子は呆れたが、アテナさんは嬉しそうに頷いていた。
 思えばこれが、この後の乃梨子たちの運命の一つの分岐点であったのだが、それが判るのはもう少し後のことなる。


 ゴンドラの修理は数日かかるそうだ。修理代は出世払いで良いとか言ってた。乃梨子は結構アバウトなんだって思った。
 そんな造船所で、予定通り乗ってきたのと引き換えにぴかぴかのゴンドラを受け取り、体験コースの予行は続行となった。
 新しいゴンドラに乗り込んだところで、昨日最初にアテナさんが乗っていたような白いゴンドラが造船所の向こう岸に留まっているのに気がついた。
 見ると自分達の着ているのとは微妙にデザインが違う白い服を着た女の人がオールを握っている。彼女は手袋をしていないからプリマさんだろう。
「ここは観光スポットだから」
 アテナさんが言った。
「造船所がですか?」
「雑誌で紹介されているから、時々見たいって人がいるの」
「ふうん……」
 由乃さまはその観光客らしき人たちを乗せた白いゴンドラを眺めながら言った。
「それはそうと白いゴンドラってなにか意味があるんですか?」
 確かに、さっきから幾つもゴンドラを見かけているけれど、女の人が操るゴンドラはみんな白かった気がする。
「白いゴンドラには一人前のウンディーネ、プリマだけが乗れるの。ちなみにお金を取ってお客さんを乗せられるのもプリマだけ」
 それを聞いた由乃さまはちょっと驚いて言った。
「えっ? そうなんだ……」
「あと、片手袋(シングル)はプリマが同乗していればお客さんを乗せられるわ」
「そっか……」
 貰ったゴンドラで客商売でもしようと企んでいたのだろうか? 何やらがっかりしている由乃さまだった。


「もう少ししたら休憩にしましょう」
 運河から出てさっきの歩道のある岸に沿って戻り、最初に出てきた広い運河の出口に向かった。
 自分で漕いでみた後、上手い人が漕ぐのを見るのはまた勉強になる、ということで漕ぎ手はアテナさんだ。
 というか、一日体験のお客さんを想定しているから、ここでプロが漕いで見せるといったところであろう。
 二人で見事なオール裁きに目を奪われていたら、アテナさんは言った。
「もっと漕ぎたい?」
「あ、いいえ、やっぱりプロは違うなって」
「うん、やっぱ全然違うわね」
 こんな風に二人で素直に感想を述べたが、アテナさんはこう言った。
「でも、私は操舵技術って苦手だったの。一緒に練習していた仲間の中でも一番下手だったし」
「そうなんですか?」
 目の前のオール裁きを見ていると、とてもそうとは思えない。
「でも、ゴンドラが好きだから毎日練習していたらプリマになれたの。ゴンドラが好きなら誰でもなれるわ……」
 アテナさんは遠くに向けていた視線を乃梨子たちに戻して言った。
「……あなた達でも」
「えっ?」
「どう? ウンディーネなってみない?」
 それは、アテナさんからのお誘いだった。
 今日のアルバイトだけではなく、一人前(プリマ)を目指して練習してみないかという。
「社員になってしまえばちゃんとお給料も出るし、正式に寮で暮らすことも出来るわ。一人前(プリマ)になるまでは事務的な仕事とかもあるけど、基本は練習だから時間は割と自由になるのよ。帰り方を探すのには丁度良いでしょう?」
 まさに“渡りに船”だった。アテナさんの言う通り社員になれるのなら、生活の心配をしないで済む。
 でも、乃梨子は即決できなかった。
 おそらく、ここに長く留まりたくない、ここに居るのは一時的なことで、この地に根を下ろすつもりは無いと言う意識があって、ここの会社の社員として給料を貰ってやっていくことに抵抗があるからだろう。
 それに。
 由乃さんが言った。
「あの、訊いていいかしら?」
「なあに?」
「まず、社員ってそんな簡単になれるものなんですか?」
「私の推薦があれば多分簡単に」
 なれちゃうらしい。結構アバウトなんだ。
 でもさらに。
「でも、私たちっていきなりここに現れた人間ですよ? 住民票とか国籍とかないでしょ?」
 これは致命的であろう。
 アテナさんはここでちょっと考え込んだ。
 そしてこう言った。
「えーと、それも大人の保証人が居れば割と何とかなると思う」
「なるんですか!?」
 それは幾らなんでもアバウト過ぎないか?
 と、乃梨子は思わずツッコミを入れてしまった。
「なんか、半年前にそういう前例があって、法律化されたって」
「前例……」
 由乃さまが感心したのか呆れたのか黙ってしまったので乃梨子は言った。
「あの、社員の件は少し、考えさせてもらえますか?」
「うん、私も今すぐになんて言わないから。いい返事を待ってるわ。由乃ちゃんは?」
「あ、私も少し時間を下さい。ちょっと混乱して……」
「判ったわ」
 ここには昨日来たばかりで知らない事だらけだった。
 だからアテナさんのお誘いにのることが良い事なのかどうか、乃梨子には良く判らなかった。
 でも、ここで頼りのなるのは今のところ、アテナさんだけなのも事実だ。
 彼女が差し伸べてくれた手を掴むのに何故か躊躇してしまうのは、何か心の奥に引っかかりがあるに違いなかった。それはおそらくさっきも考えた、単純に『ここに長く留まりたくない』ってことだけではなく、もっと他に理由がある気がするのだ。
 その引っ掛かりを、解決しないまでも最低それがなんなのか判ってから返事をしないといけない思った。

「♪hai・tu・sha・fa・sulee−」(※)

 ――歌だった。

「kai−no−lae・sa・fei」

 アテナさんが、オールを繰りながら歌を謳い、

「hai・tu・sha・fa・sulee kaati−no fati ……」

 透きとおった歌声が水上に響き渡っていた――。

 歌詞が何処の言葉か判らなかったけど、なんとなく励ますような、慈しむような、そんな感じがする歌だった。
 知らないうちに暗い顔をしていたのかもしれない。
 アテナさんは乃梨子を励ます為に歌ってくれたみたいだった。



 ≪姫屋な人たち≫


「おーい、アテナ!」
 先ほど国際宇宙港があると言っていた賑やかな場所を通り過ぎる途中、アテナさんを呼ぶ声が聞こえた。
 振り返ると、白いゴンドラに、さっき見たのとも違う白い制服の女性が二人。
 二人は赤い模様の入った同じ制服を着ていた。
 デザインの違いはどうやら会社の違いらしい。水先案内人(ウンディーネ)の制服は白が基調と決められているのだろうか?
 後ろでオールを漕いでいる女性は青みがかった黒髪の、前髪とサイドが長めのちょっと変わったショートカット、手前の座席に座って手を振っている人は茶髪系の長髪だった。
「ああ、晃ちゃんに藍華ちゃん」
 アテナさんの知り合いのようだ。
 白いゴンドラは乃利子たちの乗る黒いゴンドラに近づいて並走した。
 座席にいる長髪の女性が言った。
「なんだアテナ、新人の教育か?」
「うん。そんなところ。晃ちゃんは?」
「そこで藍華と鉢合わせたんだ。昼飯に誘ってたらお前の歌が聞こえてな」
「いきなり乗り込んできて『アテナを追え』ってなんて言うんですよ」
 後ろで困惑気味にオールを操っているのが藍華さんで、最初に話しかけてきた偉そうに座ってる人は晃さんというらしい。
「私たちもこれからお昼ごはん」
「丁度良かったな。じゃ、久々に一緒に食うか?」
「うん」
 晃さんは男みたいな勇ましい話し方をする目付きの鋭い(でも美人な)女の人だった。藍華さんはちょっと猫っぽい雰囲気。


 そのままゴンドラを並走させて、賑やかなところを通り過ぎたところで、
「今の、サン・マルコ広場よね?」
 由乃さまが振り返りながらそんなことを言った。
 乃梨子は「え?」っと答えただけだったが、
「そうよ。アクア観光のメッカであり、四季折々のイベントが目白押しな一番賑やかな場所、ネオ・ベネツィアの玄関口でもある一番重要って言っていい場所よ。って、それくらい勉強してなきゃだめでしょ? 新人ちゃん達!」
 説明をくれて、最後に叱ってまでくれたのは白いゴンドラを漕いでる藍華さんだった。
 その様子を見ていた晃さんは言った。
「なんだ、キミらここの出身じゃないのか?」
「え、ええまあ」
「マンホーム?」
 また藍華さんがそう聞いてきた。
 マンホームと言うのは地球のことだから、
「そうです」
「そっか。今、ARIAカンパニーの人全員社員旅行でマンホームに行ってるんだよねー」
 藍華さんがそう言うと付け足すようにアテナさんが言った。
「アリスちゃんも行ってる」
「そうなのよね。私も一緒に行きたかったのに」
「私は行ってもかまわないって言ったぞ? うちの社員研修旅行を選んだのは誰だ?」
 以下、藍華さん、晃さん、アテナさんの会話が続く。
「だって、同じマンホームだったから。しくじったわ、あんなに自由が利かないなんて」
「アリスちゃんはお月見したいって言ってた」
「あーあ、丸いお月様見たかったわ」
「見ただろ?」
「帰りに宇宙から見ただけじゃない。ちゃんと地上からお月見ってのをしてみたかったの」
「途中で抜けてもよかったんだぞ?」
「跡取り娘がそういうワケにも行かないでしょ?」
「おまえは変な所に気を遣うんだな。まったく」
「まあまあ、また行けばいいじゃない。今度はみんなで一緒に」
 なにやら話が盛り上がっているけど、乃梨子は由乃さまと一緒に話題に取り残されていた。
 判った事は、アリスちゃんというアテナさんの同居人はARIAカンパニーというところの社員旅行に付いていったってことと、その行き先は地球だってことだった。
 あんまり自分達には関係ない話のようだ。
 と、この時は思っていた。
「まあ、お前達、プリマになってもつるんでるからな。奴らが帰るのは明日だったよな?」
「灯里からは明日の夕方って聞いてるわ。でも最近つるんでなんかいないわよ。特に灯里に弟子が出来てからは……」
 そこで藍華さんは何故か乃梨子たちの方へ視線を向けて言った。
「……って、あんたら、後輩ちゃんの弟子なわけよね?」
「は?」
 後輩ちゃんって誰だ?
「ばか者、もう後輩じゃないだろ? アリスはプリマだ」
 アテナさんの同居人さんのことだった。藍華さんの後輩だったらしい。
「まあ、そうだけど、それはともかく、由々しき事態だわ」
 なんだか藍華さんは深刻な顔をしている。
 そこへアテナさんが口を挟んだ。
「ちょっと待って、この子達はアリスちゃんの弟子って訳じゃないのよ」
「でもオレンジぷらねっとの見習いちゃんなんでしょ? で、アテナさんが面倒見てるって事は、必然的にアリスちゃんの後輩ってことにぃぃぃ!」
 なんか頭を抱えてるけど、この人大丈夫かな?
「まだ正式な社員じゃないから。今は私が雇ってるアルバイトなの」
「なにそれ?」
「その辺は昼飯を食いながら話さないか?」
 晃さんの建設的な提案で、乃梨子たちが蚊帳の外な会話がようやく終結した。



 小さな運河に入って少し行ったところで、ゴンドラを降り、石畳の小路を歩いて、小さなレストランで腰を落ち着けた。
 店を選ぶ時、アテナさんと晃さんでひと悶着あった。
 晃さんは軽いものを何処かで買って外で食べたかったようだ。
 が、アテナさんが譲らなかったので結局パスタ料理の店に決まったのだ。
「……なるほど、新企画の手伝いか」
「でも“まだ”って事は社員にはなるんでしょ?」
 取り合えず、自己紹介から初めてアテナさんが乃梨子達の立場を説明した。
 企画の内容はまだ社外秘だそうでそこは飛ばして話をしていた。
「社員になるように誘ったけど、まだ保留中なの。この子達、ネオ・ベネツィアに来たばかりだから」
「来たばかり? マンホームから移住してきたのか?」
「そうなの。で、困ってたから雇ったの」
 そこで晃さんは俯いて渋い顔をし、額に手を置いた。
「まて、アテナ。それは省略しすぎだろ? ……まあ良いか、人にはそれぞれ事情ってもんがある」
 説明を始めるとややこしくなりそうだと思ったのだけど、とりあえず自己完結してしまったようで、面倒な話は回避された。
「んー、まあ事情はいいとして、結局、弟子がいないのって私だけ? 一人譲ってくれないかしら?」
 と、藍華さんは由乃さまの方に視線を送った。
「え?」
 由乃さまはいきなり目をつけられて目を瞬かせた。
「ねえ、まだ決めてないんでしょ? どう? 姫屋に入らない?」
 姫屋っていうのは晃さんと藍華さんが所属する水先案内店だって自己紹介のときに聞いた。
 なんでもこのネオ・ベネツィアで一番の老舗だそうだ。
 藍華さんと、アテナさんの同居人のアリスさんと、あと今、地球に行ってるという灯里さんというのが、会社は違えど一人前になる前からの仲良し三人組なんだそうだ。
 それで、今は、灯里さんには弟子と言える後輩が居て、今回、乃梨子と由乃さまがアテナさんの会社に入ることで、どちらかあるいは両方がアリスさんの弟子に収まることを、藍華さんは危惧しているらしかった。
 そうなると仲良し三人組の中で一人だけ出遅れるってことで。
 まあ、そんな理由で勧誘されても困るのだけど。
「いえ、その、アテナさんにお世話になっているので……」
 と、由乃さまは普段の姿からは想像がつかないほどの猫かぶりっぷりでそう答えた。
「ありゃ。でもなんか、あなたとは気が合いそうな気がするんだけどな」
 と、藍華さんが言った直後、乃梨子はアテナさんが震えていることに気付いた。
「アテナさん、どうかしましたか?」
 乃梨子がそう聞いてもアテナさんは俯いて震えるばかりだった。
 もしかして怒ってる?
 その時、晃さんが言った。
「何がツボに入ったか知らないが、藍華、笑われてるぞ?」
「えっ? 私?」
「他に誰がいる?」
「由乃ちゃんと気が合いそうだってのがそんなに可笑しかった?」
 その問いにアテナさんは震えつつ、うんうんと頷いた。
 っていうか笑ってたのか。
 笑っている理由なら乃梨子も確かに思い当たることがあった。
 晃さんが言った。
「キミたち、アテナがどうして笑ってるか心当たりあるか?」
 由乃さまは判らない様子で首を横に振った。
 なので、乃梨子は答えた。
「たぶん、藍華さんが知らずにキャラが被ることを見抜いたからだと思います」
「「なっ!」」
 と、言葉が被ったのは奇しくも由乃さまと藍華さん。
「ちょっと乃梨子ちゃん、それどういう意味よ!」
「言葉の通りだと思いますけど?」
「私があんな失礼なやつと一緒だって言うの?」
 同属嫌悪だろうか? するりとそんな台詞が出てくるってことは、由乃さまは藍華さんの言動に思うところがあったのであろう。
 でも、由乃さま。言ってしまってから気付いても、もう遅いです。
「な、なかなか見所ある新人ちゃんね?」
 藍華さんはこめかみをヒクつかせながら、そう言った。
「あ、いえ……」
「ぷっ」
 と、噴出したのは乃梨子だ。
「「そこ! 笑う(な!)の禁止っ!」」
 びしっと、ほとんど同時に藍華さんと由乃さまに指差された。
「あははははっ!」
「晃さんっ!」
 今度は晃さんが馬鹿笑い。藍華さんの背中をバンバン叩いてる。
 だいたいそんな感じ(どんな感じだ)で昼食を終えた。
 ゴンドラまで戻って小さな運河から出てから藍華さんが改めて言った。
「姫屋の件は考えておいてね」
「まあ、事情があるだろうから無理にとは言わないが」
 すかさず晃さんがそうフォローした。
「晃さん、私は本気ですよ」
「由乃ちゃんが気にいったのか?」
「ええ、まあ」
「だ、そうだ。ウンディーネになる気があるなら選択肢に入れてやってくれ。私が言うのもなんだが、決して損な選択ではないと思うぞ」
「晃さん……」
「似てるところがあるならいい反面教師になるからな」
「って晃さんっ!」
 なんか楽しそうだ。
 漫才コンビみたいなやり取りを残してサン・マルコ広場の方へ去っていく二人を見送りながら、乃梨子は言った。
「仲、良さそうですね」
「うん、晃ちゃんはずっと藍華ちゃんをみてたから。藍華ちゃんが一人前になって一番喜んだのは晃ちゃんだったのよ」
 リリアンで言うところの姉妹関係みたいなものだろうか?
(そっか……)
「乃梨子ちゃん?」
 アテナさんが心配そうに乃梨子を見ていた。
「いえ」
 ちょっとブルー入ってしまったのは志摩子さんを思い出したからだ。
(心配してるだろうな……)
 まさか、学校辞めたりとかしてないだろうか?
 でも祐巳さまが居なくなった矢先だし……。
 無性に志摩子さんの顔を見たくなった。
 それと同時に、二度と会えないかも知れないという不安も頭をもたげてくる。
 そうだ。今まで考えないようにしていたのは、考えればどうしようもない不安が押し寄せてくるのが判っていたからだ。
(どうしよう……)
 膝が震え、座り込んでしまいそうになる。
「乃梨子ちゃん!」
「え?」
 気がつくと由乃さまの顔のアップが目の前にあった。
「帰る方法を探すのよ!」
 由乃さまは支えるように乃梨子の両肩に手を置いていた。
「は、はい。そうですね」
 なんとか気を取り直してそう答えた。
「だから、暗い顔してる場合じゃないのよ! 私達、まだ何も始めてないでしょ?」
「はい」 
 両肩を力強く掴む由乃さまの手を感じながら。
 たった一つしか違わないのに、やっぱり先輩なんだなぁ、と思ってしまう。
 由乃さまだって令さまとか菜々ちゃんとかと会えない不安が無いわけが無いのに。

 そうだ。
 まだ乃梨子はなにもしていない。
 途方にくれるのは出来ることをやり尽くした後でいい。

 今は、元の世界に帰ろうと足掻く時だ。









(※船謳の歌詞は適当です。アニメのに似てても多分気のせいです)


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