琴吹のパエリアシリーズ。前世代紅薔薇姉妹編。
また、このおはなしは、【No:1135】【No:1143】【No:2545】に関連したお話です。
上記作品を読まなくても楽しめるはずです。
「剣道部に入っているので毎日は来られませんが、これからよろしくお願いします」
そう言って、今度新しく黄薔薇のつぼみの妹になった支倉令は私たちに向かって頭を下げた。
「これから、よろしくね」
薔薇の館を代表して、お姉さまが彼女に対し歓迎の言葉を述る。
そして、最後にちらりと私の方に目をやる。
私はその視線に顔を伏せるしかなかった。
マリア祭から2週間。私は、いまだ小笠原祥子を妹に迎い入れていない。
「ごきげんよう」
令さんが挨拶に来た翌日。私が薔薇の館に行くと、まだ館には誰もいなかった。
今日は特に集まる予定はない。私がここに来たのは、まだ家に帰りたくないからだ。
最近、自分の想いに押しつぶされそうになる。
それは、いくつかの事柄に分けられるが、その原因はすべてあの小笠原祥子に起因していた。
彼女のことを考えると、ついため息がこぼれてしまう。
こんな状態は良くないとわかっているのだが、ここ2週間、私は彼女を起点とした心の迷宮から抜け出すことが出来ていなかった。
だから、マリア祭が終わって比較的暇なこんな時期にも、わざわざ薔薇の館にやってきて、時間をつぶしているのだ。
やかんにお湯を入れお茶を沸かしていると、お姉さまがやってきた。
「ごきげんよう。蓉子」
「ごきげんよう。お姉さま。いつものでいいですか?」
「うん。ありがとう」
お姉さまはそう言いながらいつもの席に着くと、お茶を用意している私をじっと見つめていた。
「お待たせしました」
お姉さまの前にコーヒーを置く。
「ありがとう」
そう言葉は返ってきたが、お姉さまはコーヒーには口をつけず私をじっと見つめ続けていた。
「どうかされました?」
「え? あ、うん。ちょっと考え事をしていて」
「そうですか」
特に問題もなさそうだったので、私はお姉さまの隣に座り、3時間目に出た宿題広げた。
お姉さまも鞄から文庫本を取り出すと、それを広げた。
かりかりとペンを走らせる音、パラリと紙をめくる音、時計の秒を刻む音だけが、館のサロンの中に響く。
しかし、その音は1人分だけ。そして、先ほどからとぎれることなく感じる視線。
私は小さくため息をついて、お姉さまに問いかけた。
「何か私に話したいことがあるんですか?」
「ええ、まあ、あるといえばあるし、ないといえばないわね」
お姉さまのその言葉に私は少し眉をひそめる。あまりにらしくない言い方だなと思ったのだ。
「何か悩み事ですか? 私でよければ、相談に乗りますけど」
「……そうね。……じゃあ」
お姉さまは少し考えたあと立ち上がった
「立って私に背中を向けてくれる?」
「何するんですか? 別にかまいませんけど」
私は言われるままに椅子から立ち上がり、お姉さまに背中を向けた。
「これで、いいですか?」
お姉さまはその言葉に何も言わず、そっと、私のことを抱きしめた。
「お姉さま?」
使っているシャンプーの香りなのか、シトラスの香りが私の鼻をくすぐる。
お姉さまに抱きしめられている安心感。それを感じながら、わたしを抱きしめているお姉さまの手に手を合わせる。
「本当は黙っていようと思ったのだけど……。駄目ね。本当は口をはさむべきことじゃないのだけど、許してね」
お姉さま言いたいことが何だか分からず、私はお姉さまの言葉に耳を傾ける。
「ね、蓉子。祥子さんのこと嫌いなの?」
私のことをやさしく抱きしめながら、お姉さまそう質問してきた。
「そんなことないです」
彼女のことは嫌いじゃない。だから私はその質問に即答できた。
「どうして祥子さんを妹にしないの? 祥子さんのこと妹にしたいと思っているんでしょう」
「……それは」
その言葉に思わずうつむく。
「じゃあ、祥子さんを妹にしたくないわけではないんだよね?」
「はい」
胸の中の想いを言葉にすることができず、私はお姉さまの手をぎゅっと握る。
「まあ、何となくわかるけどね。怖いんでしょう」
お姉さまの言葉に、思わず身体がぴくりと反応する。
「蓉子のことだから、『あの祥子さんをお姉さまのように妹を導くことができるだろうか』とか、考えているんじゃない?」
私は小さくこくりとうなずいた。
「莫迦ね。蓉子は蓉子。私は私。あなたはあなたなりに妹を導けばいいの。私になる必要はないわ。それに……」
そう言いながら、お姉さま私のことをぎゅっと抱きしめた。
「妹は、姉に導いて欲しいなんて思っていないでしょう。あなたは私に導いて欲しいなんて思ったことある?」
私はその言葉に、ぶんぶんと首を振った。
「でしょう。お姉さまの役に立ちたいとは思っても、導いてもらいたいと思わないでしょう。妹なんてそんなものよ。だから、妹を導こうなんて考えなくてもいいの」
「……でも」
「まったく、実の姉妹じゃないんだから、そんなところまでになくてもいいのにね」
そう言いながら、お姉さま小さく笑った。
「私もね、蓉子を妹にする前に同じようなことで悩んだわ」
「お姉さまが?」
「ええ。私みたいな人が、蓉子ちゃんみたいなしっかりした人をを導ことができるんだろうかって」
その時にお姉さまに言われたの。『姉は包み込むもの、妹は支え』だって」
「姉は包み込むもの、妹は支え……」
「ねえ、蓉子。こうは考えられない? 妹をうまく導けないかもしれない。でも、妹を包み込むことならできるって」
「包み込む……」」
「どんな姉でも妹を包み込むことならできると思う。でも、蓉子ならどんな妹でも優しく包み込むことができる。私はそう思う」
「……妹を包み込む。私にそれができるでしょうか?」
その言葉を、お姉さまは鼻で笑った。
「世話好きのあなたにそれができないのなら、世の中の姉さまは、誰もできなくなっちゃうわね。あなたならそれができる。心配なら私は太鼓判を押してあげる」
光が見えた気がした。
「もう一つ聞いていですか?」
「もちろん」
「私はお姉さまを支えることが出来てますか?」
「もちろん」
そのもちろんという言葉は、前のもちろんよりも即答で力強かった。
お姉さまのその言葉は、心の迷宮で迷っていた私を迷宮の外へと連れ出してくれた。
迷宮から出た私の心は祥子さんに逢いたい。その思いでいっぱいになった。
「お姉さま。祥子さんはまだいるでしょうか」
「最近、放課後は音楽室にいるそうよ。一人で淋しそうにピアノを弾いてるって、黄薔薇さまが言っていたわ」
「お姉さま。私、行ってきます」
「そうね、それがいいと思うわ」
そう言いながらも、お姉さまは私を抱きしめた手をほどいてくれなかった。
「お姉さま……」
「うん。言いたいことはわかっている。でもね。もう少しだけ時間をくれないかな。この手をほどいたら、蓉子は私だけの蓉子ではなくなってしまうから」
「お姉さま」
それからしばらく、私たちは何もしゃべらずそのままの格好でじっとしていた。
この時は、さすがの私も祥子さんのことを忘れ、お姉さまのことだけを考えていた。
音楽室の前。
中で誰かピアノを弾いている。中からシューマンのトロイメライが小さく聞こえてくる。
私は演奏の邪魔をしないように、扉をゆっくりと開け、中に入った。
音楽室にはピアノの奏者が一人。祥子さんだった。
私は扉にもたれかかり、目を0つぶって祥子さんの演奏に耳を傾ける。優しく響く音色。だけど、その音色は悲しみの色を帯びていた。
それは、夕暮れの公園で小さい女の子が一人泣いているような、そんな印象を私は受けた。
茜色に染まった音楽室で、優しく悲しい音色が響き、そして、終わった。
私はその演奏に拍手を送り、彼女に私がその曲を聞いていたことを伝えた。
「紅薔薇の蕾……」
「素敵な演奏だったわ。好きなの? トロイメライ」
彼女は少し悩むそぶりを見せた後、私の質問に答えた。
「ええ。この曲を弾くと、夕暮れの中で一生懸命遊んでいる子供たちが見えるんです。男の子に混じった女の子。鬼ごっこをやってはしゃぐ声。そんな子供たちが。それがなぜか懐かしいと感じるんです。私を優しくしてくれるように思えるんです。
だから好きなんです。この曲。もっとも、私にはそんな思い出は全くないのですけど………」
彼女はそう言って寂しそうに笑った。祥子さんは小さいころから、習い事を続けていたといっていた。小笠原家の娘という特殊な環境もあり、夕暮れのなかで仲間と一緒に遊んだ時間がなかったのだろう。
その顔を見て私は強く思った。祥子さんに寂しい想いをさせないように、ずっと包んであげられたらと。 祥子さんが弾いていた、トロイメライの中に見えた、夕暮れの中で泣いている一人の女の子に笑ってもらいたいと。
「祥子さん」
私は小さく深呼吸をした。
「はい」
「お願いがあるの」
「なんでしょう?」
私は首に掛かっていたロザリオを外して言った。
「私の妹になってもらえないかしら?」
「え? だって、なんで? それは本当ですか」
彼女は全く想像もしていなかったというふう驚きの声を上げた。
「ええ、駄目かしら?」
祥子さんは私に顔を見せないようにうつむいた。
「その申し出は、すごく嬉しいです。でも、私は小笠原家の娘です。そのことで紅薔薇の蕾に迷惑をかけるかもしれません。いえ、きっと迷惑をかけると思います。だから……」
「それに、何か問題があるの?」
「え?」
その言葉に祥子さんは私のことをまじまじと見つめた。
「祥子さんは確かに小笠原家の娘かもしれない。でも祥子さんは祥子さんでしょう。もう一度言うわね。私は、祥子さんを妹にしたいの。だから、私の妹になってもらえないかしら?」
「……紅薔薇の蕾。いいのですか? 本当に」
私はしっかりと頷いた。
「……わかりました。その申し出を受けします」
「ありがとう」
私は手に持っていたロザリオ彼女の首にかけた。
この瞬間、私に妹ができ、祥子さんに姉ができた。こうして二人は姉妹になった。
「これからよろしくお願いします。紅薔薇の蕾」
「ええ、よろしくね。祥子さん」
私たちはお互いにこりと笑って、挨拶を交わした。
「そうだ、紅薔薇の蕾。姉妹になって記念に紅薔薇の蕾に聞いて欲しい曲があるのですが。聞いていただけますか?」
「もちろん」
彼女はにっこりと笑うと、ピアノの演奏を始めた。
彼女の指先から紡がれる曲は先ほどのトロイメライと違い、寂しさと悲しさを全く感じさせなかった。
その曲は、すごく聞き覚えのある曲だった。ただ、彼女の弾いている曲の名前を、私は思い出すことができなかった。だから、祥子さんの演奏が終わった後、尋ねのだ。この曲の名前を。
彼女は本当に嬉しそうにその曲の名前を教えてくれた。
その日から、その曲は私の一番のお気に入りの曲になった。
それは、エリック・サティの「ジュ・トゥ・ヴ」
その意味は『あなたが大好き』