【No:1540】他と同じ世界のお話。【No:1492】と裏表です。
「お待ちなさい」
桜も散りかけたとある放課後。
掃除を終え教室から武道館へ向かう道すがら、支倉令は背後から呼び止められた。
涼やかで、耳に心地良い声だった。
声をかけられたらまず立ち止まり、そうして「はい」と返事をしながら、身体全体で振り返る。不意のことでも、あわてた様子を見せてはいけない。ましてや顔だけで「振り向く」なんて行為、淑女としては失格。
あくまで優雅に、そして美しく。少しでも、上級生のお姉さま方に近づけるように。
だから振り返って相手の顔を真っ直ぐとらえたら、まずは何をおいても笑顔でごきげんよ
「――」
かけられた声の主を確認したその瞬間の衝撃は、笑顔も挨拶も奪うに十分なものだった。
当然ごきげんようなど冷静に返しようもない。
振り返った先にいたのは、ラックスのCMから出てきたようなセミロングでサラサラの髪をヘアバンドでまとめた、リリアンの殿上人薔薇さまが一人、黄薔薇さまこと鳥居江利子さまだった。
「あ、の。何か……」
のどの辺りまで出かかった悲鳴を押さえ込み、どうにか声を絞り出す。
変な言い方だが、実物を間近で見るのは初めてだった。リリアンかわら版の写真などでは見たことはあっても、こうして薔薇さま方と面と向かったことなど一度もない。
その迫力に圧倒される。
写真で見たのとは比較にならないほどの美少女で、それ以上にオーラというか、纏う雰囲気に気圧された。直視すること自体が罪であるようにすら思える。
「特に用があるわけではないのだけど」
「……え?」
ってああ、リリアン生としてあるまじき受け答えを。
仕方ないではないか。全校の憧れの的たる薔薇さまに声をかけられたと思ったら「用はない」では。不意打ちにもほどがある。
と自分に言い訳をしている間にも、江利子さまはこちらへ向かって歩いてくる。
「貴女、これからどちらへ?」
「あ、はい。剣道部に所属していますので、武道館の方へ」
「そう、ちょうど良かった。私も剣道部に用事があったのよ。一緒に行きましょう」
そう言って私の横に並ぶように歩みを進め、促すように背を撫ぜられた。
一人ではつまらなくて、と仰る江利子さまの表情が、とても素敵な笑顔なのに蛙をにらむ蛇のように見えたのは気のせいだろうか。
武道館に着くまでの間、何を話していたかまったく記憶に残っていない。話しかける江利子さまに対し「はい」だの「はあ」だの言っていただけなような気がする。
開放された後も、とてもではないが部活動に集中できる状態ではなかった。
同級生はおろか先輩方まで詰め寄ってくるし、それ以前に自分自身が黄色い薔薇でできた迷路に迷い込んだように心が不安定だった。その当の黄薔薇さまは部長となにやら話しており、その姿がちらちらと気になって仕方がない。
結果的にその日は、剣道部全体がまともな活動にならなかった。さらに言えば同じく道場を使っている柔道部や空手部までもが浮ついた雰囲気に包まれており、その中心となってしまった令は部活が終わるころには心身ともに疲れ果てていた。
その最たる原因は、部活半ばの休憩時間に起こった。
未だ黄薔薇さまと話している部長に代わり、副部長が休憩の声を上げる。
振っていた竹刀を下ろし、またみんなに詰め寄られるのかなぁなどと息をつきながら思っていたら、事態は見事に予想の斜め上を行ってくれた。
誰も来ないのを不審に思い顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべた江利子さまが。
ついさっきまで部長と道場のはずれにいたのに、いつの間に!?
「支倉令さん、ちょっといいかしら?」
「え、あ、はい」
背筋を伸ばし、姿勢を正す。
「山百合会の仕事の手伝いに来てくれないかしら」
「……はい?」
「毎年ね、この時期は大変なの。私たちのお姉さま方が卒業した上つぼみの妹ができていないから、純粋に人手が足りないのよ。だから例年山百合会では手伝いを頼んでるわけ」
「はあ」
「だからよろしくね」
「あ、はい。……ではなくてっ、ちょっと待ってください。その、手伝いが必要なのはわかったのですが、どうして私なんですか?もっと他に、あの、私はまだ1年生でよくわからないですし」
何がどうなっているのか状況がまったく掴めないが、ここで流されてはいけないと本能が警告を発していた。
が、やはりというべきか、目の前の麗人には通用しそうになかった。
「あら、学年は関係ないわよ。私は、私が手伝いに来てほしいと思っている人に声をかけているのだから」
その言葉に、図らずも顔が紅潮したのがわかった。それもそうだ。薔薇さまからの直接のラブ・コールを、どうしてまともに受け止められようか。
でも、これ以上時間を――
「……申し訳ありませんが、少し考えさせていただいてもよろしいですか?」
たった一つの気がかりが、浮かれかけた心を地面につなぎ止めた。
「ええ、もちろん。そうね、マリア祭が終わるころまでに決めてもらえれば十分よ」
その言葉に頭を下げると、江利子さまは満足気に微笑み、ごきげんようと声をかけ武道館を後にした。
気づけば道場内は大騒ぎで軽く混乱状態になっており、部長たちが必死に練習の再開を呼びかけていた。
しかしまあ、自分の混乱度合いに比べればたいしたことはないだろう。
とりあえず……どうしよう?
帰り道。
今日は散々だったとつぶやくと、隣を歩いていた級友が劇的ビフォアアフターねっ、なんてうまいことを言うものだから自然と脳裏に例のピアノの曲が流れた。だがそのカメラに映る景色がどうにも他人事のように思えて、そこに自分をはめ込むことができなかった
なんにせよ今日は疲れた。早く帰って由乃の顔を見て寝ることにしよう。
ああ、マリア様。明日は幸せな一日でありますように。
でもきっと、波乱万丈な日々が始まるのは避けれらないんだろうなあ。