……重い。いや、それよりも痛い。周りからの視線が痛い。
少し先でマリア様にお祈りしていた瞳子が『何かしら……? なんだかいい匂いがしますわ』みたいな事を考えてそうな顔で鼻をふんふんしていた。
「ごきげんよう、瞳子」
「あら乃梨子さ――」
瞳子は笑顔のまま固まっている。無理もない。
私は瞳子の隣に立ち、お祈りをした。ちなみに私がマリア様に祈ったのは「今日という日をさっさと終わらせてください」だ。
私は無表情のまま、おもむろに歩きだした。
瞳子は一瞬の間をおいて私の後を追ってきた。
「あの……、乃梨子さん……その胸元でこれでもかというほど立派な姿を曝しているのは……」
「言わないで瞳子」
「ですがそこまで立派なモノを見せつけられて黙っているわけには……」
「お願い瞳子。もしも私にほんの少しでも友情を感じてくれているなら、何も言わないで」
「乃梨子さん……」
瞳子は立ち止まり悲愴な顔を私に向けた。
私は歩みを止めることなく、ゆっくりと瞳子から離れていった。……筈だったのに。
「瞳子……どうして……?」
瞳子は離れかけた私の元へ駆け寄ってきた。そして私に寄り添うように隣を歩いてくれたのだ。
信じられない気持ちで見つめる私とは視線を合わせず、瞳子はまっすぐ前を向いたまま言った。
「私も一緒に死んであげるわ」
「マミヤさん!――じゃなくて瞳子っ!」
軽く現実逃避を企てた私のセリフにも瞳子は前を向いたままだった。
澄ました顔をキープしつづけている瞳子を見て、私は「さすがは演劇部。やるじゃない」と現実逃避を続行した。
このままいくとそのうち「オレの名を言ってみろ」なんてことまで発言しそうな自分が怖い。
でも少しくらいの逃避はマリア様も許してくれると思う。
だって今、私の胸元には――、
タイの代わりに、立派な尾頭付きの鯛がこれ以上ないくらいの勢いで自己主張していたのだから。
悪夢の始まりは昨日の放課後。
◆ ◆ ◆
私、二条乃梨子はここ薔薇の館二階で途方に暮れていた。
それというのも私の手にある紙切れに謎の言葉が書かれていたからだ。
ミスプリントの裏をメモ帳に再利用したその紙切れには、どことなく見覚えのある筆跡で、
『タイの代わりに鯛』
という、意味を考える事を拒否したくなる文字が書かれていた――。
「……何なんですか、この意味不明な文面は?」
「たぶんタイを結ぶ代わりに鯛を使うって事じゃないかな?」
「祐巳さま……。一度頭の中で内容を吟味してから発言していただけますか……」
本当ならこんな紙切れなんて見なかった事にして、早く志摩子さんとイチャイチャしながら帰りたいのだが、そういうわけにもいかない。
何故なら、この紙切れは罰ゲームの指令を書いたものだからだ。
いくつかある紙切れの中から、よりにもよってこんなわけの分からない内容のものを選んでしまった自分の右手が恨めしい。
「えー……。だってそれ以外考えられないじゃない」
祐巳さまが唇をむーっと尖らせて言ってきた。
ふっ。甘いですよ祐巳さま。私はそんじょそこらの一年生とはわけが違います。そんな可愛らしい顔したって萌えたりしませんよ。
「タイの代わりに鯛を結ぶなんてできるわけないじゃありませんか」
「あー、そっか。鯛って高いもんね」
問題はそこじゃねぇ。
まぁ、いいか。納得はしてくれたみたいだし。
「ではこの罰ゲームはなかったことにして、もう一度選びなおしますね」
私が『タイの代わりに鯛』と書いてある紙切れを破棄しようとしたのを、紅薔薇さまである祥子さまが凛とした声で止めた。
「お待ちなさい。鯛ならうちの冷蔵庫に入っていたわ。それをお使いなさい」
おのれ小笠原……。
「さすがお姉さま! 良かったね乃梨子ちゃん」
無邪気に笑えばなんでも許されると思ったら大間違いだぞ祐巳さまよ。
「鯛があったとして、それをどうやってタイの代わりにすると言うんですか?」
「失礼ね。鯛くらいうちの冷蔵庫に入っているわよ」
「そうだよ。うちのお姉さまは嘘を言ったりしないよ乃梨子ちゃん」
論点はそこじゃねぇ。
「……すいません。言葉を間違えました。私が言いたかったのはですね、鯛という魚類に、布製品であるタイの代わりを務めさせるのは無理だということです」
「あー、そっか。魚だから生臭いもんね」
問題はそこじゃねぇ。
まぁ、いいか。納得はしてくれたみたいだし。
「ではやはりこの罰ゲームはなかったことにして、もう一度選びなおしま――」
「乃梨子。一度引いてしまった罰ゲームは変更不可よ」
「……」
これまでずっと黙っていた志摩子さんが、静かに私の言葉を遮った。
あぁ、うん。分かってたよ。
だってすんごく見覚えあるもん。この字。ただちょっと認めたくなかっただけでさ。
罰ゲームはやるよ。ちゃんとやるから。だからお願い志摩子さん。
どうやったら鯛がタイになるのか、それだけは教えて……。
「そうだっ! 焼けばいいんだよ乃梨子ちゃん! そしたら生臭くなくなるよ!」
祐巳さま。私は今日、無邪気さで人に殺意を抱かせる事ができるのだと、生まれて初めて知りました。他ならぬあなたに教えていただきました。
◆ ◆ ◆
こうして私は鯛(調理済み)を胸に下げて背の高い門をくぐり抜けた。
それにしてもいい匂いだ。呼吸をするたびに鯛の香りが私の鼻腔を刺激する。
昨日はほんのりと殺意を抱いてしまったが、祐巳さまのあの発言がなければ今頃生臭さにも耐えなければいけなかったのだ。一口くらいなら鯛を分けてあげてもいいかもしれない。
そう。私はお昼にこの鯛を食べるつもりだ。
なにしろあの小笠原家にあったもの、一級品なのは間違いない。調理したのも小笠原家のシェフとなれば、表面にうっすら見える粗塩だって厳選されたものの筈。
これから先、こんなものを食べる機会なんてそうそうない。そうだ。瞳子と一緒に食べよう。あぁ、早くお昼にならないかなぁ。
現実逃避がピークを迎えていたこの時、物陰から私をジッと見つめている存在に私は気付かなかった。
そもそも数多の人間から見られていた私は自分を護るため、意図的に周囲の視線をシャットアウトしていたので気付く筈がなかったのだ。
――もうすぐ下足ロッカーというところで、私は物陰から突然現れた黒い影に襲われ鯛を奪われた。
鯛もなく、タイもない私はその後シスターにお説教されてしまった。
深い色の制服に点々と残る粗塩と美味しそうな残り香が私の胸を締めつける。
「私、何やってんだろう……」
それは誰にも分からない。
「あら、ゴロンタ。今日はずいぶん豪勢ね。何かお祝い事かしら? うふふ」
それは誰にも分からない。