「昔、初等部の時、家庭科の時間に白チーズの授業があって」
「し、白チーズ!?」
「私、白チーズをもらった時、すごく幸せな気分になったんです」
瞳子ちゃんは、うっすらと笑った。そのときの気持ちを思い出したのか、そのときの自分を振り返って笑ったのか。 というかそれもしかしてヤバイ代物じゃあ?
「色のついてない白チーズ、切り分けるための線だけがうっすらと浮かび上がっているだけの。 私はこれからこのチーズを私の色に染めて……、うふふふふふ……」
「って、ちょっと、瞳子ちゃん!」
こ、これって世に言うフラッシュバックってやつ?
瞳子ちゃんは組んだ手を胸の前に持ってきて恍惚の表情で笑っている。
白チーズには心を沸き立たせるなにか不思議な力があるようだ。
祐巳には到底理解できないであろうが。
「でも……」
「な、なに?」
突然瞳子ちゃんは帰ってきた。
「……授業が進んで少しづつ白チーズが様々な食材や調味料に染まっていくと、私は気づいたんです。 そんなに上手くいくものではないんだ、って。 私は誰にも負けないチーズ料理を作ろうって思っていたのに、出来上がったものは、私の思い描いていたものとはまったく別のものでしたから。 私はレストランのショーウィンドウに並んでいるような完璧な一品をこしらえたかった。 なのに出来上がったそれは小学生のレベルを超えられなかった」
そりゃそうでしょう。小学生なんだから。
それより白チーズの授業ってなに?
祐巳はそればかりが気になって瞳子ちゃんの話に集中できなかった。
「キラキラしていたはずの白チーズは、次第に輝きを失いました。もう、元には戻りません。 私が汚してしまったから」
えーっと……。
白チーズ事体が謎なのに瞳子ちゃんがそれで何を言いたいのかなんて判るはずもなく。
とりあえず祐巳は言った。
「な、何かあったの?」
それはもう、腫れ物に触るように。
まあ、あれだ。
小学生だった瞳子ちゃんがその白チーズでなにか素敵な料理を作りたかったんだ。
でも思い通りにいかなくて絶望したと。
ほほえましい幼少時の失敗談だ。
人並みに失敗をする祐巳にもそういう恥ずかしい話は思い出せないほどあった。
いや、ちょっと違うような……。
「白チーズひとつですらそうなんです。 人生だってそんなに上手くいくはずない、って悟っただけです」
白チーズ……。
やっぱり、それって人生踏み外すようなヤバイ代物なんだ。(違います)
気が付くと祐巳たちは図書館の脇を通り過ぎ、銀杏並木のマリア像の側まで来てしまっていた。
もう時間も遅く、マリア像の前には誰も居なかった。
「完璧なものが仕上げられないのなら、いっそそのままピンクの花柄とか緑に白抜きの水玉模様とかにデコレーションすればよかったって」
いや、それはないだろう。
百歩譲ってピンクの花柄のチーズは良いとしても(いや食品としてもうダメだけど)緑の白抜きってちょっとカビっぽくて嫌だ。
あれ、でもそういえばそういうチーズもあったような。
祐巳はデパートの『世界の食品展』だかで見たような気がした。
でもあれは確か食用の青カビを使うって書いてあった。
祐巳が青カビチーズに思いをめぐらせているうちに瞳子ちゃんの話は先に進んでいた。
「……先生からは問題児だって見られて、家庭科の成績も落ちたでしょうけど、そうしたら私だけの綺麗なチーズを作れたかもしれない。でも、私には出来なかった」
「瞳子ちゃん……」
それは出来なくて良かったんだよ、と続けようとした。
でも、こういう事は『言わぬが花』っていうんだ。多分。
そう思い直して祐巳は口をつぐんだ。
祐巳は言葉を捜した。 じゃあ、いったいなんて言葉をかけたらいいのだろう。 誰かに教えて欲しかった。 なんと言ったら瞳子ちゃんを救えるのだ。
瞳子ちゃんは祐巳の眼差しに気づくと、ハッとしたように背を向けて足早になった。
「……世迷いごとを言いました。忘れてください」
まるで夢から覚めたみたいに、今までしゃべっていたことは何かの間違いだったとでもいうように。
でもそんなことは無理だ。 一度聞いてしまったことは消せやしない。
瞳子ちゃんが己のなした罪を一人抱えていることを、白チーズという悪魔に取り付かれてしまっているということを。(えぇ!?)
どんどん離れていく瞳子ちゃんとの距離。
どうしたらいいのだ。
どうしたら繋ぎ止めておける?
どうしたら――。
「瞳子ちゃん!」
・
・
・
「瞳子ちゃんと何かあったの?」
「ロザリオ、受け取ってもらえなかった……」
「そう」
「やっぱり、白チーズじゃないと受け取ってくれないのかなぁ……」
「し、白チーズ?」
涙を流しながら謎の単語を口にする祐巳。
そんな祐巳を抱きつつ、祥子は山百合会の未来を憂い、涙するのだった。
(未来の白チーズ・完)