【3187】 そして世界は  (海風 2010-06-21 09:54:44)




【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】から続いています。









 有名な生徒は、二つ名でもある能力名で呼ばれている。
 その知名度は高ければ高いほど「厄介」か「強者」か「要警戒」の三種類に分けられ、今のところ例外なのは“反逆者”くらいのものである。
 一階の廊下。
 今ここに、山百合会に勝るとも劣らないほどの知名度を持つ三人が、示し合わせたように顔を着き合わせていた。

 ――紅薔薇勢力総統、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”。

 ――黄薔薇勢力総統、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”。

 ――白薔薇勢力総統、“九頭竜”。

 この三人は三薔薇勢力総統。三勢力のトップである。ちなみに薔薇の後継ぎになる蕾は、発言権はあっても階級的な立場には据えられていなかったりする。
 薔薇と勢力は別物で、一心同体というわけではない。
 はっきり言ってしまえば、実務的に勢力を率いているのは、この三人ということになる。
 その辺の線引きはしっかりしているものの、それでも薔薇に付き従うのは、様々なしがらみもあるが――率直に言うなら、自分の決めたトップに対する敬意と、敵勢力に負けられない対抗心の二つである。
 そう。
 この三すくみに睥睨するために、互いが互いに薔薇に仕え、勢力を率いているのである。
 ――というのが、先週までのお話だ。

「どうするか決めた?」
「うーん……」
「どうもこうも」

“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”の質問に、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と“九頭竜”は答えられない。
 案の定まだ迷っていた。
 いや、それはそうだろう。
 先週の土曜日、ほとんど説明もなく、いきなり「解散」を宣言されてしまったのだ。戸惑うのも当然、迷うのも当然である。
 もちろんその理由はわかっている――自分達も“契約書”争奪戦へ参加することを許されたのだろう。多くは語らなかったが、このタイミングでこの騒動である。関連付けるな、というのが無理な話だ。
 だが、彼女らは本来なら、薔薇を支えるためだけの勢力を率いる者達である。それに簡単に「勢力解散」なんてできるものではない。この組織は大きすぎる。もはやトップの決定だけで自由に動かすことはできない。
 というのも当然あるが、問題は解散宣言の方ではない。
 ――どちらかと言うと、喜んでいい悩みなのだろう。
 各薔薇が一言「手伝え」と言えば、総力を上げて“契約書”を奪いに行っただろう。今頃この三人は血みどろの抗争を繰り広げていたかもしれない。
 だが、解散されてしまった。
 だから迷う。
 この采配は、きっと、各薔薇は自分達も争奪戦に参加しろ、と言っているのだろう。上だ下だとこだわらず等しく権利をくれるのだから、さすがは自分達が付いていこうと決めた薔薇である。誇り高く寛大だ。
 しかし、目先の欲だけに走れないのが、大きな勢力を率いる立場にある者達の辛いところだ。
 たとえば。
 この争奪戦で勢力総出で当たれば、自分達の薔薇を女帝に押し上げることができるのではないか? こんな時こそ組織が、手数が、フルに役立つのではないか? 単純な話、人海戦術だってできるし、奪った“契約書”を守るために全員で壁になったりもできるのだ。根本的に、自分達が支持する薔薇を頂点に立たせることが目的だから総統などをやっているのだ、それが正解のはずである。
 だが、きっとそれは薔薇が望んでいない。だから解散宣言などしたのだ。詳しい説明もせずに。
 土曜日、三薔薇に、解散を宣言されて。
 それから月曜日まで諸々考えたものの、どうしていいのか、未だ答えは出ていない。
“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”以外は。

「私は決めたわ」

 二人が“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”を見た。

「争奪戦に参加する――たとえ黄薔薇が持っている“契約書”でも取りに行く」

 黄薔薇に仕えし“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は、解散の命に従い、争奪戦に参加するようだ。
 それが黄薔薇の望みでもあるし、何より自分の楽しみのために参加するのだろう。性格的に彼女はリーダー役には向いていないのは周知の事実である。今更驚くような決断でもない。

「……私も決めた」

 宣言する“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”を見て、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も覚悟を固める。

「私は紅薔薇を女帝にする」

 薔薇の望みは争奪戦への参加のようだが、彼女は自分の支持する薔薇に協力することを決めた。

「さすが“忠犬”」
「ケンカなら買わないわよ、“銃マニア”。そんなことしてる場合じゃない」

 明らかにケンカを売っている“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”に冷たい一瞥をくれ――二人は“九頭竜”を見た。
 彼女は溜息をついて前髪を掻き揚げた。

「私はまだ保留にしておく。うちは複雑だから」

 白薔薇と白薔薇勢力は、仲が悪い。“九頭竜”自身は白薔薇・佐藤聖のことは嫌いではないものの、勢力内部や幹部には聖のやり方に反感を持っているものが多かった。
 きっと「聖の協力をする」と言っても、下は素直に動かないだろう。それどころかその命令のせいで、まだ抑えられている反感が表面化して内部分裂を起こす可能性が高い。混乱に乗じて他勢力もちょっかいを出してくるだろうし、目に見える弱体化を見逃すほど“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”も甘くない。
 面倒な話である。
 
「ただ、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”」
「何よ」
「下に『紅薔薇に強力しろ』って命令を出すのだけはやめてほしいわ」
「……そうね。確かにそれがいい」

 もしその命令を出してしまうと、対抗するために、黄薔薇勢力も白薔薇勢力も同じ命令を出さざるを得なくなるのである。たとえ命令がなくても末端辺りは張り合うように動き出すに決まっているのだ。
 本当に三勢力がぶつかりあってしまうと、もう争奪戦がどうこうという話ではなくなるだろう。広がる被害、無関係の者も容赦なく巻き込み、リリアンは確実に崩壊する。
 まあ、その前に、三薔薇が本気でキレるだろうけれど。

「三人でそれだけは約束しておこう。全面抗争が始まったらシャレにならない」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の言葉に、二人は頷く。
 薔薇の決定ならともかく、自分達が火の粉を撒き散らして危険物を爆発させまくるような事態は、本人達も含めて誰も歓迎などしない。
 総力戦は、時期と状況を選ぶべき。そして今は、勢力以外の駒達が活発に動き出そうとしている。
 ――こんな時に有効なのは、全面抗争などではなく、暗殺である。
 各薔薇を狙う理由と、状況とが揃っているのだ。暗殺などという隠密行動厳守が常識の一手さえ、表立って堂々とやらかせるのが、この争奪戦なのである。
 本気で各薔薇と勢力を潰そうと思うなら、それが最良だ。
 だから全面抗争は避ける。入り乱れて被害を大きくしても、さほど意味がない。――などと説明するまでもなく、三人ともわかっている。
 権力的かつ勢力的な意味で動くなら、これ以上ないほどの大きな波が来ている。ここでどう動くかで、今後が決すると言ってもいい。
 どうにか隙を突いて薔薇を手折れれば……そういう野心を抱く者は、この三人以外にも大勢いるだろう。
 それは三薔薇の誰もが望んでいないかもしれないが、考えないわけにはいかない。攻め手が浮かぶから防止策も考えられるのだ。

「……こんなところでしょうね。失礼」

“九頭竜”は独り言のように呟くと、二人に背を向けた――もう話すことがないからだ。
 ひとまず、これで全面抗争の種は摘んだ。ちゃんと命令さえ下しておけば、表立ったぶつかり合いは起こらない。

「“蛇”はどう動くかね」
「あの子の考えることはいまいち読めないのよね」

“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も、それぞれ動き出す。


 この日の午前中に、リリアン最大の三勢力は一様に一時的な解散を公表。同時に争奪戦への自由参加の許可を出す。
 組織という枠に収まっていた猛者は、野に放たれた獣のように次々と台頭。
 当然、争奪戦は激化することになる。
 三薔薇の望み通りに。




「――ふぇっ!?」

 ……ふえ?
 英語の授業中、突然わけのわからない悲鳴を上げたクラスメイトを、教師含む全員が注目する。
 彼女は驚愕の表情で、手の中の何か……紫のオーラを放つ紙片を凝視していた。

(まさか“契約書”!?)

 それが何であるかを解したクラスメイト達は、次の瞬間、同じことを考える。

(なぜ彼女が?)

 その生徒は未だ目覚めておらず、慎ましくも目立たないよう学園生活を送っているような人物である。
 そんな人物が、女帝になれる“契約書”を持っている理由がわからない。
 そもそも驚いている理由もわからない。
 ――まあ、わかるわけもないのだが。

 真相はこうである。
 いきなり“契約書”三枚を掠め盗り、最も女帝に近づいた“居眠り猫(キャット・ウォーク)”立浪繭は。
 その三枚を手に入れた数秒後に。
 擦れ違う顔も知らないような女生徒達のポケットに、こっそり一枚ずつ“契約書”を突っ込んだ。
 繭は女帝にまったく興味がない。
 そもそも、まともに闘うだけの基礎能力と戦闘異能を持ち合わせていない。だから持っていたら問答無用で狙われるだろう代物など、持て余すだけである。
 守り切れるだけの力もなければ――本気で女帝を目指すなら、最終日のタイムアップ寸前まで待って、最後の最後に奪うべきだ。所持者がそれを許すかどうかはさておき、それが一番繭にとって勝率が高い策であることは、繭自身もちゃんとわかっている。
 それをしないのは、興味がないからである。
 ただ。
 どんなものかと思っていた三薔薇に、ちょっかいを出してみたかっただけである。それ以上の理由はない。
 普段はさすがに怖くて手を出せないが、こういう状況であるなら許される。
 だからやった。
 それだけだった。
 繭が“契約書”を押し付けた三人は、まったく知らない人物である。関連もなければ共通点もなく、強いて言えば「すぐ側に居たから」である。
 相手は渡されたことさえ気付いていない。

 そして三枚の“契約書”は、行方不明になった。
 掲示板に張り出されている“戯言を囁く地図(バベル・クラフト)”が示す“契約書”の位置は、大まかな位置はわかるが、大まかにしかわからないのである。
 教室まではわかるだろう。しかしその教室の誰が持っているかまでは“地図”では判別できない。
 こと、強い異能使いならともかく、目覚めていない者が所持すると、余計にわからなくなる。彼女らは弱い者同士で群れるからだ。
 しかも、本人がまだ持っていることに気付いていないのだから。

「――令さん!!」

 チャイムが鳴ると同時に、悲鳴を上げた女生徒が、クラスメイトの支倉令に泣きついた。

「こ、これ、受け取ってください!」

 差し出されたのは“契約書”である。
 面食らっている令を前に、彼女は「いつの間にかポケットに入っててごめんなさいもうほんと怖くて怖くてごめんなさい令さんに渡すことしか思いつかなくてごめんなさい」と早口でまくし立てた。半泣きだった。ごめんなさいって言いすぎだった。

「……いいけど」

 いまいちよくわからないが、当人の知らない内に持っていた、ということだけはわかった令は、“契約書”を受け取った。
 咽び泣きながらお礼を言って、「やっぱり返す」みたいなことを言われて返却されることを恐れてか足早に立ち去るクラスメイトを見送り、令は考える。

(意外な形で回ってきたなぁ)

“疾風流転の黄砂の蕾”支倉令と“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃には、黄薔薇・鳥居江利子から厳命が出ていた。

「私の妹、私の孫なら、私に遠慮なく女帝を目指しなさい」と。
「一度も“契約書”を手にできないような失態を晒したら、もう身内とは思わない」と。

 令はともかく、由乃には厳しい命令だった。――まあ、これこそが、「福沢祐巳送迎の任」を果たせなかったマイナスを補うものなのだが。ここらである程度の手柄や活躍を見せないと、勢力側からの苦情は止まらないだろう。
 由乃は別に嫌われているわけではない。むしろ期待されているから苦情が来るのだ。実力と品性と立ち振る舞いと幹部会議への出席率の悪さは疑問視され続けているが、本気で幹部に相応しくないと思われているなら、苦情は当然だが、逆に褒めて腐らせる方向でも動いているだろう。苦情だけなら、むしろ「早く手柄を立てろ、もっと自覚を持て」とせっついているようなものである。まあとにかく由乃にとっての正念場だ。
 令はこれで、ひとまず、姉から課せられていたノルマはこなしたことになる。何の苦労もせず、そもそも何もしていないのに手に入れてしまった。

(まあいいか)

 まだ月曜日、初日である。
 これから土曜日までずっと守り通すことは、さすがの黄薔薇の蕾でも厳しいものがある。一度失ってまた手に入れれば文句はないだろう。
 令は“契約書”に通してある紐を首に掛け、「私持ってます」という主張を剥き出しにして椅子から立ち上がる。
 この「首から下げる」というのは、山百合会メンバーだけに約束されたルールである。もちろん他の生徒がする必要はないので、ルールには記されていない。
 普通なら隠し持つだろう。この吹き出すオーラもポケットに入れるだけで隠せる。そして一人で行動さえしなければ、“地図”から特定される可能性は低い。それとまだ知られていないが、ポケットに納めると“契約書”が放つ力も感じられなくなるのだ。だから力を感じられる目覚めた者でも、目覚めていないクラスメイトが所持していることに気付かなかった。
 そう考えると、いくら山百合会でも、剥き出しで持っておくだなんて随分なハンデである。

「…………」

 ほら、ハンデである。
 教室を一歩出れば、「この教室にある“契約書”」を狙って様子を伺っている数名に、一目瞭然で所有者がバレてしまうのだから。
 そんな金魚のフンをぶら下げて、令が向かったのは一階の掲示板前――目的は“戯言を囁く地図(バベル・クラフト)”である。“地図”の前には十数名の生徒が“契約書”の行方を追っていて、確認すると足早に移動する者、動きをじっと見守る者、リーダーを中心にしているのだろう少数グループがこそこそ話し合っていたりして、静かな熱気を放っている。
 なんだかよくわからなかったが、“契約書”を持ってきたクラスメイトの彼女は、「いつの間にかポケットに入っていた」と言っていた。であるなら、誰が……三薔薇の誰の“契約書”が令に回ってきたのか確認したかった、のだが。
 
「「……あっ」」

 ここに近づいてきた“契約書”から支倉令の姿を確認すると、辺りは騒然となった。
 三薔薇から所有者が動き、今、令が一枚を持っている。
 つまり三薔薇の誰かから令が奪ったのだ――と、多くの者が誤解した。そしてイコール「支倉令が薔薇を倒した」と直結して考える者もいた。
 冷静に考えてほしい。
 三薔薇の誰かを相手に無傷で勝てるほど強い者なんて、リリアンには存在しないではないか。
 集まる視線を物ともせず、令は“地図”を見て……ただただ驚く。

(所有者が全員動いてる……)

 どういった事情でかはわからないが、三人の薔薇は、三人とも“契約書”を奪われたらしい。時間的に、そして校舎などの損壊的に、まず戦闘は起こっていないだろう。
 一枚は、令の首にある。
 「いつの間にかポケットに入っていた」から令に回ってきた。素直に考えるなら、誰がか三薔薇から盗み取って誰かのポケットに突っ込んだ、といったところか。三人を個別に――いわゆる犯人が三人いて、ほぼ同時期に三薔薇に仕掛けて三人とも成功した、なんて都合の良いことが起こったとは思えない。
 犯人は同一犯で、きっと三薔薇が集まっていた時にまとめて掠め取ったに違いない。
 ――となると、「盗む」という一点に特化した異能使いがいることになる。あの三薔薇から奪ったのだ、相当厄介な相手であることはすでに証明されている。

(恐らく二つ名持ち)

 情報屋に当たれば犯人特定は難しくないかもしれない。令が動かずとも誰かが探し出して「リタイア宣言」させるだろうが、警戒するに越したことはない。はた迷惑に引っ掻き回されるのは、本気で勝とうとしている者には邪魔である。
 それに。
 誰か強い者が所持するのではなく、こうして「誰が持っているのかわからなくなる」方が、もっと厄介な気がしてきた。
 少なくとも、令が持っていることは、剥き出しのおかげでこうしてバレている。他に誰が持っているのかわからない以上、他の二枚に向かうはずの注目の多くが令に向けられる。その分、争奪戦は激しくなるだろう。

「令さま」
「ん?」

“地図”の前で考え込んでいる令に声を掛けたのは、“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”武嶋蔦子だった。

「ああ、蔦子ちゃん。なんだか久しぶりだね」

 蔦子は肩をすくめた。

「そうですね。いきなり稽古も中止ですし、この騒ぎですし」

 争奪戦の企画が持ち上がった木曜日から、劇の練習はしなくなった。毎日通っていた福沢祐巳も殺陣以外には参加していた蔦子も、あの日以来、薔薇の館には行っていない。
 まあ、蔦子からしても、ある意味都合は良かったが。この争奪戦を含めて。
 空いた時間で、じっくりと新能力の開発をした。元々いくつかの候補はあったのだ、あとはそれが実現可能かどうか、想像通りの結果を得られるのかどうかだけが課題だった。

「それが“契約書”ですか?」
「うん。偶然だけど私に回ってきてね」
「なるほど……へえー」

 蔦子はしげしげと、令の首に掛かっている“契約書”を観察する。
 紫のオーラを放つそれは、何者よりも強い力を発していた。しかもこれで四分の一だと言うのだから、想像を絶するほどの凄まじい力量を持つ異能使いが現れたことになる。
 まあ、それはさておき。

「記念に一枚、いいですか?」
「記念? 何の?」
「“契約書”を手に入れた記念」
「……記念ねぇ」

 苦笑する令。偶然回ってきただけの物である。果たして記念と言えるようなものなのかどうか。それよりは、一度奪われてまた奪い返したその時こそ撮ってもらいたいところだが……

「はい、撮りますよー。目線こっちくださいー」

 気が進まない令を前に、蔦子は強引にシャッターを切った。

「未来でも“撮った”?」
「それも面白そうですけれど、三薔薇が参加するゲームで未来を“撮って”も、まず実現しませんよ」
「そうなの?」
「そうなんです」

 だが、違うモノは“撮った”が。
 蔦子は早々に令と別れた。
 ――まだ試験的な段階だが、“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”の発展系、第二の能力で令を“撮った”。山百合会の誰かを相手にちゃんと結果が得られるのであれば、蔦子的にはこれで完成である。

(……なんか“撮られた”かなぁ)

 そして令も、何かされたことには気付いていたが、争奪戦には関係なさそうなのであえて触れなかった。この周囲に人がいる状況で詮索したら、蔦子の立場が悪くなる。きっと力ずくで何をしたのか聞き出す者が現れるだろうから。

(“撮られた”としたらきっと個人情報だな)

 その読みは当たっている。だが何の情報を“撮られた”のかは見当も付かない。
 近い内に本人に聞いてみよう、と令は思った。




 令の予想通り、行方知れずになった二枚の“契約書”の代わりに、自身が持つ一枚に注意が集まることになる。
 しかし、大まかに二種類に分けられた。
 腕に自信のある者――いわゆる戦闘好きは令に目を向け。
 情報系やその他は、行方がわからなくなった二枚の方に注視する。
 どちらにせよ、今すぐ入手しても土曜日まで守り続けるのは難しいので、皆が時期や状況を伺うのも当然だった。




 こうなってしまうと、複雑なのは“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃だ。
 昼休み、昼食をバナナ一本で済ませた由乃は、早くも常住者となりつつある数十名の中に埋もれ、“地図”を前に頭を悩ませていた。
 噂で、三薔薇が“契約書”を奪われて、その内の一枚を支倉令が所持していることは聞いている。今ここに立ち、噂は真実であろうことも確信した。あの三薔薇のことだ、わざと流出させた可能性も捨てきれないので、所持者が移ったのはそう不思議だとは思わない。
 問題は、その相手だ。
 ――姉である支倉令と闘う?
 それ自体に抵抗はない。
 強い相手なら誰とでも闘いたい。だから令も例外ではない。我が姉、我が従姉妹ながら、令の強さは並外れているのだ。いずれ本気でやりあいたいとは思っている。
 だが、黄薔薇同士で削り合ってどうする、という懸念は当然あった。
 由乃は女帝になることは諦めている。というより度外視している。自分より強い者がまだまだゴロゴロいるのだ。それなのに頂点に立とうなどとおこがましい思考はない。まだその座に相応しい自分ではないことは、誰よりも自分が知っている。
 この争奪戦にあるのは、いつもは闘えない強者に堂々と銃弾を放てる理由のみだ。もはや過程と目的が入れ替わっているどころか、そのどちらも見えてはいない。
 しかしそれでも、江利子と令の邪魔だけは、極力したくないと思っている。由乃は集まりもすっぽかすし黄薔薇の名に泥を塗りまくるような不良幹部だが、それでも幹部なのだ。不可抗力ならともかく、目に見えている不利益をもたらすわけにはいかない。
 ――令と闘うことはいいが、江利子と令の邪魔はできない。
 ルールなんてやぶりまくりの由乃だからこそ、その二つだけは厳守しようと決めている。

(となると)

 行方知れずとの噂の二枚を追う、ということになるか。
 一枚は、今はミルクホールにある。
 そしてもう一枚は、三階の廊下を歩いている。
 ちなみに令は、今は自分の教室にいるようだ。たぶん昼食を取っているのだろう。
 由乃は少し悩むと、

「ねえ。“契約書”って誰が持ってるの?」
「え? さあ……どこの教室にあるかはわかるけれど、誰が持っているかは……」

 たまたま隣にいた、顔は知っているが名前は知らない同級生の誰かに聞いてみたものの、色好い返事は聞けなかった。――ちなみに由乃は有名なので、由乃は知らないが相手は由乃を知っている。
 拍子抜けどころか「だよね」と同意できる返事には、更に情報が付加した。

「闇雲に、総当りの人海戦術、検問で一人一人に持ち物検査……誰が持っているかわからないものを探すなら、その辺しか打つ手がないわよね」

 確かに。教室に乗り込んで「名乗り出ないと連帯責任で全員に食らわす」なんて脅迫も手ではあるが、目覚めていない者も巻き込むのはあまりにもスマートさに欠ける。たとえ目覚めていない者が“契約書”を持っていたとしてもだ。

「でもそれよりは、占い系の誰かなら的を絞ってくれるかもね」
「……ああっ!」

 占い系。そうだ。その手の能力者の存在を忘れていた。
 由乃にとっては関係も興味もない方面なだけに、そっちの情報はほとんどシャットアウトしていたのだ。
 曖昧に未来のことがわかったり、生年月日・血液型・その他の要素で異能の名前の画数を見てくれたり、目覚めた異能のことを調べてくれたり、その日の運勢を占ってくれたりするらしい。どれにしても曖昧な結果――武嶋蔦子の“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”のようなはっきりした物証があるわけではないので、あまり当てにはならない。
 しかし今は、大まかな指針だけでもあれば、随分助けられるのは確かだ。ただ探すだけでは時間も手間も掛かりすぎる。

「誰に聞けばいいと思う?」
「うーん……有名どころなら、“月面流星(ムーンフェイス)”と“調停の魔女”の二人がトップクラスよね」

“月面流星(ムーンフェイス)”と“調停の魔女”。どちらも名前は聞いたことがある。

「で、その二人は何年の誰?」
「言ってもいいけれど、たぶん今は由乃さんと同じ理由で、行列ができてるんじゃない?」
「あ、そうか」

 それは考えられる。知り合いでもないし、コネもない……こともないがこんな時ばかり山百合会や黄薔薇関係の顔を利用するわけにもいかないし。となれば行列の最後尾に並んでイライラしながら順番待ちをしなければいけないわけだ。
 想像だけでイライラしてくる。並ぶ時間があるなら総当りで捜索していた方がまだマシだ。

「有名じゃなくていいし、腕もそれなりでいいし、的中率も低くていいから、すぐ占ってくれる人いないかな?」
「うー……私は情報屋じゃないから、これ以上は……あ、ほら、あそこに情報屋がいるわ。向こうに聞いてみて」
「ん?」

 確かにいた。新聞部・山口真美が。そして由乃の視線が逸れた隙に、話していた彼女はそそくさと由乃の側から離れた。

「おや?」

 由乃がお礼の一つでも言おうと思った時には、彼女の姿はもう見えなかった。
 その代わりに、由乃を見つけた真美が駆け寄ってきた。

「由乃さん!」

 何事だ、と身構えてしまうくらいの必死の剣幕で、真美は言った。

「大変なのよ! 白薔薇が――」




 由乃と真美が出会う、ほんの5分ほど前。




 育ち盛りの昼休みである。
 いくらお嬢様学校であろうとも争奪戦が始まっていようとも、今日もミルクホールは大盛況だ。
 混雑する人込みの中に、“冥界の歌姫”蟹名静と、半ば押しかけ弟子になっている“竜胆”の姿があった。
 ――まだ許可が出ていないのだ。
 師匠である静からGOサインを貰っていない“竜胆”は、争奪戦と私闘への参加を制限されている。
 戦闘要員はある種のアスリートである。動くことを前提としているなら、まともに食事なんて取っていられない。つまり、ここにいる者達は、少なくとも昼休みは闘う気がない者ばかりだということだ。現状に至っては、戦闘どころか争奪戦を含めてもいいかもしれない。
 私闘はともかく、争奪戦の方は、焦ろうが急ごうがのんびりやろうが、不動の一週間という猶予があるのだ。今すぐ参戦するメリットは低い。何より“竜胆”はまだまだ弱い。納得せざるを得ないのだ。
 ちなみに静は、女帝には全然興味がないそうだ。

「……あ」

 学食にしようかパンにしようかと悩んでいた静は、なぜか“竜胆”の背後に隠れた。両肩を抑えて身を屈め、何かから隠れようとしているようだが……

「…? 何です?」
「いいから」

 いや、良くはないだろう。弟子として、師のこそこそした態度なんて見たくないのに。
 だが、対象方向を見て、なんとなく納得できた。

「白薔薇ですか?」
「いいから黙れっ」

 図星のようだ。
 視線の先には、かの白薔薇・佐藤聖がいた。人込みは彼女を避けるようにスペースを作り、半径1メートルほどの輪の中心に聖がいる。
 声が聴こえたわけではないが、聖は「よし」と小さく呟いた。何を食べるか迷っていたのかもしれない。

「――丁度いい。ちょっと行って来ます」
「え、えっ」

 戸惑う静を置いて、“竜胆”は歩き出す。白薔薇のために用意された空間へ、躊躇うことなく。周囲がさりげなく、更に空間を押し広げた――“竜胆”の接近に戦闘が起こることを警戒したからだ。

「…ん?」

 聖が“竜胆”に気付く。

「…………」

“竜胆”は黙って聖を見詰める。
 ――これが、かつては越えようと決めていた、巨大な壁の一つ。乗り越えることを決め、絶対に手折ろうと決意していた美しき薔薇の一人である。
 しかし、その決意はもはや、瓦礫の山になってしまった。
 この数日で思い知った。
 本当は、この壁を越えるどころか、そこへ辿り着くことさえできない。それが己の現実だ。
 山百合会の末席である“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃にも勝てないし、山百合会の一員でもない蟹名静にも勝てないし、きっと他にも強い者がリリアンにはたくさんいるのだ。
 強くなった分だけ、遠のいた気がする。絶対に近づいているはずなのに。
 見晴らしの良い場所に上ったら、そこら辺にあるはずだった彼女らの背中は、本当は見えないくらい遠くにあった。そんな感じだろう。きっと。
 ――今すぐ試してみたい。その強さを実感したい。
 だが、まだ早い。色々な順番を飛ばして薔薇とやりあおうだなんて許されない。それが頂点を目指す者の礼儀だ。

「何? 私に何か用?」

 黙ったままの無礼者に、聖は穏やかに問い掛ける。駄々漏らしの力量を目の当たりにしても警戒さえ見せないのは、何があっても対処できるという余裕から来るのか、仕掛けてこないことを確信しているからか。
“竜胆”は頭を下げた。

「その節は、仲間がお世話になりました」
「世話?」
「“瑠璃蝶草”」
「……あ、そういうことか」

 聖は“竜胆”がどういう存在なのか、これでわかった。――こいつが“契約を交わした者”だ、と。きっと先週の瓦版号外に載った者の一人だろう、と。

「あなたはアレ? “天使”?」
「いえ、“重力”の方です」
「へーそうなの。名前は確か……」
「“竜胆”」
「そうだったそうだった。それにしても“瑠璃蝶草”といい“鳴子百合”といいあなたといい、私達の前でよく華の名を名乗れるもんだ。何? 怖いもの知らず?」
「残念ながら怖いものはたくさんありますし、白薔薇もかなり怖いです」
「なんだ。ケンカ売りに来たわけじゃないのか」

 聖は拍子抜けしたようだ。……まさか吹っかけられることを期待していたのだろうか。

「彼女は元気ですか?」
「みたいね。監視からは特に報告はないし」

“竜胆”達と同じように、“契約者”ももう、リリアン女学園の一女生徒の本分を全うしている。ただし三薔薇からの監視が付いているが。
 まあそれを言えば“竜胆”も、他の仲間も同じである。実際は大して強くもないが、力の強さだけは三薔薇並の要警戒レベルなのだから、マークも付くというものだ。
 監視が付いている――元から付くだろうと覚悟していたのでそれはいいが、動きが監視されている以上、仲間との接触は極力断っているのだ。今はまだ、周囲を刺激してもいいことは一つもない。
 特に“瑠璃蝶草”との接触は、組織解散の時に、本人から厳しく禁じられた。何かあって刺激する方向が三薔薇方面であることがわかっていたからだ。
 その辺のことも、きっと聖は見抜いている。

「あなたも今から食事? よかったら一緒にどう?」
「いいんですか?」
「うん。一人だからパンにしようと思っていたけど、あなたともう少し話がしたいから」
「でも私には連れが」
「私は一緒でも構わないよ」
「そうですか」

 振り返ると、静はなんだかそわそわしながら指先で髪をいじっていた。

「静さま、どうします?」
「ご一緒します」

“竜胆”の問いかけを無視し、静は聖に直球で返事を投げた。

「――私もご一緒しても?」
「おや?」

 横手から輪に入ってきたのは、細くて背が高く髪も長い、ひょろっとした女生徒だ。
 更なる乱入者を見て、遠巻きにやり取りを見守っていた周りが騒然とする。何気にとんでもない面子が揃ったことに驚いているのだ。

「人前で接触するなんて珍しいね。どうした“九”ちゃん、なんかあった?」

 新たに加わったのは“九頭竜”と呼ばれる三年生。白薔薇勢力総統。三薔薇に勝るとも劣らないと言われる実力者だ。

「何も。会ったのはただの偶然だし、今は憚る理由もないでしょう? たまには級友とランチしてもいいじゃない」
「ふーんそう」

 白薔薇・佐藤聖。
 白薔薇勢力総統“九頭竜”。
“冥界の歌姫”蟹名静。
 かつての薔薇が使ったと言われる、激レアの“重力空間使い”。
 若干一名、実力の怪しい奴が混ざっているが、周囲の認識ではかなりすごい四人が集まったことになっている。
 並ばずとも空けてくれるおかげでスムーズに注文を終え、四人は自然と空いた端っこの隅の方を陣取る。

「へえ。二人は師弟関係だ、と」
「違います」「その通りです」
「新人の育成って大変じゃない?」
「そうですね」「毎日楽しそうにしばき回してくれますよ」
「あはは。仲良いね」
「全然仲良くないです」「ええとても仲が良いと思います」

 双方真逆の返答を同時に繰り出す静と“竜胆”を前に、聖は笑っていた。並んで座る静と“竜胆”、向かいに聖と“九頭竜”が座っている。

「で、二人は争奪戦には参加するの?」
「私はそのつもりです」
「そう。せいぜいがんばってね」
「ええ、せいぜいがんばります」

 「そっちは?」という顔で、聖は静に視線を向けた。
 静は少し答えをためらい、決意を固めた瞳で正面から聖を見た。

「賭けをしませんか?」
「賭け?」
「もし私が“契約書”を手にしたら、白薔薇は……聖さまは、私の持つ“契約書”を奪いに来てください」

 いきなり何を言い出す、という目で見るのは“竜胆”と“九頭竜”だ。

「……それは、私と闘いたいって意味ね?」
「そうです」
「私がそれに付き合うメリットは?」
「勝っても負けても“契約書”はお渡しします。でも聖さま以外には絶対に渡しません」

 剣呑とは言い難い、穏やかだが張り詰めた空気が広がる。
 聖は「んー」と今夜の夕食に何にしよう、くらいの気楽さで悩むと、頷いた。

「いいでしょう。約束する。あなたが“契約書”を手にしたら、私がそれを奪いに行く」

 勝っても負けてもいい。そこまで言うなら、色々と覚悟を決めているだろう。

「それで? あなたの名前は?」

 静は一瞬がっかりしたような顔をする。たぶん「やっぱり知らなかったか」とでも思ったのだろう。

「蟹名静。ちゃんと憶えておいてください」
「わかった」

 じゃあ、と“竜胆”も話に加わった。

「“九頭竜”さま、私が“契約書”を取ったら闘ってくれます?」
「ついでのように言ったわね。あなた図太いわ」

 ついさっきまで存在さえ知らなかったくせに……いや、たぶん元から知らないだろうに。なんの因縁も思い入れもないくせによく言ったものだ。
 ――実に頼もしい一年生である。
 一年生は多少無鉄砲なくらいが面白い。静はともかく、聖も“九頭竜”も、立場がなければしょせんただの戦闘マニアだ。いきなり迎合されるよりは多少歯向かわれた方が楽しい。
 面子の割には和やかな雰囲気でランチタイムは進み――無粋な声は高らかに駆け抜けた。

「ミルクホールを封鎖した! これより“契約書”の捜索を行う!」
「「ん?」」

 四人は振り返り、その人物を確認した。
 紅薔薇勢力幹部数名を率いた“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が、ミルクホールの出入り口に仁王立ちしていた。




「“契約書”を所持している者は今すぐ名乗り出て差し出しなさい! さもなければ力ずくで奪う! その際身の保証はしない!」

 ミルクホールは騒然となった。危険な四人がテーブルの隅で顔を併せているものの、和やかだった昼休みが台無しである。
 ここにいるのはほとんどが目覚めていない者……弱者の集まりである。もしくは昼休みは闘わないと決めている者達だ。
 そんな中に、紅薔薇勢力総統が飛び込んできたのだ。それも牙を剥き出しにして、獲物を狙って来ている。

「おーおー。派手にやるわねーあの“忠犬”」

 聖はなぜか嬉しそうだ。少し身を屈めてみたのは、できるだけ向こうに見付からないために、だろう。見付かれば面倒そうだ。
 そんな薔薇らしくない聖を見る“九頭竜”の目は冷ややかだ。「なんか映画みたいですね静さま」と口走る“竜胆”は全員に無視された。

「無駄。彼女、ちゃんと聖さんがいること知っているから」
「そうなの?」
「中の状況を知らずに飛び込むほど愚かじゃないから。彼女」
「なんだバレてるのか」

 聖はさっさと身を起こした。

「“契約書”の捜索、って?」

 どういう意味だろう、と言いたげな“竜胆”に、“九頭竜”が答えた。

「今、このミルクホールに“契約書”が一枚あるのよ。正確に言うと、所持者がいるわけ」
「白薔薇ですか?」

 スタート時点では三薔薇がそれぞれ持っている、というのはルールに書いてあったのだが、どうやら事態はすでに動いているらしい。

「残念、午前中に奪われちゃいました」

 サラリと言ったが、内容はとてもサラリとはしていない、ドロッとした非常に重大なことである。白薔薇相手に強奪をやらかした相手がいるだなんて大事件ではないか。「奪われちゃいました」じゃ済まないだろう。
 まあ、それは今はいいとして。

「その奪われた“契約書”が、今ミルクホールに?」
「聖さんが持っていたものかどうかはわからないけれど、今ここに一枚あるってことは間違いないみたいよ。ね、聖さん?」
「うん。あの“地図”に表示されてるなら確実にあるだろうね」
「あるんですって、静さま」
「まだダメ」

 静は厳しい顔で、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”を見る。

「特にあの人は危険よ。噂では規則に厳しいらしいから、あなたなんて見付かったらすぐ狩られるわ」
「華の名前?」
「そういうこと」
「静さま護ってー」
「いざって時は私達は他人同士よ。だから勝手に逃げなさい」
「…………」

“竜胆”は師の言葉にしびれた。何十時間、何百時間を費やして育ててきたネットゲーのキャラデータを消されてマジギレする男のような雄々しき無関係宣言である。揺るがぬ決意を秘めた凛々しい瞳には見惚れざるを得なかった。聖は思いっきり笑っていたが、“九頭竜”はきっぱり見捨てられた弟子に同情したのかさすがに気の毒そうな顔をしていた。
 こそこそと昼食を取りつつ様子を伺う。
 ミルクホール出入り口を封鎖している“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”御一行は、宣言通り、出る者の持ち物検査をして、入る者をせき止めている。
 まるで空港での所持品検査を思い出させる光景だ。まさに強者こそ正義、という絵である。
 抵抗の声も抗議の声も上がらないのは、相手が悪すぎるからだろう。三薔薇に継ぐ実力者と評しても決して言い過ぎではない人物である。やると言ったら必ずやるし、誰一人例外を許さないだろう。――検問をやめさせろ、みたいな期待のこもった視線が聖や“九頭竜”に向けられるが、二人は気付かないフリをしている。どうやら止めさせる気はないらしい。
“竜胆”は思う。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”なる人物のやっていることは、横暴にも思えるし、正攻法だとも思える。
 理不尽ではあるが暴力を振るわないだけ随分マシなのだろう。一人一人かたっぱしから殴り倒した方がよっぽど早いだろうに、それをしないのだから。
 妙に静かになったミルクホールにいる人数はどんどん減っていく。それはそうだ、出る際に検査はするものの、入ってくる者はせき止められているのだ。この分だともう少ししたら聖達も目立ち始めるだろう。
 それに、自分達の順番もその内やってくるだろう――“契約書”が出てこなければ。

「ねえ“九”ちゃん、この捜索、目的は何だと思う?」
「目的? “契約書”でしょ?」
「それもある、って感じがしない?」
「……聖さんはそれ以外の目的もある、って言いたいわけね?」
「なんとなくね」

 聖から面白そうな話題が振られ、静と“竜胆”も耳を傾けた。
“九頭竜”はサラダを一口ばりぼり咀嚼すると、

「私が“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”なら、“契約書”の入手より、可能性の削除を優先するわ」

 と答えた。

「まだ月曜日で、先は長い。でも毎日のように『誰が持っているかわからない物』を、一々こうして手間暇掛けて調べるのは、非常に効率が悪い。
 例えば――静さん」

“九頭竜”の冷徹な瞳が静を捉える。

「もしあなたが今“契約書”を持っているとする。そして“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”との戦闘を避けたくてミルクホールに閉じ込められているとする。当然“契約書”は渡したくないし、それ以前に自分が所持していることがバレたら、彼女らに『リタイア宣言』までさせられるかもしれない。
 という前提で、その場合あなたはどうする?」

 静は悩む。
 ――“契約書”は渡したくない。
 ――“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”とも闘いたくない。
 ――「リタイア宣言」もしたくない。
 以上の三つから最優先事項を割り出すと、真っ先に選ぶのは最後の「リタイア宣言を避ける」だろう。リタイアさえしなければ次のチャンスは必ずある。
 逆に、最悪なのは“契約書”を奪われて「リタイア宣言」させられることだ。“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と闘うのも避けたいところだが、たとえ戦闘になっても逃げ切れれば問題ない。その後のことはわからないが。
 「リタイア宣言」を避けて“契約書”を渡さず“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と闘わない、という順序で優先するならば。

「このミルクホールのどこかに“契約書”を隠して、何食わぬ顔で検問を通過します。そしてほとぼりが冷めてから“契約書”を回収する。運が良ければ回収できるでしょう」

 それが一番、次のチャンスに繋がる手だと静は判断した。“九頭竜”も頷く。

「でしょうね。私もそうする。――そして“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の狙いも、それが一番高いと思う」

 そう、話はここからだ。

「最終的に、ミルクホールには人がいなくなり、どこかに隠された“契約書”のみが残されることになる。
 あとは、それを何らかの異能で発見できれば」

 ――今後、隠されたりこっそり所持している“契約書”を探す手段を確立できるわけだ。それも誰もいないところでやるなら、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”だけが追跡手段を知りうることになる。
 わかりやすく言えば、“契約書”の臭いを嗅ぎ分けられるようになって追跡可能になる、といったところか。
 大した一手だ。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”のミルクホール封鎖の理由は、“契約書”の回収ではなく、“契約書”の追跡方法の解明だ。――無論、“契約書”がすんなり回収できた場合でも追跡方法の研究は可能である。
 聖も“九頭竜”も静も、それは確信できた。“竜胆”は「へーそうなんだ」くらいにしか思っていないが。
 いちいち掲示板まで行って“地図”で確認するのと、独自の方法で“契約書”を追跡できるのとでは、遭遇効率も強奪チャンス回数も比べるべくもないほど差がつく。一歩どころか五十歩は女帝に近づけるだろう。
 成功すれば、大きな前進どころじゃない。明らかに結果を左右するだろう。

「私からもいいですか?」

 なんだか結論が出た気になっていたのに、“竜胆”は更に話を進めた。

「もし私が今“契約書”を持っていて、あの人に渡したくない場合」

 一呼吸置いて、言った。

「私なら“契約書”を更に二つに分けて、その片方を渡す……かも」

 図太い一年生はとんでもないことを言い出した。三枚を集めるのでも骨なのに、四枚にするというのか。
 いや、そもそもだ。

「半分に分けるって、やぶくってこと? 効力がなくなるんじゃない?」
「それはない」

 いつのまにか真面目な顔をしていた聖が断言した。

「実は、“契約書”に関しては事前に色々と試してるんだ。――たとえば、誰にも渡したくない、自分が望まない女帝が誕生するかもしれない、そんな状況において所持者が『“契約書”を破棄する』という可能性を考えないはずがないでしょ?」

 燃やすでもいい、切り刻むでもいい、消滅させるでもいい。とにかく“契約書”がその役目を果たせなくなるという可能性である。

「はっきり言えば、破棄は無理なの。“契約書”三枚を集めて所持したまま帰宅して最終日の有効期限まで登校しない、なんて可能性もあるわけだ。私闘と同じで、学校外での“契約書”の取り合いは禁止だからね。
 特別に教えてあげるけど、“契約書”は丸一日リリアンの敷地に存在しなくなれば自動的に再生、あるいはワープしてリリアンの敷地のどこかに戻ってくるのよ。燃やして灰にしたり消滅させることはできるよ。でも丸一日経てば勝手に戻ってくるわけ。
 彼女の案に答えるのであれば、丸一日経てば二枚は一枚に修復されるでしょうね」
「つまり、その場しのぎがいいところだ、と」
「そういうことだね。でもその場がしのげるならやる価値はあるかもね」

 なるほど、考え方次第か。

「その辺のこと、ルールになかったわね?」
「それは手に入れた者が試行して発見し、それを争奪戦の材料に使えるようにあえて公表してないの。私達は知っている。確かにその点ではリードしてるね。でもその代わりに、私達は契約書を手に入れたら首から下げて、ずっと晒し続けるというリスクを負うことになる。こっちの方がよっぽどひどいわよ。リード分の利点なんてポケットティッシュ以下だわ」

 ちなみに、今聖が言ったことは、「別に広めてもいいよ」とのことだ。
 ちょうど話が途切れたその時、

「――あなた方は何をしているのです!?」

 出入り口付近から、怒気をはらんだ通る声が、ミルクホールに滑り込んできた。

「おっ、“忠犬”に逆らう奴が出てきたわね。面白くなってきた」

 瞳を輝かせる聖とは逆に、元からやる気のなさそうな顔の“竜胆”が脱力に沈んだことに気付いたのは、ここのところずっと一緒にいる静だけである。

「どうしたの?」
「……あれ、たぶん友達です」
「え?」
「あの絡んでる奴です」

 それも、一番大丈夫じゃない奴だ。何せ大丈夫じゃないから紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に絡んでいるのだ。もう絶望的に大丈夫じゃないことを今証明しているではないか。
 もはやあいつ以外ありえないだろう。きっと相手が誰かを知っていても知らなくても、同じことをするに違いないのだ。そういう奴だ。
“竜胆”は師匠を仰いだ。

「静さま、ここは一つ、そのお力にて我が友を助け」
「いってらっしゃいがんばって! 食器は片付けておくから!」
「……がんばります」

“竜胆”はのろのろと席を立つと、ふらふらと出入り口へと向かっていった。

「助けてあげればいいのに。潰されちゃうわよ、彼女」

 からかうような聖の言葉に、静は目を伏せた。

「本気で助けを請うならそうしますよ。でも――」

 本人が本気でそれを望んでいないのだから、静は手を出せない。正直、“竜胆”のことは鬱陶しいし小生意気だしふてぶてしいし可愛くないし、あんまり好きではない。だが愛着くらいは湧いている。本気で助けを求めるなら、手を差し伸べもするだろう。
 しかし今は求めていない――少なくとも静にはそれがわかる。だから行かせた。それだけだ。

「面白そうだから見てくるわ」

 立ち上がる気のない静の代わりに“九頭竜”が立ち上がる。

「あ、見物しに行くの? 私も行こうかな」
「聖さんはダメよ」
「え、なんで」
「あなたが顔を出したら場がしらけるじゃない」
「……うわ、なんか反論できない……」

 言葉もそこそこに、食器よろしく、と言い残して“九頭竜”は人込みに紛れ込んでしまった。




「――面白い」

 そう呟いたのは、ミルクホールのすぐ外にいる島津由乃だった。
 山口真美から「“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”のミルクホール封鎖と、その中に白薔薇がいる」という情報を聞いて、すわ実力者同士の一騎打ち実現か、と期待して駆けつけたものの。
 少々離れて封鎖を見ていれば、事態は同じくらい面白いことになってきた。

「何? よく聞こえなかったけど」

 紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が、類を見ないほどの獰猛な気を放ち始めても、彼女は半歩さえ引かなかった。

「無関係な者まで巻き込んで何をしているのかと聞いています」

 強い横顔をこれ見よがしに見せ付ける彼女は、牙を剥きつつある獣を前にしても、引き下がる気配を微塵も感じさせない。
 彼女は、恐らく、ほんの少しだけ垣間見た、あの時のマヌケな“天使”だ。
 本当に、相変わらずマヌケである。
 絡む相手が悪すぎることくらい、絡む前からわかっているだろう。なのに彼女は、己の正義を貫こうとしている。

「暴力で人を従えるなど言語道断です。恥を知りなさい」

 力の篭もった侮蔑の言葉に、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の凶暴性が一気に膨れ上がる。刺すような熱がチリチリと肌に感じられるのは、気のせいではない。

(そうそう、これこれ)

 由乃はこの感覚を憶えている。
 彼女は伊達に、地獄の番犬と呼ばれるケルベロスの名を持っていない。“紅蓮”の名の示す通り、炎使いとしてなら文句なしのリリアン最強である。
 どの勢力でも共通するが、総統辺りになると、たとえ薔薇でも無傷で勝つことは不可能なくらい強い。もしかしたら蕾の支倉令、小笠原祥子でも勝てないかもしれない。由乃に至っては確実に勝てない。
 そんな“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が、今、闘おうとしている――これほどのレベルになると、たとえ時間的に短い観戦でも貴重である。機会も内容も。できれば白薔薇・佐藤聖とやりあってほしいが、それはさすがに贅沢か。
 トップクラスの実力者が闘う。
 それに加えて“天使”だ。
 度胸だとか勇気だとかただの向こう見ずのバカだとか、そういうのは一旦置いといて。
 ただ信念だけを胸に抱えて敗北の前に立つ者なんて、面白すぎてしょうがない。由乃の周りにはそういう連中しかいない。そういう連中がいたからここまで来れた。
 だから、どうしても他人事だとは思えないのだ。目が離せないのだ。胸が騒ぐのだ。

「今なら許す。失せなさい」

 そんな温情ある最終警告の返答は、即座に返された。

「許さなくて結構です」

  ボッ

「あっそう」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の全身は、一瞬で紅蓮の炎で包まれた。

「じゃあ望み通り灰にしてあげる」

 相変わらずすごい力だ。彼女の攻撃どころか、近づくだけで火傷を負ってしまう。
 だがそれはただの副産物的なもので、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の本当の恐ろしさは、自在に動かせる炎の操作にある。おまけに基礎能力が高いせいか、体術のキレも無視できない。

(――どうする?)

 絶対に“天使”は勝てないだろう。経験不足の新参者が相手にするには、かなり無理がある。このまま見ていればきっと十秒掛からず“天使”は焼き鳥になる。
 由乃は迷った……が、すぐに結論が出た。
“天使”にはなんの義理もないし、助ける理由なんて一つもない。関わりたくもないし。
 が。
 よくよく考えると、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と闘う機会が巡ってきているのだ。これを見逃す手はない。
 右手の中に瞬時に生まれたマグナムは、寸分違わぬポイントに弾丸を飛ばした。

「っ!」

 大した反射神経である。獲物に飛びかかろうとした“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の第一足――踏み込んだ右の足の甲を狙ったのに、彼女はほんの数歩分だけ横に飛ぶことで回避した。
 完全に虚を突いた不意打ちにも関わらず、掠らせもしない。
 やはり、このレベルになると、まともにやって勝機を見出すのはまだ難しそうだ。

「由乃ちゃん? ……それ、どういうつもり?」

 ようやく由乃の存在に気付いたらしき“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、「邪魔するならおまえも狩る」という危険な意思をはらんだ視線を向けてくる。それだけで由乃は死の気配に全身を震わせた。
 しかし、それはおくびにも表に出さない。

「あれ? “忠犬”のお姉さまが“契約書”持ってるんじゃないんですか? そう聞いて来たんですけど」
「誰から聞いたか知らないけど、私は持ってない」
「その言葉を信じるとでも?」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は笑った。

「なるほど、助太刀したいわけね?」
「いいえ。あなたと闘いたいだけです」

 由乃は油断なく“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”を見据えたまま、突然横槍を入れた由乃を驚き見ている“雪の下”の横に立つ。

「余所見しない。この距離なら致命傷に1秒掛からないわよ」

“雪の下”はハッと息を飲み、炎をまとう敵を睨む。

「外へ誘導する。いいわね?」
「ええ」

 二人は踵を返し駆け出した。“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は舌打ちすると「封鎖を続けなさい!」と仲間に命令を下し、炎を消して追いかけてきた――臨戦態勢のままでは擦れ違う一般生徒に火傷を負わせる心配をしたからだろう。

 ――更に、走り去る“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に全ての注意が向いている一瞬の隙をついて、向こう側の出入り口付近で様子を見ていた“竜胆”と“九頭竜”が封鎖から飛び出した。
 「あれ?」という“竜胆”の視線に、並んで走る“九頭竜”は「ただの見学。手は出さない」とだけ答えた。




 中庭に飛び出した由乃と“雪の下”は、広いここで再び対峙する。
 のんびり昼食を取っていた生徒達は危機を察してすでに逃げ始めていた――動きに無駄がなく余裕さえ感じさせる手慣れた避難活動は、きっと本当に手馴れているから可能なのだろう。

「由乃さん、作戦は?」
「邪魔だからどっか行って。私一人でいい」
「却下です」

 そうだろう。そう言うと思った。

「作戦なんてないわよ」

 お互い何ができるかも知らないのに、何の作戦を立てろと言うのか。
 そもそもだ。

「あなた一つ勘違いしてるわ」
「え?」
「即席の浅い作戦なんかで勝てるような相手なら、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”なんて大層な名前は付けられてないってことよ」

 強いて作戦を上げるとするなら、

「勝つ必要はない。昼休みの間、持ちこたえればいい」
「持ちこたえる?」
「そう。それができれば、あなたの目的である『ミルクホール封鎖』は阻止できる」

 実際は“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の仲間が封鎖しているかもしれないが、レシーバーを拘束できれば行動を封じることに繋がるし、何より中には白薔薇・佐藤聖がいるのである。“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”不在で薔薇を抑えられるわけがない。
 相手を叩きのめすだけが勝利ではない。
 場所と状況と時間を加味すれば、そこにも勝機が見えるもの。誇り高きリリアン生として、授業時間と休み時間の区別は絶対的な線引きとなっている。サボりが常習のそこらの不良なんかとは違うのだ。

「死に場所はここでいい?」

 炎をまといし“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”がやってくる――と。

「おーい」

  たったったっ

「お待たせ。待った?」
「…………」
「…………」
「…………」

 えらく軽いノリで乱入してきたのは、“竜胆”だ。

「誰?」

 由乃に続いて入ってきた横槍にイラッとしている“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に、彼女の答えは簡潔だった。

「私は“竜胆”。あなたにはこれで充分だと思う」
「ああ……確かにそれで充分だわ」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は“竜胆”を敵として認識した。“竜胆”の名前は知っている。瓦版に載った“重力空間使い”だ。

「お久しぶり、“竜胆”」
「挨拶は後にしよう、“雪”。……由乃さんも、それでいい?」
「いいけど、あなた達には祐巳さんのことで話があるから。憶えといて」

 ……さて。
 全く予期していなかったが、未熟な力持ちが二人と、無力な経験者の三人が集った。
 相手は間違いなくリリアントップクラスの猛者。
 どう足掻いても勝てないだろう。捨て身でやってやっと一矢報いられる、くらいのものだろうか。だがそれさえも楽観的希望というやつだ。

「――始めましょうか」

“雪の下”は、己の正義を貫くため。
“竜胆”は、友のため。
 そして由乃は、強者と闘うため。

 それぞれの理由を掲げる弱者に、今、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が牙を剥く。




「…あ」

 戦闘開始早々。
 しくじった、と思ったのは、“竜胆”である。
 我先にと“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に肉薄した“竜胆”は、具現化した刀で居合の一撃を加える瞬間に、自分の迂闊さを認識した。
 見えたのは、自分を飲み込まんとする灼熱の顎。
 ――これがケルベロスの由来である。
 微動だにしない“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”のまとう炎は、一瞬で形を変え、人間大の巨大な「犬の頭」となって、飛び込んできた“竜胆”に襲い掛かろうとしていた。
 カウンターだ。それもコンマ数秒のタイミングで合わせてきた。
 攻撃態勢に入っている“竜胆”はもう避けられない。攻撃を繰り出しても、「炎の犬」の方が先に“竜胆”に食らいつくだろう。

(やられた)

“竜胆”は覚悟した。どれほどのダメージを負うかはわからないが、致命傷じゃないことを祈るのみ――きっと一撃で動けなくなるだろうけれど。
 しかし。

「……!」

 一瞬、「炎の犬」の動きが止まった。“竜胆”は強引に横手へ飛び転がり、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”から大きく距離を取る。
 そこでようやく、全身が熱くなっていることを自覚する。

「あちあちあちあちあちっ」

 慌てて顔や手をこする。どうやら「全身を舐められる」くらいはされたらしい。瞬時に離れたおかげで火傷はないようだが、前髪は少し焦げた。

「余所見するなバカ!」

 鋭い声は由乃のものだ。そして“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も由乃を見ている。
 由乃が持つ銃からは煙が上がっていた。

「なるほど、“サイレンサー”か」

 くっくっと笑いながら、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は由乃の周囲を歩き出す。どうやら最初の獲物が決まったようだ。
 ――由乃が具現化した銃は愛用のマグナムではなく、銃身の先に消音装置を取り付けたオートマチックである。
 具現化速度はマグナムと大して変わらないが、

(やっぱ弱いわ……)

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の足首に当たった銃弾は、ただの掠り傷程度のダメージしか与えられなかったようだ。一度に撃てる弾数はマグナムの二倍近くあるが、やはり大経口とは殺傷力の差がありすぎる――もちろん“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の基礎能力の高さの方が問題かもしれないが。
 せっかく当たっても、注意を引いて“竜胆”を逃がすのが精々だった。さっきのアレがなければ迷わずマグナムを選んでいたが、そっちで撃っていたらきっと回避されていただろう。いとも簡単に。
 まあ、一手目にしてみれば、上等か。
 由乃はオートマを投げ捨てると、今度こそ愛用のマグナムを作り出す。

「ルーキーより私の相手をしてくださいよ」
「そうしましょう」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は一気に距離を詰めてくる。まとう炎が形を変え、さっきの「炎の犬」となって空気を食らって唸りを上げる。由乃はギリギリまで引き付けてから後方に飛ぶ――と。

「行け!」

 命令に従い「炎の犬」の頭だけが分離し、由乃を追いかけて口を広げる。
 しかし由乃はそれを読んでいる。一瞬早く横へ飛んで回避するも、それを読んでいた“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が迫った。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は右拳を振るう。狙いは顔面。小さな炎の犬をまとっているのは追撃用だろう。
 ――由乃はそれも読んでいた。
 躊躇うことなく左の掌で拳を受け止める。食らいつく炎の牙に合わせて右手のマグナムの引き金を引いた。
 二度、三度。
 狙いは右足。太股だ。
 致命傷じゃなくていい、自分を上回るスピードを少しでも殺ぐために左手を捨てた。
 しかし、甘かった。
 由乃が覚悟を決めたのと同じく、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も覚悟していた。
 ――片足は捨てる。代わりに左の拳を叩き込む、と。
 炎をまとう二撃目が由乃の右脇腹をえぐり、燃やす。由乃は腹に犬を食いつかせたまま軽々と数メートル殴り飛ばされ、地面を転がる。だがすぐに飛び起きてまだ燃えている炎をバタバタと手を叩き消火。
 焼けて炭となった制服の一部に穴が空き、その下に着込んだアーマーが剥き出しになっている。
 なるほど、と“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は納得した。あそこまで強かに殴ったのに平然と立ち上がれるわけもない。道理で殴った感触がおかしかったはずだ。

(危なかった……)

 たった一度の接触。それだけで由乃は実力の差を思い知っていた。――予想はしていたが、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は唯一の長所である由乃の速度を超えている。
 助かったのは運である――いや、運ではなく、一発を覚悟して脇腹に隙を作っておいたおかげで、そこに攻撃を誘い込めたのだ。
 顔に食らっていたら一撃で戦闘不能になっていただろう。炎なんておまけではなく、重い拳の破壊力で脳震盪だ。
 損害も大きい。
 保険であるアーマーの存在がバレてしまい、捨てた左手は案の上の大火傷だ。しかもあの炎、ただの炎ではなく物質のように硬質化させることができるようだ。おかげで食いつかれた左手は、炎の牙が肉の中までこんがり焼いている。ただの火傷くらいならともかく、ここまでダメージを負わされるとは思わなかった――ガード行為で負うには痛すぎるだろう。これは。
 よって、残念はもう一つだ。
 必死の思いで足に撃ちこんだ弾丸は、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の炎の硬質化でガードされたようだ。三発も撃ちこんだのに無傷どころか制服に穴さえ空いていない。

「…………」

 大したものだ、と“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は思う。力も基礎能力も弱い由乃が、よくぞここまで腕を上げたと褒め称えたいくらいだ。
 片足は、本当に捨てる覚悟をしていた。
 しかし、由乃の力が予想以上に弱かったのだ。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の炎の硬質化は、肉に牙を立てることはできても、強度はあまりない。由乃のマグナムでも充分貫くことができる。
 しかしそれができなかったのは、受け流すような曲線で炎を硬質化させていたからだ。由乃の弾丸は三発とも受け流されていた。
 ――これが同じ火薬使いの“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”くらいになると話が違うのである。炎の硬質化などガードにさえ使えない。易々とそれを貫いてくる。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は由乃を過大評価していて、それを今悟った。
 しかし、だからこそ、すごいと思う。ここまで来るのは並大抵の努力では足りなかっただろう。同じ程度の力量と基礎能力しかなかったら、自分はとっくに、強くなることを諦めていたかもしれない。それくらい絶望的なスタート地点だったのに。
 しかも。
 左手を焼かれて痛みに脂汗を垂らす由乃は、それでもまだ、闘うことを望んでいる。開始時よりも熱く闘争心みなぎる瞳は、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”を捉えたままだ。

「由乃さん、サポート!」

 今一度、横手から“竜胆”が斬り込んだ。弾かれたように由乃も動き出す。

(今度こそ、攻め手を間違えない)

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の動きは、ほんの少しだけ見た。
“竜胆”は、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の二メートルほど前方で立ち止まった。そして腰を落とす。

(――来る!)

 直感した“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、“竜胆”に中型犬くらいの「炎の犬」を飛ばしつつ横に飛ぶ。“竜胆”は予備動作そのまま居合を放った。

  ボン

 素振りにしか見えなかった刀は「炎の犬」を押しつぶし、刃の届かない“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が立っていた地面をえぐった。

(斬撃が飛んだ)

 由乃はそう判断したが、実際は“重力の刃”である。“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は今の一撃でそれを見抜いた。「炎の犬」が霧散したり斬られたならともかく、地面に押しつぶされたのだ。上から付加が掛かったとしか思えない。
 由乃と“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の認識の差は、かなり大きい。今のは飛んできたのは応用技で、基本は「斬るついでに重石を強制する」だろう。そうであるなら、掠っただけでも致命的である。しかも、普通の斬撃と飛ぶ斬撃とを織り交ぜて接近戦を仕掛けられたら非常に面倒だ。
 爪先と顔面を執拗に狙い、時折繰り出す中型犬ほどの「炎の犬」を、発生と同時に撃ち抜いて“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の攻め手を封じる由乃に、それを信じて「炎の犬」を無視して深く踏み込む“竜胆”。初手のような特大の犬は回避するしかないが、ある程度の大きさなら由乃のマグナムでも対処できるようだ。近くにいる“竜胆”はかなり熱いが。
 二人は即席の連携とは思えないような息の合った動きで、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に回避防御だけをさせ続ける。そのかわし方にはまだ余裕があるものの、完全に注意は二人に向いていた。そうでもしないと無傷であり続けるのが不可能なのである。油断したら銃弾が、刃が身体に触れる。銃弾が当たれば嫌でも動きが止まるし、傷を負えば尚更だ。そして刃を食らえばきっと“重力”が付加する。どちらを食らっても“重力”付加が確定ならば、一撃だって貰うことは許さない。

 ――この時点で、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、“雪の下”の存在を忘れていた。




“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の死角である真上、四階ほどの高さに、“雪の下”は“飛んで”いた。
 由乃に注意が向いた時、“雪の下”は空へと舞った。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は気付いていない。気にはしていたが、今となっては姿の見えない“雪の下”を探す余裕はなくなっているのだろう。
“雪の下”は闘うことが嫌いである。どうしても、という状況でなければ、攻撃を加えたくない。未だに福沢祐巳を招待した時に攻撃した松平瞳子に罪悪感がある。あの時はしょうがないと、祐巳のことを最優先だと必死で自分に言い聞かせたが、それでも後悔している。
 そんな平和主義の“雪の下”が選んだ能力は、“飛行”と、戦闘の天才・蟹名静から助言を得た防具の具現化。
 特に、誰かを護るための盾は、“雪の下”の理想にピタリと一致した。
 そして、更にもう一つ。
 図書館で出会った『騎士になれなかった泣き虫騎士のお話』という絵本からヒントを得た能力だ。

(チャンスは一回限り)

 あれほど素早い由乃を簡単に捉え、“竜胆”と二人掛かりでも身体に触れさせないようなすごい相手だ。警戒されていれば絶対に当たらない。
 だから辛抱強く、今まで待っていた。
 左手に盾を生み出す。真っ白な円形で、表面には美しい女神の横顔が彫刻されている。

(――今だ)

 標的が“竜胆”から大きく距離を取った瞬間、“雪の下”は頭を下げ、空を蹴るようにして急降下した。




 獲物を狙う鷹のように空を切り裂く“雪の下”にも、その声は確かに聴こえた。

「――総統、上!」

 喚起の声は、きっとどこかで見ている“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の仲間からのものだろう。彼女は上を……“雪の下”を見た。
 ものすごい速さで己に向かって落下してくる真っ白な物体を見て、大きく飛び退る。しかし“雪の下”は隕石のような落下物ではなく、自分の意思で“飛ぶ”者である。ある程度なら軌道修正できる。
 しかし、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の注意が逸れた一瞬を、それまでしつこくまとわり付いていた二人は見逃さなかった。刃は回避したが、銃弾は当たった。爪先、足の甲を貫き、確かなダメージを加えた。
 痛みで動きが止まった瞬間、盾を構えた“雪の下”が“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”を直撃した――




 ように見えたが。

「うおああああああああ!!!!」

 必死で転がり逃げた“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に掠っただけで、はずれた。
 なんだか妙に漢らしい悲鳴を上げて“雪の下”は加速と重力そのまま地面に激突し、いつか見たような顔面(と盾を構えていた左腕だが、由乃から見たら顔面のみ)の倒立を実現。見ていた者の時を数秒ほど止めた後、ふにゃふにゃと崩れた。

「……い、いったぁぁい……ぐ、ぐうぅぅ……うっうっ……!」

 これまたいつか見たような扇情的かつ挑発的なポーズでしくしく泣き始める“天使もどき”を見て、やっぱ関わるんじゃなかったな、と由乃は思った。
 そりゃそうなるだろう、ほぼ真上から降ってきたら。自爆濃厚ではないか。角度的に。
“竜胆”は成長を見せてくれたが、こいつに至ってはバカさ加減に磨きが掛かっただけか。
 さすがに呆れるしかない――が、それはとてつもなく大きな誤りだった。




 異変に気付いたのは、当然、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が先である。

(な、なに? まさか、うそでしょ!?)

 動揺を表面に出さなかったのは、総統のプライドからか、それとも経験からバレたら心底まずいことになることを悟ったからか。どちらにせよ我ながら良い判断だった。もしも表面に出していたらただでは済まない。
 しかし内面は、動揺と死の予感で、瞬時に埋め尽くされていた。




 炎が出ない。
 原因はきっと、“天使”の攻撃が当たったから。たとえ掠り当たりであっても有効だったのだろう。

 ――“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、能力を封じられた。














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