【66】 放課後膝枕  (くにぃ 2005-06-20 07:45:07)


「お先に失礼します。」
出入り口で、菜々は由乃さまと共に頭をぺこりと下げて挨拶をし、武道館を後にした。
ゴールデンウィークが過ぎた五月のとある土曜日の午後、他の部員より先に部活を切り上げて、ふたりはいつものように薔薇の館へ向かう。

道々、冷たいものが飲みたいという話になったのでミルクホールへ行き、自動販売機で由乃さまは紙パック入りのリンゴジュースを二つ買うと、一つを菜々に渡した。財布からお金を出そうとする菜々に由乃さまは言う。
「こういう時は『ごちそうさま』って言うのよ。それより薔薇の館に行く前に、どこかでちょっと休憩しましょう。」

薔薇の館へ続く中庭には木陰にベンチがあり、ちょうど今は先客がいないようなので二人はそこに腰掛けた。そしてさっき買ったリンゴジュースを飲み干すと由乃さまは。
「あー、なんだかちょっと疲れちゃった。悪いけど少しの間膝を貸してね。」
と言い、菜々が否とも応とも応える前にベンチの上でゴロンと横になると、菜々の膝の上に頭を預けてきた。

「お姉さま、大丈夫ですか?」
「うん、平気よ。昨日ちょっと寝るのが遅かっただけだから。」
そう言って目を閉じた由乃さまからは、ほどなく小さな寝息が聞こえてきた。

(お姉さま、やっぱりお疲れだったんだ。)
山百合会の仕事と部活の掛け持ちで、ここ数日明らかに疲労が蓄積しているのが、菜々には何となく分かっていた。

それでも負けず嫌いな由乃さまは、どちらも人並み以上にこなしている。特に部活では二年の途中からの入部という引け目からか、あるいは新入部員にして早くもレギュラークラスの菜々の姉としての面目のためか、部員達の最後尾になりながらも、遅れず付いてきているのが傍目にもよく分かった。

(お姉さま・・・。)
由乃さまの寝顔を見つめて、菜々は小さくつぶやいてみる。

菜々は高等部に入ってから今日まで、本当に毎日が充実していた。
入学式のその日の内に由乃さまからあのきれいなロザリオをいただき、それからは由乃さまといっしょに山百合会の仕事し、部活をし、そして「勉強もおろそかにしたらダメよ。」と釘を刺されたので、中等部の時以上に授業も真剣に受けている。
家に帰ってからの稽古でもお祖父さまから、「高等部に入ってから集中力が増した」と褒められた。
そのどれもこれもが楽しくてしょうがなかった。
そしてこの忙しくも充実した日々をくれたのは、間違いなく由乃さまだ。
だから由乃さまにはどれだけ感謝してもし切れない。

こんなにたくさんの素敵なものをいただいて、でも私はお姉さまに何かをお返しできているのだろうか。
ふとそう思う。そして知らず、胸の内に何か熱いものがものが込み上げてきて、いつしかそれは瞳からあふれ出てきた。
その一しずくが由乃さまの頬を濡らし、それで由乃さまはゆっくりと目を開いた。

「泣いてるの?菜々。」
「え?あれ?おかしいな。何で涙が。」
「ふふふ。おかしな子。」
由乃さまは寝ころんだまま、右手の指で菜々の頬の涙をそっとぬぐった。

「私ね。」
由乃さまは言う。
「ゆうべ夢を見たの。団体戦の選手になぜか私が選ばれてて、主将の菜々は勝ったんだけど、でも私のせいでチームは負けちゃうの。その時菜々はとても悔しそうな顔をしていてね。それで菜々は私にロザリオを返してくるの。おかしいでしょ。」
「そんな!」

小さく笑って由乃さまは続ける。
「いいから聞いて。そんな夢の話は置いておいて、最近あなたを妹にして本当によかったのかって思うことがよくあるの。」
「それは私が期待はずれだったってことですか。」
菜々は不安そうに由乃さまの顔をのぞき込む。
「馬鹿ね。そんなわけ無いじゃない。そうじゃなくてその逆よ。私が菜々のお姉さまにふさわしくないんじゃないかってこと。」
「そんなわけありません!」

同じセリフで即答したのがおかしかったのか、由乃さまは笑って続ける。
「私ね、ほんとは令ちゃんみたいなお姉さまになりたかったの。時々私のことでうろたえたり情けなかったりすることもあるけど、でもやっぱり私のことを一番に考えてくれて、いつも私を守ってくれて。でも今の私は菜々をそんな風に守ってやれてないでしょ。どっちかっていうと私の方が守ってもらってるみたいで。」
まさか由乃さまがそんな風に思っているとは夢にも思わなかった菜々は、興奮気味に言った。
「そんなことありません!私今、毎日がとっても楽しいんです。それは全部お姉さまのおかげなんです!」

「ありがとう。私も同じよ。あなたとの毎日はとても新鮮で楽しいわ。だからこそ、自分のエゴであなたを妹にしてはいけなかったんじゃないのかって。だって来年になったら私は卒業してしまって、あなたは二年生なのにお姉さまをなくしてしまうのよ。去年志摩子さんを見ていて、それがどんなに辛いことなのか知っていたのに。でも私の悪い癖で後先考えずに、どうしてもあなたを妹にしたかった。これが下級生を導くべき上級生のすることなのかって、今頃になって思うのよ。」

「・・・今日のお姉さま、なんだか変です。なんか随分弱気っていうか。」
菜々が素直に思った通りのことを言うので、由乃さまは笑っていた。
「言うわね。でも自分でもそう思うわ。新学期になってから今までずっと忙しかったから、疲れてちょっと弱気になっているのかもね。」
そう言うと小さく一つ、ため息を漏らす。

今こそお返しをする時だ。そう気づいた菜々は強い瞳で由乃さまを見据えて言った。
「だったらお姉さま。私が来年一人になっても大丈夫なように、この一年間で私のことを鍛えてください。私何だってがんばりますから。」

きっぱりとした菜々の言葉に、由乃さまは少し驚いたようだが、やがて体を起こすとにっこり微笑んで右手を差し出した。
「よし分かった。本気になった私は厳しいわよ。覚悟しなさい。」
由乃さまの瞳にいつもの光が蘇ってきたのがうれしくて、菜々も元気よく応えて由乃さまの手を握り返す。
「望むところです。」


澄み切った青い空を渡るさわやかな風が、見つめ合う二人の髪を優しく揺らしていく。

写真部のエースがとらえたその情景は、半年後の学園祭に特大パネルとして展示されて、二年前の「躾」に勝るとも劣らぬ好評を博すのだった。


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