長編とはまったく関係ありません。ヤマもオチもなくだらだらと。
「あー、なんか暇ね。ねぇ祐巳さん。」
ペンや書類を机から蹴散らす音と共に、ぽつりと零れるように紡がれたその言葉は福沢祐巳を凍らせるのには十分だった。
一見その言葉は年頃の少女の言葉としてはそう珍しいことではなく、逆に青春を謳歌しようとする高校生の台詞としては正しいもののように思われる。今しかない時間を無駄にしないために何か興味のある事をしようとする。それはとても正しいことだろう。
しかし、言葉というものは使う人物によってその意味合いが異なる。例えば「好き」という言葉を子供から言われれば純粋な好意と受け止め、同年代の異性から言われればそれは告白だと思うだろう。つまりはそういうことだ。一般的なお嬢様が先ほどの台詞を言えば何の問題もない言葉で特に気にすることもない。しかし目の前で机にだれたようにもたれかかり全身で退屈だと主張しているこの人物が言うのならばそれとは状況は違う。薄幸の美少女を体現したかのような可憐な容姿をしているのは島津由乃という少女で、しかしリリアンの学生として相応しいとは言えないほどだらしない振る舞いでその印象をぶち壊してしまっている。そしてそんな彼女の「退屈だ」発言はさながら時限爆弾。突飛な発想を持つ彼女に振り回されるのは普段ならば姉である支倉令なのだが二人きりしかいない室内で言われたそれは死刑宣告にも似ていた。
「え、えーと。その前にさ、とりあえず書類の整理を終わせようよ。」
「いいえ、祐巳さん。今はそんなことをしている場合じゃないの。私は今刺激を求めているの。」
そうなのだ。他のみんなの集まりが悪いので、今日の仕事は比較的優先順位の低い書類を今のうちに整理することになっていた。そしてついさっきまでは大人しく二人でそれをこなしていたはずが、しかし次の瞬間には飽きたのかいきなり由乃は机につっぷした。まるで机の上には何もないかのように勢いよく身を投げ出したその結果が今も床に転がる筆記用具と大事なはずの書類で、あまりにも平然とばらまくものだから「実はあの書類って大事じゃないんじゃないか?」と思えてしまう。
「あのね、祐巳さん。同じことばかり繰り返していても人は成長できないの。常に新しいことを求めなくちゃいけないのよ。」
「うん、まあ、言ってることもわかるんだけどね。それとこれとは話が別じゃないかな。」
そんな祐巳の正論は由乃には聞こえてないらしく、ああでもない、こうでもないと何かを考え込んでいる。なんていうフリーダム。傍若無人とはまさにこのことだろう。そして考え込む由乃というものは祐巳にとっては不吉なものでしかなかった。なぜなら彼女の発想というのは常人には理解のできない構造になっている。かつて妹オーディションなんていうものを言い出したのは他ならぬ彼女だ。本来伝統的で神聖であるはずのスール制度にオーディションを開こうなんて俗物極まりない発想を持つ人物なんて純粋培養のお嬢様の集まるリリアンでは後にも先にもただ一人だろう。祐巳がそんな嫌な予感に身を震わせていると由乃が祐巳のほうに顔を向けた。
「なにか面白いこと思いつかない?」
祐巳はこれをチャンスだと思った。怖いのは前黄薔薇様を彷彿させるイレギュラーな思考回路だ。なにか無難なもので満足させてしまえばそれが発揮されることはない。マリア様は私を見放さなかった、毎日祈りをささげていたのは無駄じゃなかった。そう思った祐巳は間髪を入れずに口を開いた。
「じゃ、じゃあさ」
「あ、やっぱりいいわ。私祐巳さん自体は面白いと思うけど祐巳さんの思いつきには期待してないわ。」
「傷ついた!由乃さん、私今すっごい傷ついたよ!」
質問に答えようとした祐巳に浴びせられたのは親友から向けられる言葉とは大きくかけ離れたもので、祐巳はあまりの理不尽さに呆然とするしかなかった。希望を与えた後で、それを裏切り、さらにはとどめと言わんばかりに侮辱するなんて残酷な仕打ちを親友から受けるなんて誰が予想できるだろうか。
「ほ、本当に聞かないの?」
「ええ、考えてみれば平均点ですべてが構成されている祐巳さんに聞くことじゃなかったわ。」
「由乃さん由乃さん。泣きそうだよ、私。ほら、私泣きそう。」
悪意を持って言っていないのは由乃の表情をみれば明白で、おそらく考えるのに夢中で深く考えずにしゃべっているようだ。逆にいえば今の言葉は由乃の飾ることない言葉ということでそれが余計に祐巳の心をザクザクと傷つけていた。そんなことには気づかずに思考を再開する由乃と打ちのめされた祐巳の外から見ればひどく奇妙に見える沈黙はしばらく続いた。
「あーー。やめたやめた。思いつかない。…ん、祐巳さん。どうしたの?泣きそうな顔してるわよ。」
「あれ、やっと気づいてくれたんだ。はは、嬉しいな。」
思考の海から抜け出した由乃は机に突っ伏していた状態から起き上がると目の前の親友の様子にようやく気づいたらしくその悲しげな表情に動揺した。しかしどこまでもゴーイングマイウェイな彼女はその表情をさせているのが自分なのだということはかけらも覚えておらず、それどころかなんと祐巳を心配し始める始末である。
「祐巳さん、なにか悩み事でもあるの?相談にのるわよ、私たち親友じゃない。」
「うん、嬉しいな。けど根底ではああいう風に考えていると思うと悲しいよ、由乃さん。」
「ええ、分かるわ。祐巳さんのことだからまた祥子様関係のことでしょう?まったく祥子様は祐巳さんを振り回してばかりなんだから。」
「分かってない、分かってないよ、由乃さん。お姉様のことなんて一言も言ってないよ。」
「いいのよ、正直に言っても。祥子様も困ったものね。」
「違うよ。困っているのは今で、その原因は話を聞いてくれない由乃さんだよ。」
一度思い込んだらどこまでも突っ走ってしまう残念な脳みその持ち主である由乃には既に祐巳の言葉は聞こえていなかった。そして祐巳は目の前で言葉の通じなくなっている由乃をみてだんだんと不安がこみ上げてきた。先ほどまで暇だと退屈そうにしていた由乃の瞳が今では爛々と輝き始めている。
「…そうね。たまには祥子様も痛い目に遭うべきよね。」
「ちょ、ちょっと待って、由乃さん!思わぬところに着地してびっくりしたよ!」
「いいのよ、何も言わなくて。私に任せてくれればいいから。」
「ねぇ、さっきまでの心配そうな表情どこいったの?なんでそんなに楽しそうなの?」
「心配要らないわ。ちゃんと成功させてみせるわ。」
「お願いだから話を聞いてよ!さっきから言葉が届いてないよ。」
由乃は自分の考えに夢中になり、祐巳は嫌な予感が考えられる中でも最悪な方向で当たりそうで必死に止めようとする。そんな乙女の園にふさわしくない騒がしい惨状は長くは続かなかった。
「誰が痛い目に遭うべきなのかしら?」
その凛とした聞き覚えのある声に二人の体はピタッと止まった。ゆっくりとドアの方に顔を向けると予想通りの人物が立っていた。その表情に浮かべた不自然なほど綺麗な笑みはひくつかせた口もとのせいで笑っているようには見えなくて。
「じっくり説明してもらおうかしら。床に散らばった書類のことも含めて。」