【1052】 九死に一生大パニック  (柊雅史 2006-01-25 23:53:39)



 ――事件は放課後の体育倉庫で起こった。


「……あれ?」
「いかがなさいましたか?」
 扉を開けに行った祐巳さまの声に、瞳子は跳び箱の横からひょいと顔を出して入り口を覗き見た。
「……なにをやっているのです?」
 ガタガタと扉を揺すっている祐巳さまのへっぴり腰を見て、瞳子は抱えていたゼッケンの山を床に置くと、扉と格闘している祐巳さまに近寄った。
「瞳子ちゃん……なんだか、この扉……固くて……っ」
 うんうんと顔を赤くして扉を引いている祐巳さまに、瞳子はちょっと呆れたようにため息を吐く。
「祐巳さま、最近運動不足ではありませんこと?」
「う……いや、だって寒いし」
「丸顔が一層丸くなっても知りませんわよ? どいて下さい、代わりますわ」
 力を入れて疲れたのか、手をぷらぷらと振っている祐巳さまを押しやって、瞳子は扉に手をかけた。レールの角度を確認し、変に乗り上げないように真っ直ぐに扉を引く。こういう扉を開くにはコツがいるのだ。祐巳さまのような不器用な方には少々荷が重かったようですわね――などと、次のセリフを考えていた瞳子だけれど、扉は僅かに動いたところでガキッと何かに引っかかって動きを止める。
「……むむ」
「瞳子ちゃんてば、運動不足?」
「……何かが引っかかっているのではありませんか?」
 珍しく皮肉を口にする祐巳さまは無視し、瞳子はレールの先を確認した。
「……別に何もないね」
「そうですわね……」
 祐巳さまとちょっと顔を見合わせて、瞳子はもう一度扉を引っ張ってみる。祐巳さまも逆側の扉――体育倉庫の扉は2枚の鉄扉が左右にスライドする扉だった――を引っ張ってみた。
 結果は同じ。どちらの扉も1センチとして動かずに、ガキッと音を立てて動きを止めてしまう。
「……考えてみれば」
 諦め悪く扉を引っ張っている祐巳さまに対して、早々に諦めた瞳子は、ここに来た時のことを思い出しながら言った。
「私たち、ここに入ってから扉を閉めましたでしょうか?」
「うーん、閉めてないと思うよ」
 祐巳さまがようやく諦めて手をぷらぷら振りながら答える。
「そうですわ。ゼッケンを取りに来ただけですし、すぐに終わるので扉は開けっぱなしだったはずですわ。ですが、今扉は閉まっています。これはどういうことでしょうか?」
「そりゃ、誰かが閉めたんじゃないの? 意外に手間取ったし、ゼッケン探し」
「ええ、どうやらそのようですわ」
「……?」
 頷く瞳子に祐巳さまはちょっと首を傾げ――それから、何かを思いついたように「あ!」と声を上げた。
「もしかして、その時に鍵も閉められたとか!?」
「恐らく、そうでしょう」
 ワンテンポ遅い祐巳さまの反応に、瞳子はちょっと呆れる。
「え、えええ? ちょっと、それって大変じゃない! 下手すると明日まで誰も来ないよ? 私たちがこんなところにいるなんて、お姉さまたちは知らないんだから」
 祐巳さまが焦ったように言い、わたわたと手を無意味に振り回す。
 瞳子と祐巳さまが今体育倉庫にいることは、確かに祥子さまや他の山百合会のメンバーの誰も知らない。たまたま早く薔薇の館に来た祐巳さまと瞳子が――瞳子は遊びに来ただけだけど――誰かが来るのを待っている時に、不意に祐巳さまが思い出したのである。
「そういえば明日体育でゼッケン使うんだった。今の内に出しておこうかな」
 思い立ったら吉日――というより、明日の朝にはきっと忘れてるという、いかにもな理由で、体育倉庫に向かおうとした祐巳さまに、瞳子は手伝いを申し出た。薔薇の館で一人で待ち続けるというのは、少々虚しいと思ったからだ。
 だから祐巳さまと瞳子の目的地が体育倉庫だということは、思い立った祐巳さまと同行者の瞳子しか知らない。しかし「明日まで誰も来ない」というのは、いくらなんでもあり得ないだろう。
「大丈夫ですわ、祐巳さま。鞄は薔薇の館に置いてきましたし、少なくとも祥子さまは先に帰ったりはしませんわ」
「あ、そうか。さすが瞳子ちゃん、冷静だねー」
 祐巳さまがポンと手を打って、感心したように言う。
「当然ですわ。どんな時でも冷静さを失わなければ、自ずと道は拓けるものですわ。それに、そんなに心配なさらなくても――」
「じゃあ、焦っても仕方ないし、二人でお喋りでもしながら、のんびり待とうか」
 にこっと笑みを向けて来た祐巳さまに、瞳子は言いかけた言葉を飲み込む。
 ついでに、制服のスカートに伸ばしかけた手を、ピタリと止めていた。
「……そ、そうですわね。ええ。誰かが探しに来てくれるまで、どうしようもありませんものね。ここは悠然と構え、焦らず冷静にお喋りでもしていましょう」
「そうだねー。あ、ところで瞳子ちゃん、さっき何か言いかけてなかった?」
「い、いいえ、別に何も。――あ、そうですわ、祐巳さま。立ちっ放しでは疲れますし、あそこのマットにでも腰を下ろしましょう」
「あ、そうだね。そうしよっか」
 瞳子の指し示すマットを見て、祐巳さまが頷く。床運動用のマットは少々汚れていたので、二人はそれぞれハンカチを敷いて腰を下ろすことにした。


「はぁー、でも瞳子ちゃんが一緒で良かった。一人だったら今頃大パニックだったよ」
 瞳子に軽く肩が触れるくらいの距離に腰を下ろし、祐巳さまがちょっと情けない声を漏らす。どうしてこう、この人はナチュラルにこちらが身構えたくなるような距離に近付いてくるのだろう。
「でも、こうして一緒に閉じ込められていなければ、今頃祐巳さまの帰りが遅いということで、探しに来ていたかも知れませんわ。そうしたら出れましたのに」
「んー、そうかもしれないけど。でもやっぱり、短い時間でも一人で取り残されるのはイヤだなぁ……絶対、こんな風に落ち着いていられなかっただろうし」
「まぁ、祐巳さまでしたらそうでしょうね」
「それにホラ、ちゃんと助けが来るって分かっていれば、なんだかちょっとドキドキしない? お姉さまたちには悪いけど、少し楽しいって言うか」
「ま、まぁ、それは確かに……」
「瞳子ちゃんとなら、お喋りしてれば楽しいしね」
「そ、そうですか……ま、まぁ、私も祐巳さまとでしたら、悪くありません」
「へ?」
「き、気を使わないで済みますもの。これが相手が令さまですと、何を話して良いのか、困るところでしたわ。ええ。別に祐巳さまだから良かったというわけではなく、ですわ」
「んー、確かに由乃さんとか乃梨子ちゃんとでも、楽しそうだよね。志摩子さんは……私もちょっと緊張するかもだけど。頼りにはなりそうだけどね」
 うんうん、と頷く祐巳さまに軽く嘆息して、瞳子は話題を変えることにした。
「ところで祐巳さま、先日乃梨子さんがですね――」


 クラスの出来事や最近見たテレビのことなど、適当なことでも楽しく話していれば時間はあっと言う間に過ぎるものだ。
 ピピッ、と瞳子の腕時計が音を立て、6時を告げた。
「――6時ですわ」
 祐巳さまが視線で問い掛けてくるのに、瞳子は答える。
「もう6時かー。えーと、私たちがここに来たのって、何時くらいだろう?」
「多分、4時過ぎじゃないでしょうか。正確には分かりませんけど、薔薇の館にもしばらくいましたし」
「じゃあ、もう2時間も経ったんだ。あっという間だったけど、そろそろお姉さまたちも心配してるかなぁ……」
 祐巳さまがちょっと憂鬱そうな表情になる。話している間は純粋に楽しかったのだけれど、どうも時間を告げる腕時計の音が、祐巳さまを現実に戻してしまったらしい。
 不安そうな祐巳さまの横顔に、瞳子の胸がちくちくと痛くなる。そういえば、最初に比べて祐巳さまが随分と瞳子に接近して、ピッタリ密着してくることを、素直によろこ――いやいや、何でもないことだと無視していたけれど、徐々に祐巳さまも不安になっていたのかもしれない。
(……そうですわ。いくら単純な祐巳さまでも、助けが来るはずだからと言って、完全に冷静になれるハズがありませんわよね……)
 瞳子はちょっと後悔する。らしくなく、先輩として気にしない素振りを演じていた祐巳さまに、瞳子はすっかり騙されてしまったらしい。
 反省して、瞳子はよし、と決心した。当初のセリフとは違うセリフを思い浮かべ、思い切って口を開く。
「あ、あの! 祐巳さま――!」

 ぷるるるる……ぷるるるる……

 瞳子が正に口を開いたその瞬間。
 いきなり電子音が辺りに鳴り響き、瞳子と祐巳さまは動きを止める。
「……」
「……」
 思わず互いに顔を凝視し合い、それから祐巳さまがゆっくりと瞳子のスカートのポケット辺りに視線を落とす。
「えーと……瞳子ちゃん?」
「は、はい……?」
「電話、鳴ってるよ……?」




「それにしても瞳子ちゃんってば、たま〜に凄く抜けてるんだから。まさか携帯電話持ってたことを忘れるなんて……あはははは!」
 鞄はあれども中々戻らない瞳子と祐巳さまに、心配して電話をかけて来た乃梨子さんと祥子さまに救出され、薔薇の館で紅茶を飲みながら祐巳さまが物凄く嬉しそうに笑っていた。
「し、仕方ないではありませんか。最近、購入したばかりなのですわ!」
「だからって、そんなシチュエーションで携帯の存在を忘れるぅ? 前代未聞の事件だわ! 瞳子ちゃん、ナイスよ!」
 抗議する瞳子に、由乃さまがバシバシと机を叩きながら笑っている。体育倉庫に閉じ込められた上、簡単に助けを呼べる携帯電話の存在を忘れていた瞳子は、余程祐巳さまと由乃さまの笑いのツボを刺激したらしい。
「さ、祥子さまぁ〜。祐巳さまと由乃さまが酷いですわ! 瞳子だって怖い思いをしたのに、それをあんな風に笑うんですぅ!」
「そ、そうね。大変だったわね、瞳子ちゃ……」
 助けを求めた瞳子を、祥子さまが真顔で慰めながらも、最後の最後で奇妙に顔を歪ませて、慌ててそっぽを向く。
 ふるふると肩が震えているのは――まさか、祥子さまに限って笑いを堪えている、なんてことはないと瞳子は信じたかった。
「まぁまぁ、良かったじゃない、笑い話で済んで」
「そうね。乃梨子が番号を知らなかったら、大変だったわ」
「黄薔薇さま、白薔薇さま……」
 多少顔が緩みつつも、無事を喜んでくれる二人に、瞳子はちょっと感動し――そこで、ジーッと瞳子を見詰めている視線に気付く。
 他でもない、電話をしてくれた乃梨子さんだった。
「の、乃梨子さん、何か……?」
「自業自得」
「う……っ!」
 ぽつりと小さく呟き、呆れ返った視線を投げかけてくる乃梨子さんに、瞳子は気まずげに視線を逸らす。


 乃梨子さん、あなたが勘の鋭い方だというのは、重々承知しておりますので。
 どうか真相は、そっと心の裡に収めておいてくださいませ……。



一つ戻る   一つ進む