【1115】 置き去りにされたまぼろしの  (沙貴 2006-02-12 20:44:09)


 薔薇の館には安らかな沈黙が落ちていた。
 ひしめき合っているとまでは言わないまでも、サロンに居る人数は決して少なくない。
 だと言うのに、その誰もが無言でいるから、室内は呼吸音すら聞こえてきそうなほどの静謐に満ちている。
 
 すー。すー。
 
 正確には、呼吸音すら聞こえてくるほどの静謐に満ちている、だろうか。
 定期的な呼吸が志摩子の耳にははっきりと聞こえている。
 志摩子は開いた文庫本に視線を落としたままくすりと笑った。
 呼応して、部屋の空気が僅かに身じろぐ。
 小さな呼吸音が聞こえる静寂なのだから、志摩子の笑い声なんてそれこそ反響すら伴って部屋中に響いてしまった。
 
 すー。すー。
 
 たじろがないのは、その吐息だけ。
 志摩子の笑い声(と言えるほどの声量ではなかったけれど)が収束しても、変わらず続いている。静かな音。安らぎの声。
 志摩子がそんな心地良いBGMに耳を澄ませる中、ぱたんと誰かが本を閉じた音がする。
 顔を上げると、丁度机を挟んで対面に座っていた祥子さまがハードカバーの本を閉じられたところだった。
 整った眉を寄せて、苦笑交じりに溜息を漏らす。
「ふぅ」
 どこか艶っぽい祥子さまの美声が、静かな部屋に響き渡った。
 
 すると、それが薔薇の館全体のスイッチを切り替えてしまったかのように、本を読んでいたり書類に印を付けていた部屋の住人達が顔を上げる。
 二人並んでリリアンかわら版今週号を読んでいた由乃さんと令さま。
 それに、不急ではあるもののすることがないからと、学園祭で使用した器材貸し出し台帳と在庫一覧をチェックしていた乃梨子。
 あらかじめ顔を上げていた志摩子を含めて皆が一斉に声の出所、即ち祥子さまを見て。
 そしてそのまま視線を追ってゆく。祥子さまのすぐ脇に座り、テーブルに屈服する一人の少女へと。
 
 すー。すー。
 
 静かな呼吸音の発生源。
 安らかな寝顔を浮かべて、熟睡する祐巳さんがそこに居た。
 
 
 祐巳さんが眠ってしまったのは、乃梨子曰く雑談の最中らしい。
 一階倉庫で器材の整理を終えてからサロンに帰って、祥子さまと令さまの淹れて下さったお茶を頂いて。
 妹談義から学園祭の話題になって、一段落した頃には既に祐巳さんは夢の中だった。
 乃梨子は眠そうにしていた祐巳さんを時折盗み見るようにしてチェックはしていたけれど、結局眠りに落ちるのを確認しながらも声を掛けなかった。
 お疲れのようでしたからと乃梨子が苦笑った時、祥子さまは「しようがない子ね」と祐巳さんの頬を一撫でして微笑まれた。
 
 眠りに落ちた祐巳さんの顔は、母親の胸で眠る赤ん坊のように安心しきっている。
 本当に眠かったのだろう、いざ待望の眠りを得て歓喜しているようにすら見えた。
 そんな寝顔を眺めていると、その眠りを阻害してしまいそうな会話を続けるのが皆忍びなくなったようで、自然と雑談も途絶える。
 静かにプリントや本を取り出し始めた乃梨子らに合わせて、志摩子も鞄の中から読みかけの歴史小説を取り出したのだった。
 
 
 そうして始まった緩やかな沈黙を祥子さまが打ち破った。
「今日はもうお開きにしましょうか。このまま待っていても祐巳は起きないでしょう」
 祥子さまが笑いながらそう言うと、由乃さんは背筋を伸ばして「うーん!」と唸る。
 乃梨子は握っていたボールペンをくるりと指先で回して背凭れに体を預け、それでぎっと椅子が鳴いた。
「それじゃ、カップを片付けますね」
 志摩子が言って、自分の分と祥子さまの分を手に取る。
 すると乃梨子が自分の分と祐巳さんの分を取り、そして由乃さんが自分の分と令さまの分を持って給湯室に移動した。
 椅子を引いたりカップを取ったりする物音が立って、俄かにサロンは騒がしくなる。
 その中でも、祐巳さんは眠り続けていた。
 
「祐巳。祐巳ったら」
 乃梨子と二人並んでカップを洗っていると、そんな祥子さまの声が聞こえてきた。
 本当に良く眠っていたから、中々起きてくれないのだろう。苦労している祥子さまの声が何度も聞こえる。
 乃梨子も志摩子もくすくす笑いながら洗っていると、紅茶を入れただけの六つのカップはあっという間に洗い終わった。
 洗い籠に並べて、台を拭き終わった由乃さんと合流する。
「あーあ、こりゃ駄目だ。負ぶっていく?」
 令さまのそんな声を聞きながらサロンに戻ると、溜息混じりに「困ったこと」と呟いた祥子さまが祐巳さんの肩に手を置いていた。
 机に両肘を突いて、組んだ手の甲に顎を置いている令さまはどこか楽しそうに笑っている。
 
 結局起こす事を諦めたのか、祥子さまはもう一度椅子に深く座り直した。
「いいわ、あなた方先に帰ってちょうだい」
 そしてもう一度ハードカバーを開いて読書の体勢に入った祥子さまに、令さまは驚いて問われる。
「祥子はどうするの?」
「私? あと5ページでこの本を読み終わるから。それまで、この子を寝かしておくわ」
 だから気にしないで、と。
 かと言って「判りました、ではごきげんよう」というにはどこか薄情な気がして、志摩子は無意識に令さまに視線を送った。
 由乃さん、志摩子、そして志摩子を一度見てから結局向き直った乃梨子の視線を受けて令さまが唸る。
 仰った。
「判った。それじゃ帰ろうか、由乃」
 
「良いの? お姉さま」
 由乃さんが問い返すと、令さまは笑ってぽんぽんと由乃さんの頭を優しく叩いた。
「私達が無意味に残っていたら、祐巳ちゃんが責任感じちゃうかも知れないでしょ。だから帰っちゃった方が良いのよ。祥子は残るって言ってるんだし……ね、祥子?」
 手早く机の上を片付けてコートを持って。
 てきぱきと(ついでに由乃さんの分までも)帰り支度を整えた令さまがそう言うと、祥子さまも「そうね。私もそう思う」と首肯された。
 最上級生の薔薇さま二人が決定した時点で、同じ薔薇さまとは言え志摩子に拒否権は無い。
 勿論あったとしても、令さまと同じように帰った方が祐巳さんの為になると思っているので使いはしないけれど。

 それに、このまま白薔薇・黄薔薇が帰れば薔薇の館には紅薔薇の二人が残ることになる。
 祥子さまが薔薇さまになり、祐巳さんがつぼみになってもう半年以上が経つけれど、その間色々忙しくて姉妹水入らずな場面はなかなかなかった筈だ。
 そういう意味でも、ここは祐巳さんを寝かせたまま場を離れるのが正解なのだと思う。
 志摩子が乃梨子に視線で「良いかしら」と問うと、無言で頷いて帰り支度を始めてくれた。
 

 四人揃ってビスケット扉の前に立つ。
「それじゃね」
「ごきげんよう、祥子さま」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう」
 そして各々、定例の挨拶を交わして扉を抜けた。
 ぱたん、と。
 静かに閉まった扉の向こうで祐巳さんは勿論、眠り続けていた。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 館を出たところで、剣道場に寄っていくと仰った令さま・由乃さんペアと別れた志摩子は、図らずも乃梨子と二人きりで銀杏並木を歩いていた。
 薔薇の館では紅薔薇が二人きり。
 剣道場への道程では黄薔薇が二人きり。
 そして銀杏並木で白薔薇が二人きり。
 取り立ててどうということはないかも知れないそんな些細なことに、けれど志摩子は静かに感謝した。
 好きな人と二人きりで居られることを超える幸せはそうそうないから。
 こんなことなら、これからも時折祐巳さんには居眠りしてもらおうかしら――なんて。
「ふふ」
 思わず浮かんだそんな考えに志摩子は口元を緩ませる。
 
 しかし、そんな笑みを瞬く間に消してしまうほどの冷たい風がひゅっと吹いた。
 志摩子は大きく身震いして首を縮込ませる。
「っぅー、もう冬本番、って感じだね。志摩子さん」
 隣で志摩子と同じように、けれどそれよりはもう少し幼稚で大袈裟に、体を震わせた乃梨子が言った。
「そうね。これからどんどん寒くなるわ」
 言いながら、そっと手を伸ばして乃梨子の手を握る。
 一瞬びくりと驚いて震えた乃梨子の手は、すぐに指を絡めて握り返してくれた。
 滑らかな指の感触。冷たい肌が徐々にお互いの体温で温まってゆく。
「春が待ち遠しいよ。冬は良い思い出が無いからさ」
 そう漏らした乃梨子に、志摩子は「気が早いわ」と苦笑した。
 
 冬本番、と言うもののそれはあくまで体感的、あるいは暦上での話だ。まだまだ晩秋の域を出ない季節に春を待ち侘びては鬼も笑おう。
 すると乃梨子は唇を尖らせて言った。
「リリアンに来れたのは結果的に良かったけど、大雪で人生が狂ったのは間違いないし。あの時は本当、ただ帰るだけでも大変だったんだから」
 それに、と乃梨子は続ける。
「春を待つのは逆に、良い思い出があるからなの。あの桜の下で志摩子さんと出会えたこと。大切な、思い出だよ」
 乃梨子はぎゅっと繋いだ手に力を込めた。
 繋いだ手から何かの想いが伝わってくるようで、志摩子は歩きながらそっと眼を伏せる。
 
 
 桜。
 粉雪のようにして花弁の舞い踊っていた、春先の邂逅。
 銀杏の木に交じってただの一本だけ咲いている桜の木。聖さまとの思い出の場所。
 その聖さまの幻影を追いかけていた当時に、そのまま追いかけて空へと飛び立とうとしていた当時に、地面へとしっかりと繋いでくれた子。
 それが隣に居る乃梨子なのだ。
 乃梨子に言われるまでもなく、その出会いは忘れもしない一瞬だ。大切な、思い出だ。
 
 聖さまとの思い出の場所である一本桜がそのまま乃梨子との思い出の場所になっている。
 皮肉のようであり、奇跡のようでもあるその事実が、結果的に志摩子の安定に大きく寄与していることは疑いようのない事実だった。
 だから桜は大切な木だ。重要な花だ。
 きっと、白薔薇と同等かそれ以上に。
 
 
 ――。
 
 
「桜」
 ふと、その時。
 桜。
 その単語が表紙へ大々的に記された一冊の書籍が脳裏を駆け巡った。
 それは慌しい最中に触れ合い、けれどがっちりと志摩子の心を捉えた手作りの冊子。
 眼を開けた志摩子は足を止めて問うた。
「ねえ、乃梨子。今日はこれから何か予定があるかしら?」
 手を繋いでいる相手が急に立ち止まった所為で、ぐいと引っ張られた乃梨子が驚いて振り返る。
「特にないけど……どうしたの?」
「思い出したの。学園祭でその桜にちなんだ面白い本を読んだのだけれど、それが今図書館にあるのよ」
 乃梨子は無言で言葉の先を促した。
「良ければ一緒に読みに行かない? 考えてみれば、乃梨子の言う通り私達と桜って無縁じゃないものね」
 言い終わった丁度のタイミングでひゅるりと強くて冷たい風が吹き、志摩子の髪を乱雑に散らす。
 もう、と呟いて髪を直そうとした志摩子を制して、乃梨子がそっとその髪を梳いた。
 二度、三度。
 すぐに直った柔らかな髪に指を差し込んだまま、固まった志摩子を見つめて乃梨子は言った。
「うん、良いよ。行こう。外は寒いしね」
 
 手を握り直した乃梨子に引かれて、寒風に背中を押されて。
 そうして志摩子は帰り道から外れて図書館へと向ったのだった。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 目指したものは今年度の学園祭二年桜組で志摩子が読んだ「桜組伝説」。
 高等部各学年六クラスある中、唯一第二学年にのみ存在する桜組に関する考察や推察、物語をまとめた冊子だ。
 勿論その殆どは良くも悪くも創作で、論文というよりも小説の短編集+詩集といった意味合いの方が強い。
 その分とても読みやすく、また面白いものばかりが収められていた。
 ざっと読み流しただけでもそれなりに本は読んでいる志摩子をしてそう感じさせたのだから、”今年度の”「桜組伝説」は中々の秀作だったと言って良い。
 
 その所為だろうか。
「貸し出し中……みたいだね」
 ずらりと並んだ桜組伝説の背表紙を指でなぞっていた乃梨子が落胆して言った。
 その通り、現在図書館の桜組伝説コーナー(と言うほど立派なものでは無いが)にある冊子の年号は全て今年度ではなかった。
 学園祭中でも結構な人気のあった冊子だ。志摩子と同じように、後からゆっくり読みたいと思う者が多かったと言うことだろう。
 残念だがこればかりは仕方がない。
 
「でも、こうしてみると壮観ね。まさかこんなに出ているなんて」
 無作為に一冊の桜組伝説を棚から取り出した志摩子は、その表紙を撫でながら呟く。
 図書委員に場所を聞いた時には、今年度の作品と一緒に過去偶然にも作成された桜組伝説が何冊か並んでいるだけだろうと思っていたが、そんなものではなかった。
 寧ろ、今年度の作品が今までに作成されたあたかもリリアンの歴史であるかのような作品群の末端に加えられているような印象だ。
「忘れられた思い出、というところかしら」
「詩人だね、志摩子さん」
 茶化した乃梨子に笑い返しながら棚に視線を走らせると、それぞれ年号と共に装丁、タイトル、厚さが微妙に違うのが判る。
 内容も小説限定のものから完全に詩集となっているもの。あるいは、今年度のそれと同じように複合形態を取っているものと様々で。
 そのどれもが面白そうだけれど、全てを読もうと思えば一ヶ月ではきっと足りない。
「でもそれだけ、桜組の謎に皆興味津々なんだね。私達の代も、やっぱり四月五月はその話題ってあったもん」
 一冊の桜組伝説を手に取っている志摩子に気付いたのか、歩み寄りながら乃梨子は言った。
 
 外部入学組などが加わる高等部入学のタイミングは、初等部・中等部と継続してリリアンで過ごしてきた女生徒達もその外部刺激を強く受ける。
 だから今まで常識として考えていたことや、暗黙の了解となっていたことが表面化しやすいのだ。
 桜組の謎もそうだし、姉妹制度もそう。クラス編成や制度自体に意義を問う声も年度明けは良く上がる。
 とは言え、大概は大勢としてのリリアン流儀に飲み込まれて有耶無耶になってしまうのだが。
 
「そうね、私達もそうだったわ」
 言いながら辺りを見渡した志摩子は、周りに人気がないことを確認する。
 本来なら読書スペースに移動すべきだが、目的の冊子が見つからなかった以上はそこまで本格的に読み耽ることもないだろう。
 本棚に凭れ掛かり、すぐ隣にやって来た乃梨子にも見えるように本を持った。
 ほんのちょっとだけ、この場で読ませてもらおう。
 はしたないかも知れないけれど、人が来ればすぐに棚に仕舞ってしまえば良い。
 逆に、あんまりにも面白いなら読書スペースに移動しても構わない。
 それを決める為の試し読みだ。
「この年度のものを少し、読んでみましょうか」
 二人並んで表紙を眺めながらでは余り意味の無い宣言だな、と思いつつも志摩子がそう言うと。
「うん。楽しみ」
 と、すぐ隣から嬉しい返答が帰ってきた。
 やはり勧めた本を楽しみにしてくれるのは嬉しいものだ。
 冊子を二人で持って、広げる。
 
「タイトルは『桜の中の魔』……ね」
 気を良くして呟いた志摩子は勿論、乃梨子も程無く幻想的なその物語に飲み込まれていった。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
「パラレルワールド、ってやつかな」
 読み終わると、乃梨子が溜息と共に吐き出した。
 そうね、と志摩子は唇だけで答える。
 桜を基点にした合わせ鏡の世界。もしかしたら本当にあるかも知れない、ただ誰も気付かないだけで。
 良くある話と言えばそれまでだが、それは即ちそういった物語に惹かれる人が良くいるということ。
 ここではないどこかへ行きたい。
 けれど何もかもが全く違う場所は不安で行きたくない。
 だから、現実の世界と殆ど同じだけれど、どこかほんの微かにだけ違う場所へ行きたい。そう例えば、李組の代わりに桜組があるような世界へ。
 
 あらゆる時点で分岐する、世界という名の多層次元。
 そう考えれば李組が桜組だったり、桜組が李組だったりする世界があっても全くおかしくはない。
 志摩子らの世界だって、本当は二年李組がある世界とパラレルに位置する世界かも知れない。
 そう言った発想は志摩子も素直に面白いと思う。
「ぞっとするなぁ」
 でも乃梨子は言った。
「合わせ鏡みたいな世界があるってことは、別の世界にも私が居るってことだろうし。そっちの私がどんな風になっているのか、知りたいような知りたくないような」
 志摩子は首を横に振って微笑む。
「大丈夫よ」
 だって、どちらの世界でも白雪は百代と出会っているのだ。きっと、心からの友達と言える相手に。
 それなら何の問題もない。
 例え別の世界があったとしても、志摩子と乃梨子は。
「どんな世界でも、乃梨子は私と出会って今みたいにこうしているわ」
 肩を寄り添って、一冊の本を読んで。
 照れ合いながら笑う。そんな間柄になっているに決まっているのだ。
 
「つ、次は『桜の扉』だね。早く読もう、志摩子さん」
 露骨に照れた乃梨子が先を促す。
 もう少し突付いても可愛くなりそうだったけれど、言った志摩子も本当はかなり照れていたので大人しく促されるまま先を読むことにした。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 一転、『桜の扉』はシンプルな短編だった。
 八百万の神に根付いていそうな設定と展開は、クリスチャンではあるものの生粋の日本人である志摩子にも理解しやすい。
 世の中には科学で解明できないことがあれば、神の御業としても理由付け難い不思議なことも多いのは事実としてある。
 でもそれを科学で説明したり、神学的に体系付けることに意味なんてきっとない。
 不思議なことは不思議なことで良いと思う。
 そんな印象を受けたが、しかし、物語としては。

「哀しいお話だわ」
 志摩子が端的にそう感想を述べると、隣で乃梨子も頷いた。
「うん。はっきりとは書かれてないけど、きっと霞は本当に触れ合えていたんだよね。桜の木と」
 でも結果的にその触れ合い、深い交流こそが彼女の病に繋がった。
 桜の木にどんな意志があったのか。自意識によるものか、それとも木自身にも抗えない絶対的な何かの力がそこにあったのか。それは判らない。書かれていない。
 しかしどんな理由があったにせよ、どんな過程を経たにせよ、霞は倒れた。
 それは悲劇だ。
 彼女が倒れた理由も、癒した手法も、そして、癒された後の話も。
 
「触れ合うことが必ずしも良い結果を招くとは限らない、のね」
 それは果たして誰のことか。誰と、誰のことか。
 志摩子は真摯に、二人の未来を黙祷した。
「でもさ、きっとそれは無駄にはならないよ」
 その祈りが丁度終わるタイミングで乃梨子は言う。
「傷付いても、苦しくても。誰かと触れ合うことは、それだけで価値のあることだと思う。大事なことだと思う」
 そんなに大きな口が叩けるほど色んな出会いをしているわけじゃないけれどね、と締め括った乃梨子は何だか凄く格好良くて。
 
 その笑顔を見られるのが自分一人しか居ないことがとても残念だった。
 誇らしくも、あったけれど。
 
「さぁ次は『桜の埋葬』、ね」
 タイトルを読み上げた志摩子は、しかし物騒な言葉に一瞬詰まる。
 思わず目線を上げると、読む為にかなり顔を近付けていた乃梨子も顔を上げた。
 その為偶然にも至近距離で目線を合わせる羽目になり、慌てて志摩子も乃梨子も本に視線を落とす。
 
 しかしそれから続いた作品は、高まった動悸を抑えてくれるどころかより一層に隣の体温を意識させるような、一つの恋物語を描いていたのだった。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 言葉も無かった。
 『桜の埋葬』は幻想的で、背徳的で、純愛で、暗く、重く、けれど、爽快感すら伴い、胸を締め付けるような小説だった。
 『桜の扉』よりもダイレクトに志摩子の心に突き刺さる。
 思わず八重を抱き締める富士子に強く感情移入してしまった志摩子は、身を切るような悲恋に切なさを禁じえなかった。

 乃梨子の顔を見ようとして、失敗する。
 顔が上げられない。怖いのだ。見てしまうことが。
 今は――そう、『桜の中の魔』の白雪と百代のように二人寄り添っている。きっと別の世界でもそうだろう。
 でも、いつか二人は離れなければならない。それは勿論、別の世界でもそのはずだ。
 志摩子も乃梨子もリリアンを卒業する。
 そして主と結婚するか、他の男性と結婚するだろう志摩子の未来予想図はそのまま乃梨子にも当て嵌まる。
 まぁ、乃梨子は主と結婚することはないだろうけれど、誰か男性と結婚することはきっと間違いない。
 乃梨子は利発だし可愛いから、世間に出れば世の男性が放ってはおくまい。
 それに乃梨子自身も、一人身でいる事を選択はしないだろう。良くも悪くも冷静で頭の良い子だから。
 
 二人。
 志摩子と乃梨子の二人はいずれ離れるのだ。
 きっと。
 二度と会えなくなることはないだろうが、こうやって肩を寄り添って一冊の本を読むことは――きっと。無くなってしまう。
 それなら。
 それなら、いっそ――?
 
「乃梨子」
「志摩子さん」
 
 二人は呼び合って。
 勇気を振り絞って。
 顔を上げた。
 
 見慣れた乃梨子の可愛らしい顔がアップで瞳に写りこむ。
 艶めかしい緑の黒髪は図書館の明るい照明に煌いていて。
 切り揃えられたおかっぱが、静かに揺れていた。
 
 失いたくない。
 
 原始的な欲求に沿って本を持つ志摩子の片手が離れかける、行き先はそのか細い乃梨子の。
 か細い、志摩子の細腕でも折れてしまいそうなその。
 
 
「次は、『桜の枕』」
 
 ――。
 
 乃梨子が、言った。
 途端、志摩子に正気が戻る。
 自分は何を。自分は何を恐ろしい事を考えていたのか?
 どっと汗が吹き出た。
 心臓が胸を突き破って出てきそうなまでに激しく鼓動している。
 力の抜けた手で再び本を持ち直すだけでも随分体力を浪費した。
 
「読もう、志摩子さん。次の話」
「ええ……そうね」
 
 それだけの返答を搾り出すのに、志摩子は酷く苦労してしまった。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 結局、その直後に祐巳さんが祥子さまを探して図書館にやってきたので、『桜の枕』は読み切れなかった。
 だから志摩子と乃梨子の間で、桜のイメージは『桜の埋葬』で止まってしまっている。
 
 しかし志摩子はまた、時間を見つけて再び桜組伝説を読みに図書館へ足を運ぶ事を決めていた。
 『桜の枕』の先が気になることも勿論だし、もともと読みたかった今年度の桜組伝説が読めていないのだし、何より。
 早く富士子とのトレースを解除しなければ、自分が何を仕出かすか判らなかったからだ。
 
 完全に閉塞された二人の世界で耽溺した、幻想の桜花が降り注ぐ世界。
 それは、空想の中の物語というには酷く具体的に志摩子の心を捉えていた。
 まるでその世界に一人だけ、あるいは二人だけ、置き去りにされてしまったかのように。
 そこまで考えて、志摩子はくすりと笑う。
 それが一人だとすれば果たして、置き去りにされているのはどちらだろうか。
 
 
 あの時。
 『桜の埋葬』を読み終えたその時。
 本から手を離そうとしたのは、志摩子だけではなかったのだから――。


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