【1135】 甘い時間  (琴吹 邑 2006-02-15 23:18:01)


 その日は事件があった日。彼女が初めて薔薇の館に来た日。
 彼女と扉でぶつかったときその時から私は、彼女に惹かれていたんだと思う。
 それが何故なのかわからない。彼女を見た瞬間、私は彼女が欲しいと思っていたのだ。
 だから、彼女が申し訳ありませんと言った時は正直ショックだった。
 彼女が薔薇の館を去った後、二階からその背中を、見送っていると、心が疼いた。
 そして、心の奥底から、何とも言えない気持ちが、沸々と湧いてきたのだ。
 だから、私はわざわざ彼女の後を追いかけて宣言したのだ。
「必ずあなたの姉になってみせるから」と





 館に戻ってくるとそこにはお姉さましかいなかった。
 他の人たちは私が彼女を追いかけている間にもう帰ったようだ。
「お帰り。祥子。ここに座りなさい」
 そう言って、私を隣の席に座らせた。
 お姉さまは私が座るのを見るとすくっと立ち上がり、座っている私の背後に回った。
 次の瞬間感じたのは、香水のような甘い匂いと温かいお姉さまの体温。
 そして、ぎゅっと抱きしめられる感覚だった。

 耳にかかる吐息。その感覚は稲妻のように、私の背筋を通り抜ける。
 綿菓子に包まれているような甘い感覚。
 その感覚に、私は今までの憂鬱な思いも昂揚した思いもすべてお湯に入れた一匙の砂糖のように溶けていく。



 その体勢は、お姉さまが私に甘える時間の始まりを告げる合図だ。
「祐巳ちゃんに振られちゃったわね」
 お姉さまの甘えは、私にとってあまりおもしろくない言葉から始まった。
「ええ。でも、私は、祐巳を必ず妹にします。私は……」
「祥子」
 お姉さまはそう言って、私の決意の言葉を遮った。
「そんな言葉、今は聞きたくないわ。紅薔薇さまとしては、一刻でも早く妹を作ってほしいところなんだけどね」
 そう言いながら、お姉さまは私の首元に顔をうずめる。
「祥子の姉としては、あなたを祐巳ちゃんに取られるのは、やっぱり寂しいからね」
 お姉さまは耳元でそうささやき、さらにぎゅっと私のことを抱きしめる。それにより密着度がまた一段強くなる。
 今の私にとってその感覚は至福とも言える感覚だった。
 いつもは私がお姉さまに甘えているのだけど、たまにお姉さまはこうやって私に甘えてくれる。
 小笠原家の重要人物ではなく、私という人間を心から必要とされている。それが心に直接伝わってくる。
 それが嬉しくて私はお姉さまに抱かれながら、目をつむりお姉さまに身体を預けた。


 それから先は沈黙の時間。その沈黙は甘く優しい。
 私たちはお互いの体温と匂いを感じながら、長くて短い間、二人だけの時間を心ゆくまで楽しんだ。


 やがて、私にとって至福の時間も終わりを告げる。
 お姉さまがそっと、私を抱きしめる手を緩める。
 いつもなら、すぐにでも、私に甘えるお姉さまは姿を隠すのだが、今日は違った。
「祥子、今日あなたの家に行って良いかしら、ピアノを聞かせてほしいの」
「いつもの曲ですね?」
お姉さまがうちに来てくれることも嬉しいのだが、この曲をリクエストしてくれるのはもっと嬉しい。
「ええ、いつもの曲よ」
 お姉さまはそう言ってにっこり笑う。

 お姉さまが私に甘える時にリクエストする曲。
 それは、私の気持ちそのものだから。

 お姉さまがリクエストする曲はエリック・サティの「ジュ・トゥ・ヴ」

 その意味は『あなたが大好き』


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