「ブルーのカバー?」
「そう、何ていうかつまり、ボーイズラブっていうんだけど…」
薔薇の館の大部屋。窓から漏れる柔らかな日差しが、斜めに座る由乃さんの体を反射していた。眩しさと、突然の話題、その両方に私は眉をひそめる。
「祐巳さん知ってる?」
「ま…まぁ一応知ってはいるけど」
そういうジャンルがあることは知っていた。女子高だからなのかどうかは知らないけど、その手の趣味をもっている生徒もいるし、最近はTVでも見かける機会がある。縁がない世界だから、知識として記憶にとどめる程度だったけれど。
「それで、ボーイズラブがどうかしたの?」
「これ見て」
そう言って由乃さんがテーブルの上にバンと本を置いた。表紙の色彩から漫画かライトノベルだと分かったけど、その直後に表紙の絵を認識して私は驚いた。
「こ、こここれ!?」
「そう…ボーイズラブの本よ。小説じゃなくてアンソロジーの漫画だけど…」
「よ由乃さん、そういう趣味が!?」
まさか。どっちかっていえば由乃さんはガールズラブだと思ってたのに。表紙にはやけに顎の尖った二人の男性が描かれていて、一人は和服でもう一人は白衣を羽織っていた。ほとんど半裸の上に半笑いで絡み合っていて、どういう状況なのかはよく分からない。
「違うわよ、見つけたの」
「見つけたって?」
「つまり…、令ちゃんの本棚から…」
「令さまのっ!?」
「ちょ!祐巳さん声が大きい!」
私は慌てて口を両手で覆う。静まり返った薔薇の館には、私と由乃さんしかいなかった。丁度私たちのクラスだけ先生の都合でホームルームが省略されていたから、まだ誰も来ていないのだ。
「正確に言うと…令ちゃんに和英辞書を借りようとしたの。でも昨日は令ちゃん帰り遅くて、おばさんに言って部屋に入れてもらったはいいけど見つからなくてさ。多分学校にもってっちゃったのね。それで、仕方ないから本棚にあった中学生用の和英辞書を手に取ったら…」
「――…辞書のケースの中に?」
「完璧なカモフラージュよね。今まで全然気付かなかったもん」
由乃さんが肩を竦めた。そこまで巧妙に隠していたって事は、間違いなく令さまは本気で見つけられたくなかったんだろう。そういえば、以前祐麒の部屋でそういう雑誌を発見してしまったことがあるけど、見なかった振りをしたのは正しい判断だったのかもしれない。
「それでどうして持ってきちゃったわけ?」
部屋には二人しかいないけど、ひそひそ話で聞いてみる。いくら由乃さんだって、令さまの秘密を暴露して良いわけがない。ましてそれがボーイズラブなんて、つっこんだデリケートな領域ならなおさらのこと。
「だって…気になるじゃない。令ちゃんが特殊な性癖の持ち主だったらどうするのよ!?そんなんじゃ将来困るわ!お嫁にいけないじゃないの!」
「そ…それはそうかもしれないけど…」
「だから確認しなきゃいけないと思ったんだけど、何か怖くってさ…」
「うん、それは何か分かる」
性的な部分って、内面が思い切り反映されるし…
「それで、祐巳さんと一緒に見ればショックが和らぐかと思って…」
「待った!」
「いいじゃない!お願い!親友が困ってるのよ!?」
「で、でもそういうのは…その。大体なんで私なの?」
「志摩子さんや祥子さまを誘えると思う?」
「あー…」
それは…それは無理だろう。あの二人にこんなこと打ち明けるほどの度胸をもつ人間は、リリアンにいないんじゃないだろうか。下級生を巻き込むわけには行かないし、ある程度秘密を共有できる位置に居ないと駄目だし…それで私か。なんというか、まぁ、順当な判断だこと。
「ね、ほんと、ちょっとでいいから」
「……少しだけだよ?」
仕方ない。うん、仕方ないんだ、これは。私は頼まれてイヤイヤ見るのであって、そういう気持ちは全然ないんだから。ほんとに。
「ひ、開くわよ…」
「うん…」
由乃さんの細い指が、表紙に触れる。捲られるページの質感が妙になめらかで、新しい世界が現れるような恐怖と期待が入り混じった気体が鼻先を掠めた。
「ぅぁ…」
由乃さんが声を出す。無意識に漏れでた声のようだった。
「ぇぇぇ…」
気付けば自分の小声の悲鳴をあげていた。ページの大半は白かったけど、そこにある線の細い絵が描写しているものはまさしく…
「ぁ…――…すご…」
「そ、そんなことまで…」
描写が核心に進むたび、思わず「ぅぁ…」とわけの分からない声が出た。
「――…こ、これどこに入ってるの?」
「ししし知らないわよ!そんなの!」
ペラッ、とページが捲られるたび、心拍数が一つ上がるかのようだった。刺激的だとか過激な描写だとかそういう問題じゃなかった。もっと恐ろしいものの片鱗を、私たちは味わっていた。
「…うひゃー」
「まさか…え?え?入っちゃうの?」
あ、あ、あ、あ…
次のページを開こうと由乃さんの人差し指が震えながら、隅に動く。私は固唾を飲んで視線を外すことなくその動作を見守っていた。そしてまさに最後のペー…
「ごきげんよう」
「ひゃぁっ!!」
「うわあっ!!」
顔を上げればビスケット扉の前には志摩子さんが居た。その後ろには乃梨子ちゃん。二人とも不思議そうな顔で、私たちを見ていた。瞬時に由乃さんがテーブルに体を乗せて、自らの体で本を隠した。私は両手と体を左右にバタバタと動かして喚いていた。
「あー!あー!あー!これはそう!デンプシーロールの!デンプシーロールの練習をしてたの!」
「わわ私は水泳のね!ほら!世界水泳みたから!クロールをね!クロール!」
由乃さんがテーブルにのっかったままバタバタと脚を動かして、両手で水をかくようにまわした。私も頭がクラクラするぐらい体を8の字に動かす。まっくのーうち!まっくのーうち!そんなコールが聞こえてきそうだった。
「…そうなの?」
「何か読んでらしたように見えたんですが…?」
「ぜんっぜん!全然そんなことないわよね!祐巳さん!?」
「もちろんよ由乃さん!あーっ!志摩子さんの後ろに桂さんがっ!?」
「ああっ!?本当だわっ!!」
私の声と由乃さんのリアクションで、純真な志摩子さんが驚いて後ろを振り向く。乃梨子ちゃんもそれにつられて首を回した。その一瞬が勝負。由乃さんはすでに自分のお腹の下にある本を、引っこ抜いて鞄にしまっていた。グッジョブ、と由乃さんからアイコンタクトが飛んでくる。
「ごめんごめん気のせいだったみたい」
「そう…よく考えたら桂さんがこんなところにいるわけないわよね」
「誰ですか、桂さんって?」
乃梨子ちゃんの一言で話題が変わって、私たちは何とか事なきを得た。危なかった。あんなとこ二人に見られたら、乃梨子ちゃんからは侮蔑の目で見られ、志摩子さんからは真剣なお説教をされかねない。最悪のパターンだけは阻止できた。
それから薔薇の館での通常業務が始まった。祥子さまと令さまは受験勉強で休み。途中で瞳子ちゃんと可南子ちゃんが来てくれて、どうにか仕事も終了。日が暮れて、私と由乃さんは皆を先に返して薔薇の館に残った。
飲み終わった紅茶のカップを拭きながら由乃さんが溜め息をつく。
「危なかったわね…」
「うん、ギリギリだったね」
「それにしても令ちゃんたら、あんな過激なものをよくもまぁ…あんな人畜無害って顔して、あんのエロ・フェティダめ!」
「まぁまぁ由乃さん。ジャンル的には普通って言うかノーマルだったんだからいいじゃない」
「まぁそうだけど…」
まだ二冊あるのよね、と由乃さんが呟いた。何てことない顔で、天井に目をやりながら。それとなく。
「え?え?それってどういうこと?」
「いやいやいや私はまだ何も言ってないわよ?」
「でもそれってそういうことだよね」
「ま、まぁ祐巳さんがどうしてもっていうなら…」
「わ、私も由乃さんが確認したいなら親友の頼みだし…」
「他のも明日…」
「誰も来ない昼休みに…」
「………」
「………」
無言で見つめ合う。言葉を超越した意志が、私たちを支えていた。窓の外に現れたまだぼんやりとしている濃い藍色の空。
そこに浮かぶ月と、エロス様だけが私たちを見ていた。