演劇部の部室に近づくと不意に自分の名前が聞こえた。
「それでね。瞳子さんが……」
思わず扉の前で足を止めてしまう。部室と言っても普通の教室だ。体育館のステージは使用許可が必要だから、普段の稽古や本読みとかには教室を使っている。
それにしても間の悪い。
いつもの足音を立てない歩き方が災いしたようだ。本当にうんざりする。
このまま立ち去ろうとも思ったが、なにか悪意ある台詞が飛び出したところで入っていく方が効果的だろうとそのまま耳をすました。これは、これまで上流階級で口さがない人たちを相手にしてきた瞳子にとって、自分を守るために身につけた手管だ。
「瞳子さんが祐巳さんを好きなのは間違いないと思うわけなのよ」
やっぱりその話題ですか……。茶話会の話が出て以来、もう毎日のように耳にする話題だ。
純粋な憧れから来る悪意のない、それでいてプライバシーにずかずかと踏み込む興味。誰にでもおめでたい笑顔をふりまく祐巳さまに対する憧憬。アイドルと生意気な後輩が姉妹になることに対する憤懣。そんなとこだろう。
「そうですわね。文化祭前の暴走も丸く収めてくれたのは祐巳さんだそうですし」
「もうっ。あのことなら、私も悪かったと思ってるわよ」
エイミー役を妬んで瞳子に突っかかってきたあの先輩の声だ。
あら、思っていたより殊勝なことで。でもそういうことは瞳子の前で言って頂かなくては意味ありませんことよ。
「そうね。あれは未朱さんが悪いわね。でも瞳子さんも悪かった」
この声は部長だ。どうやら私以外のほとんどの部員が集まっているらしい。
部長がこういう話に加わるとは意外だ。彼女のリーダーシップや公平さ、演劇に対する姿勢などは瞳子も一目置いている。瞳子のエイミー役を強く押してくれたのも彼女だ。誰に対しても公平な態度を取る、その部長が噂話に加わっているということは、どういうことなのか?
陰口とは考えにくい。先ほどの言葉からも部長としての配慮が見える。瞳子のやったことは他の部員の手前認めるわけにはいかないけども、未朱さまの非も指摘している。
「でもその償いは二人とも、学園祭の舞台でしてくれたと思うんだけど。みんなはどう思う?」
部長の優しい声に、何人もの人が、そうね、そうよ、と頷いてる気配が伝わってくる。未朱さまもあの時以来、瞳子をちゃんと立ててくれたし、自分の役柄はもちろん、いろいろな準備を手伝ったりと頑張っていた。
それにしても、こういうところが部長の凄いところだ。部員全員を公平にちゃんと評価し、みんなの気持ちをまとめてくれる。ひょっとするとこの結論をみんなから引き出すために部長が率先してこの話を始めたのかもしれない。
「そう思ってくれるのは嬉しい。でも、瞳子さんに対してはまだ何も償いができてないから……」
素直に自分の力不足を認められず、つい瞳子を責めずいられなかった未朱さま。それだけに今は激しく後悔している声だった。
ちょっとだけ自分と似てるかもしれないなと苦笑いを浮かべる。
「それで、祐巳さんと瞳子さんを応援しようというわけ?」
未朱さまの言葉を引き継いで、先輩の一人が確認する。
「うん。それで協力してもらおうとみんなに声をかけたのよ」
そういうことか。先ほどの推理はハズレだったらしい。この話の首謀者は未朱さまだ。
まったく……。悪い人じゃないのは判ったけど、それこそ、余計なお節介だと判らないのか。
思わずため息をつく。
そこを助けてくれたのはやっぱり部長だった。
「未朱さんの気持ちは判るけど、それじゃ瞳子さんは喜ばないでしょうね。私にさえ、『瞳子さんのこと何か聞いてない?』とか『祐巳さんが覗きに来たりはしないの?』とか聞いてくる人がいるんだから、当の本人は煩わしい話だと思ってるんじゃない?」
「煩わしいって、紅薔薇のつぼみの妹にという話ですよ? 光栄に思いこそすれ……」
1年の部員が遠慮がちに言う。確かあのこは祥子さまの信奉者だったわね。
「そうね。でもみんなだって、どんなに慕ってる先輩とのことだとしても、……いやだからこそ、かな……毎日のように赤の他人から妹にならないのかとか聞かれたり、影でこそこそ噂されたりしたら嫌でしょう?」
一瞬、教室の中を静寂が走った。みんなが思案し、戸惑いながらも頷いてるようだ。
「そ、そっか」
「だとしたら私たちにできることは?」
「えっと……ここにいるときぐらいは、演劇に没頭して、そんなこと忘れさせてあげること、ですか?」
部長の妹にして脚本家である律子さんが姉の意図を察し冷静に答えた。
「そうだよね。それじゃ、そんな感じで、みんな協力してくれないかな?」
未朱さまが頭を下げたらしい。もちろんよ、とか言う声があちこちから聞こえた。そんな未朱さまとみんなの気持ちに胸がきゅうっと熱くなる。
みんなの返事が一段落すると、部長がみんなの意見をまとめるように口を開いた。
「未朱さんも瞳子さんもここにいる皆も、大切な仲間なんだから当たり前でしょ。それに誰と姉妹になっても関係ない。その人は変わらず私たちの仲間なんだから」
部長の言葉が、既に高まっている瞳子の胸の鼓動をまた一段と跳ね上げた。
不覚にも火照ってしまった顔を冷やし、瞳子が部室の扉をくぐったのは、集合時間をだいぶ過ぎてからだった。
そんな瞳子を部長はいつものようにお説教してくれた。