【2074】 君のいない世界で  (いぬいぬ 2006-12-22 04:57:12)


「乃梨とら」シリーズ第2部第10話です。
【No:2050】→【No:2051】→【No:2053】→【No:2054】→【No:2056】→【No:2059】→【No:2061】→【No:2063】→【No:2069】→コレです。






 瞳子が薔薇の館に来なくなってから、1週間が過ぎていた。
 あれ以来、教室でもあからさまに乃梨子を避ける瞳子の態度に乃梨子も意地になり、互いに口を開くことすら無くなってしまっていた。
 瞳子の気持ちは解かる。でも、勝手に怒り出したあっちも悪い。
 そんなことを思っているうちに、乃梨子は瞳子と仲直りするタイミングを見失っていた。
( 力になりたいとか言ってたクセに・・・ )
 ぼんやりと教室の窓を見つめながら、乃梨子は心の中で瞳子に対して愚痴を呟く。
 乃梨子の頭の中では、自分の手を握り励ましてくれた瞳子の姿と、捨てゼリフと共に薔薇の館から出てゆく瞳子の姿が、走馬灯のようにグルグルと飛び回っていた。
( ・・・・・・見捨てられちゃったのかな )
 それでもやはり、瞳子は親友だと思う気持ちも捨てらない。
 もう、どうしたら良いのか解からないという気持ち。
 もう、どうにでもなれという気持ち。
 でも、今の乃梨子が一番気になっているのは、瞳子の最後のセリフ。
 とらが誰かの妹になるかも知れないという、乃梨子が目を背けていた現実を突きつける瞳子のセリフ。
( 私ってやつは・・・ 本当にいつまでもいじいじと・・・ )
 瞳子のセリフに「 そんなことを気にしても、自分にはもうそれを止めることはできないんだ 」という気持ち。
 瞳子のセリフに「 自分にそれを止める権利が無いと解かっていても、そんなことは嫌だ 」という気持ち。
 ふたつの気持ちの間で揺れる自分に、乃梨子は溜息をつく。
「 どうしたの? 溜息なんかついて 」
 通りかかった可南子に聞かれ、乃梨子は我にかえる。
「 おおかた、瞳子と何かあったんでしょうけど 」
 何も話した覚えは無いのにそう指摘され驚く乃梨子に、可南子は「 見ていれば解かるわ 」と、事も無げに言う。
「 瞳子のほうも同じように貴方を気にしてたからね 」
 そうだったのかと乃梨子は考え込む。
 瞳子も瞳子で、決して本気で乃梨子に愛想を尽かしたという訳でも無いらしい。
「 私から折れたほうが良いのかな・・・ 」
 そろそろ瞳子とのことをどうにかしたいと思い、乃梨子がそう言うと、可南子は溜息と共に答えた。
「 呆れた。貴方、瞳子を甘やかすにも程があるわ 」
「 そうかな? 」
 そんなに甘やかした覚えも無いけれど。などと乃梨子が考えていると、可南子は「 余計なお世話かも知れないけど 」と前置きしてからこう続けた。
「 たまには瞳子にも自分から折れるということをさせても良いんじゃない? しばらくほおっておきなさいよ。きっと、焦っても良い結果には結びつかないわ 」
 可南子のセリフを聞いてもまだ迷っている乃梨子に、可南子は続けてこう言った。
「 私の予感は良く当たるのよ。・・・・・・嫌な予感ほどね 」
 乃梨子の脳裏に、自分ととらのことを心配して、あえて苦言を呈してくれたあの日の可南子の姿が蘇える。
 きっと、可南子は何も聞かなくとも、あの日、乃梨子ととらの身に起こったことが解かってしまったのだろう。それが、決して誰も望んでいなかった結末だったということも含めて。
 だが、可南子は乃梨子の憔悴した姿に気付いたあの日から、特に何か乃梨子のために行動を起こす訳でもなかった。
 ただ見守り、もし自分の力を請われるならば惜しみなく与える。そんな、一歩退いたスタンス。
 そんな可南子の密かな優しさが心地良くて、乃梨子は「 解かった。もう少しこのまま様子を見てみる 」と言って笑ったのだった。
 乃梨子の笑顔に、可南子は「 それが良いわ 」と呟き、また元のクールな表情に戻って歩み去っていった。









 
 放課後の薔薇の館では、山百合会のメンバー達が静かに仕事を進めていた。
 と言っても、この時期はまだそれ程忙しくは無いため、資料の整理などの細々とした雑務をこなしているだけであったが。
 全員が黙々と雑務をこなす中、瞳子の姿は今日も見えない。
 乃梨子は、妹が来なくとも黙って仕事をこなす祐巳の姿を見るうちに、瞳子がどうしているのか聞きたい衝動に駆られたが、それは思い留まる。
 昼間、可南子に言われた言葉に従ったという訳でも無いが、本当に瞳子が気になるならば、自分で確かめた方が良いと思い直したから。
( 今は、仕事に集中しておこう )
 仕事に集中していれば、余計なことも思い出さずに済む。
 瞳子のことも。
 そして、とらのことも。
( ・・・忘れてしまえば、楽になるのかな )
 今も尚、鮮やかに乃梨子の脳裏に焼き付く白色金の長い髪。
 “乃梨子”と呼びかける、あの声。
( 忘れられないよ )
 あの日、とらの叫んだ声。
 それを拒絶した自分の背中。
( でも、これで良かったんだと割り切ることもできない )
 彼女の想いを断ち切ったのは自分。
 そのクセ、彼女が他の誰かのモノになることに怯えているのも自分。
( ・・・・・・どうしたいんだろうね、私 )
 いくら考えても答えは出なくて、乃梨子は迷いを振り切るように書類に向かう。
「 そろそろ休憩にしましょうか 」
 志摩子の声に、乃梨子がお茶の準備をするべく流しへ向かおうとすると、菜々が「 私が 」と乃梨子をさえぎる。
 何となく手伝う気にもなれず座り直すと、由乃と目が合った。
「 何ですか? 由乃さま 」
 乃梨子がそう声を掛けると、由乃にしては珍しく「 あ、いや・・・ 」と口ごもり目を逸らす。
 何だろうと思い、乃梨子が何となく由乃を見つめていると、由乃は観念したように口を開いた。
「 いや、その・・・ アレよ。え〜と・・・ この間は菜々が酷いこと言ってごめんね 」
「 はあ・・・ 」
 正直、乃梨子もあの日はだいぶ動揺していたので、実は菜々の言った「酷いこと」というのが良く思い出せなかった。
 なんでとらを手放したのか問い詰められたような気もするが、はっきり言って、今の由乃のセリフを聞くまで忘れていた程度のことだ。
( 何だろう? そろそろ私にあの日のことを話しても大丈夫そうだとか思ったのかな )
 由乃は今までずっと気にしていたのだろうかと思い、乃梨子は「大丈夫です。もう気にしてませんから」とだけ答えた。
「 そ、そう? 良かった。あはははは・・・ 」
 そう言って、乾いた笑いを見せる由乃。
 もしかして菜々も気にしているのだろうかと思い、乃梨子はふと流しの方へ目を向ける。
( あれ? )
一瞬、菜々が由乃をにらんでいるように見えた。
( ・・・もしかして自分で謝りたかったのかな? 由乃さまに先に言われたのが気に入らなかったとか )
 菜々が普段どおり飄々とした顔でお茶を配り始めたので、その真意は解からなかったが、黄薔薇姉妹は揃って乃梨子を気遣ってくれていたのだと乃梨子は思うことにした。
( いや、黄薔薇姉妹だけじゃなく、祐巳さまや志摩子さんもそうだ )
 乃梨子は気付く。あの日以来、薔薇の館でとらの名を口にした者はいない。
 やはり皆、乃梨子の傷がまだ癒えていないと思っていたからだろう。
( 甘やかされてるなぁ、私 )
 もう、とらのことでウジウジと悩むのは止めよう。たとえそれが、身を切り裂くように辛いことでも。
( 私はとらのことに結論を出した。薔薇の館の皆はそれを否定せずに、見守ってくれている )
 今更自分のしたことを後悔するのは、自分を見守ってくれる皆の気持ちを否定するようなことだ。
( こんなに暖かく見守られているのに、ひとりで悩んでいるなんて馬鹿みたいだな、私 )
 もう悩んでも仕方ないんだ。乃梨子はそんなことを思いながら、紅茶を一口啜った。
「 今日はもう、仕事は終わりにしようか 」
 カップを置いた祐巳の一言で、全員が緊張を解く。
 由乃や志摩子も祐巳の提案に異存は無いようで、それぞれに緊張を解き体をほぐし始める。
 それから、皆で雑談などしながら菜々の淹れてくれたお茶を楽しんだ後、それぞれ帰宅の途についたのだった。






 夕暮れ刻の帰り道。乃梨子は灰色のまま光を失いつつある空を見上げながら、志摩子とふたり銀杏並木を歩いていた。
 ここを歩いていれば、嫌でも桜の樹が目に入る。
 あの日、泣きじゃくるとらを残して自分は逃げ出した、あの桜の樹が。
( ・・・とらは、誰かの妹になるのかな )
 先程、薔薇の館の皆に見守られていたことに気付いた乃梨子は、少しだけ冷静にとらのことを想えるようになっていた。
( それはそれで、とらにとっては良いことなのかも )
 とらがとらのまま、誰かの妹としてリリアンで暮らせるならば、それは彼女にとって幸せなことなのかも知れない。
( 少なくとも、私と姉妹になるよりは )
 乃梨子は改めて考える。
 先程、自分を気遣う皆の顔を見ていて思ったのだが、自分の妹になるということは、自動的に薔薇の館の住人になるということでもある。
 そうなれば、とらの起こす問題は直接薔薇の館の問題にもなる。
 とらが何か問題を起こせば、それはそのまま他の皆の評判まで落とすことになりかねない。
( そうだ。もし私と姉妹になるとすれば、この先もとらにおとなしくしてもらうしか無かったんだな )
 それが、とらに無理を強いることになっても。
 それが、とらを変えてしまうことになっても。
 可南子の言った「ロザリオの鎖で縛る」という言葉の意味を改めて思い知り、乃梨子は自分の首に掛かるロザリオに、今までに無い重さを感じていた。
( 私、自分のことしか考えてなかったんだなぁ・・・ )
 とらがリリアンに残れるように、乃梨子はとらを厳しく躾けた。
 でもそれは、自分がとらを失いたくなかったからに過ぎないと、今の乃梨子は思う。
( 私の妹になるということ。それは、白薔薇の蕾の妹になることでもあったのに・・・ )
 とらがリリアンに残れることしか考えていなかった。
 それがその先、薔薇の館の住人達に迷惑をかけるかも知れないなんて、考えもしなかった。
( とら・・・ )
 乃梨子は、あの日以来初めて、銀杏並木に1本だけ生える桜の樹を見つめた。
( 誰の妹になっても良い。貴方が幸せになってくれるのなら、それで良いよ )
 あの子を傷つけた自分だけど、せめてあの子の幸せを祈ろう。
 乃梨子は目を閉じ、心の中で「 あの子が幸せになれますように 」と、マリア様に祈った。
「 乃梨子 」
 志摩子の呼ぶ声に、乃梨子は目を開く。
 すると、何時の間にか自分を見つめていた志摩子の真剣な眼差しに気付く。
 妹を思いやる、真剣な姉の眼差しに。
「 何? 志摩子さん 」
 志摩子の目に何か決意に似た色を見た乃梨子は、志摩子に問い返す。
「 ・・・本当に、このままで良いの? 」
 それは、あの雨の日から、志摩子が問いたかったこと。
 恐らくは、乃梨子を傷つけることが怖くて、今まで問うことができなかったであろうこと。
 乃梨子はそれに、志摩子の目を見て答えた。
「 もう、決めたことだから 」
「 ・・・後悔、しない? 」
「 あの子を・・・ あの子の笑顔を、変えてしまいたくないから 」
 乃梨子の目に浮かぶ悲壮な決意に、志摩子は俯く。
「 ・・・嘘つき 」
 そう呟く志摩子の表情は、良く見えなかった。
「 志摩子さん? 」
「 私も・・・ 同じだった 」
 俯いたまま、志摩子は語り出した。
「 私も怖かったのよ。ロザリオを渡してしまえば、その鎖で貴方を縛りつけてしまうような気がして 」
 自分が思っていたことが、そのまま志摩子の口から出たことに、驚く乃梨子。
 去年の春、志摩子にまだロザリオを渡す時期ではないと言われたあの日、まさか志摩子がそんなことを思っていたなんて、乃梨子は知らなかった。
「 大切な貴方が、リリアンという檻に囚われてしまうのが怖かった。私を“志摩子さん”と呼んでくれる貴方を、変えてしまうのが怖かった 」
 同じだ。私と志摩子さんは同じだ。
 乃梨子は唖然としながら志摩子の告白を聞いた。
「 だから、貴方が“ロザリオなんて只の飾りだ”って言ってくれた時、心がとても軽くなった。そして、凄く嬉しかった 」
 志摩子は顔を上げ、再び乃梨子を見つめる。
「 私は、リリアンに染まらない貴方に救われたの。だから、もう一度聞くわ 」
 志摩子は再び顔を上げ、乃梨子を見つめた。
「 本当に、このままで良いの? 」
 志摩子の問いに、乃梨子は即答できなかった。
 志摩子が自分と同じ悩みを抱えていたこと。それは、乃梨子の心に、「 志摩子さんがそんなことで悩んでいたなんて 」という大きな驚きと、「 志摩子さんも、私と同じことで悩んでいたのか 」という小さな喜びを与えていた。
 でも。
 乃梨子は考えてしまう。
 とらがとらのまま、リリアンに染まらないでいるということ。
 そして、そんなとらを自分が妹にするということ。
 それはやはり、薔薇の館の住人達に迷惑を掛けてしまう可能性につながるかも知れないと。
 器用に周りに合わせることのできた自分が、そのままの自分で志摩子の妹になったこととは少し状況が違うと。
( とらがとらのまま私の妹になる。もしそうなれば、それはとても素敵なことだけど・・・ )
 通り過ぎてしまった桜の樹を振り返り、乃梨子は思い出す。あの日、寂しげに桜の樹にもたれ掛かっていたとらの横顔を。
 もう、あんな悲しい顔はさせたくない。
 でも、かつての笑顔のままで妹にすることもできない。
「 ・・・きっと、こうするしか無かったの 」
 桜を見つめたまま、諦めるように呟く乃梨子。
「 とらがありのままの姿で私の妹になれるのなら、そんなに嬉しいことは無いよ。だけど、そんなことをしたらきっと、何時か志摩子さん達にまで迷惑が掛かる。私はそれが耐えられない 」
「 乃梨子。私は・・・ いえ、“私達”はとらちゃんを見捨てたりしないわ 」
「 そんなことをしたら、薔薇の館の皆までとらと同じようにリリアンから目を付けられちゃうよ・・・ だって、山百合会は学園を導く存在だよ? その山百合会に問題があるなんて学園側から思われてしまったら、最悪、生徒の自治を重んじるっていう今の山百合会の体制そのものまで変えられてしまうかも知れない。 そうなったら、卒業していった人達にまで迷惑が掛かるよ 」
 乃梨子の顔には、諦めの色が浮かんでいた。
「 だから、とらが私以外の誰かの妹になって、それで幸せにリリアンで暮らせるのなら、私はそれを受け入れようと思うの。山百合会のように目立つ場所以外なら、あの子も無理に自分を変えなくとも、リリアンで暮らしていくことができるだろうから。 」
 大切なモノを諦めてしまった乃梨子のセリフに、志摩子はもう一つの可能性を突きつける。
 乃梨子が自分でも気付かないうちに目を逸らしている、もう一つの可能性を。
「 乃梨子。もしとらちゃんが誰かの妹になっても、貴方がとらちゃんと見知らぬ誰かの幸せを願うというのなら、それでも良いわ。でも、それすらも叶わなかったら? 」
「 え? 」
 それは、志摩子も考えたくなかった未来。
 それでも、乃梨子の考えを変えられるならばと、あえて志摩子が口にする未来。
「 とらちゃんが退学処分になってしまっても・・・ あの子がリリアンから消えてしまっても、乃梨子はそれでも良いと言うの? 」
「 ・・・・・・・・・・・・ 」
「 守ってくれる人がいれば良い。でも、それすらも叶わなかった時。あの子がたったひとりで道に迷い、進むべき道を閉ざされたとしたら、貴方は本当にそれを見ているだけで良いの? 」
 志摩子の問いに、乃梨子の顔が見る間に青ざめる。
 志摩子の言う可能性が、怖かったから?
 それとも、悲しかったから?
 いや、どちらも違った。
 ほんの少し、嬉しいと思ってしまったから。
 とらのいない未来に、一瞬とは言えどこかほっとしてしまった自分に、吐き気がしたから。
( 最低だ・・・ 私、最低だ!! )
 自分のモノにならないならば、いっそ消えてしまえば良いという刹那的な想い。
 誰かの手に渡るくらいならば、いっそ壊れてしまえという暴力的な黒い感情。
( あの子の不幸を喜ぶなんて・・・ 私って奴は! )
 とらの退学。それは、祐巳にとらのお目付け役を打診された時から、常に心の中にあったこと。
 ただ、もしそうなった時、自分はそれをどう感じるのか。
 乃梨子は、今まで自分がそのことから目を逸らしていたことに気づいた。
 最初は、とらを失いたくなかったから、そんな未来そのものから目を逸らしていた。
 だが今は、「 誰かに奪われるくらいならいっそ・・・ 」という黒い感情に向き合いたくなくて、自分の心から目を逸らしていた。
( 最低だ! 最悪だ! 何があの子の幸せのためならだ!! )
 指先が白く染まるほど拳を握り締め、乃梨子は否応無しに向かい合っていた。
 大切なはずの人の未来に、自分以外の誰かとの幸せを認めない醜い自分と。
 愛しいはずの人の明日に、破滅を望む心の闇と。
 志摩子は、微かに震えだした乃梨子を見かねて声を掛けた。
「 乃梨子、大丈夫? 顔色が真っ青よ? 」
「 ・・・・・・・・・ごめん、志摩子さん。ひとりにして 」
 やっとのことで、それだけを口に出すと、乃梨子は校門へ向かって歩き出した。
 今立ち止まってしまえば、意味も無く叫び出してしまいそうだった。
「 乃梨子! 」
「 ほっといて!! 」
 志摩子の呼びかけにそう叫び返し、乃梨子は走り出す。
 今の自分はきっと、酷く醜悪で残酷な顔をしている。乃梨子はそんな顔を志摩子に見られることに耐えられなかった。
 何があの子に無理をさせたくないだ。何が輝きを失わせたくないだ。こんな自分が「あの子が幸せになれば良い」なんて、よく言えたものだ。
 乃梨子は心の中で、とらのいない未来を一瞬とはいえ喜んだ自分に、ありとあらゆる罵声を浴びせていた。
 志摩子は走り去る乃梨子を追おうとしたが、乃梨子の背中に強い拒絶の意志を感じ、動くことができなかった。
「 どうしよう・・・ 私、どうすれば・・・・・・ 」
 志摩子の小さな呟きは、雨の気配を纏う風に流されていった。















 時の流れからも忘れ去られたような、古い温室。
 その中で、ふたりの少女が向かい合っていた。
「 瞳子さま・・・ 」
「 何? とらちゃん 」
 とらは瞳子の目を見ながら問い掛ける。
「 瞳子さまを信じてれば、大丈夫だよね? 」
 不安げなその声に、瞳子は優しく微笑みながら「 そうよ 」と答える。
「 貴方は何も心配しなくても良いのよ 」
「 ・・・うん 」
「 だから、私を信じて、全てまかせてちょうだい 」
「 うん 」
 瞳子の言葉に安心したのか、とらはやっと微笑みを浮かべる。
 瞳子は、そんなとらに問い掛ける。
「 私を信じてくれるのなら、きっとすべて上手くゆくわ 」
「 ホントに? 」
「 本当よ。だから、私を信じてくれるわね? 」
 瞳子の問いに、とらは笑顔でうなずく。
「 うん! 信じる! 」
 それは、とらがあの雨の日以来、久しぶりに見せた元気な笑顔だった。
 
 
 
 
 
 


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