「ひっく」
放課後の薔薇の館で仕事中、突然一発のしゃっくりを放った紅薔薇のつぼみ福沢祐巳。
しばらく放っておけば治るだろうと、特に気にすることも無く仕事を続ける山百合会関係者。
しかし、余りにもしつこく繰り返されるしゃっくりに、多少辟易気味だったようで。
「ひっく」
「祐巳」
見かねて注意するのは、祐巳の姉にして紅薔薇さま、小笠原祥子。
「ひっく、申し訳ありませんひっく、お姉さまひっく」
「何時になったら収まるのかしら」
「ひっく、分かりませんひっく」
「喋るのかしゃっくりするのか、ハッキリしなさい」
自分から聞いておきながら、なんとも無理な注文だ。
「冷たい水を飲めば治るって言うけどね」
黄薔薇さま支倉令が、困っている祐巳にアドバイスした。
「ひっく、試してみますひっく」
シンクで水をくいっと飲めば、どうやら収まったようだ。
「ひっく」
と思ったら、治っていなかった。
「祐巳さん、しつこいわね」
「仕方がないよひっく由乃さん。私だって、したくてしゃっくりひっくしているワケじゃないんだし」
呆れた顔の黄薔薇のつぼみ島津由乃に、言い返す祐巳。
「ビックリさせれば、治るらしいわね」
「な、ひっく、何を?」
ニヤリと嫌な笑みを浮かべた由乃の顔に、一抹の不安を感じる。
「………」
黙って祐巳に近づく由乃だったが、
「……ひっく」
『え?』
なんと由乃までしゃっくりんぐ。
「ひっく、祐巳さん、ひっく染したわね!?」
「どうしてひっくそうなるのよ!」
言いがかりに等しいその言葉に、慌てる祐巳。
「由乃さん、手元がお留守よ」
仕事中だと言うのに、祐巳がしゃっくりし始めたおかげで、由乃の手も疎か。
「ひっく、分かってるわよもう」
志摩子に指摘され、不貞腐れたように座りなおす由乃。
しかし、そんな態度にカチンと来たのか、
「由乃さま、せっかくのお姉さまの気遣いに、その態度はどうかと思いますが」
堪りかねて、白薔薇のつぼみ二条乃梨子が口を挟んだ。
上級生に対してもズバズバ物申す乃梨子には、由乃は下級生とは言え一目置いてはいるのだが、タイミングが悪かった。
「はいはい、ひっくまったく乃梨子ちゃんは真面目ですねぇ。おっしゃる通りひっくお仕事お仕事」
殊更嫌味な口調で返した。
こうなると、乃梨子も黙ってはいられない。
「まったく上級生のクセして、どうしてこう子供っぽいんだか」
オーバーアクションのアメリカ人のように、あからさまに肩を竦めてため息を吐く。
「何よひっく!?」
「何ですか!?」
二人してテーブルに手を突き、身を乗り出して睨み合うことしばし。
「大体由乃さまはひっく」
『はい?』
一同が驚くまいことか、今度は乃梨子までしゃっくりんぐ。
「わははーひっく、先輩に逆らったバチがひっく当たったのよ」
「ひっく」
言い返そうとする乃梨子だが、しゃっくりのせいで上手く言葉が出ない。
由乃と乃梨子が言い争っている間にも、祐巳は当然しゃっくりを出し続けている。
何故かつぼみ全員がしゃっくりしているこの渦中、薔薇さまたちは、困惑の表情を浮かべるだけだった。
「乃梨子?」
「ひっく、はいお姉さま」
いつもの白薔薇スマイルで、乃梨子に声をかける志摩子。
「実は今日、父も母も檀家の集まりで出かけていて、私一人なのよ。明日はお休みだし、良かったら泊まりで遊びに来ない?」
「本当ですか志摩子さん!?」
驚きのあまり、校内ではお姉さまを厳守している乃梨子も、地が出てしまった。
「行きます行きます止めても行きます。お仕事済んだら直で行きます。志摩子さんのパジャマ借りて、志摩子さんのお布団に入って、志摩子さんの下着も身に着けます使用済みでも可!」
顔を真っ赤にして、目をグルグルさせてハァハァ言いながら、志摩子の手を取って迫る乃梨子。
ちょっと引いていた志摩子だったが、乃梨子が言い終えたのを確認すると、
「治った?」
「……あ」
どうやら、驚き……ではなく興奮のせいか、乃梨子のしゃっくりが収まっていた。
「あの、じゃぁお泊りは嘘なんですか……?」
さっきまでの勢いも何処へやら、落胆の表情の乃梨子。
「……いいえ、本当よ」
「それじゃぁ!」
「ええ、おいでなさいな」
何だかほんわかイー雰囲気の、白薔薇姉妹だった。
「由乃」
「何ひっく令ちゃん」
少々深刻な口調で由乃に語りかけた令だが、相手から微妙に視線を逸らす。
「実は昨日の夜、お姉さま……江利子さまから連絡があって」
「……ひっく、それで?」
江利子、という単語に反応し、由乃の目が据わる。
「だから今日の約束、悪いけどキャンセルしていいかな。いやもちろん、この埋め合わせはキチンとするから。不満なのは分かるけど、ホラ、お姉さまには逆らえないし……」
言い訳を始めた令に全てを言わせず由乃は、
「何よ! 聞きたく無いわよ令ちゃんのバカー!!!」
遮るようにして絶叫した。
薄っすらと涙を浮かべ、上目遣いに睨み付ける由乃に対して令は、
「治った?」
「……え」
やはり『江利子』の名前が効いたようで、由乃のしゃっくりが収まっていた。
「じゃぁ、ひょっとして今の……」
「ゴメン、さっきのはしゃっくりを治すための方便。お姉さまとの約束なんて無いからさ、機嫌直してよ」
「何よ、令ちゃんのバカ」
泣き笑いの表情で、令に縋る由乃。
何だかしんみりイー雰囲気の、黄薔薇姉妹だった。
「ひっく」
白薔薇黄薔薇姉妹を尻目に、相変わらずしゃっくり連打の祐巳。
先ほどから祥子をチラチラと盗み見るも、相手はまるで気付く様子も無い。
「ひっく」
(いいなぁ由乃さんも乃梨子ちゃんも)
そんな感情が、アリアリと窺える。
半ば諦めの心境で、しゃっくりしつつ仕事を続けていると。
「祐巳」
妙に冷たい声音で、祥子が祐巳の名を呼んだ。
「はい」
若干の怯えを含んで、返事する。
「まったくしつこいったら無いわね。何時まで無意味にしゃっくりなんて続けているの? とっとと治してしまいなさい鬱陶しい」
「へ?」
「その間抜けな返事も、ずっと前から直しなさいと言ってたはずよね。それとも何? 私の言うことが聞けないってことかしら?」
「………」
祥子の、辛辣を遥かに通り越した悪意さえ感じられる言葉に、みるみる祐巳が青褪める。
思わず志摩子が口を挟もうとしたところ、令が彼女を引き止めた。
「言い返せないってことは、やっぱりそう思っていると見ていいのね? 舐められたものだわ。いいわ、もうウンザリだし、祐巳」
立ち上がった祥子は、祐巳を氷点下の冷たい視線で見下ろしながら言った。
「ロザリオを返して」
祐巳を驚かすつもりだったのに、彼女のしゃっくりどころか心臓まで止めてしまいそうになった祥子は、泡を吹いて卒倒しかけた祐巳に、平謝りに謝ったのは言うまでも無い。