「そろそろ桜も散っちゃうね、志摩子さん」
「ええ、そうね、乃梨子。少しだけ寂しいわね」
「あそこの桜ももう散っちゃったかな。志摩子さんと出会った……」
「どうかしら。見に行ってみる?」
「うん。明日のお昼休みにでも一緒に行ってみよう。あ、私、お弁当作ってくるよ!」
「まぁ、良いの? 楽しみだわ、乃梨子のお弁当なんて」
窓際に寄せた椅子に並んで腰を下ろし、相変わらずのふわふわした空気の中で、白薔薇姉妹は春の陽気の如き会話を続けていた。
それこそ、脳みそに桜でも咲き乱れているんじゃないかと、思わなくもない。
「今度の週末、楽しみだね、瞳子。晴れるかな? 晴れると良いよね?」
「そんなこと瞳子に言われても分かりませんわ。瞳子は気象庁ではないのです」
「素っ気ないなぁ。雨が降ったらジェットコースターもパレードも中止だよ? それじゃ遊園地に行く楽しみが半減じゃないの。せっかくの久しぶりのデートなのに」
「そうしたら、またリベンジすれば良いではありませんか」
「あぁ、なるほど。そっか、リベンジか。紅薔薇伝統、リベンジデート……もう一回デート出来るのかぁ。――雨降るかな? 雨降るかな?」
「ですから、瞳子は気象庁ではありませんわ」
テーブルでは新紅薔薇姉妹が、相変わらず姉妹逆転現象っぽい空気を醸し出しつつ、週末に行く遊園地デートの話で盛り上がっている。
ジェットコースターもパレードも中止にならないくらいの、微妙な強さで雨でも降れば良いのに、と思う。
新年度を迎え、加速度的に暖かくなっていく気温以上に、むんむんむらむらと相変わらず暑苦しい薔薇の館の室内をギロリと一瞥すると、由乃はゆっくりと両拳を頭上に振り上げた。
ぴたり、と一瞬の溜めを演出した後――
ドーーーンッ!!
テーブルを思い切り叩いた由乃に、ピタリと紅・白薔薇姉妹の会話が止まる。
「――また何か始まったみたいですね」
「菜々ちゃんを妹にしてからは、おとなしくなっていたけど……」
「菜々ちゃん、剣道部が忙しくてあまり来れないみたいだもんね」
「……ボソボソ」
「と、瞳子、そういうこと言っちゃダメだよ」
固まった由乃に対し、それぞれが好き勝手なことを囁き合う。どうでも良いけど瞳子ちゃんは、由乃に聞こえないようにどんなことを言ったのだろう。
瞳子ちゃんの隠れスキル、祐巳さんにしか聞こえない囁き声と言うのは、意外と腹が立つスキルだと思う。
「あの、由乃さん……?」
志摩子さんが恐る恐る声を掛けて来たので、由乃はゆっくりと顔を上げた。
なんか分からないけど、両手で額をガードしていた志摩子さんが、安堵の表情を浮かべた。志摩子さんって時々よく分からない。
そんな志摩子さんに、一語一語を噛み締めるようにして問いかける。
「……成長と言う言葉を知らないわけ?」
「え、えと……?」
「何度言えば学習するのよ、このバカップルどもはーーーーーー!!」
ズビシッ!!
せっかくなので、ガードの下がった志摩子さんのオデコに指先を叩き込んでおく。
志摩子さんが「あうっ」と言いながらころりと後ろに転がったのを、乃梨子ちゃんが床に後頭部を打つ直前で素早く支えた。
さすがは乃梨子ちゃん。いつでもフォローは万全だ。正に妹は支えである。
「……これはもう、アレを復活させるしかないようね」
「あれ?」
由乃の言葉に祐巳さんが瞳子ちゃんを背中に庇いながら首を傾げる。紅薔薇姉妹も相変わらずの熱々ぶりだ。
「そうよ、アレよ」
由乃は力強く頷くと、こんなこともあろうかと部屋の隅に用意しておいたホワイトボードを、ガラガラと引っ張り出した。
そこに、極太マジックで懐かしの一文を書き殴る。
『室内での姉妹での会話禁止!!』
これをホワイトボードに初めて書いたのは、昨年度のことだった。あの時は確かに諸事情(主に由乃の精神力消耗)から、一日で撤回することになったのだが、リベンジの時が来たのである。
「姉妹間での会話は禁止! 異論は認めません!」
ダン、とホワイトボードを叩きつつ、由乃は声高らかに宣言した。
* * *
「――なるほど、つまりお姉さまの思い付きと言うわけですか。毎度毎度、お姉さまがご迷惑をお掛けします」
やれやれ、と首を振りつつ紅白の薔薇姉妹に頭を下げたのは、剣道部の用事が終わって薔薇の館にやって来た菜々だった。
ホワイトボードに書かれた姉妹会話禁止令の文言に目を丸くした菜々が、祐巳さんから事情を聞いて最初に発したのが冒頭の言葉。
しかし由乃に言わせてもらえば、悪いのは四六時中イチャイチャしている紅白姉妹の方なのだ。紅と白が混ざり合った桃色タイフーンを、年中無休で展開している方が悪い。
とりあえず由乃がそんな気持ちを込めて菜々を睨むと、その意味を理解したのか菜々がちょっと呆れた様子ながらも由乃の隣へやって来て腰を下ろす。
なんだ、菜々も中々分かってくれるではないか。
「とりあえず仕事でもしましょう」
菜々が着席したところで、乃梨子ちゃんが提案する。確かに仕事の能率を上げるのが姉妹会話禁止令の建前である。仕事もせずにボーとしていては意味がない。
この時期は特に大きなイベントが待っているわけではないけれど、新入生を迎えた各クラブの名簿をまとめたり、備品購入の報告や予想外に必要となった予算申請などが提出されたりと、細々とした仕事がたくさんある。
乃梨子ちゃんと瞳子ちゃんはテキパキと自分の分の仕事と一緒に、志摩子さんや祐巳さんの仕事に必要な資料なんかも引っ張り出す。その辺り、自分のお姉さまの担当部分や進行状況まで把握しているのはさすがだ。
さすがに薔薇の館に来たばかりの菜々に、その辺を期待するのは酷なので、逆に由乃が菜々の分の資料も持ってくることにした。
「それじゃあ――」
と、菜々に指示を出そうとしたところで、由乃はホワイトボードの禁止令を思い出した。姉妹の会話は禁止だ。
しまった、と菜々に帳簿を手渡した体勢で固まってしまう。いくらなんでも指示なしでは、菜々も仕事の手伝いは出来ない。
焦る由乃の横で、祐巳さんがちょっと瞳子ちゃんを見る。それだけで瞳子ちゃんは「やれやれ」と言う様子で、立ち上がった。
「菜々ちゃんには私が指示しておきますわ」
「そ、そうね。お願いするわ」
ツーカーな紅薔薇姉妹のフォローで、由乃はどうにか危機を乗り切った。帳簿を瞳子ちゃんに手渡しつつ、ちょっとだけ祐巳さんのことを羨ましく思ったり。
(いやいや、これは仕方ないのよ! 姉妹歴はあまり差はないけど、瞳子ちゃんは姉妹になる前から仕事のお手伝いに来ていたんだもの!)
そんな風に菜々と自分にフォローを入れ、由乃も自分の仕事に取り掛かった。各部から提出された備品購入の報告を、帳簿に書きまとめていく。難しくはないけれど、時期が時期だけに量が多くて重労働だ。
30分程無言の状態が続いたところで、不意に乃梨子ちゃんが立ち上がった。顔を上げてみれば、志摩子さんと例のアイコンタクトを終えたところである。
(来た! これなら私と菜々だって――!)
由乃は菜々も同様に顔を上げているのを確認し、そちらに視線を向ける。
(菜々、私にも何か飲み物を入れてくれる!?)
ぐっと視線に力を入れて訴えると、菜々が由乃に気がついた。
由乃の視線に、菜々はちょっと首を傾げて眉を寄せる。
(分かるでしょ、分かるわよね!? 飲み物よ、飲み物!)
由乃が必死に念じると、菜々がパッと顔を輝かせて、にっこりと微笑んだ。
よっしゃ、と由乃は内心でガッツポーズをする。由乃と菜々だって、まだ期間は短いが立派な姉妹である。白薔薇姉妹にだって負けてはいない。
昨年度末に白薔薇姉妹にアテられたことを思い出しつつ、ちょっとだけ感動する由乃の見守る中、菜々は立ち上がってスタスタと――ビスケット扉を出て行った。
「――は?」
思わず呟く由乃だが、それは由乃だけの反応ではなかった。祐巳さんも瞳子ちゃんも志摩子さんも、そして給湯室からちょうど戻って来た乃梨子ちゃんも、菜々の消えたビスケット扉を凝視している。
「あの、菜々ちゃんはどうしたのでしょう?」
「さぁ……?」
みたいな会話を、紅と白の姉妹は揃って視線だけで交わし、由乃に視線を向けてくる。
はっきり言って、由乃に聞かれても困る。
(菜々、さっきの微笑みはなんだったのよ!? 私の気持ちが伝わったんじゃなかったの!?)
困惑する由乃だが、それを必死に押し殺す。なんとなく、伝わらなかったと祐巳さんたちに悟られるのは(既に手遅れな気もするが)気に食わない。
困惑と疑問の空気に満ちた薔薇の館――その空気が動いたのは、10分程して菜々が戻って来たからだった。
戻って来た菜々の手には、近くのコンビニの袋が握られている。
「……菜々ちゃん、コンビニまで買いに行ったんだ?」
「何を由乃さまはリクエストしたのでしょう?」
みたいな様子で、祐巳さんと瞳子ちゃんが由乃を見る。由乃が何をリクエストしたのか、そんなの由乃の方が知りたいくらいだ。
それでも、どうやら由乃が飲み物をリクエストしたことだけは上手く伝わったのか、菜々が自信満々・喜色満面でコンビニ袋の中から缶のジュースを引っ張り出した。
『 お し る こ 』
くそ甘いおしるこ缶をズゾゾ〜と飲み干しながら、由乃はこれまでに一度でも良いから仕事中におしるこを飲んだことがあったか、後で菜々に問い詰めようと決心した。
* * *
ポジティブに考えれば、由乃が飲み物をリクエストしたことだけは伝わったのだ。
おしるこで甘くなった口内を我慢しながら、無理にでも由乃はそう思うことにした。そうでもしないと、またもや姉妹会話禁止令は一日もたずに撤回の憂き目に合ってしまう。
ちなみに、そんな由乃の正面では、祐巳さんが砂糖をたっぷり入れたココアを、幸せそうに飲んでいる。どうやら由乃のおしるこに触発されて甘い物が飲みたくなったようだが、それを察知してココアを入れたのは瞳子ちゃんだ。
普段、仕事中は紅茶党の祐巳さんなのに、ちゃんとココアが飲みたいというリクエストを瞳子ちゃんは察知する。ほとんど熟年夫婦並の意思疎通振りだ。
(い、良いのよ。きっと頭が疲れていて甘い物が欲しかったんだわ、私も。無意識に。菜々はそれを察知したのよ。ええ、きっとそうよ!)
負けてない負けてない、と思いつつ、ついつい祐巳さんを見る目が険しくなる由乃の目の前で、祐巳さんと瞳子ちゃんは相変わらず会話ゼロでスムーズなコミュニケーションを展開中だ。
珍しく瞳子ちゃんの方が分からない部分があったのか、ちょっとだけ手が止まった。すかさず祐巳さんがそれをフォローして、瞳子ちゃんに教えている。
横からちょこちょこと手を出して、にっこり笑う祐巳さんに、瞳子ちゃんも笑顔で応じる。なんか見ていて、空になったおしるこ缶を投げつけたくなるようなシーンだ。もしかしてこの二人、意思疎通がどうこう以前に、実はテレパシーが使えるんじゃなかろうか。通じ合うにも程がある。
まぁ、表情豊かな祐巳さんと、演劇部所属の瞳子ちゃんだからこそ成せる技なのだろうけど。志摩子さんと乃梨子ちゃんも、ちょっと感心しているくらいだ。
さすがにあの域までは無理だ――と、菜々を見たところで、由乃は気がついた。
菜々が書いている報告書に、簡単な誤字がある。
(これは――ちゃ〜んす!)
まとめ方を教える、なんて複雑なことは無理でも、誤字を指摘するくらいなら出来るかもしれない。菜々を呼んで、間違い部分を指して微笑めば、多分気がつくだろう。指差しはちょっと反則っぽい気もするが、会話しているわけではないので許容範囲だ。
(菜々、ここの文字が間違ってるわよ!)
ぽんぽん、と菜々の肩を叩いて誤字部分を指差し、にっこりと微笑んでみる。
菜々は「はい?」とばかりに首を傾げた。
(だーかーら! ここ、違うわよ!)
心の中で叫びつつ、指をトントントン。ついでに、菜々が視線を指先に向けたところで、×を描いてみる。
さすがにこれで気がついたのか、菜々がポンと手を打ってから、由乃に目を向けてにっこり笑う。
今度こそ勝利――と拳を握る由乃の前で、菜々が書類の片隅に『#』のようなものを書き込んだ。
「?」
イマイチ意味が分からない由乃に、菜々が『#』の右上に○を書いて鉛筆を差し出してくる。
それを受け取った瞬間、由乃は叫んでいた。
「誰が仕事中に○×ゲームなんかするかーーーーーーーーーーーーー!!」
* * *
赤字で大きくバッテンされた姉妹会話禁止令を背景にして、由乃はテーブルに突っ伏していた。
「思ったよりも早かったですわね」
「ダメだよ、瞳子。そんなこと言っちゃ」
瞳子ちゃんと祐巳さんがこそこそ言っているけれど、文句を言う元気もない。開始一時間半で撤回することになるなんて、由乃だって思わなかった。
「お姉さま、ドンマイです」
「誰のせいよ、誰の……」
ポンポンと肩を叩いてくる菜々をギロリと睨む。
「仕方ありませんって。祐巳さまと瞳子さまは特別ですし、志摩子さまと乃梨子さまほどの歴史もないんですから。変に対抗しようとするのが間違いなんですよ。無謀ですって」
「それはそうだけど、いくらなんでも……悲しすぎる……」
菜々の正論に、由乃はぐりぐりとテーブルに額を押し付けていじけてみた。
今度こそ、と思ったのに。昨年度の屈辱をようやく忘れられると思ったのに。
まさか菜々が、ここまで鈍いとは思わなかった。
「……………………………………………………鈍い?」
「はい?」
そこで、自分の下した菜々への評価に待ったがかかる。
考えるまでもない。初めて会った時に由乃と江利子さまの関係に「何かある」と勘付き、初デートらしき時にも由乃が令ちゃんのことを気にしていたのを一目で看破した菜々が、鈍いハズがないのである。
むしろ、菜々は勘が鋭い方だ。
現にたった今、菜々は言ったではないか。
変に対抗しようとするのが間違い、と。
昨年度の事情を知らないにもかかわらず、由乃の真意をしっかり指摘したではないか。
そこまで察しておいて、鈍いなんてことがあるわけない。
「菜々……」
「なんですか、お姉さま?」
見上げる由乃に、菜々がにこにこと笑顔を浮かべている。
そこでもう一つ思い出した。
菜々は――江利子さま同様、面白いことが大好きなのだ。
「――まさか、わざと!?」
「え、何がですか? 何のことですか?」
きょとん、と由乃を見返す菜々だけど、その目の奥に紛れもなく文字が見えた。
『やっと気付いたんですね、由乃さま♪』
「やっぱりそうだったのね! おしるこも! ○×ゲームも! からかってたわけね、私を!?」
「そんな、からかってなんていませんよ、お姉さま。遊んでいただけです」
「どこが違うーーーーーー!」
頭を抱えて仰け反る由乃に、菜々が「お姉さまドンマイ!」と声を掛けてくる。
少なくとも菜々にだけは言われたくない。
「……由乃さまも菜々ちゃんも、ちゃんと目と目で分かり合ってますよね?」
「そうね。素敵ね」
ほのぼの囁き合っている白薔薇姉妹に、ツッコミを返す気力もない。
「でも、お姉さまも悪いんですよ。私のいないところでこんな面白そうなこと――もとい、勝手なことを決めるんですから」
「本音がだだ漏れしてるじゃないの!」
「お約束の冗談です。大体ですね、報告することがあったので、急いで駆けつけたところをいきなり『会話禁止!』と言われる方の身にもなってください。ちょっとくらい意地悪したくなるのも、仕方ないじゃないですか」
菜々がちょっとだけ怒ったように言って、一枚のプリントを鞄から取り出す。
プリントには『剣道部GW活動スケジュール』の文字。
「ゴールデンウィークにお休みがあったので、一緒にお出掛けでも誘おうと思ったのに。会話禁止じゃ報告もお誘いも話し合いも出来ないじゃないですか」
不満げに言う菜々と手元の剣道部のプリント――GWの最終日が、お休みになっていた――を見比べて。
由乃は青い極太マジックを手に立ち上がった。
『 姉 妹 の 会 話 超 推 奨 !!』
そう一気に書き殴ると、由乃は満面の笑みで振り返った。
「それで、菜々! どこに遊びに行く!?」