※1:オリジナルキャラクター主体です。
※2:時間軸は無印「マリア様がみてる」に合っています。
※3:すみません……投稿作中自己最長を再び更新してしまいました……(^^;
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
私立リリアン女学園。
ここは、乙女たちの園――
事件は、他愛のないおしゃべりの中から始まった。
「結構、良かったわよ。オフィーリアの方はお美しかったし、レイアーティアーズ役の方も凛々しくて、本当に引き込まれてしまったもの」
「ふーん、そんなに言うなら私も行けば良かったかなぁ」
「ええ、きっと損をしたわよ。昨日限りで終わりですから、もう当分観られないわね」
ふふふと誇らしげに胸を張った友人、田辺 小春(たなべ こはる)さんの前で片肘をつく一之瀬 桃花(いちのせ ももか)は、もう一度ふうんと鼻を鳴らした。
HR前の一年菊組は、雑多な話し声や笑い声で溢れている。
特に学園祭も迫ってきた昨今は、演題や準備の話題で一層に騒がしい。
先生が来るまでの僅かな時間。
友達と楽しくおしゃべりするためにある、空白。
桃花は、その隙間をわざわざ李組から遊びに来る小春さんや、同級の友人と費やすことを日課にしていた。
「でも昨日はどうしても外せなかったんだよね。うーん、色々残念だ」
「あら、色々? ドラマの再放送は観られたのでしょう?」
「いや、それがね」
がっくりと肩を落として、桃花は言う。
「家に帰ったら菫(すみれ)さまがTVの前でどーんと陣取っててさ。何か推理ドラマのスペシャル番組観てた」
「あらあら」
口元に手を当ててくすくすと小春さんは笑う。
ふわふわのウェービィなロングヘアが揺れて、何とも優雅な笑い方だった。
「いや、私も一応は戦ったんだけどね……亀の甲より年の功ってやつ? 論戦は二秒くらいでK.O.されたよ」
使い方がおかしいわ、と笑いながら小春さん。
「お二方とも揃って委員会を休まれたからご一緒にドラマを観ているのかと思っていたけれど、違ったのね」
「うん。私と菫さまは観るジャンルが微妙に違うからね。時々は一緒にもなるけど、推理ドラマのラブ要素って何だか変なんだもん」
「そりゃあ……ラブ要素が主題ではないのだから、しようがないのではないの」
「だ、か、ら、観るドラマがズレてくるってことよ――あ」
丁度その時、教室後方の扉から見知ったおかっぱ頭が入ってくるのが見えた。
ちらっと時計を見る。
彼女が来るには少し遅い時間だ、寝坊でもしたんだろうか。
桃花はとりあえず、いつもの三人衆最後の一人に手を振った。
「ごきげんよーう」
「ごきげんよう」
合わせて小春さんも小さく会釈する。
けれども手を振られ、会釈をされた当の本人――秋山 茜(あきやま あかね)さんは、顔に蒼い縦線を引っ張ったかのように、どよんとした表情のままのそのそとやってくる。
「ごきげんよ……二人とも」
鞄ごと力なく上げた茜さんの左手がふらふらと揺れた。
桃花は思わず小春さんと顔を見合わせる。
茜さんはそのままよたよたと自分の机に向かい、鞄を掛ける。
そこで両手を机について、大きく一息。
手をついたときに、手元できらりと何かが光ったように見えた。
何だろう、ともう一度小春さんに無言で問うてみても、小春さんもやっぱり判らないようで首を小さく横に振る。
やがて茜さんは覚束ない足取りのまま、桃花たちのところまでやってきた。
「元気ないね。どうしたの?」
桃花がそう聞くと、茜さんは疲れたような笑みを見せてから、そっと握ったままの右手を上げる。
上げられた拳の中から、金色の鎖が地に向かって垂れ下がっていた。
ただの鎖じゃなかった。
小さな玉が幾つか並んで、合間に大きな玉がやっぱり幾つか挟まっている。
ペンダントトップは握られた拳の中。それでも、はみ出た鎖の意味する物体が判らない生徒はきっとカトリックの学校には居ないことだろう。
「まぁ、ロザリオ。茜さん、姉妹の契りをなさったの?」
目をまん丸に見開いて、小春さんが驚く。
勿論桃花だって驚いている。それはもう相当に驚いている。
これまで、何だかんだで姉なし三人を貫いてきた三人の内一人が、ついに誰とも知らないお姉さまに落とされたのだ。
しかも一番手が茜さん。
それが意外すぎて仕方がない。
仕方がない――が、きっとめでたいことには違いない。
「と――とりあえず、お、おめでとう?」
けれど頭の中身がまとまらなくて、思わず疑問形になってしまった。
「あ、ありがと?」
律儀に茜さんも疑問系で返してくる。
それでも茜さんの顔色は晴れない、それがゆっくりと桃花に理性を取り戻させた。
持ち上げられた拳にそっと手を添えて、覗き込むようにして問う。
「どうしたの、茜さん。嬉しくないの? 顔、おかしいよ?」
「っさいわね! 元からよ! ……って、そうじゃなくて」
無意識に地を出して突っ込んだ茜さんは左手を振り振り、大きく溜息を落とした。
「あーーっ。何で! 何でコレが今私の手の中にあるの! ねぇ桃花、おかしいわよね!」
「い、いや、私には何が何だか。おかしくは、ないんじゃないの? 茜さんが受け取った訳だし」
「そうよ! 私が受け取ったのよ! だからおかしいって言ってるんじゃないの、ねぇ小春、おかしいって言ってよ!」
「お、おかしい」
「何でよ! おかしくなんてわよ! 何よ小春、私とお、お姉さまを否定するの!」
「落ち着いて、落ち着いて茜さん。頭までおかしくなってどうするの」
「頭”まで”って言うなぁっ!」
うわあぁんと。
泣き真似までして暴れ始めた茜さんに、桃花は小春さんと顔を見合わせてくすくす笑った。
余程のことがあったんだろうと想像はつくけれど、ここまで容赦なく混乱してくれるとむしろ清々しい。
友人としてどうかと思うその感性は、でも小春さんにも存在してしまっているようで。
そちも悪よのう。
いえいえ、お代官様程では。
そんな無言のやり取りが通じる。
ロザリオを握る拳を机に叩きつけてくず折れる茜さんを、二人して笑っていた。
「落ち着いた?」
それからしばらくして。
泣き真似をしなくなった茜さんの頭を撫で撫でしながら小春さんがそう聞くと、俯いたままの茜さんはこっくりと頷いた。
「で、どうしたのよ。無条件に喜ぶ筈の姉妹の契り、それをこなしてやってきた割には一暴れした茜さんとしては何をどーしたいの」
桃花がそう言いながらくいくいと指触りの良い茜さんのおかっぱを引っ張ると、がばっと茜さんは顔を上げる。
するりと指先を抜ける髪の毛が、やっぱりすべすべだなぁなんて馬鹿なことを考えた。
顔色は相変わらず悪いけれど、自嘲染みた笑みも理不尽な怒りも浮かべていない無表情で茜さんは言う。
「ちょっと……考える。昼休みに、また」
そう言って立ち上がった茜さんに、桃花は思わず手を伸ばした。
「ちょっ! それ、生殺しなんだけど!」
「桃花さん」
それを小春さんが片手で制して首を横に振った。
そっとしておいてあげましょう、って言う目があんまりにも優しくて、桃花はそれ以上何も言えなくなってしまう。
自分の席に戻った茜さんは、机にがばっと伏せてそのまま動かなくなった。
でも腕の内側に入った右手を眺めている風なところを見ると、ロザリオを見ているんだろうと思う。
誰のだろう。
誰の妹に茜さんはなっちゃったんだろう。
何となく、そんな疑問が胸に渦巻く。
「いけない。そろそろ私も帰るわね」
「え、あ、うん。それじゃ、また昼に」
思い出したように小春さんが言ったので、桃花は調子を合わせた。
「ええ。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
小春さんが出て行った直後くらいに、HRの開始を伝えるベルが鳴った。
〜〜〜
桃花、小春さん、茜さんが三人揃って銀杏並木をゆく昼休み。
爽やかな秋の風が石畳の上を吹き抜ける。
でも、そんなちょっぴり冷たい風に乙女の喧騒は負けやしない。
いつの間にか元気を取り戻していた茜さんの朗らかな声が高い空に響いていた。
「そういえば、最近この辺りで良く白薔薇のつぼみをお見かけする気がするのだけど、気のせいかな?」
言いながらキョロキョロする茜さんに、うーんと顎に指を差す小春さんが答える。
「言われてみればそんな気がするわね。一昨日はこの辺りでお見かけしたし、さっきもちらっと見えたような気がするわ」
「そうなの? 私は全然気付かなかったなぁ、余り周りに気を配ってる余裕もないしさ」
そう言って顔をしかめる桃花の鼻を、潰れた銀杏のキツイ匂いが突いた。
白薔薇のつぼみともあろうお方が、こんな臭いの酷い場所に来られるとは余り思えない。
思ったままを桃花が言うと、茜さんはにんまりといやらしい笑みを浮かべた。
「ま、桃花は紅薔薇のつぼみ一筋だもんね。他色の薔薇さまに興味はないか」
「何よ、それ。まぁ、あんまり否定はしないけど……」
「素直でよろしい」
うんうんと頷く茜さんに、桃花は小さく肩を落とす。
紅薔薇のつぼみ。二年松組、小笠原 祥子さま。
長さは桃花と同じくらいな筈なのだけど、後ろで括っている桃花とは違って背中にそのまま流している髪は正に緑の黒髪で、凛とされたお顔が世界の誰よりも麗しいお方。
物腰は優雅で瀟洒で、でも畏敬の念を覚えるほどに厳しく強いお方。
桃花が最も憧れ、心酔するリリアン随一の”お姉さま”だ。
リリアン全土のお姉さまと言えば、更にその上、紅薔薇さまであられる水野 蓉子さまが上げられるけれど、桃花は紅薔薇のつぼみ派である。
文字通り馬のしっぽみたいな髪も、高等部に入れば切ろうと思っていたところを祥子さまの存在がためらわせた。
ほんのちょっとのお揃い。
毎朝、梳かすたびに幸せになれる長い髪を、桃花はとても気に入っている。
「ここらにしましょうか。出てくるのが遅かったから」
「そうだね。あんまり奥に行ってもね」
小春さんの提案に足を止めた桃花たちは、並木から少し入った街路樹の下にビニールシートを広げる。
中等部時代から続く、小春たちのお昼の定番は”外でピクニック気分のランチ”だった。
時事折々で場所を変えるけれど、大体季節ごとにお弁当を広げる場所は決まっている。
秋の中旬は並木から外れた銀杏林の中が定位置だった。
並木の辺りは臭いが酷いけれど、少し中に入れば意外と林の匂いの方が銀杏を打ち消してくれる。
自然の息吹も感じられて、時期によっては紅葉も楽しめて非常によろしいのだ。
三者思い思いに、三角形の形を象ってシートの上に座る。
お弁当包みを広げて、膝の上に。
各々が途中で買ったパックのお茶やコーヒーにストローを差す。
そうして全員がきっちりと準備を終えるのを待ってから。
「いただきましょうか」
小春さんの音頭に習って手を合わせる。
『いただきます』
もう、流石に四年目ともなれば完全に習慣である。
「でさ」
玉子焼きをお箸で掴んだまま、食事の合間に桃花は茜さんの方を向いた。
「そろそろ話してくれても良いんじゃないかな、って私は思ってるんだけど」
ウインナーを咀嚼していた茜さんはじっと桃花の方を見ていたけれど、ふっと視線を逸らして小春さんの方を向く。
小春さんはお箸をお弁当の上に重ねて、小さく頷いた。
もう一度桃花の方を見る。桃花は玉子焼きをお弁当に戻した。
そしてごっくん、と喉を鳴らして飲み込んだ茜さんはやがてぽつぽつと語り出した。
「今朝、なんだけど。正門のところで待ち伏せ食らっててさ。殆ど呼び出し同然で拉致られた」
「ああ、そう言えば皆さんお揃いだったわね」
「え、茜さん、小春さん、誰が? 誰か正門に居たっけ?」
「ええ、委員会の二年生お三方がね。少し見えづらい位置に居たから、桃花さんは気付かなかったのかも知れないわね」
委員会の二年生お三方。
小春さんの口から出る”委員会”の単語は、即ち桃花たち三人が所属している”図書委員会”で、二年生のお三方と言えば所属している二年生の全員を指す。
一人。天野 早苗(あまの さなえ)さま。
おっとりした性格の方で、左肩から前に通している一つに纏めた三つ網のお下げがトレードマークのお姉さま。
一人。平坂 紫苑(ひらさま しおん)さま。
早苗さまとは逆に快活な方で、下級生である桃花達にも親しく接してくださるショートカットの元気なお姉さま。
一人。一之瀬 菫(いちのせ すみれ)さま。
対照的な二人のまとめ役という立場が適切なしっかり者。切りそろえたボブカットと縁なしフレームの眼鏡が一層優等生っぽさを出しているお姉さま。
ちなみに菫さまは桃花の実姉だけど、学校では「菫さま」、家では「お姉ちゃん」と使い分けている。
「うーん? 私、別に菫さまから何も聞いてなかったけど……え、もしかしてその三人の誰かから貰ったの?」
だとすればお姉ちゃん、ちょっと薄情だ。
家で散々話す機会はあったのだから、ちらっと教えてくれたって良いのに。
茜さんはこっくりと頷いた。
「だとすれば、先ず菫さまは外れるわね。流石に小春さんが聞いていないということは当事者ではなさそう」
「あ、そっか……そういう考えもありか」
言われてみれば、確かにそうだ。
如何に親友が妹の親友に告白するとはいえ、それは結局お姉ちゃんも桃花も第三者でしかないということ。
みだりに口にして良いものではないのかもしれない。
「安心した?」
悪戯っぽく小春さんが桃花の方を向いて言う。
桃花はつーんとそっぽを向いて答えた。
「別に。菫さまが誰を妹にしたって私には関係ないもの」
そうだ。
折角高等部入学初日にお願いに行った可愛い妹をあっさり振る無慈悲な姉なんて、知らないのだ。
でも、だとすれば。
「それじゃあ茜さん、どっちなの? 早苗さま? 紫苑さま?」
「どっちだと思う?」
質問を質問で返して茜さんに、桃花は小春さんと目配せしあって。
そして、声を揃えた。
『紫苑さま』
「あぁーーっ」
茜さんはそして頭を抱える。
それが、二人の答えが正解だと教えてくれた。
「い、良いじゃないの。良かったわね、おめでとう。きっと茜さんと紫苑さまなら上手くいくよ」
「そうね。おめでとう、茜さん。お二人の相性はぴったりな筈よ」
口々に祝辞を述べても、頭を抱えた茜さんの表情は晴れない。
「何で……何でなのかな……っ」
うんうん呻く茜さんの気持ちがさっぱり判らず、桃花は小さく首を傾げる。
「ねえ、茜さん。もしかして、嫌だったの?」
「嫌なわけないじゃない!」
かと言って、ほんのちょっとでも否定に掛かろうとするとこれだ。
朝の台詞ではないが、何をどーしたいのだ、茜さん。
混乱を極める桃花に、小春さんはふっと思いついたように言った。
「もしかして。若菜(わかな)さまのことを言っているの?」
藤堂 若菜(とうどう わかな)さま。若菜さま、と言ってもリリアン女学生ではない。今は、だけど。
リリアンOG、桃花たちの職場にして娯楽場である図書館で司書兼事務員をなさっている方のことだ。
すらりと高い身長が格好良く、誰隔てなく優しく時に厳しく接してくれるので人気がある。
普通は藤堂先生、や藤堂さま、と呼ぶが、桃花や小春さん等図書委員会一同は親しみを込めて若菜さま、と呼んでいる。
茜さんは入会当初から一目惚れをし、隙あらば若菜さまの妹になれない現状を積極的に嘆いていた。
「私のお姉さまは……未来永劫、若ちゃんだけだった筈なのに……」
そういって項垂れる茜さんはちょっと可愛い。
心の底から悔しがったり、悲しんでいない辺りがまた。
若菜さまは図書委員会とも勿論交流が深いが、その中でも紫苑さまと茜さんだけは別格だった。
もっともお二人が若菜さまに付きまとっていると言うのが正しいけれど、その甲斐あってかお二人はリリアンでは有り得ない特有の呼び方で若菜さまを呼んでいる。
「おっかしいよ……あの時、ちゃんと私、断んなきゃいけなかったのに」
呟いて、茜さんは襟元からロザリオを取り出す。
後悔するような言葉とは裏腹に、それを見詰める茜さんたら頬を真っ赤にして瞳を潤ませてる。
「若菜さまへの憧れより、紫苑さまへの愛が勝ったのね。美しいわ」
「愛っ!」
思わず素っ頓狂な声を上げた茜さんに小春さんがころころ笑う。
つられて笑いながら、桃花も言った。
「そう言うことでしょ、凄く嬉しそうだよ? 茜さん。おとなしく現実を受け入れなさいってー」
「ち、違うわ! 違うのよ、そうよ、お姉さまが「私の妹になったら今後も若ちゃんを若ちゃんと呼べる権利を進呈してしんぜよう」なんて言うから! そ、そう! そうなのよ!」
おかっぱを激しく揺らし、がーっとその場で立ち上がりかねない勢いで茜さんが猛る。
桃花は小春さんと揃ってどうどう、どうどう、とどうにか押さえた。
「わかった、わかった。とにかく、改めて言うけどおめでとう茜さん。末永く、仲良くね」
「おめでとうございます、茜さん。私達はあなたのお友達として、そして委員会の仲間として。お二人のお幸せをお祈りしますわ」
真顔で桃花たちがそう言うと、茜さんは耳まで真っ赤にして。
小さく、「あ、ありがと」と言った。
それから再開した昼食は、時折茜さんに茶々を入れながらのそれは楽しいものだった。
〜〜〜
その日の、晩。
晩御飯を食べ終えたあと、仕事があるからとお父さんが自室に引っ込んでしまうと、機もせずお姉ちゃんと二人きりになることがあった。
お母さんの居るキッチンと今は空間的に繋がっているけれど、洗いものをしているから話し声はあまり聞こえないだろう。
TVからは点けっぱなしのドラマの音が延々流れてくる。
やがてCMに入って音が途切れた瞬間、桃花は思わず口を開いていた。
「お姉ちゃん。聞いて良い?」
「紫苑と茜ちゃんのこと? ……そうね、私に答えられることなら」
顔だけを桃花に向けたお姉ちゃんがにこりと笑う。
きらりと光る、家用の銀縁眼鏡。
我が姉ながらその笑顔は犯則だなぁと思いつつ、桃花は問うた。
「いつからだったの? 紫苑さま」
「そうね……私も相談されたのはつい最近だから、馴れ初めは何とも言えないわね。ただ、茜ちゃんはやっぱり若菜さま関係で別格視していたわ。随分前から」
「だよ、ね。なんとなーく、私達と茜さんの扱いは違うなぁって思ってた。何か、ぞんざいと言うか……そっけないと言うか」
「あの子、割と甘えん坊だからね。一定以上に気を許すと扱いが適当になるのよ」
くすくす笑うお姉ちゃんは、今回のことが自分のことみたいに嬉しそうで。
勿論、桃花もそれは同じだ。
茜さんのことは、今年に入ってもしかしたら一番嬉しかったことかも知れない。
「良かったよね。私嬉しいよ」
「私もよ。やっぱり、友達が幸せになることは自分が幸せになることと同じくらいに良いことだと思うわ」
「でもこれで、紫苑さまが一抜けだね」
妹なし二年生三人の中から。
「そして茜ちゃんが一抜けね」
姉なし一年生三人の中から。
言い合って、くすくす笑う。「でもね」とお姉ちゃんは続けた。
「もう一波乱、ありそうよ」
「え」
そう言って微笑んだお姉ちゃんは、やっぱり綺麗で格好良くて。
その言葉の意味を問い返すことを、桃花は忘れてしまったのだった。
〜〜〜
翌日の放課後。
学園祭が近づくにつれて慌しくなる図書館で、桃花たちは書籍整理に追われていた。
この時期の図書館は盛況で、各組の出し物に関する資料集めなどにやってくる生徒を案内したり、貸出返却の手続きでおおわらわである。
そうでない時期は、常連さんが時折やってきたり外部受験のお姉さま方が一角を陣取ったりはするものの、基本的に閑散としているので、委員会の人数は図書館の規模を考えるとかなり少ない。
臨時のヘルプを頼みたくもなるが、それぞれ忙しいからこそ図書館で調べものにやってきたりするので、それも中々叶わなかった。
図書委員会一年目の桃花たちは、おろおろしながらも早苗さまやお姉ちゃんの指示に従って雑務をこなすのが手一杯。
宵闇も押し迫って大方の人も捌け、閉館を告げる館内アナウンスが流れる頃にはもうクタクタだった。
今日は紫苑さまと茜さんが”私用”で居ないので、一層だ。
もっとも、先日はお姉ちゃんと桃花が揃って休んでいるのだから、ギブアンドテイクというべきか。
茜さん達に文句を言うつもりはさらさらなかった。
それに何より新婚姉妹、イチャつきたいだけイチャつけば良い。
思いながら、読書用に設置されているテーブルセットの一席に座り、天井を仰ぐ。
眩しい照明が目に痛かった。
「お疲れ様、桃花ちゃん」
ぴとっ。
「ひやぁっ」
不意に頬に触れた温かい感触に桃花が飛び上がると、背後で「きゃっ」と悲鳴が上がった。
倒れかけた椅子のバランスをどうにか戻し、振り返る。
照明を見続けていた所為でチカチカする視界の中で、見覚えのある片おさげが揺れていた。
「あ、早苗さま。申し訳ありません、驚かせてしまって」
慌てて立ち上がって頭を下げると、早苗さまは「良いんですよ、私の方こそごめんなさいね」と仰って下さった。
顔を上げると、可愛らしく肩を縮込ませてしまっている早苗さまの両手には緑茶の紙パックが一つずつ。
その片一方を桃花に差し出しながら、早苗さまは仰った。
「はい、頑張った桃花ちゃんにご褒美よ。ミルクホールの紙パックで申し訳ないけれど」
「ありがとうございます。あ、どうぞ早苗さま。お座りになってください」
ここで紙パックを辞退したり、お財布を取り出したりするのは何よりも失礼に当たる。
お礼を言って受け取った桃花は、早苗さまの為に左隣の椅子を引いた。
ありがとう、と優しく微笑まれた早苗さまが座るのを待って、改めて席に着く。
一息つくと、受け取った温かいパックの感触がじんわりと掌に広がった。
本を運んだり、紙をひたすらめくったりして疲れていた指にはそれが何とも言えず気持ち良い。
流石は早苗さまというか、疲労の取り方を心得てらっしゃるなぁと感心しながらチューチューとお茶を吸う。
と。
「今日は紫苑ちゃんたちも居なかったしですし、ちょっと人も多かったですね。疲れたでしょう」
机の上に置いたお茶のパックを両手で持ったまま、早苗さまが問われる。
何とはなく。
何とはなく、二人っきりだなと桃花は悟った。
「はい。あ、でも辛くはないですよ。早苗さまも菫さまもフォローして下さってますので」
「そんなことはありませんよ。私達も手一杯だったから桃花ちゃん達の頑張りには助けられました。明日からも忙しいとは思うけれど、頑張りましょうね」
ね、と労って下さる早苗さまの笑顔に、桃花はほっと癒される。
けれども、どうしてこう、お姉ちゃんといい早苗さまといい一年生まれるのが早いだけでここまで大人びるのだろう。
一年経って同じ立場に自分が居られるとはとてもではないが思えない。
世の中は不平と欺瞞で満ちているよ、と激しく世の中の理不尽も感じた。
やがて早苗さまも紙パックにストローを差し、口元にそれを持ってゆかれる。
口に付ける前に、ふと呟かれた。
「ところで、桃花ちゃん。今でも祥子さんのこと、好き?」
「は、はいぃ?」
何だか突拍子もないことを聞かれたような気がしてヘンテコな声を上げてしまった桃花は、慌てて口を塞ぐ。
けれど、実際に突拍子もないことを聞かれた筈だ。正常な反応だと信じたい。
「いえ、夏の前くらいから結構紅薔薇のつぼみが、紅薔薇のつぼみが、って言っていたでしょう? 今でも変わってないのかしら、って。髪も、伸ばしていますしね」
言われて気付く、背もたれと背中で挟まれた長い髪の感触。
祥子さまへの想いの象徴。
そっと、背もたれから背中を離した。
「そう、ですね……変わっていないかと言われれば、変わっていると思います」
現在リリアンには、とある一大センセーションが巻き起こっている。
即ち、紅薔薇のつぼみたる小笠原 祥子さまと、妹候補として急浮上してきた子のお話。
何とかユミさんと言っただろうか。
同級の由乃さんが、そのことでクラスメイトに囲まれていたことをふと思い出す。
桃花はその輪に参加しなかった。
元より叶わぬ恋だったのだ。
いや、恋というよりも本当の意味での憧れ。
手を伸ばそうと考えることすらもしなかった。
「私は紅薔薇のつぼみに憧れていますし、大好きですけれど……何だか、それだけですね。渦中のユミさんのようにはなれません」
「それじゃあ、お姉さまは持たないの?」
いつもどこかのんびりされている早苗さまにしては極めて早く、桃花の台詞に重ねるようにして問われた。
何だか随分積極的な早苗さまに圧倒されつつ、桃花はチューチュー吸う緑茶のパックに視線を落とす。
「……わかりません。余り考えたことがないということもありますし……中等部の頃、私は菫さまの妹になるのだと信じて疑っていませんでしたから。振られましたけれどね」
たはは、と頭を掻きながら笑っても、早苗さまは真剣な眼差しでずっと桃花を見詰めてくるのみで。
バツが悪くなった桃花は手を下ろし、再び緑茶のパックに目を戻した。
何だろう、急に。
早苗さま、何かあったのかな。
まさか?
いやそれはないんじゃ。
一瞬の逡巡。
それらを取りまとめて具現化させた、きらりと光る金属質の物体が桃花の視界に入った。
目を剥く。
それは金色の鎖。
小さな玉が幾つか並んで、合間に大きな玉がやっぱり幾つか挟まっている。
そして外気に晒されているトップには聖イエズスさまの掛けられた十字架が慎ましく着いていた。
ロザリオ、だった。
「私ね、桃花ちゃん。あなたを私の妹にしたいと思っているの。いいえ、あなたに私の妹になって欲しいと願っています」
ロザリオに掛けられた細い早苗さまの指がついと動く。
少しだけ、十字架が桃花の方に寄っていた。
「祥子さんや菫ちゃんのことは知っています。それでも私は……あなたが好きなの。どう、かしら」
「な」
「な、ぜ、私を? 私……で、すか?」
突然の申し出に、日本語が上手く発せない。
桃花はひたすらに眼前のロザリオをじっと見て、それから目を逸らせずに、唇からストローを外すことも出来ない。
「そう。桃花ちゃん。あなた。私、天野 早苗は一之瀬 桃花をリリアンの妹(プティ・スール)に願っています」
言葉がない。
桃花の口には、頭には、言葉がない。
いきなりで、びっくりで、世界の全てが桃花から剥がれ落ちてしまったかのよう。
どうしよう。
何が起きているんだろう。
混乱を極めた桃花の頭にはそんな二つの疑問が点滅するように生まれては消え続けた。
完全に固まった桃花をじっと見ていた早苗さまは、やがて十字架を隠すようにそっと右手で覆った。
それで魔法が解けたように、桃花から全身の力が抜ける。
がくんと肩が落ち、緑茶のパックが漸く机に帰っていった。
「ごめんなさい。急でしたね」
そうしてそっと片お下げを揺らして早苗さまは立ち上がった。
右手には緑茶、左手にはロザリオを。
見上げる桃花に微笑んだ。
「でも私は諦めませんよ。まだ、お返事を聞いていませんから」
去ってゆく背中をじっと追う。
早苗さまは司書室から出てきたお姉ちゃんとすれ違い、そのまま図書館を出て行った。
桃花に気づいたお姉ちゃんが手を振りながらやってくる。
何故だか。
何故だか、桃花はお姉ちゃんの声と笑顔に。
少しだけ、泣いてしまったのだった。
〜〜〜
お姉ちゃんは、その日、夜になっても何も聞かなかった。
紫苑さまと茜ちゃんの時のこと、それに昨日の会話。
お姉ちゃんは知っていたはずだった。
そして、それがきっとあの図書館で起きたこともわかっていた筈だった。
でも、何も聞いてこなかった。
「帰ろ」とだけ言ってくれた。
そして私はお姉ちゃんに手を引かれて、図書館を後にし、帰路に着いた。
道中、ずっと早苗さまの言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
妹に願っています。
あなたが好きなの。
シンプルな言葉。
素直すぎる好意。
私はそれを――
「お姉ちゃん」
桃花は部屋の扉を小さくノックして、声を掛けた。
そろそろ深夜になろうかという時間。
洗い立てのパジャマは暖かく身を包んでくれている。
右脇にはベッドから引きずり出してきた愛用の枕。
立っているのはお姉ちゃんの部屋の前。
聞きたいことがあった。
聞いて欲しいことが、あった。
「お姉ちゃん。起きてる?」
返事は、でもない。
「お姉ちゃん……っ」
「起きてるわよ」
ぱちり。
部屋の電灯がつく音と一緒に、待ちわびたお姉ちゃんの声がした。
音を立てて部屋の扉が開く。眼鏡を外したパジャマ姿のお姉ちゃんがそこに居た。
桃花の手を引っ張って部屋の中に招き入れたお姉ちゃんは、桃花をベッドに座らせて自分もその隣に座った。
ぽふ、と桃花の枕がベッドに落ちる。
膝の上に肘を突いたお姉ちゃんは、小さな声で「どうしたの」と聞いた。
「お姉ちゃん……私」
「ん?」
「私……私……」
「どうしたの?」
「私……早苗さまに、早苗さまに」
「早苗が……どうしたの?」
「早苗さまに……妹に、なって欲しい、って言われた」
先んじることなく、ひたすらに言葉の先を促してくれたお姉ちゃんのお陰で、桃花はそれを口にすることが出来た。
早苗さまに、妹になって欲しいって言われた。
そう。そうなのだ。
いざ口に出すとその事実がぐっと胸に押し迫る。
生まれて初めて、言われた。
妹になって欲しい。
あなたが好き――と。
「そう。そうね。言われたわね」
「私、お姉ちゃん、どうしよう。どうしたら良いの? 私、妹、姉妹って」
お姉ちゃんの腕を掴んで、激しく揺さぶる。
眼差しは優しかったけれど、言葉はどこか突き放すようだったそれに、桃花は震え上がった。
わからない。
どうすれば良いのかなんてわからない。
その上でお姉ちゃんにも見捨てられたら、桃花はどうすれば良いのか。
そんな途方もない恐怖に押されて、桃花はお姉ちゃんに縋った。
「私、わからないよ」
「桃花」
「お姉ちゃん、私、わからないの。もう本当に、どうすれば良いのか」
「桃花」
「お、お姉ちゃん……」
お姉ちゃんの細い腕は、そんな桃花の握力にもしっかりと耐えていて。
自分の腕と然程変わらない筈の細さかくるその力強さが、徐々に桃花の心を落ち着かせていった。
お姉ちゃんはやがて、言った。
「最初に言っておくけれど……これは桃花と早苗の問題よ。私は部外者。それは良いわね」
じっと桃花の目を見て。
見返した桃花は、その言葉を噛み締めて、噛み締めて、噛み締めてから、頷いた。
これは桃花と早苗さまの問題。
答えを出して、行動を起こすのは桃花か早苗さまのどちらかだけなのだ。
今更ながらの、そんな事実を胸に刻む。
「桃花は、早苗のこと、好き?」
でも続いたお姉ちゃんの言葉は相当な剛速球。
胸のど真ん中に突っ込んできたストライクを、桃花には見逃すしか出来なかった。
「それが、”わからない”?」
くすりと笑ってお姉ちゃんは続けた。
桃花は早苗さまのことが好きかどうかが、わからない?
改めて投げ込まれた、今度はいく分見えやすい角度の打球。
数秒考えて、数秒だけしか考える必要はなくて、桃花は答えた。
「ううん。私、早苗さまのことは……好きよ。お優しいし、物腰も上品だし……」
「じゃあ、祥子さんと比べるとどう? どちらが好き?」
桃花は小さく首を横に振った。
「それ、早苗さまにも聞かれた……紅薔薇のつぼみは憧れてるし、大好きでお近づきになりたいけど……何か、違うの。好き? って聞かれると……答えづらい、かな」
「じゃあ、紫苑と比べましょうか。紫苑と早苗、どっちが好き?」
矢継ぎ早にお姉ちゃんからの質問は飛んでくる。
桃花は再度首を横に振った。
「選べないよ、そんなの。お二人とも好きだもの」
「それじゃあ、他に好きだったり憧れてたりしたりする上級生は居る? 令さんとか……そうね、三奈子さんも一部では人気があるみたいだけれど」
桃花は三度首を振る。
「上級生のお姉さま方と知り合う機会なんてそうないから。図書委員会の方々くらいよ」
「じゃあその図書委員会の中で一人を……いえ、止めましょう。本筋からずれるわね」
言いかけたことを途中でやめたお姉ちゃんは、桃花から顔を逸らした。
ずるい。
図書委員会の中で一人を選べと言われたら、言わせてくれたなら、桃花の出す答えなんて決まっているのに。
きっとお姉ちゃんはそれもわかって、止めたのだ。
改めて桃花に向き直って言う。
「じゃあ、早苗は一応、桃花の”お姉さま好きランキング”では最上位クラスに居る、と思って間違いないのかしら?」
……また、ずるい。
唇を小さく尖らせながらも、その曖昧な範囲指定をされた質問に桃花は頷いて答えた。
お姉さま好きランキングのトップ3は、間違いなく図書委員会の二年生だから。
「それなら、深く考える必要はないと思うわ」
お姉さまは言った。
「余り軽んじるのも問題だけれど、リリアンの姉妹制度は法律でも条例でもないわ。好きなお姉さまに従って、色々教わりながら学園生活を楽しむ。それが本流の筈よ、あなたが早苗を快く思っているのなら、しかも早苗の方から言ってくれているのだから、その筋から外れる道理がないんじゃない?」
桃花はそんなお姉ちゃんの顔をじっと見て。
お姉ちゃんの言葉を何度も反芻して。
でも、俯いた。
そうなのだろうか?
本当にそうなのだろうか?
早苗さまは桃花に向かって、はっきりと口に出して「あなたが好き」と仰って下さった。
とても嬉しいし、有り難いことだと思う。もったいないことだとも、思う。
でも。
その好意に値するだけの好意を、桃花は早苗さまに抱いているだろうか?
それが桃花の顔を俯かせていた。
桃花の足を絡め取っていた。
「好き、なんて気持ちはね」
そんな桃花の頭をそっと撫でながら、お姉ちゃんは言った。
「好きになった瞬間が完成じゃないの。それからもっと好きになっていったり、逆に嫌いになってしまったりする、とても儚いものなのよ。だから早苗が桃花に抱いている想いも、桃花が早苗に感じている気持ちも、いつかはどういう形にか変わってしまう」
撫でられ続ける桃花はじっとその言葉に耳を傾けていた。
今、とても大切なことを教わっている。
そんな確信があったから。
「それをどういう形に変えるかは当人達次第なの。好き合いたいと思うならお互いに、相手に自分を好きになってもらうように努力するべきだし、自分も相手を好きになるように努力しなければならない。逆は割愛ね、でもそれは尊い努力だと思うわ。人を好きになることに理由はないと言うけれど、そして実際にそうだと思うけれど。それはあくまで出発点。育てるも腐らすも、当人たち……いえ、本人次第なのよ」
桃花は顔を上げた。
優しいお姉ちゃんの顔がそこにあった。
「わかる?」
桃花の目からぽろっと涙が零れた。
お姉ちゃんの笑顔には桃花を泣かす不思議な力があるのかも知れない。
ぐいっとパジャマで瞼を拭った桃花はそんなことを考えて。
考えて、そして。
「うん」
と。
はっきり頷いた。
〜〜〜
翌日の放課後。
閉館アナウンスの流れる図書館にて。
再び桃花は早苗さまと対峙していた。
とはいえ、今度は偶然じゃない。
お姉ちゃんにお願いして紫苑さまと茜ちゃんを、そして小春さんには桃花から事情を話して少し席を外してもらっている。
だから、図書館には桃花と早苗さまの二人きりだ。
昨日と同じ席で、昨日とは違ってホットカフェオレのパックを並んで机に置いて。
窓の向こうで寒風に揺れる遠い銀杏並木を、揃って眺めている。
「外は寒そうですね。紫苑ちゃんたち、凍えていなければ良いけれど」
カフェオレを啜って、ほーう、と長い息を吐いた早苗さまが呟かれる。
正直桃花的にはそんなことはどうでも良い、それどころの騒ぎではないのだが、ここで無言を貫くわけにもいかない。
「そ、そそそっそうですね」
無理やりに出した言葉は思いっきりつんのめった。
あちゃあと思う反面、足もがくがくと震えているのがわかってどうしようもないことに気付く。
緊張している。
そりゃーもー相当に緊張していた。
早苗さまはそんなガチガチの桃花をしばらく横目で見られていたけれど、やがてくすくすと笑って仰った。
「そんなに緊張しないで。取って食べたりするわけじゃないのですし……結果はどうあれ、そんな風に畏まられると私としても哀しいです。ね? 落ち着いて」
そっと、早苗さまの指が桃花の髪の中を過ぎる。
それは本当にそっとで、しかも一回きりで、桃花に不必要に触れないようにされているのだとわかる仕草だった。
もろい壊れ物を慎重に扱われるかのよう。
そんな扱いは……なるほど、とても哀しいことだった。
寂しいことだった。
「早苗さま」
窓から視線を外した桃花が振り向く。
早苗さまはじっと桃花の目を見詰めておられた。
息を吸い、吐く。心は決まっていた。
「先日は、ありがとうございました。私。早苗さまから姉妹のお誘いを受けて……好きだと仰ってくださって。嬉しかったです。本当に嬉しかったです」
「でも、私はそんなお気持ちに応えることが出来るのかどうか、わかりませんでした。そんな資格があるのか……私には自信がなかったんです」
桃花は溜らず視線を落として、でもすぐに顔を上げた。
「早苗さま。私は、このリリアンで誰か一人だけ、誰でも良いから妹になれるのだとしたら。その方のロザリオを頂いて妹になれるのだとしたら」
「私は、菫さまを選ぶと思います。私にとって菫さまは信頼できる上級生で、大好きな先輩で、そして……私のお姉ちゃんですから。きっとそれは、いつになっても変わらないと思います。私が一之瀬 桃花である以上は、ずっと」
そこで言葉を切った。
一度に長く話して切れた息を整えるように、何度か深呼吸する。
最中で早苗さまは小さく「はい」とだけ、仰られた。
もう一度真正面から早苗さまを見る。
そのお顔を真っ直ぐに。
「早苗さま。もう一度だけ、お聞きしてよろしいでしょうか。もし、さっきの言葉を聞いた今でも私に同じことを仰っていただけるなら」
すると早苗さまは、静かにポケットからあのロザリオを出されて。
それを両手で恭しく持たれた。
そして。
「私、天野 早苗は一之瀬 桃花をリリアンの妹に願っています。今も変わらず。あなたが、好きだから」
仰った。
昨日と同じ言葉。
昨日と変わらぬ想いを。
嬉しかった。
幸せだと思った。
こんなにも想われて。
こんなにも好きでいてくれて。
信じられないくらい充足感が胸に満ちた。
「早苗さま。私は……私は……っ、幸せです。あなたに、早苗さまに、そう仰って頂けて。私は心から幸せです」
「早苗さま」
「早苗さま」
「私……私、一之瀬 桃花は、早苗さまの妹になりたいです。早苗さまをもっと好きになりたいです。だから」
「――姉妹のお申し出を、謹んでお受けいたします」
頭を垂れて宣言した桃花の首に、やがてちゃらりと金属質の輪が音を立てて掛けられた。
それはロザリオ。二人分の想いを乗せた姉妹の契り。
そっと抱いて下さった早苗さまの温もりに包まれて、桃花は泣いた。
早苗さまも泣いていた。
「ありがとう……ありがとうございます、桃花ちゃん」
「はい……いえ、ありがとうございます、早苗さま。ありがとうございます、お姉さま」
泣きながら抱き合う二人を、古ぼけた本たちが静かに見守ってくれていた。
〜〜〜
それからしばらく経って、学園祭を明日に控えた土曜日の午後を迎えた。
桃花、小春さん、茜さんの三人はいつものように銀杏並木で昼食を取っていた。
その間いろんなところでいろんな事件があったようだけれど、菊組の展示準備や図書館の雑務でドタバタと放課後を過ごしていた桃花たちには余り縁のない話ばかり。
途方もない疲労感だけがずっしりと両肩には乗っている。
が、それもこれからの午後と明日を乗り切れば終わりだと思えば、ヘコんでばかりも居られない。
「紅薔薇のつぼみの妹、やっぱりユミさんに決まったのかなぁ」
のんべんだらりとお弁当を突付きながら、そろそろ寒風が本当に肌寒くなってきた銀杏並木で、茜さんは言った。
「何か急に情報が流れてこなくなったと思ない? 山百合会の方で止めてるのか、新聞部がサボってるのかは知らないけどさ」
「言われてみれば、そうね。小春さんは何か最近聞いた?」
適当な相槌を打ちながら桃花が聞くと、小春さんは肩を竦めて首を振り振り。
状況は誰も同じらしい。
「だってさ」
里芋の煮っ転がしをお箸で掴んで、ぶんぶんと振りながら桃花が一言。
茜さんはふーん、と鼻でこれまた適当な相槌を打った。
「でも、桃花さんがご存じないのは意外ね。紅薔薇のつぼみ関係なら私達の中では第一人者ですのに」
「あー、ダメダメ」
セミロングを揺らしながら可愛らしく小首を傾げた小春さんに、茜さんはお箸を持ったままの左手を振り振り。
さっき自分のしたことと余り変わらないけれど、傍から見るとはしたないなぁなんて思う。
うん。気をつけよう。
「桃花は現在どっぷりお姉さまっ子だから。紅薔薇のつぼみアンテナは余り動いてないんだよ」
「どっぷりって訳じゃないわよ。単に最近は忙しいだけ」
「へーへー」
まともに取り合う気もない茜さんにぶぅと頬を膨らませるものの、強くは否定できない桃花が居た。
正直なところ、桃花は早苗さまとのことで頭はかなりいっぱいだったから。
元から好きな方だし、好いてくださっている方だから、単に今まで通り過ごす分には大した違いはない。せいぜい呼び方が変わったくらいだ。
でも桃花はもっと早苗さまを好きになりたいと思っているから。
もっともっと早苗さまに好きになって欲しいと思っているから。
早苗さまとの時間を増やすことに尽力したり、早苗さまのことを密かにリサーチしたり、色々することは大事なのだ。
勿論、図書委員会の活動でも少しでも早苗さまのお役に立ちたいし――って、あ。
「そうよ、こんなところでのんびりしてる暇はないわ。そろそろ急ごう、お姉さま方きっともう来られてるわよ」
慌しくお弁当の残りを掻き込み、荷物を纏める。
茜さんも小春さんも苦笑していたけど、習ってお弁当を片付けてくれた。
秋の風は涼しくて、走る桃花達の髪を優しく梳いてくれる。
制服の中で静かに主張するロザリオの重みがとてもとても心地よい。
桃花と早苗さまの物語は始まったばかりだ。
そう自覚することはとても幸せで。とても誇らしくて。
桃花は喜色満面にプリーツを乱して銀杏並木を疾走した。
お姉さまの待つ、図書館まで。