「――…ん」
「どうなさったんですか、蔦子さま?」
薔薇の館へ歩く道すがら、蔦子さまがカメラを構えるのを止めた。風景や人物を撮ろうとしていたわけじゃなくて、何となく構えただけなのだろうけど、妙に違和感のある表情をされたので私は思わず尋ねた。
「いや、最近どうもレンズがぼやけてる気がしてさ。微妙なズレなんだけどね」
そう言うと、蔦子さまがバッグのポケットから、カメラ用のレンズ拭きを取り出した。丁寧にレンズを拭く顔がとても安らかで、私は何だかカメラが羨ましくなる。物に嫉妬するなんて、末期的かもしれない。
「レンズの内側が汚れているのかもしれませんよ」
「ああ、そっちの可能性もあるか。でも変だなぁ。ちゃんと毎日メンテしてるんだけど。あ、笙子ちゃんも覗いてみる?」
ほら、と蔦子さまが首からさげたカメラを私に手渡してくれた。あんなに大事そうにしていたカメラを、私に預けるという事実が少し嬉しくて私は笑顔になる。我ながら単純だとも思えるけど、気にしない気にしない。
「――うーん、私にはちゃんと、はっきり見えますけど」
ファインダを覗いて見える景色は、いつもと変わらなかった。それはつまり普通のカメラ以上に良好な視界だということ。蔦子さまが毎日手入れされているだけあって、格段に綺麗に見える。ぼんやりしているとは思えなかった。
「変だなぁ、なんか微妙に違わない?全体がほわんとしてるっていうか…」
「ほわん、ですか」
「そうそう、ほわん」
蔦子さまが真面目な顔で変な擬音を口にするので、私は可笑しくってクスクスと笑ってしまった。失礼かもしれないと思って、少し俯いたのだけど、もう手遅れだっただろう。蔦子さまがその程度のことで怒るとは思えないけれど。
地面には枯葉が散乱していて、視界の端に建物が見えた。歩きながら喋っている内に、いつのまにか薔薇の館に到着してしまったらしい。
「ま、とりあえず祐巳さん達に写真渡してから考えよう」
「そうですね」
老朽化した扉、ギシギシ音が鳴る階段。薔薇の館って、夜に訪れたらちょっとしたお化け屋敷なんじゃないだろうか。そんな想像をしながら、私は蔦子さまの後ろについて階段を昇った。蔦子さまなら、お化けが出ても喜んでシャッターを押しそうだ。あ、でも女子高生が主な被写体だから、女子高生のお化けじゃないと駄目かもしれない。
「あ、そっか」
「どうしたんです?」
女子高生のお化けでもいたんですか、と言いそうなって慌てて自分の口を押さえた。気付いたんだよ、と笑いながら階段を昇りきった蔦子さまが振り返って自分の眼鏡を外された。
「眼鏡だよ。多分また視力が下がっちゃったんじゃないかな。度があってないから、微妙にぼやけてるように思えたんだ。いつもレンズ越しの景色ばっかり見てるから、全然気付かなかった」
真剣に何か観るときなんて写真撮るときだけだからね、と蔦子さまが肩を竦める。けれど私は階段を昇りきって蔦子さまの真正面に立つまで何も言うことができなかった。
* * * * *
「どしたの?」
「すごく…綺麗です蔦子さま…」
「何が?」
「蔦子さまがですよぅ!え?え?何が起きたんですか?そ、そりゃ普段から美しいとは思ってましたけど、え?どうして!?」
「私?え、どうしたのさ笙子ちゃん。ちょ、ちょっと落ち着いて」
制止する蔦子さまを振り切って、私はダッシュで大部屋のビスケット扉を開けた。これは一大事だ。この重大さを理解してくれる方は、薔薇の館に一人しか居ない。
「由乃さまは!?由乃さまはいらっしゃいますか!?」
「笙子ちゃん、どうしたのそんなに慌てて?」
「祐巳さま、由乃さまはどちらに?」
私の剣幕に圧されつつも、祐巳さまが指をテーブルへと向けた。視界に飛び込んできたのは白薔薇姉妹。そして一番奥の椅子に座ってボールペンを握ったまま、由乃さまが私の方を見ていた。
「私なら、こちらにいるけど?」
口を斜めにして、由乃さまはボールペンを置いた。
「何、瞳子ちゃんみたいに『妹にして下さい!』とでもやるつもり?」
「違うんです!つた…蔦子さま、早くこっちに!」
そのやり取りの背後で、祐巳さまの後ろにいた瞳子さんが「私はそんなこと…!」と声を荒げた。けれどその声の途中で蔦子さまが部屋に入ってくる。
「笙子ちゃん。一体どうしたっての?急に走り出したりして」
「蔦子さま、眼鏡を!眼鏡を取ってください!」
「眼鏡を?こう?」
蔦子さまがおもむろに眼鏡を外されると、ガタンと音がした。祐巳さまが持っていた御盆を落としたのだ。しかし誰もその音に意識を向けず、蔦子さまに目を奪われていた。そこにいるのは紛れもなく武嶋蔦子さまなのだけれど、ある意味で別人と呼んでも過言ではないかもしれない。
「つつつ蔦子さん!?え、マジで?」
「マジも何も、今眼鏡外しただけだから当然じゃ――」
「な、なんて美し……っ!?――ッガハァ!!」
突然、乃梨子さんが吐血した。それとほぼ同時に、瞳子さんが床に倒れる。失神したのだろう。
「乃梨子!?しっかりして、乃梨子!?」
「し志摩子さん…ごめん、私じゃ耐え切れない…ウッ……――」
「乃梨子ォォォォー!!!」
ロサ・ギガンティアの悲しみが、部屋に響き渡った。瞳子さんは、すでに棚の横、蔦子さまの顔が見えない安全な場所に祐巳さまが移動させていた。
「え、どうしたの!?乃梨子ちゃん大丈夫!?」
「近寄っちゃ駄目よ蔦子さん!以前…キン肉マンとか民明書房で読んだことがあるわ…。王位継承者やクレオパトラのような特殊な人間は、その素顔の影響力を隠すために両親によって生まれたときからマスクや眼鏡によって真の力を封印されることがある、と…。蔦子さんと付き合っている期間が短い乃梨子ちゃんや瞳子ちゃんは、免疫ができてなかったみたいね…」
由乃さまが解説を始め、ロサ・ギガンティアが乃梨子さんを机の下に寝かせた。なるほど、あそこなら蔦子さまの素顔が直接届かない。
「とんでもない人を連れて来てくれたわね笙子ちゃん…、それとも感謝すべきかしら?蔦子さんがうっかり授業中、眼鏡を外したりしないよう、今の内に手を打てるのだから。学園の秩序を守る山百合会が最初に遭遇できたことは…幸運かもしれないわね…」
「幸運って…え、さっきから由乃さんも笙子ちゃんも何を言ってるわけ?」
「しらばっくれないで!」
大部屋の隅々まで振動するような祐巳さまの叫びが、全てを黙らせた。祥子さま譲りのヒステリックさは、知らず知らずの内に継承されているのかもしれない。
「いくら蔦子さんでも許せない、瞳子をこんな目に遭わせるなんて…」
「主よ…、我に力を与えたまえ…」
椅子から立ち上がったロサ・ギガンティアと祐巳さまが、蔦子さまを挟み撃ちにする。状況を把握されていないのか、蔦子さまはオロオロと左右に首を振った。しかしそれこそが、最強の攻撃となったのだ。蔦子さまの素顔を、祐巳さまもロサ・ギガンティアも、真正面から眼を合わせることになってしまったのだから…
「…っきゃぁぁぁぁ!」
「…ウワァァァァァ!」
祐巳さまとロサ・ギガンティアが蔦子さまの美しさに跳ね飛ばされて、壁に激突する。視線を直に合わせるだけで、この二人が敗北するとは…
「想像以上だわ…。薔薇力1200万パワーの祐巳さんと志摩子さんを、こうも簡単に倒してしまうとはね…」
「だ、だからさっきから皆どうしちゃったわけ?いきなり吹っ飛んだり血を吐いたり、え?もしかしてドッキリ?」
一歩、トンと足音を鳴らして蔦子さまが由乃さまに近づいた。クッ…と奥歯を噛締めて、由乃さまがそれに耐える。流石は剣道部にして山百合会の由乃さま。妹を失って正気を失っていた御二方より、冷静に対処して目を半開きにしている。
「甘かったわね、今、山百合会緊急連絡網(のろし)ボタンを押して、連絡を取ったところよ」
「れ、連絡?一体何のために…あ、そっか救急車呼ばないと…」
蔦子さまがそう言いかけた時、バタァン!と激しくビスケット扉が開かれた。現れたのは三年生、小笠原祥子さまと支倉令さま。
「助けに来たよ、由乃」
「祐巳…それに瞳子ちゃんまで…」
祥子さまと令さまは部屋の様子を観察して、一瞬で状況を把握したらしかった。
「覚悟なさい、私たちが来たからには」
「あ、令さまに祥子さま。ごきげんよう」
挨拶!
その威力はまさにトマホーク並!通常では考えられない質量がエネルギーとなって祥子さまと令さまを襲った。あまりの波動の強さに、重力さえも乱れている。
「嗚呼アアアァァァッ!!」
「由乃ォォォォォッ!」
祥子さまと令さまがブラックホールに吸い込まれていく。強い。蔦子さま、まさかここまでとは…
「甘いわ!時間を与えすぎたようね、こちらはすでに山百合会最重要緊急連絡網(花火)で、最強の面子を揃えることに成功したのだからッ!」
「ま、まさかッ!?」
私の驚きにかぶさるようにして、「そのまさかよっ!」と窓ガラスを破って3人の人物が突入してきた。
「紅薔薇咲けば悠久の香り!元ロサ・キネンシス!水野蓉子!参上!」
「黄薔薇の心は混沌の調べ!元ロサ・フェティダ!鳥居江利子!参上!」
「白薔薇歩けば百合も咲く!元ロサ・ギガンティア!佐藤聖!参上!」
「「「三人揃って、リリアン山百合会三天王!!」」」
バランス悪っ!もう一人ぐらい何とかならなかったんだろうか。
「アーッハッハッハ!これで私たちの勝利は確定ね!薔薇力5000万パワーを超える御三方が揃えば、蔦子さんの素顔がいかに美しかったところで…」
「あ、元薔薇様方、お久し振りです」
笑顔!
蔦子さまが何気ない懐かしさを感じて、浮かんだ自然な笑顔はもはや数学に解析できるものではなく、全ての時空を一箇所に集中させた破滅にして究極のカタストロフだった。三薔薇様が一瞬にして塵と化し、その断末魔の悲鳴さえも蔦子さまの笑顔に吸収されてしまう。
「も、もう私に残された手段は…ガハァッ!!」
「よ由乃さんっ!?」
「いいのよ蔦子さん、気にしないで。これからは貴女の時代よ…もはや我々山百合会には、貴女を止められないのだから…」
最後に微笑んで逝かれた由乃さまの言葉で全てを把握した蔦子さまは、涙を袖で拭って立ち上がった。
「行こう笙子ちゃん…、新世界をつくるのよ。私は神に…、貴女は女神になるの…」
「はいっ、蔦子さま!」
そうして私たちは薔薇の館を後にして、旅に出たのだった。
* * * * *
「なんてことになるかもしれないから、眼鏡買った方がいいですよ」「それは流石にないと思うけど、帰りに眼鏡屋さん行こう」「あ、そうだ、由乃さまー見てください!蔦子さまが眼鏡とったとこー」「わぁ可愛いじゃんコンタクトにしないのー?」「うんうん似合うよー」「いやーあれ怖くってさー、あ、そうだ。こないだの写真もってきたよー」「わぁありがと蔦子さん」「アハハ」「アハハハハ」