【1051】 知られたくないしたい事と出来る事  (沙貴 2006-01-25 22:40:46)


「チケット余っている?」

 薔薇の館で乃梨子さんから唐突に告げられたそんな言葉に、可南子は内心とても驚いた事を覚えている。
 でもそれは乃梨子さんがいきなり声を掛けてきたことに驚いたのでも、告げられた言葉が意外過ぎたことに驚いたのでもない。
 考えないようにしていた”余っているチケット”を急に思い出させられたこととに驚いて。
 そして予想以上に驚いた自分に対して、もう一度驚いたのだ。
 可南子は自分でも気付かないうちに、チケットに対して随分なタブー意識を持ってしまっていたらしい。
 
「余っているわよ」
 返した口調に不審な点は無かっただろうか?
 このシーンを思い出す時、可南子はいつもそれが不安になる。
 あの場所には可南子と乃梨子さんだけではなくて祐巳さまが居られたし、花寺の男達も居たから。
 
 チケットが余っていること自体は別に大した事ではない。
 とは言え、プレミアチケットであるリリアン女学園学園祭の入場チケットが手元に余っていると言うことは、余り誇らしいことでないのは確かだろう。
 核家族の多い昨今だけど、構成家族が父、母、娘だけという三人家庭は結構少ない。
 兄弟が居たりすればその分枚数が追加で必要だし、近所付きあいでチケットが流出することも珍しくは無い。近所に親戚が住んでいれば更に必要になる。
 それでもチケットが余るということは、本人・家庭共に人付き合いが少ないという意味に他ならないからだ。
 事実だけれど、余りみっとも良いものではない。つまり、弱みだ。
 祐巳さまにも男達にも決して見せるわけにはいかない。
 
「何枚欲しいの?」
「な、何枚あるの?」
 続けた言葉に乃梨子さんが珍しく狼狽した。
 ある程度は自覚があったが、余程インパクトのある台詞だったのだろう。一枚余っているだけでも稀有なチケット、それを複数枚ちらつかせた訳だから無理も無い。
 しかしお陰で自分から意識を遠ざけることも出来た筈だ。
 ほっとして可南子は。
「二枚……待って」
 自分でも思い掛けない数を口にしてしまっていた。
 
 
 一人の生徒に配られるチケットは五枚、だから可南子が呼べる相手は五人だけ。
 でも本当は、そんなに要らない。呼ぶ相手はそんなに居ない。寂しいことかも知れないけれど。
 一枚は勿論母だ。娘の学園祭に割ける時間があるかどうかは甚だ疑問だけれど、来て欲しいと素直に思うし、一つ屋根の下で暮らす唯一の家族だ。渡さないなんてことはそもそも選択肢に上らない。
 
 一枚は――父だった。チケットの渡し相手として咄嗟に換算したのは、父だった。
 家でゴロゴロしていた父。
 時々思い出したように、近所の学校へバスケのコーチをしに出かけていた父。
 母と良く喧嘩をしていた父。
 では、無くて。
 子供のように顔を輝かせて、バスケットボールを追っていた父。
 試合で苦戦する可南子達へげきを飛ばす父。
 物凄く簡単そうに、けれどとても綺麗にスリーポイントシュートを決めてみせた父。
 そんな在りし日の、可南子の知る世界中の誰よりも格好良かった父だった。
 
『はいこれ』
『ん、なんだいこれ。肩叩き券にしては時期外れだぞ』
『何が哀しくてこの歳で肩叩き券なんてあげなきゃいけないの。学園祭のチケットよ、リリアンにはこれが無いと入れないの』
『おお、そうなのか。ありがとう、楽しみにしているよ。考えてみればお父さん、可南子の制服姿も余り見たことがないしな――』
 
 なんて。
 馬鹿馬鹿しすぎて泣けてくる、そんな幻想染みた会話が真っ白な背景で可南子の脳裏を通り過ぎた。
 有り得ない妄想だ。
 幼稚な願望だ。
 
 そしてもう一枚は、夕子先輩。通い始めた高校の学園祭チケットを、中学校の頃の先輩に渡す。大好きな先輩に渡す。
 それはとても自然なことだ。渡せるものなら渡したい。
 二歳離れた可南子を良く可愛がってくれたし、何よりバスケを教えてくれた。
 可南子がバスケにはまった理由は、父よりもすぐ傍でプレーしていた夕子先輩の存在がやっぱり大きい。
 夕子先輩のようになりたい。
 クールで、スマートで、格好良くなりたい。
 そんな単純な羨望が、可南子の根底にはある。

 ……あった、だろうか。
 今でもその思いに陰りはない。夕子先輩は憧れの先輩だ。大好きな先輩だ。自信を持って可南子は断言できる。
 でもきっと、それを口にしてはいけない。
 そんな資格は可南子にない。
 憧れている、とか。大好きだと。
 言ってはいけないのだ――その夕子先輩を酷く酷く傷つけた男を父に持ってしまっているから。
 だからチケットは渡せない。その前に立つことすら、許されない。
 
『夕子先輩、これどうぞ』
『あ、学園祭の入場チケットね。良かったー、くれなかったらどうしようかと思っていたの』
『あげるに決まっているじゃないですか。必ず来てくださいね、私、生徒会の劇に出ていますから』
『生徒会……山百合会、だっけ? うん、絶対観に行く。約束ね』

 だから。
 こんな会話は成立しないのだ。
 本来なら高い確率でありえただろうこの二人の逢瀬は、儚い夢想として可南子の中に生まれて消えた。
 消えてしまった。
 
 消えてしまった、のだ。
 
 
「四枚までなら良いわよ」
 ずらっと並んだ四枚のチケットを扇状に広げて眺める乃梨子さんをどこか呆然と見ながら、可南子は小さく息を吐いた。
 

 〜 〜 〜


 学園祭の日は迫ってくる。
 チケットを渡すにしても父らと直接顔を付き合わせて手渡しと言うことはありえないから、郵送になるだろう。
 とすると、タイム・リミットは学園祭当日よりも二日ほど早くなる。
 送るならそれまでに封筒と切手を用意して、流石にチケットだけを渡すわけにもいかないから手紙を書かなければならない。
 送ろうと思ってその瞬間に任務完了出来るほど簡単なことではないのだ。

 にも拘らず、可南子は未だ迷っていた。
 手元に残った三枚のチケットのうち、既に母へ渡した一枚を除いた残りの二枚は今尚鞄の中で眠っている。
 送るなら送るで早く送らなければならないし、送らないなら送らないで未練がましく持ち歩かずさっさと破り捨てれば良い。
 そんなことは誰よりも可南子本人が判っているが、それが出来ないからこそ細川可南子なのである。
 クールを装っていても、何につけてもいざ切り捨てるときに躊躇してしまう。
 花寺学園祭近辺でのイベントを経てもまだ直らないその習性は、ほとほと可南子の根幹にあるのだと痛感する。

「祐巳さまのこともそうだしね」
 薔薇の館での合同練習を終え、一人帰る銀杏並木。
 自虐的にそう呟くと、”祐巳さま”の単語が静かに胸を打った。
 冬の到来を予感させる冷たい風が、俯いた可南子の前髪を揺らす。
 こつこつと煉瓦畳を叩くローファーの音が、漏らした可南子の独り言を掻き消した。

 祐巳さま。
 年下の子に鬱陶しがられることを承知でそれでも「このままにはしたくない」と張り切って奔走する無邪気さは相変わらず。
 男密度の多い現在の薔薇の館でどうにか可南子が立ち位置を確保できているのは、可南子が男嫌いだということを良く知っている祐巳さまの細かい配慮のお陰だ。
 でもそれを単純に喜んで受け入れられる程可南子は素直ではない。
 また、人の少ない場所を好んできた性根は今更直せない。正直今の薔薇の館は息が詰まる。
 
 でも。
「可南子ちゃーん! 待ってー!」
 幾ら放課後の遅い時間帯とは言え、人目を憚らずに大声で名前を呼ぶ。
 そんな祐巳さまの無垢――能天気さが心地よいと感じていることも事実なのだ。
 そしてその傍に用意してもらった居心地の良い場所も好きだ。
 心から。

「祐巳さま」
 振り返って、可南子は軽く頭を下げた。
 手痛く傷つけられて。手酷く傷つけて。
 本当なら向き合うことも許されないはずの祐巳さまとの、縁。
 それを結局切り捨てるどころか手紙と一緒に強く握り締めてしまっている可南子は、だから、細川可南子なんだろう。
 
 
 紅薔薇のつぼみらしからず、プリーツを翻して駆けてきた祐巳さまは可南子の前で立ち止まって膝に手を付き、ぜぇぜぇはぁはぁとこれまた淑女らしからず荒れた息を吐き出した。
「よ、良かった……間に合ったよ」
 マラソンを終えたばかりのように背中を丸めて肩で息をする祐巳さま。本当に全力疾走してきたらしい。
 背中を摩って差し上げようかと思って伸ばした手が、しかしピタリと空中で静止する。
 拳一つ分の隙間が、何故だか埋められなかった。
「ん、何?」
 影が落ちたことに気付いたのか、元々ある身長差も合間って完全に下から見上げる祐巳さまの視線に疑問が乗る。
 可南子は視線を彷徨わせながらも「いえ、その、落ち葉が」とか何とか言って、祐巳さまの肩辺りを払う振りをした。
 その時でもやはり触れられない。
 ついさっきまで昔を思い出していたから、祐巳さまに引け目を感じているのか。
「ありがとう」
 祐巳さまはそんなことなど(当たり前だけれど)露知らず、にっこり笑って無防備なお礼を言う。
 熱くなる頬を自覚しながら、可南子は何とか目を逸らすことに成功した。

 祐巳さまがそこまでして可南子を追ってきたのは、何のことはない。
 要約すれば、祥子さまが瞳子さんに取られてしまったから一緒に帰ろう、というものだった。
「それに、可南子ちゃんと一緒に帰ることなんて殆ど無かったしね」
 何の気ない祐巳さまのそんな言い訳は、ぐさりと刺さる言葉のナイフ。
 可南子は今まで何度も祐巳さまと一緒に帰っているし、そのことを祐巳さまもご存知のはずだ。
 皮肉としては最上級だが――本当は皮肉でもなんでもない。
 並木道をすり抜ける木枯らしのように冷え切った可南子の性根が曲解しているだけ。
「でもそれは祐巳さまがいつも紅薔薇さまとご一緒するからでしょう? 私とだけじゃなくて、瞳子さんとも乃梨子さんともご一緒されている場面は余りお見受けしませんけれど」
 だからここは言葉通り受け取っておけば良い。
 祐巳さまの発言の裏を読んでも馬鹿を見るのは本人だけだから。

「あはは、それは酷いよ。それじゃ私いつもお姉さまと一緒に居るみたいじゃない」
「え、違うんですか?」
「うわっ、真顔で聞いたよ! 可南子ちゃん、それはないよー」
 ころころ表情を変える祐巳さまは、誰かさんと同じくオーバーアクション。
 そして誰かさんと決定的に違うのは、表面化している感情が演技ではなく本音であるということだ。


 誰かの隣を歩く時、背の高い可南子は基本的に歩幅の関係上少し歩みを緩めなければならない。
 そしてその中でも祐巳さまはかなり速度を落とさなければならない相手だった。
 足の長さがどうこうと言うより、祐巳さまがゆっくり歩く方だから。
 生き急いでいるつもりは無いけれど、可南子はこういう場合に自分の歩行速度は人より速いのだと強く感じる。
 それはきっと道端に落ちている色んなものを見逃してしまう、勿体無い歩き方なんだろう。
 そう考えると、祐巳さまの歩き方は人として本当に好ましいものだと思う。

「学園祭の時、劇以外の間って可南子ちゃんは何をやっているの?」
 時期が時期故に、やはり話題は学園祭のことが多くなる。
 並木道を歩きながらぽつぽつ交換する言葉から「劇」「学園祭」に関連するものを引っこ抜けば、会話は半分くらいに減ってしまうのではないだろうか。
 でもそれは逆に、色んな人が同じ事柄に関して考えて、会話して、思いを馳せているということだから。
 悪いことではない。きっと。
「クラスの出し物があります。とは言っても展示会ですが……その分暇な時間が長いですね」
「あ、それじゃあ」
 ぴん! と祐巳さまの頭の上で電球が光った気がした。
 苦笑して可南子はそっとその電源スイッチをOFFにする。
「すみません、言い方が悪かったですね。暇な拘束時間が長いんです。元々余り見て回るつもりは無かったから、結構な時間を当番で引き受けてしまって」
 そっかー……そっかー、とエコーすら聞こえてきそうに気落ちした声で相槌を打ってくれた祐巳さま。
 先手を取ったのが拙かったのか、可南子は必要以上に声量を上げてフォローを入れた。
「私達のクラスでももう姉妹になっている人は多いですから。折角のイベントを詰まらない仕事で潰させたくはないですしね」
 勿論それは建前で、見て回る気も無ければ見て回る相手もいないから、と言うのが味気ない本音だったりするが、それは今言わなくて良いことだ。
 
「でもそれだと可南子ちゃんが詰まらないでしょう? 折角のイベントは、うん、やっぱり無理してでも楽しむべきだよ」
 祐巳さまはめげなかった。
 可南子のことを気に掛けてくれることは嬉しいのだが、紅薔薇のつぼみである祐巳さまこそ多忙な一日になることは間違いない。
 イベントは無理をしてでも楽しむべき、を否定する気は可南子に無いが、限界と言うものもある。
 それに何より。
「祐巳さまも、学園祭は紅薔薇さまと回りたいと思うのですけれど?」
「う」
 誰かが嫌な思いをして誰かが楽しむのは筋違いだと、可南子は思う。
 祐巳さまが可南子に構ってくれるなら可南子は確かに嬉しいし学園祭がもっと楽しくなるだろうけれど、祐巳さまの学園祭はかなり楽しくなくなる筈だ。
 何と言っても祥子さまと回れる最後の学園祭。可南子だけではない、祐巳さまファンへのサービスも考えれば時間なんて分単位のスケジュールになるだろう。
 
 それはいけない。
 もし可南子に姉妹がいるなら話は別だが、現在可南子には姉も妹も居ないし、当面できる予定も作るつもりもない。
 暇な仕事は暇人がやればいい。
 これは献身ではなくて、適材適所というやつだ。
 人が出来ることは、その人それぞれに決まっているのだと思う。
 
「私の分まで楽しんでください。そうすれば、私が受け付けで潰す時間も報われます」
 駄目押し、と言わんばかりに可南子はそう締めくくった。
 ここまで言えばお人好しの祐巳さまと言えど引いてくれるだろう。そう思った。
 皆が皆無条件で幸せになればそれは素晴らしいことだけど、それは無い。
 それは、無いのだ。
「でも――」
 そう言って祐巳さまは視線を落とした。
 
 違う。
 祐巳さまは見た。可南子の鞄を。
 それは最近になって感じるようになった祐巳さまの視線。
 始めは意味が判らなくて気味が悪かったけれど、今でははっきりと判っている。
 祐巳さまは、あの時から薔薇の館で乃梨子さんから「チケットある?」と聞かれた時から時折可南子の鞄を見るようになった。
 何故なら、その中にチケットが入っているから。
 父と夕子先輩に渡そうとしてまだ渡せないで居る、二枚のチケットが入っているから。
 祐巳さまは何故か。けれど確信を持って。それを知っているから。

 風が吹く。
 刺すような斜陽が頬を焼く。
 祐巳さまの優しさが胸に染みる。
 祐巳さまの無邪気さが胸を抉る。
 走馬灯のようにして先程までの会話が脳裏を駆け巡った。
 飽き足らず、乃梨子さんとチケットを挟んで会話した、あの時まで時間が戻る。ばれないように(しているつもりだろう)こちらをちらちら見ていた祐巳さまが視界の端で揺らめく。
 祐巳さま。
 それは祐巳さま、なんて残酷な――

「うん、そうだね」
 と。
 暗い感情に取り付かれそうになった丁度その時、祐巳さまは言った。
 顔を上げて、目を細めてにっこり笑って。
「うん、そうするよ。私、目一杯楽しむ。可南子ちゃんの分まで、お姉さまと、由乃さんと、志摩子さんと」
 急激なテンションの切り替えについていけない可南子の手をぎゅっと握った。
 冷風に吹かされたその手は氷のように冷たかったけれど、きっと可南子も似たような体温だ。
 それ以上に肌の滑らかさに可南子はどきりとした。

「ごめんね、ヘンなこと言っちゃったね。ごめんね、力になれなくて。でも任せて、可南子ちゃん。私馬鹿だから、遊んで楽しむことだけは得意だから。可南子ちゃんのお陰なんだって思いながら目一杯お姉さまに甘えてくる」
 ちょっと早口でそういった祐巳さまの言葉の中に気になる箇所が一つだけあったけれど。
 でもそこは突っ込んではいけない部分なのだろう。
 だから可南子としては、その手を握り返して言えば良いのだ。
「はい。是非に」
 それだけ。
 でも、心からの本音を。


 〜 〜 〜
 
 
「ちょっと瞳子張り切りすぎだよね」
 本番最後の舞台練習、舞台袖で待機している可南子に乃梨子さんは苦笑して言った。
 可南子は「本当に」と頷きはしたものの、現在目の前で行われている過剰に元気な瞳子さんの演技は本当に凄くて目が離せない。
 気には食わない相手でもやはりここは本業、付け焼刃の可南子や祐巳さまとは次元が違う。
 大仰な身振り手振りに完璧な滑舌、舞台中央を挟んで反対側に居る可南子ですら引き込む指先の演技力。
 まるで瞳子さんの周りだけ時間の流れが異なっているように、古めかしいリリアンの制服こそ真新しく思えた。
 心の中で賞賛する。
 勿論、心の中でだけだけど。
 
 瞳子さんは、演劇部内での悶着により面倒な事態に発展しかけた時期があった。
 祐巳さまのおせっかいによって事無きを得たということは乃梨子さんから聞き及んでいるけれど、その場を実際に目にした訳では無いので仔細は判らない。
 気にならないといえば嘘になるだろう。
 (元々は瞳子さんを解雇する為の)説得に向かった祐巳さまと瞳子さんの会話。
 立ち聞きに行った祥子さまや由乃さまとは違い、志摩子さまにやんわりと足止めされて可南子と乃梨子さんは聞けていない。
 言い換えれば、その三人だけ聞けていないのだ。
 何をどう間違えれば解雇勧告が瞳子さんの奮起に繋がるのか、想像の範疇を超えている。
 気になる。気になるとも。
 とは言え祐巳さまと瞳子さんのどちらが気になるのかは、また別の難しい問題だ。
 
「でも元気になって良かったよ」
「うるさいだけだわ。舞台で大きな声は良いけれど、薔薇の館でもキャンキャン吼えるのだもの」
「それが良いんじゃない」
 演技を見ながらいつものように皮肉だか悪態だかを吐いて会話を流そうとしていた可南子は、けれど意外な乃梨子さんの肯定に驚いた。
 振り返ると、舞台袖の暗い照明でもはっきりと判るくらいに意地悪く笑って乃梨子さんは言う。
「私は正直、静かで無口な瞳子は見たくないな」
 想像して。
 可南子はくっと笑った。
「それは……確かに近付けないわね」
 
 薔薇の館で静かに文庫本を読んでいる瞳子さん。目は良い筈だが、ここは敢えて縁なし眼鏡をプラス。
 或いは、暗い背景の片隅で縦線を背負って、俯いて、地面に”の”の字を書いている瞳子さん。
 近付けない。近付きたくない。
 例え髪型が時代錯誤なまでに稀少なアレでも、それは瞳子さんではない。
 瞳子さんの格好をした別のナニカだ。
 
「だからうるさいくらいが瞳子なんだって」
 時々思うが、そう言って笑う乃梨子さんは痛快だ。
 その痛快さは純粋な好意の象徴、乃梨子さんは美幸さんや敦子さんに対してこんな物言いをしない。
 きっと、可南子に対しても。
「容赦ないのね」
「私はそんなだから」
 そして乃梨子さんはにししとシニカルに笑う。冷笑、しかも愛あるそれが似合う人だ。
 嘲笑、しかも自嘲の似合う自分とは大違い。
「……終わったようね」
 可南子は、舞台から袖にはける瞳子さんの背中を見ながらそう言って会話を切った。
 
 
 けれど中々どうして、瞳子さんは本当に気の抜けない人で。
「ね、祥子さま? 優お兄様に学園祭のチケット渡された?」
 何て一言から始まった会話であっさりと可南子の心を掻き乱してくれた。
 でも勿論それは可南子に対するあてつけでも何でもなくて、勝手に可南子が右往左往しているだけだ。
 
「チケット? ええ、一応ね」
 台本から顔を上げ優雅に頷いてそう仰った祥子さまに、瞳子さんは「うーん」と可愛らしく小首を傾げて顎に指を当てる。
「じゃあ私が差し上げたらチケットが二重になってしまいますわね」
 別段困った風も無く困った様子を装えるジェスチャーに嘆息。
 基本的にオーバーアクションの瞳子さんは表現したい感情は駄々漏れだが、実際の感情が読めないので閉口する。
 今だって困っていると主張しているものの、実際に困っているかどうかは判らない。余り困っていないような気がするが確証はない。
 
 渡すべきか、渡さざるべきか。
 どういう偶然か、それは現在可南子が頭を悩ませている問題と全くの同一だ。
 とは言え中身は全く異なって、瞳子さん的には渡したいけれど渡さない方が良いのかも知れない、という悩み。
 可南子的には渡したいかどうかも判らないので余ったままのチケットを持て余している、と言う悩み。
 並べてみるとずいぶんと格差のあることだと思う。
 
 可南子は咄嗟に、瞳子さんに渡さないで欲しいと思った。
 理由は特にない。だからこそ咄嗟なのだ。
 
「あら、構わないのではなくて?」
 けれど、祥子さまはそれを否定する。
「実際に使うのは一枚でも、優さんに来て欲しいという瞳子ちゃんの気持ちは伝わるわ」
 祥子さまの言葉はずしりと可南子の胸を直撃した。
 
 渡すことに意義がある。それは全くもっての正論だ。
 仕事の忙しい母に渡すチケットの半分くらいはその意味に当たる。
 私はあなたに来て欲しいと思っています、と言う自己主張。
 来て下さい、と言うお願い。
 それがチケットを渡すと言うことの隠された意味だろう。

 来て欲しいなら渡せば良い。
 そうか。そうなのだ。
 チケットを渡したいか渡したくないかではない。
「来て欲しいか、来て欲しくないか」
 その二択だ。

 呟いた可南子の言葉は瞳子さんの「そうね。そうしますぅ」と言う大声で掻き消され、この時ばかりはうるさいばかりのその声に可南子は感謝したのだった。


 〜 〜 〜


 学園祭当日。
 家を出る時、可南子は一つの封筒を手にしていた。中身は勿論学園祭のチケット二枚と、二人に宛てた手紙だ。
 大したことは書いていない。
 簡単な近況と、学園祭で劇に出ますと言う報告。そして、遅れてごめんなさいの一言だけ。
 とは言え、それを書く為にレポート用紙を何枚も無駄にしてしまったりはしたのだが。
 
「これでやっと、全部はけたのね」
 それを投函して、手元から完全にチケットが無くなったのを実感して。
 可南子はなんだか肩の荷が下りたような、ちょっと勿体無いような、微妙な感慨に息を漏らしたのだった。

 学園祭当日に送るのだから絶対に間に合わない。
 だから会うことは出来ない。
 でも、破り捨てることはやっぱり出来なかった。
 来て欲しくない、なんてやっぱり思えなかった。
 
 人が出来ることは、その人それぞれに決まっているのだと思う。
 可南子には父も夕子先輩も、そのどちらも学園祭に呼ぶことは”出来ないこと”だけど、チケットを送ることは”出来ること”なのだ。
 心の底から父を許せる日が来るとは思えない。
 でも心の底から父を嫌える日もまた、きっとやっては来ないだろう。
 夕子先輩に正面から頭を下げられる日も――遠い。
 だからこそ、見えない未来を憂いて立ち止まることは駄目なことだ。
 せめて、自分に出来ることをやろう。

 少なくとも、チケットを送ることで可南子の中で踏ん切りはついた。
 後は劇と展示会の受付を適度に頑張ればそれで良い。
 味気なくはあるけれど、少なくともそれで一年椿組の姉持ちは学園祭をより楽しめるのだし。
 約束を守ってくれるなら、祐巳さまも学園祭をより楽しんでくれる筈だから。
 
 それだけ出来れば、まぁ。
 今年の可南子の学園祭としては万々歳。
 そんな気がするのだ。


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