【1147】 忘れられない思い出もう我慢しない  (朝生行幸 2006-02-20 01:09:34)


「はぁ………」
 音楽室の窓際の席で、溜息一つ。
 『リリアンの歌姫』こと蟹名静は、気だるげな表情で、一人窓の外を見つめていた。
 廊下の方から聞こえる、パタパタという足音。
「掃除日誌忘れちゃったよ〜」
 言わずもがなのことを言いながら、慌てて音楽室に駆け込んできたのは、紅薔薇のつぼみの妹、福沢祐巳だった。
「祐巳さん…」
「あ、ごきげんよう静さま。いらしたんですか」
「ええ。…相変わらず、元気そうね」
「あーはは…、それだけが取り得ですから」
「そうね…」
 そのまま静は元の姿勢に戻り、窓の外に目を向けた。
 無為に時間が流れることしばし。
「あの…」
 沈黙に耐えられなくなったのか、遠慮がちに静に話し掛ける祐巳。
 日誌のことは、既に失念しているようだ。
「…何?」
 物憂げな目で応じる静。
「え、あの、えーと…。元気なさそうですね」
「そう見える?」
「はい。バレンタインの時は、あれだけお元気だったのに」
「まぁね。でも、何をするにも乗り気でない日ってあるでしょ」
「それはそうですが…」
 困った顔で黙り込む祐巳。
「ああ、ごめんなさいね。別にあなたを困らせるつもりは無いのよ」
 苦笑いしながら、慌てて祐巳を宥める静。
「実はね、祐巳さんには打ち明けるけど…」
「?」
「最近は、全力で歌っていないなぁと思って」
「はぁ、全力ですか」
「ええ。学校では、本気で歌うなって、くどいくらいに念を押されているのよ」
「どうしてですか?」
「それは…、ちょっと言えないわね」
「そうですか。でも、もうすぐここを去られるのに、未練を残したままでよろしいのですか?」
「!」
 祐巳の言葉に、ハっとした表情を浮かべた静。
 確かに祐巳の言う通りだ。
 未練を残さないためにも、生徒会選挙に出馬し、バレンタイン宝探しに参加し、志摩子とデートまでしたのだ。
 ここで、何を遠慮する必要があるのか。
 完全に吹っ切れた静は、先程とは打って変わって晴れやかな表情をしており、目がキラキラと輝かんばかり。
「ありがとう祐巳さん。そうよ、その通りなのよ!」
 立ち上がった静、天井に向けて拳を振り上げた。
「いえ、どういたしまして…」
 面食らったようで、目を白黒させる祐巳。
「じゃぁ、やるわ。祐巳さん、当然付き合ってくれるわね?」
「はい?な、何を…?」
 それには答えず、音楽室のド真中に立って、軽く発声練習をした静。
「それでは…」
 大きく息を吸い込み、腹に力を入れ、その口からゆっくりと発せられた歌。
 始めは小さく、だんだん大きくなってゆく。
 そして、際限なく大きく響き渡る静の歌声。
 壁がきしみ、窓がガタガタと音を立て始める。
 完全にリミッター解除モードの静の声によって生じた振動は、音楽室のみならず隣接する他の教室にも伝播していき、更には校舎全体にまで及ぶ始末。
 すぐ近くの祐巳は、あまりの声量に、耳を覆って目を瞑り、歯を食いしばらないと耐えられない状態。
 静の歌声が最高潮に達した次の瞬間。
 校舎だけでなく、体育館、図書館、お聖堂、クラブハウス、薔薇の館に至る全ての建物の窓ガラスが、轟音と共に砕け散った。

「は〜、スッキリ♪」
 これ以上は無いと言わんばかりに、満足げな顔の静。
「ありがとう、祐巳さんのお陰…ってあら?」」
 礼を言いつつ祐巳に目を向けるも…。
「………」
 彼女は、白目を剥いて気を失っていた。

 弁償は、出世払いになっていることはあまり知られていない。


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