※1:オリジナルキャラクター主体です。
※2:時間軸は「ロサ・カニーナ」に合っています。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
私立リリアン女学園。
ここは、乙女たちの園――
リリアンにおいて”次期生徒会役員選挙”というイベントが意味することは、恐らく他の学校のそれとは大きく違っているだろう。
役員候補が立候補をして、選挙活動をして、演説をして、投票を受け、信任される。
流れ自体は同じでも、姉妹に代表されるリリアンの特徴的な制度がそれを少しばかり変質させているからだ。
リリアンの生徒会長は、それぞれ紅薔薇さま、白薔薇さま、黄薔薇さまと称される三人が担っている。
そして彼女らの妹は各薔薇の”つぼみ”と称され、生徒会長たる姉の傍で公務や雑務を補佐する、いわゆる副会長的立場にいた。
加えて、つぼみという言葉が意味するように、彼女らはほぼ例外なく次年度の生徒会役員候補として立候補することになる。
生徒会長という、これ以上ないほど立派な姉に導かれた三人のつぼみたち。
それはほとんどそれだけで、次期生徒会長として認められるに十分な実績を持っているといえるだろう。
立候補するのはそんな輝かしいまでの実績を持った薔薇のつぼみ、数もぴったり三人で。
だから通常、リリアンでいう”次期生徒会役員選挙”は選抜選挙ではなく、事実上の信任選挙に当たる。
三人のつぼみが次代の薔薇さまとして信任され、翌年はその妹、すなわちつぼみがやがて薔薇さまとなる慣習。
やや封建的な世襲といえるかもしれないそんな伝統は、だが、リリアンの特徴をとてもあらわしている。
だから通常、毎年一月の末頃に行われる生徒会役員選挙とはそんな儀礼的な行事だった。
そう。
通常、なら。
〜〜〜
図書委員会の朝は早い。
もちろん先生方よりも早いということは流石にないけれど、それでも運動部の朝練と同じくらいの時間に登校しなければならないことは良くある。
前日の清掃の時に片付けていた椅子を並べたり、図書館のぶ厚いカーテンをすべて開けるなど、委員会の朝当番に課せられた仕事が待っているからだ。
そんな訳で、定期的に回ってくる朝当番の仕事を現在こなしているのは一年菊組の一之瀬 桃花(いちのせ ももか)。
長いポニーテールを大きく揺らしながら、二階のカーテンを慣れた手つきで開けていく。
カシャッ。
そんな、カーテンレールが擦れる音が桃花は好きだった。
気持ちが晴れる、というとまるで常日頃から落ち込んでいるようだけれど、朝の図書館でカーテンを引くと一気に気持ちが上向きになるのは本当だった。
特に晴れの日は良い。
風が吹き込んでくるので窓を開けることはなくても、ガラスを通じてさんさんとお日様の光が差し込んでくる様は爽快の一言。
一晩を暗闇で過ごした図書館の中は、古書が多いせいもあって毎朝のようにどこか篭った空気で満ちていた。
それを一気に振り払うような光は、カーテンを開けた窓から順番に内側へと注がれる。
電灯ではない自然の明かりは、やはりそれだけで不思議な力があるのだろうと感じさせられる瞬間だ。
図書委員会のメンバー、本が大好きで朝から入り浸っている図書委員、あるいは勉強熱心で朝早くから図書館につめている生徒。
そんな限られた面子だけが知っている、図書館のカーテンが順に開けられていく様は、格調高いリリアンでも際立っていると桃花は信じている。
「うーん、今日も良いお天気」
都合三つ目のカーテンを開け終えた桃花は、降り注ぐガラス越しの太陽を浴びてぐっと伸びをした。
新年を迎えて気候は寒くなる一方だけど、その分、屋内で感じるお日様の温もりは、より気持ちよくなっている。
見上げた空は正に冬晴れ、真っ青に澄み切っていた。
流れていく雲はものすごいスピード、上空の風は相当に強いのだろう。
もっとも、窓ガラスの向こう側からそれを見上げる桃花に風はもちろん届かない。
目を細めながら、朝の冷気がじんわりと温まってゆくのを感じるだけだ。
自然と桃花の頬が緩んでいく。
さて、光を一杯に浴びて光合成完了。
よしと呟いた桃花は続けて隣のカーテンへと向かう。
過ぎるほどに静かな朝の図書館に、桃花の立てるぱたぱたという足音が響いていた。
ちなみに、図書館で現在動く影は四つある。
一つは当然、現在進行形で窓辺を走り回っている桃花のものだ。
そして一つは、桃花の走るテラスのちょうど真下辺りで机を拭かれている委員会二年生のもの。
天野 早苗(あまの さなえ)さま、桃花のお姉さまだ。
台ふきんで机を拭くという単純作業にも関わらず、きゅっきゅと丁寧に手際よく拭かれてゆく様は一言で優雅。
ぴんと伸ばした指先やゆったりとした所作はもちろん、左肩から前に通している片お下げが机に触れないように、かき上げるようにして首の辺りで押さえる仕草までもが品を感じさせる。
カーテン開けに走り回っている桃花が何故そんなことを知っているかといえば、時々階下を見下ろしてはその雅な仕草にうっとりしているからだ。
一之瀬 桃花十六歳、お姉さま大好き症は依然かげりなく進行中である。
三つ目の影。椅子の配置を手早く整えていくのは桃花と同じ一年生であり、一年藤組の図書委員である二神 揚羽(ふたがみ あげは)さん。
肩をちょっと越えたくらいのロングヘアを二房の三つ編みにしている、見た目典型的な文学少女の一人だ。
ただしそれはあくまでも見た目だけの話。
揚羽さん実はかなり気の強い性格で、桃花を含めて友達と衝突することも多々あった。
もっともそれを含めての揚羽さんなので、桃花もそれが嫌いだというわけでは決してない。
苦手では、まぁあるかもしれないけれど。
ちなみに揚羽さんをはじめ各クラスの図書委員は、別に朝当番が割り振られているからここに来ているというわけではない。
お世話になっている図書館と委員会への、いわばボランティアで手伝ってくれているのだ。
元々万年人手不足である図書委員会からしてみれば、本当にありがたいことである。
最後の影。揚羽さんと一緒に椅子を並べているのは二年藤組の図書委員。蟹名 静さま。
でもそんな肩書きよりも、”合唱部の歌姫”と称した方が話はよっぽど早いだろう。
リリアンきっての美声を誇り、静さまの歌われる聖歌は聴く者の心を激しく揺さぶる、または凪いだ水面のように静めてしまうことで有名だ。
聖堂での合唱を除いては桃花も数えるほどしか聞いたことはないけれど、すごい、と激しくシンプルに感動したことをよく覚えている。
自分のボキャブラリーの無さに情けなくなるけれども、実際にそれ以外の感想が生まれなかったのだから仕方がない。
でも有名な絵画や芸術の前では人は言葉を失うというから、きっとそうなのだ。うん。
また静さまに関しては、最近ではそれに加えてもう一つの通り名ができている。
ロサ・カニーナ。
静さまの苗字である蟹名(カニナ)と山百合会幹部をあらわす各種薔薇の名にあやかって付けられたあだ名だ。
紅薔薇さまたちと肩を並べるあだ名だなんて、本来そんなことは恐れ多くてできないのだろうけれど、今回ばかりはちょっとした事情がある。
静さま、なんと次期生徒会役員選挙に立候補なさるらしいのだ。
文字通り次期薔薇さま方と肩を並べて、立会い演説会に出席する。
考えるだに強烈なプレッシャーだけど、現在桃花の眼下で揚羽さんと笑いながら椅子を並べられている仕草には、そんなことへの不安は全く感じられない。
とても自然、いつもどおり。
カーテンを開けながら、ちらちらと静さまを見下ろす桃花はふむと小さく首を傾げた。
ご立派というか、肝が据わっているというか。
先の冬休みで長かった髪をばっさり切られてから、静さまはどこか変わられたような気がする。
でもそれはきっと良い方向への変化。
「いやあね、揚羽ちゃん」なんて聞こえてくる声の伸びがそれを桃花に信じさせた。
ロサ・カニーナ。
第四の、薔薇さま。
それは今の静さまにしっくりと来るような、でもやっぱりちょっぴりだけ違和感を残しているような、不思議なあだ名だった。
「お姉さま、こちらは完了しました」
「ありがとうございます、私の方もここで最後ですよ」
そんな報告と共に一階に戻って早苗さまと合流した桃花は、丁度拭かれている机の端っこの方で椅子に座って、ぎっと背もたれを鳴らした。
全力疾走していたわけではないけれど、広い図書館を回ってカーテンを開けていく作業は多分、朝当番の仕事の中では一番面倒なものだ。
前半はともかく、後半になると体力よりも気力が削がれていく。
桃花は好きでやっているので文句を言うつもりではないけれど、せめて一仕事終えた後にはゆっくりした時間が欲しいところ。
そこでこんな風に早苗さまをぼんやりと鑑賞しながら休めるのであれば、もう文句どころか逆に感謝したって良いくらいである。
程なく、全域を拭き終えた早苗さまが台ふきんを畳みながら桃花のところにやってきた。
時間を見れば、もう八時二十分を越えようかというところ。
朝拝の時間が迫っていた。
立ち上がりながら「お疲れさまです」と桃花が軽く頭を下げると、早苗さまはにっこり微笑んで「桃花もご苦労さまでした」と労ってくださった。
簡単なやり取りなのに、それだけで桃花は頑張ってよかったなって思う。
単純と笑わば笑え、お姉さま大好き症患者は伊達ではないのである。
「じゃあ、そろそろ片付けて教室に行きましょうか。静さんたちももう終わっているみたいですしね」
仰りながら歩き出した早苗さまの隣について、台ふきんと手を洗うためにお手洗いへ向かう。
振り返ると、早苗さまの言葉どおりカウンターの辺りで揚羽さんが暇そうに自分の三つ編みをくるくると指に巻きつけたり、ほどいたりしながら遊んでいた。
「あれ、静さまがいらっしゃらないですね。揚羽さんとご一緒だったように思いましたけれど」
「さっき閲覧室の方に行っていたから、多分そこだと思いますよ。確かどなたかが来られていましたから、確認に行ったんでしょう」
「え、誰か来てたんですか?」
それは意外だった。
朝早くから図書館に来る人が全くないわけではないけれど、今日は桃花が図書館を走り回っている間、特に人の出入りはなかったように思う。
ということは、その誰かさんは桃花が来るよりも先に図書館に来ており、それからずっと閲覧室にこもっているということだ。
ドタバタしていて気付かなかったというのも間抜けだけれど、別にテスト期間でもなんでもない時期に、そしてこんな早い時間から誰かが来ているなんて想像もしなかった。
「ええ、一年生のようでしたけれど。祥子さんの妹に似ていた気がします」
「祐巳さんですか? ふーん……どうしたんだろう」
考えたところでわかるはずもないけれど。
祐巳さん、紅薔薇のつぼみの妹が早朝の図書館に出向かないといけない用事なんて、あるのだろうか。
予想もできないそんな難題は、お手洗いにつくまでずっと桃花の頭の中でぐるぐると回っていた。
「ですから、そこは強く押すべきですよ。クラスの皆さんが仰ることもごもっともです」
「それはそうなのだけれど……もう、まさか揚羽さんからも発破をかけられるとは思わなかったわ」
桃花たちがお手洗いから戻ってくると、静さまと揚羽さんが出入り口傍の椅子に腰掛けて何やら熱い議論を交わしていた。
三つ編みを揺らし、肩を竦めたり首を振ったりのオーバーアクションで揚羽さんは言う。
「発破をかけるだなんて、そんなことはないですけれど。知名度はどうあっても負けているんですから、なりふりなんて構っていられません」
「わかった、わかった。考えておくから」
「静さまっ」
いや、熱い議論というよりは揚羽さんがヒートアップしていて、静さまがそれを宥めているという感じだろうか。
何やら揚羽さんの中でスイッチが入ってしまったらしい。
会話の内容から想像するに、静さまの立候補に関してのようだけれど……?
「お待たせしました」と早苗さまが割って入ると、二人は同時に対照的な顔を上げた。
静さまはやれやれ、という呆れ顔。
揚羽さんはそんな静さまにやれやれ、という呆れ顔。
「早苗さん、桃花さんからも言ってやってよ。揚羽さんたら選挙の公示もまだなのに、できることからやっていくべきだってもううるさいんだから」
「うるさいだなんて、失礼ですね。私は静さまのためを思って」
そんな静さまの苦笑に、ぶぅとふて腐れた揚羽さんは唇を尖らせた。
イケイケスイッチの入った揚羽さんが手に負えないのは、ここ一年近く付き合っている桃花も良く知るところである。
だから静さまの苦労も良くわかるけれど、「静さまのためを思って」なんて言われるとその気持ちを無下にするのもやっぱり悪い気がした。
それに元々色んな意味でほとんど部外者である桃花には、どっちのフォローをすることもできないのだ。
「まぁ、まぁ、落ち着いてよ揚羽さん。その話はまた後で、急がないと朝拝に遅れちゃうよ」
「桃花さん」
でも結局は静さま側についたと取られたのか、揚羽さんが不服そうにキッと睨んできた。
言葉を間違えたかなぁ、でも本当にそうだしと桃花は時計をちらちら。
くすりと笑って、早苗さまが仰った。
「さぁ、本当に遅れてしまいます。揚羽ちゃんもとりあえず、今は矛を収めて戻りましょう」
「そうしよう」と静さまが立ち上がられたので、話は事実上そこで打ち切られた。
でも。
揚羽さんの眉間に寄った皺は、図書館を出ても戻ることはなかった。
〜〜〜
そして、役員選挙の公示があった日の放課後。
揚羽さんは再び桃花たちの前に現れた。
「つまり、会を含めた図書委員の総意として静さんを応援しようと。そういうこと?」
交渉の場はいつもの図書館、その閲覧室。
席に着いたのは、図書委員代表として揚羽さん。委員会は三年生を除いた全員であり、本来居なければならないカウンターには現在代理で委員の方についてもらっている。
委員会一年生は、桃花、秋山 茜(あきやま あかね)さん、田辺 小春(たなべ こはる)さんの三人。
二年生は早苗さまと茜さんのお姉さまである平坂 紫苑(ひらさか しおん)さま、それに桃花の実姉である一之瀬 菫(いちのせ すみれ)さまで三人。
都合六人の委員会、揃い踏みだ。
先の、紫苑さまの確認に揚羽さんは「はい」と頷く。
「静さまと私たちは同じ図書委員という仲間です。部活もクラスも学年も違いますけれど、この一年間一緒にやってきた絆があります」
絆、という言葉を揚羽さんは強調した。
「助け合うのが当たり前、とまでは申しませんけれども……劣勢の静さまに助力させていただくことは、良いか悪いかの二元論でいくなら、良いことだと私は思っています」
「そりゃ良いか悪いかなんかで区切っちゃあ、良いことには違いないだろうけど。過ぎたおせっかいは悪にもなるんじゃないかな?」
紫苑さまが試すように仰ると、お姉ちゃんも「そうね」頷いて言う。
「確かに私たちは揚羽ちゃんの言うように仲間だけれど、勝手に動くことはどうかと思うわね。静さん、気を悪くしないかしら」
すると、胸を張って揚羽さんが答えた。
「それに関しては問題ありません。静さまに応援させていただきますとは申し上げてありますし、承諾もしてくださいました」
「どういう風に、揚羽ちゃんは静さんに言ったのかしら?」
「図書委員として静さまを応援させていただきます、と。委員の同志もその時点で何人か集まっておりましたので、図書委員としてという部分は強調させていただきました」
早苗さまの突っ込みにもよどみなく答える揚羽さん。
これは生半可な気持ちじゃないな、と桃花にも良くわかった。
続けて一年生の質疑応答。先鋒は早苗さまの後を継ぐ形で桃花がいった。
「静さまは、それで何て?」
「ありがとう、うちのクラスが”ああ”だからもう今更断ることはないわってね」
「静さんなら言いそうね。うーん、なるほど」
お姉ちゃんが天井を見上げてぽつりと漏らす。
眼鏡をキラリと輝かせて上向いた仕草は、何とはなく諦めの感情を感じさせた。
「で、その話をなんで私たちに持ち込んだわけ? 図書委員でやる、ってもう決めてるんでしょ? 人も居るんでしょ?」
茜さんがそう問うと、揚羽さんは「ええ、まぁ」と曖昧に答えた後、小さく首を横に振る。
言った。
「それでも、図書委員の集まりは結局図書委員の集まりなのよ。部やクラスなんかの集合よりも弱いし、何より満足な肩書きとはいえないわ。一人一人で応援しているのと然程変わらないの」
「だから私たち……”図書委員会推薦”というお墨付きが欲しい、ということですのね」
「小春さんは話が早いね、そういうこと。実際に応援を手伝ってくれるならそれがベストだけれど、そこまで無理を言うつもりはないわ。承認をしていただきたいの」
そして一息溜めてから。
「まぁ――私たちと同じように静さまとの絆を感じていただけるなら、委員会の皆様にもお力添えいただける、という期待は確かにありますけれども」
なんてことを、それまで話していた桃花たちから紫苑さまたちに視線を移して、言った。
沈黙が、降りる。
閲覧室とはいえ図書館の中、声のトーンは初めから落とし気味で、誰もが口を閉じると一気に辺りから音が消えた。
遠い校庭から静寂を突き抜けて届く、運動部の歓声が小さく鼓膜を振るわせる。
その静かな空気の中で、桃花は考えていた。
静さまとの絆を感じないわけではない。
揚羽さんの言うことはもっともで、同じ仲間として応援してあげられるなら応援したいと思う。
ただ選挙を応援するということは、例えば合唱コンクールとかの何か試験を応援するということとは違う。
選挙は戦いなのだ。
誰かが勝つためには、誰かが負けなければならない。
薔薇さまの色は三色だけ、すなわち生徒会長になれるのは三人だけだ。
静さまが勝つということは、現つぼみである小笠原 祥子さま、支倉 令さま、藤堂 志摩子さんの三人のうち誰かが涙を飲むということ。
今でこそお姉さま大好きっ子である桃花だが、昔は、そして今でも、紅薔薇のつぼみである祥子さまへの憧れは強い。
次代紅薔薇さまとして咲き誇るその麗しいお姿を想像するだけでも胸が高まる。
長く伸ばしている桃花のポニーテールも、元々は祥子さまの黒髪を真似たという露骨なファンの一人である。
だからもし、その蹴落とされる一人が祥子さまだったりした日には桃花は寝込んでしまうだろう。
もっとも蓉子さまの跡を継いで、純然たる薔薇として既に咲き始めている感もある祥子さまが負けることは先ずないだろうけれど――と思うのはファン心理だろうか。
ともかく、祥子さまが負けることは色々とマズい。嫌だ。
でも、じゃあ、令さまか志摩子さんが負けて良いのかといわれれば、それもまたちょっと違う。
桃花は祥子さまを良く知っている、祥子さまと令さまを知っている、祥子さまと志摩子さんを知っている。
今でこそ薔薇さまの影に隠れている感は否めないけれど、それでも次代の薔薇としてつぼみ同士の繋がりがちゃんとあるってことは知っている。
様々なイベントでそれぞれのお姉さまを補佐すると同時に協力し合って。
時に薔薇さまを伴って、時にお三人だけで、仲良く薔薇の館に向かっていたことを、桃花は知っている。
だから。
絆というのなら、祥子さまと令さまと志摩子さんの間にもそれはあるはずなのだ。
だからそれを否定することは桃花にはできない。
でもかといって、だから静さまを応援しないというのは……違うような、気もする。
わからない。
でも今のままであれば桃花は確実に祥子さま、令さま、志摩子さんに票を投じるだろう。
そんな気持ちで静さまの応援には回れない、静さまに対して失礼だ。
「委員会としては」
そんな中、沈黙を切り裂いて紫苑さまは口を開いた。
「どうだろうね。ごく個人的な意見を言わせてもらうと、面白いとは正直思うよ。揚羽ちゃんの言うとおり静さんは相当な劣勢だ、相手が悪すぎるからね」
ええ、と頷いたお姉ちゃんがその先を言う。
「一所懸命に手伝ってくれる静さんの力になってあげたいという気持ちは私にも確かにあるわ。それにこういう言い方をするとなんだけど、結果はどうあれ、リリアンや私たちの生活がそれで激変することはない。それなら後悔がないようにするのが一番だと思う」
「私たちは微力ですけれど、名前を貸すくらいなら問題ないかもしれませんね。揚羽ちゃん、確認させていただきますけれど、それに承諾をするイコール、静さんへの投票を強要するということではないのですよね?」
揚羽さんは一度眉を寄せたあと、でもしっかりと頷いた。
「はい、それはもちろんです。無理やりに投票していただいても仕方がないことですし、それこそ静さまに叱られます」
でも、と揚羽さんは続ける。
「できれば。形だけではない協力を、今とは言いません、いずれお願いしたいのも事実です。私たちを見ていただいて、静さまの演説を聞いていただいて、それで」
「揚羽さん」
言葉を遮って、桃花はその名を呼んだ。
委員会の総意として静さまの応援になろうとしている状況で、黙っていることはできなかった。
「揚羽さん、ごめん。私は、協力できない、と思う。委員会じゃないよ、私個人としてだよ」
す、と揚羽さんの目が細まるのがわかる。
煮えたぎる様な怒りが乗っていることもわかる。
今にも挫けてしまいそうだったけれど、それでも桃花は言い直すことはしなかった。
委員会の名を使って応援することは何の問題もない、でも、桃花は揚羽さんと同じ立場にはなれない。
きっと揚羽さん達を見ていても、どんなに素晴らしい演説を聞いたとしても。
桃花が祥子さま、令さま、志摩子さんの三人を選択する理由に、静さまが絡んでこないからだ。
「私は多分、最後まで、今のお三方しか選べないと思う」
ふん、と鼻息を荒げて揚羽さんは蔑むような目を桃花に向けた。
「そんなに静さまのことがお嫌いなの?」
「嫌いだなんて! そんなことあるわけないよ、揚羽さんの言うとおり同じ仲間だもの」
「そう、桃花さんはそんな上辺だけの”仲間”なんて言葉を使うのね。残念だわ」
「揚羽さん、ちょっと待った。その言い方はないんじゃない?」
一転してムードが険悪になったところに、茜さんが口を挟んだ。
揚羽さんはこれ見よがしに首を横に振って溜息まで吐く、二房のお下げがふるふると揺れた。
「協力する気はないけど仲間だ、って。そんなの上辺だけとしか思えないじゃないの」
「それとこれ、選挙の話は別じゃない。何をムキになってるのさ」
「別なんかじゃないわ、同じことよ。それにムキにもなるわ、私はね、茜さん。同志、仲間、ってとても大切なものだと思っているの」
茜さんをきっと見詰めた揚羽さんは続ける。
「私は一人っ子で、リリアンの姉妹もいないからかもしれないけれど。友達、仲間、その絆は何にも換えがたい尊いものだと信じているわ。私はその絆のために動くことを何よりも素晴らしいことだと思っている」
お姉ちゃんは眼鏡をくいと中指で押し上げて、揚羽さんを見やる。
紫苑さまは腕を組んで、早苗さまは少し座りなおして。
揚羽さんは机の上で拳を硬く握り締めていた。
「静さまが立候補なさるって聞いたときに、私は頑張ろうと思った。同じような仲間が委員に増えて私は本当に嬉しかった。当然だとも、ある部分では思っていたけれどね。だって私たちは仲間なのだから」
桃花さんは、と小さく呟いて。
繰り返した。
「桃花さんは、それを否定したのよ? 私の前で。仲間だけど協力はしない。仲間だけど、どうなっても知らない。そういったのでは、ないのかしら?」
睨まれた桃花の身体がびくりと強張る。
きつい目線だった。
厳しい言葉だった。
そんなことはない、と言えたら良かっただろうか。
でも言えなかった。
揚羽さんの視線に萎縮していたということもあるけれども、それよりも。
桃花は、揚羽さんの言うとおりのことを口にしたのだろうから。
だから桃花は何も言わずに、机に視線を逸らすしかできなかった。
「否定しないということは、そういうことなのでしょう。ほらごらんなさい、茜さん。桃花さんはそんな人なのよ」
「そんな強い口調では、言いよどんでしまうこともありますわ。言葉の綾ということもあります、ただ一言を取り上げて叩くのはどうかと」
「ただ一言! 小春さん、それはおかしいわ」
フォローに入ってくれた小春さんにも揚羽さんは容赦なく噛み付いていく。
本当なら早く、何か、桃花が何かを言うべきだったのだろうけれど、一度閉じてしまった口はまるで貝のように開いてはくれなかった。
「言い間違い、何気ない一言、それは確かにあるでしょうね。それで誰かを傷つけてしまうなんてことは中等部の道徳で習うわ、初等部かも知れないけど。でもそれなら、気付いた時に撤回して、謝罪すべきでしょう? それがないということは本人にその意思がないということよ。つまり、ふん、桃花さんにとって静さまが仲間でないのと同じように、私も仲間ではないということよ。桃花さんと図書委員との間に、絆なんて全くないということよ」
「揚羽さん、だからそういう言い方が」
「もっとも! そんな上辺だけの仲間なんて扱いは、私からも願い下げですけれども」
怒り心頭の揚羽さんはそう、はっきりと言って締め括った。
それはざくりと刺さった言葉のナイフ。
容赦のない、本音だけが持つ鋭利さで桃花の胸を抉った。
何か、言わなければならなかった。
撤回はともかく、揚羽さんを怒らせたのは間違いなく不用意な桃花の言葉だったのだから。
謝罪の言葉は必要だった、でもやっぱり桃花の口は開かず顔は上がらない。
顔向けができない。何と謝れば良いのかわからない。でも黙っていても事態は決して収束しない。
わかっているのに、桃花のせいなのに、言葉を捜して悶える自分が桃花は哀しいほどに情けなかった。
「やれやれ、上級生の前で喧嘩とは感心しないな」
そして紫苑さまが肩を竦めて間に入ると、睨みあっていた茜さんと揚羽さんが、同時に「あっ」と漏らして前のめりになっていた体勢を戻した。
それでまた七人の間に沈黙が戻ってくる。
でもその沈黙はさっきのそれとは全く違う、肌がひりつくように嫌なものだった。
「私情を挟むのは自分でもどうかと思うけれど」
今度はそう言ってお姉ちゃんが沈黙を破る。
「桃花の言葉が揚羽ちゃんの琴線に触れたのは確かなようね。ごめんなさい、揚羽ちゃん。桃花も。揚羽ちゃんに何か言うことがあるんじゃないの?」
そして話を振って、その場に居たほぼ全員の視線を桃花に集中させた。
突き刺さる視線とお姉ちゃんの言葉が桃花の喉から声を奪う。
お姉ちゃんだけが謝って、桃花が謝らないなんて道理はない。絶対にない。
謝らないといけない。
揚羽さん、ごめんなさい。言わなければならない。
でも、でもでも。
それを言ってしまって良いのだろうか?
妹が迷惑をかけてごめんなさい、という意味のお姉ちゃんの言葉と。
馬鹿なことを言ってごめんなさい、という桃花の言葉。
それは同じ言葉でも、きっと、すごく、意味の違うことではないだろうか?
でも、今ここで謝らないと、話は進まない。
委員会と揚羽さんたち図書委員との間に深い溝を生んでしまう。
いけない。
いけない。
それはわかっているのに、わかっているけど、でも。
「いいえ。桃花は謝る必要なんてありません」
――と。
そんな声が、桃花に集中していた視線を一斉に引き剥がした。
早苗さまだった。
「揚羽ちゃん、言いましたね。同志、仲間、絆、それはとても大切なものだと。何にも換えがたい尊いものだと」
怒っている。
静かに、けれどはっきりと怒っている。
桃花がこの声を聞くのは都合二度目だが、今回は何故だか優しく聞こえた。
場は緊張しているのに、桃花の身体に張り切っていた力が一気に抜ける。
大樹に寄り掛かった時のように、ひどく安心した。
桃花の顔が上がる、「お姉さま」と言葉が随分と久しぶりにその口から漏れる。
「私もそう思います。絆は大切なものですし、その絆を保つため、より強くするため、人は動くべきでしょう。そうすることはとても大切なことです。だから」
「撤回なさい。私の妹を侮辱した言葉を。私との絆を侮辱した言葉を、今、この場で、取り消しなさい」
「さ、早苗さま。私はそんな」
いきなりそんな怒りを叩き付けられた揚羽さんは、うろたえて口ごもった。
茜さんも小春さんも早苗さまの変貌に驚いて何も言えず、紫苑さまは「しまった」と言わんばかりに顔を顰められた。
お姉ちゃんだけはどこか冷静に、机に視線を落としたまま眼鏡を取った。
「私は私の絆を保つために、その尊厳を護るために動きます。あなたの言葉が真実であれば、私の行為を否定することはできないと思いますけれども、違いますか? 揚羽ちゃん。違いますか?」
早苗さまの糾弾は続く。
揚羽さんは返す言葉も見当たらないようで、視線を右往左往させながらそわそわと身体を揺すった。
「早苗、落ち着け。あんたがヒートアップしてどうするよ。ほら、菫も何か言えって」
「私が入ると尚更ややこしくなるわ。今やこれは早苗と桃花と揚羽ちゃんの問題でしょう」
「そ、そんな」
頼みの二年生からも見捨てられた感のある揚羽さんは縋るようにお姉ちゃん、紫苑さま、早苗さま、そしてもう一度紫苑さまに目をやる。
紫苑さまは痛そうに何度も頷いて仰った。
「この話は一旦やめよう。桃花ちゃんが悪い、揚羽ちゃんも悪い、早苗もかなり悪い。揚羽ちゃんゴメン、とりあえず今日はここまでだ。また後日ということで良いかな?」
「え、は、はい、しかし時間が」
「ああそうか。委員会の承認が得られるなら得られるで、得られないなら得られないで、それぞれ準備があるね。うーん」
早々に切り上げようとした紫苑さまはそこで数秒黙考したけれど、結局はすぐ隣のお姉ちゃんに問うた。
「菫はどう思う。端的に言ってくれ」
「どう見ても今の状態では無理でしょ。こんなごたごたしてちゃあね」
ざっくりとお姉ちゃんが切り捨てると、「だ、そうだ」と紫苑さまは改めて揚羽さんに向き直る。
「委員会は協力できないってことで持ち帰って。ただし、各々の話は別だから。私は後で行くよ、その時にまた」
「ごめんなさい、お姉さま」
揚羽さんが閲覧室を出た後、桃花は真っ先に早苗さまに頭を下げた。
揚羽さんを怒らせたのが桃花なら、早苗さまを怒らせたのも結局は桃花だから。
「あと、ありがとうございます。かばっていただいて」
そしてさっきの早苗さまの剣幕は余りにも心強くて、嬉しかった。
早苗さまは殆ど無条件で桃花をかばって下さったのだ。
明確な理由はなく、それこそ桃花と早苗さまとの絆のために、怒って下さったのだ。
なんていうお姉さまを持ったのだろう。
なんて、どれだけ、自分は愛されているのだろう。
そんな途方もない疑問は桃花を純粋に感動させた。
早苗さまは、下げた桃花の頭を優しく撫でながら仰った。
「いいえ、私の方こそでしゃばった真似をしてごめんなさいね。私も揚羽ちゃんのことは言えません」
顔を上げると、優しい掌の感触は頭頂部から頬に移る。
桃花はそれに浸りそうになる自分を戒め、目を開けて言った。
「私、静さまのこと好きです。頑張って欲しいと思います」
「わかっていますよ」
今なら言える。
早苗さまに撫でられている今なら、桃花は何だって言える。
そんな確信が桃花の口と胸を開かせた。
「でも、私、今のつぼみの方々も好きだから。あの三人から誰かが居なくなるなんて考えたくないから」
「だから応援したくない、いえ、応援したくてもできないのですね。そうですね、選挙で勝つということは誰かを蹴落とすということですから」
「はい……私は祥子さまに、令さまに、志摩子さんに、今まで通り薔薇の館に居て欲しいと思います。誰かが弾かれるなんて、そんなこと」
「優しい子ですね」
頬を滑る掌が、その言葉を最後にすっと離れる。
名残惜しい感覚がしたけれど、でもいつまでも撫でていてもらうわけにはいかない。
桃花はぐっとお腹に力を入れた。
「ところで、お姉さまの前で、お姉さまの目を見て、他の人が好きですって言うのはどうかと思うのですけれど」
くすくす笑いながら早苗さまが仰ると、桃花は慌てて言った。
「そんな、私はお姉さま一筋ですから!」
多分、凄く馬鹿なことを。
「で、あそこで二人の世界に入ってるのどーするよ?」
肩をがくーんと落として、紫苑は呆れたように息を吐く。
だがそうしたいのは菫も一緒で、その衝動に抗うことなく身を任せた。
抜けそうなほどに肩を落として、はぁぁぁっと溜息を落とす。
「どーするもこーするもないでしょ。ほっときましょう」
小春ちゃんは何だか娘を見る母親のように達観した表情を浮かべているし、茜ちゃんは桃花を見たり紫苑を見たりと忙しない。
今年度の一年は個性豊かで実に結構だ。
紫苑たちの代もお姉さま方から良く言われていたけれど、こうして一歩離れるとその言葉の意味が良くわかる。
歳を取ったのかなと思う。一年だけだけど。
歳は取った。時間は流れた。人が離れ、そしてくっついた。
元々異常に高かったはずの早苗の沸点が最近急下降していることは問題だけれど、そんな変化をもたらしたこの絆。
委員会内の、絆。
それは揚羽ちゃんの言葉を借りるなら、それはやはり大切で尊いものだと感じた。
だからこそ先ほどの早苗の激昂、ひいては揚羽ちゃんの憤り。
菫にもそれは窘めがたいものなのかもしれない。
けれど。
「私にあのノリを期待しないでよね」
「えうっ! そ、そんなことはっ」
とまぁ仲睦まじい姉妹漫才を繰り広げる二人もうっちゃって、今回のことでどこかに禍根が残らなければ良いけれど、と。
考えずには居られない己が世話焼き気質に、菫はもう一度溜息を吐いたのだった。
〜〜〜
その日の晩。
一之瀬家にて、随分と久しぶりな姉妹会議が開かれていた。
場所はお姉ちゃんの部屋。
桃花は甘めのココア、お姉ちゃんも今日は甘めのカフェオレをそれぞれのマグカップで用意している。
馴染みのクッションの座り心地は相変わらずの筈だけれど、姉妹会議となると緊張してしまう桃花のお尻にはいつもより硬く感じた。
姉妹会議(しまいかいぎ)。
リビングでテレビを観ながら適当に話すのではなくて、互いの部屋でベッドに寝転がりながら話すのでもなくて。
しっかりと向かい合って座って、途中で立つ必要がないように飲み物も用意して。トイレも先に行っておいて。
それで文字通り膝を突き合わせて話すという、年に一回か二回、徹底的に話さないといけないことができた時、お姉ちゃん主催で開かれる会議である。
「議題は、言わなくてもわかるわね」
家用の銀縁眼鏡をくいと指で押し上げ、お姉ちゃんが口火を切る。
桃花は頷いた。
「揚羽さんと私のこと、だよね」
「正確にはちょっと違うわね。もう少し視野を広げて」
割と自信たっぷりに言い切った桃花の答えをお姉ちゃんはやんわりと否定する。
視野を広げる。
視野を広げる?
うーんと悩んだ時、ふっと桃花の頭に放課後の出来事が思い出された。
あの時に感じたこと、揚羽さんと桃花という二人を言い換えた言葉、それは。
「図書委員会と、図書委員?」
そう、とお姉ちゃんは満足げに頷いた。
「元々各クラスの委員と委員会は密になっているわけじゃないけれど、だからって切っても良い関係というわけではないわ」
頷いた桃花はココアの入ったカップを両手で持って、ふーふーと息を吹きかける。
中途で言った。
「お手伝い、一杯してもらってるもんね。それに友達も多いよ。もちろん、揚羽さんも含めて」
「あら、そうなの?」
「うん。そりゃちょっとは苦手だけれど、揚羽さんのああズバズバ言えるところ凄いなって思うもん。仲直りしたいよ」
意外そうに眉を小さく上下させたお姉ちゃんがカフェオレを一口啜る。
桃花も真似をしてココアに口をつけたけれど、まだまだ熱くてとてもじゃないけれど飲めなかった。
諦めてもう一度ふーふーに戻る。
暖房が十分に効いているのは判っていたので、もう少し温めの牛乳で作ればよかったとちょっと後悔。
コトリと小さな音を立ててカップを机に戻したお姉ちゃんは言った。
「でも今回は見事に揚羽ちゃんが一年生ながら図書委員の代表みたいな形になってたからね。全員に話を聞いたわけじゃないけれど、二年、三年にも揚羽ちゃんの同志は多いみたい」
「同志、か」
お姉ちゃんの言葉に紛れ込んだ言葉をピンポイントで抽出して、溜息一つ。
桃花にとっての同志、仲間という言葉と、揚羽さんにとってのそれらはきっと違うんだろう。
静さま、揚羽さんが桃花の同志であり仲間であるということは撤回するつもりはないけれど、それをあの場あのイミングで言うべきではなかったのかもしれない。
今更で、あのことがあったからこそそれに気付けた以上、どうすることもできなかったのだろうけれど。
「揚羽ちゃんの拘り方は少し異常だけれど、でも、そう本当に思っているのだと思うわ。確かあの子、元々手芸部だったわよね?」
「うん、確かね。秋頃に止めちゃったけど……そう考えると不思議だね、部活なんてそれこそ同志と仲間の集まりだと思うのに」
「同志と仲間の集まりだからこそ、納得のいかなかったことがあったのかも知れないわね。わからないけれど。味方より敵を多く作るタイプだと思うもの」
それよりも、とお姉ちゃんは仕切りなおした。
「揚羽ちゃんが図書委員の代表になっている、そして委員会はその揚羽ちゃんとある意味で決別した。それが持つ意味は大きいわ」
わかっていたことだけれど、改めて言われると胸が痛い。
決別した切っ掛けは桃花なのだ。
「ごめん、お姉ちゃん。私のせいだね」
「そうね」
謝ると、お姉ちゃんはいっそ清々しいまでに肯定してくれた。
「あの場は早苗が居たから控えたけれど、実際揚羽ちゃんの言うことの方が正しかったわ。すぐに訂正して謝るべきだった」
「でもお姉ちゃん」
「その言い訳は」
言い返そうとした桃花を遮って、お姉ちゃんは指をぴっと一本立てた。
「ここで、私に、言っても仕方がないのよ」
う、と桃花は言葉につまる。
「わかるわね?」というお姉ちゃんの問いに、桃花は揺らぐココアの表面を見ながら頷いた。
ふぅ、と溜息が聞こえて顔を上げた桃花の目に、お姉ちゃんの苦笑いが映る。
「まぁ何となく想像はつくけどね。いっぱいいっぱいになると日本語を忘れる癖はなんとかしないと」
「うぅ、精進します」
ずずずと音を立ててココアを啜ると、お姉ちゃんは音もなく取ったカップを傾けた。
飲み方一つでわかる姉妹の格差。
毎度のことながらちょっと誇らしくて、ちょっとヘコむ。
「で、実際問題としてどうするつもり? このままじゃいけないってことはわかってるのよね?」
「うん……どうしよっかなって思ってたんだけど」
「どうしよっかな、って……悠長なものね」
お姉ちゃんの呆れはごもっとも、だけれど正直この事態を打開する特効薬なんてないんじゃないだろうか。
今まで揚羽さんとは何回か喧嘩したりしたことはあるけど(特に茜さんと揚羽さんは相性が悪すぎる)、何だかんだでうやむやになってきたのだ。
それで良好とはいえないまでも、それなりの交流は再開・継続している。
「まさか今回もそれでいこうなんて思ってないわよね? だとしたら桃花、いずれ友達なくすわよ」
眼鏡を外して、レンズをじっと眺めながらの一言。
「え、なんで」
「あのね。揚羽ちゃんが怒ったのは桃花が罵倒したからなの? それとも悪口を言ったから?」
眼鏡を戻し向き直ったお姉ちゃんに、桃花は首を横に振って見せた。
そんなことはない。
そんなこと、頼まれてだってやるもんか。
「でしょう? 桃花、あなたは揚羽ちゃんの大切にしている部分に触れたのよ。本当に、心から大事にしている部分にね。だから揚羽ちゃんは怒った。桃花を責めた」
放っておけば悪化するだけよ、と。
お姉ちゃんはカップを傾けながら言った。
「悪化する……って」
「あなたと揚羽ちゃんの関係。委員会と図書委員の関係。どこまで連なるかは未知数だけど、全く影響がないとは私には思えないわね」
首を振り振り、呆れた風にお姉ちゃんは言う。
それは確かにその通りで、想像するだに怖いことだ。
桃花のせいだとか選挙だとかそんなことはどうでも良くて、人の繋がりが断たれていく未来予想図はただただ哀しい。
啜ったココアはひどく甘くて、何だか申し訳ない気持ちで一杯になった。
「選挙に関して、静さんの出馬に関して桃花の中に答えはあるのよね? 祥子さん達を選ぶちゃんとした理由があるのよね?」
「うん」
お姉ちゃんの問いに、桃花は即答する。
そこは自信を持って良いところだ。自信を持って答えなければいけないところだ。
「じゃあそれを、あなたがちゃんと揚羽ちゃんに伝えないとね。今のままだと、非同志の静さんの協力なんてできないわ、って言ったことになっているから」
桃花はカップをそっと机に置いた。
「すぐが、良いのかな」
お姉ちゃんも同じようにカップを置いた。
「すぐが、良いと思うわ」
たっぷり数秒見つめあって。
先に目を逸らした桃花はカップを持って、言った。
「うん」
お姉ちゃんは静かにマグカップを傾けるだけで、もう何も言わなかった。
〜〜〜
考えてみれば、揚羽さんと一対一で向き合ったことってあっただろうか。
揚羽さんとの件があった翌日の昼休み。
マリア様のお庭、その中央で揚羽さんと対峙した桃花はふとそんな感慨に捕らわれた。
揚羽さんと会うのはいつも図書館だった。
その時、揚羽さんは一人のことが良くあったけど、桃花が一人だったことが果たしてあっただろうか。
桃花はいつも茜さんや小春さんと一緒だったし、そうでないときはお姉ちゃんや早苗さまの隣が定位置だったから。
もしかしなくても、そもそも学校で一人きりになるシーン自体が少なかったのだろうと思う。
「意外ね。今日は茜さん達は居ないの?」
のっけから棘満載の口調で揚羽さんが言う。
それは正に桃花の考えていたことの肯定、よほど揚羽さんの視界における桃花は皆に囲まれていたのだろう。
「うん。今日は私、一之瀬 桃花があなた、二神 揚羽対してお話があるから。二人には来るなって強く言っておいたよ」
手早く終えた昼食後に「行ってくる」と告げた時、二人はやはり「一緒に行こうか」と言ってくれた。
嬉しかったけれど、断った。
ここで着いて来てもらっては、どこかで見守られてしまっていては、きっと桃花は駄目になる。
お姉ちゃんの言うとおり、いずれ友達を皆なくすような子になってしまう。
だから大丈夫、と。
半分以上は空元気だったけど、二人を振り切って桃花はここにやってきたのだ。
「そう。それで、話って何かしら? まさか昨日の話を蒸し返そうなんて気じゃないわよね?」
「へ」
いきなり出鼻をくじかれた桃花は、目をまん丸に見開いて間抜けな声を上げた。
そりゃ昨日の話を蒸し返そうなんて気に決まってますよ。
桃花が揚羽さんを呼び出したんだから、それくらい予想つきそうなものではないか。
驚いて言葉もない桃花に、揚羽さんははぁと溜息を落として首を横に振った。
「昨日のことなら気にしないで。私も言葉が過ぎたし、悪かったと思ってるわ。価値観の押し付けなんてみっともないしね」
ふるふる振れた三つ編みお下げ。
桃花としては予想外の展開だが、揚羽さんは別に演技でそう言っているようには見えない。
本当にそう思っているのだろうか。
だとしたら、そりゃ、体よく仲直りしたい桃花としては願ったり叶ったりだけれど。
願ったり叶ったりだけど?
本当に、そうなのか?
「違うよ、まって揚羽さん。そうじゃない。そうじゃないんだよ」
「違うの?」
「あ、いや、違わない。違わないんだけど、違うんだよ」
いぶかしげな目を向けてくる揚羽さんに、わたわたと手を振りながら桃花は言葉を続ける。
「昨日のことなんだ、それは本当。でね、私、静さまのお手伝い……いや、揚羽さんのお手伝いはできないって言ったでしょう?」
「そうね。だからそれは価値観が違うから」
「そうじゃないんだよ、待って、揚羽さん。聞いて、お願いだから聞いて」
危険な会話をしている予感があった。
このまま揚羽さんの言葉を鵜呑みに受け入れたら、きっと後悔する。
だって揚羽さんは桃花を許そうとしてくれているのだ。
理由を聞くこともなく許そうとしてくれているのだ。
それはきっと、とてつもなく怖い結末に向かって。
「私ね、静さまのこと好き。揚羽さんのこと好き。大切な、大切な――」
一瞬だけ、悩んだ。
それはその言葉を口にすることに対してじゃない。
その言葉を聞いて不快になるだろう揚羽さんのことを思って、だ。
「仲間だと、思ってる。今でも。きっと、これからも」
予想通り、揚羽さんの瞳にぎらりとした光が灯った。
「あなたって人は」
搾り出すような揚羽さんの声。
足がすくむ、でも桃花は言葉を続けた。
「でもだからこそ、私は静さまに投票できないの。仲間だと思っているから、誠実でいたいから、揚羽さんに協力できないの」
「何よ、それ。馬鹿にしないで」
ぐっと一歩踏み込んで揚羽さんが言った。
負けじと足を前に出して桃花は答える。
「私は何があっても今のお三方以外に票は入れない。入れたくない。そんな私が、静さまの応援なんてできない」
「どうしてそんなことを言うの? 今この場で言えるの? まだわからないじゃない! 演説も聞いていないのに、どうしてそんなことを決めてしまうの!」
周りに一目がないせいもあってか、一気に加熱した揚羽さんの言葉。
その熱が空気を通じて桃花の中にも流れ込んでくるようで、高ぶる自分を桃花は抑えられなかった。
「どんなに、どんなに良い演説を聞いても! どれだけ揚羽さんたちの傍にいたとしても! 私は、祥子さまと令さまと志摩子さんに投票する! もう決めているの!」
「な……っ! 何よ、何よ、何なのよ! 頭おかしいんじゃないの、どれだけミーハーなのよ! 信じられない、そんなに馬鹿な人だったなんて!」
「馬鹿じゃない、ミーハーなんかじゃない!」
「じゃあ何だっていうのよ!」
「私はっ!」
「私は――」
「つぼみのお三方、という意味ではなくて。祥子さま、令さま、志摩子さんの三人が好きなの。この一年間、半年間、皆さんが薔薇さまの傍で一所懸命に、仲良く、仕事をこなされてきたのを見てきたわ……でも、私はその誰とも懇意にしているわけではないから、もしかしたらそれは私の勘違いなのかもしれない。本当は、考えたくないことだけど、あの三人の仲は良くないのかもしれない」
一転、口調をクールダウンさせて桃花は語る。
言葉を選ぶ余裕なんてなかったけれど、揚羽さんに伝えたい思い、桃花の考えの全てを語る。
揚羽さんは、初め桃花を睨んではいたけれど。
やがて、徐々に怒らせた肩を落として聞いてくれた。
「でも私にはそうは見えなかったし……例えそうだとしても、その三人でやってきたことは事実だから。薔薇の館からそのうち誰かが消えてしまったら、きっと悲しいと思うの。想像よ、これは私の勝手な想像だけど……そこにはきっと、”絆”が、あるんだと思うの。だから。だから、揚羽さん。私はそれを護りたい。護ってあげたいと思う」
ひゅるり。
桃花のセリフの終わりをさらうように、風が吹いた。
一房のポニーテールと、二房の三つ編みが揺れる。
ぽつりと揚羽さんは言った。
「だから……静さまは出る幕じゃないって?」
――。
沈黙。
「うん。出る幕じゃないと、思う」
桃花は言い切った。
静さまと面と向かっては言えるわけもないひどい言葉を、桃花は断言した。
耳に痛い沈黙が続いた。
お互い何も言わずに、指先一つ動かさずに、ただ時間だけが流れた。
くすっ、と。
その沈黙を壊したのは、揚羽さんのそんな笑い声だった。
「静さま、怒るわねきっと」
「あ、待ってよ。言わないでよ、絶対」
とんでもないことを口走った揚羽さんに桃花が慌てると、揚羽さんはくすくす笑いながら手を振る。
「言いやしないわ、言えるわけもないでしょう。全く、何て人なのかしら」
怒ったような言葉とは裏腹に、揚羽さんは笑顔だった。
釣られて、桃花も笑顔になる。
「でも良く判ったわ……なるほどね。それなら確かに静さまの応援はできないわね。中途半端で邪魔なだけだわ」
容赦ない物言いだったが、それに関しては悲しいかな桃花も賛同意見だ。
だけど頷くのも何だか違うような気がして、桃花は苦笑いで答えた。
揚羽さんはくるりと身体を反転させて桃花に背を向ける。
「話はそれだけ?」
帰る気満々でも、一応は首だけ向けて聞いてくれた揚羽さんに頷くと、揚羽さんは「そう」と顔を前に戻した。
「私は私の絆を護るし、あなたはあなたの絆を護る。それなら話は平行線ね、お互い頑張りましょうとしか言えないわ」
うん。
見えないだろうけれど、桃花は揚羽さんの背中に頷いた。
「頑張ろう、揚羽さん」
「ええ、桃花さんも」
『また、図書館で』
期せずして二人揃えた言葉は、風に吹かれて消えていった。
桃花と揚羽さん、二人の道は結局違えるしかなかったけれども。
きっとそれは初めからそうで。
そして、それは平行線のままずっと続いていくんだろう。
桃花の隣を走る揚羽さんの線と、揚羽さんの隣を走る桃花の線。
それはちょっと素敵な想像だった。