バタバタバタ。 階下から随分大きな足音が近づいてくる。
この木造の建て屋は1F部分には物置しかない。2Fにはこの事務室と、続きの小部屋しかない。 ということは、階下の人物はやがてここまでやって来るということだ。
うんうん(コクコク)
書類の検算をしながらも、単調さのあまり、頭の片隅が現実逃避を始めた彼女は、はて、それでは誰が来るのだろう? とさらに思考が滑って行くのを止めそこなった。
「たぶん、やぎさんではなくて?」 テーブルの向かい側からいらえがある。
「え?」 口に出したつもりは無かったが、この部屋には今2人しかいないから、小さな声でも耳に届いてしまったのだろう。 お互いに書類仕事に没頭していたはずなのに、ちゃんと応えてくれる心遣いがとてもうれしい。
「どうしてですか?」
「昼休みに、私のほうから書類を差し戻しに行ったのだけど、居なかったのよ。 それで、 ”予算申請書類に不備があります。速やかに訂正の上、再提出してください。 このままでは、びた一文執行できません。” という伝言メモをつけて、机上に置いてきたの」
「うわぁ。 そのおっしゃりようでは、あの怒涛の足音も無理ありませんね。 怒ってらっしゃるんじゃないですか?」
「あら、事実をありのままに指摘しただけよ。 実際あの書類では予算の執行など出来ないのだから。 間違う方が悪いのよ。」
「それはそうですがーー」
ガンガンガンガン。 階段を踏み抜かんばかりに駆け上がってくる音がする。
ああ、この建物、歴史が古いと言えば聞こえがいいけど、もう大概草臥れてるんだから、丁寧に扱ってくれないかな。 また営繕費の予算を工面しなくちゃいけなくなるよ。
「……って、いらっしゃるのは やぎさま なんですか!!」 うわあ、準備しないと大変だ。
バキーン!
なに?なんなの? 若しかして、あのよれよれの階段踏み抜いたとか。
って、そっちは後で確認して落とし前付けるとして、ともかく今は 対やぎさま防衛戦シフトよ!
立ち上がって一歩で、ファックスコピー複合機の脇に置かれたトレイに右手を突っ込み、むんずと書類束を掴みだす。
振り返って二歩で、扉に向き直り、 『対やぎさま迎撃モード』 に突入。
バターン!!
ビスケットのような部屋の扉が、まるで大根でも引っこ抜くような勢いで開け放たれる。
うわ、今絶対、蝶つがいが痛んだ。 修理費用はもちろん やぎさま持ち決定。
「すとーーーーっぷ!!!」
右手に持った紙の束を、今にも扉から突入せんと身構える、やぎさまの眼前に突きつけ。
そのまま左手でペンを差し出し矢継ぎ早に押しまくる。
「はい、こことここに記入してください。 あ、今日の日付も忘れずに。 そことそこの該当事項にチェックを入れて、はい、最後に末尾の署名欄にご署名を。」
目を白黒させながら、指示に従う やぎさま。
「はい、OKです。 それでは… 」
記入してもらった一枚目だけを確保し、残りの紙束をぽんと手渡した。
「これ、食べちゃっていいですよ。 そのかわり、絶・対・に、それ以外のこの室内には手を出さないで下さいね。」
廃棄物執行処理指示書に代理署名をさせ終えた以上、この書類の処理主管は山羊さまにあるわけだ。 あとで問題が起こっても知ーらない。
めえええ。 こちらの思惑も知らぬ気に、思わず嬉しそうに声を漏らすやぎさま。
むしゃむしゃと紙を食べながら、室内に入ってくる。
「ごきげんよう。 山羊さん。 書類の不備は直ったのかしら?」 一連の攻防を同ずる事無く眺めていた紅の豚さまが、ふっと冷笑して見せた。
あああ、何もそんなに挑発しなくても。
どうも、うちの紅の豚さまは新聞部と相当の確執が有るらしい。 いつもは冷静で優雅なのに、なぜか山羊さまが関わってくると理性を忘れる傾向にある。
ここはフォローしないと。
「ええと、拝見できますか? 山羊さま」 ぴょいと両手をそろえて差し出すと、肉球の上にクリアケースに収まった書類が置かれる。
うわ、これ苦手なんだけどな。 みょうにぴっとり肉球にくっつくから。
ぴとぴとするケースから、苦労して申請書類を取り出し確認する。
「あれ、直ってませんよ?」
「そりゃあそうよ。 どこも間違ってないんですもの。」
「ええ?、でもこのままじゃ予算オーバしますよ? さっき壊した建物の営繕費分を差っ引かなくても。」
「やめてよ、毎度逼迫してるんだから。 このボロ屋の修理費までこっちに言って来ないで」
「ええー、でも、、、」 口篭もりながら、深い緑色のプリーツの裾からのぞく、偶蹄目特有のガッチリしたひづめを盗み見る。
あの足でげしげしされたら、壊れるの、当たり前だよう。
「で、山羊さんは ”取材用ボールペン” を3,000本も買い込んでナニをしようと言うのかしら?」
またしても冷ややかな、紅の豚さまの突っ込み。
「なんのこと?」 心底本気で解らないようだ。
「ここです、ここ」 背伸びしながら、数量欄を示す。
「なによ、 30.00個って書いてるじゃない。 」
「書式が変更になったんですよ。 『ボールペン 0.5本 なんてナンセンスな表現、私が許しません!』 っていうことで、今度から割りようの無い物品は、小数点以下を書かないことになってるんです。 しかもこの書類だと点が有るんだか無いんだか解らないし。」
「なによ、聞いてないわ、そんな話」
ウキーとなる、山羊さま。
「なにいってるの。 貴女のところの学園新聞にも載せたでしょう。 先週号で」 さらに冷えびえとなるお声。
うわぁ、本当にまずい。 戦闘モード直前の声色になってる。 7.92 mm シュパンダウ機銃を持ち出してくる前に何とかしなきゃあ。
ぺちん。 両手の肉球と肉球を打ち合わせると。 ぼうううん。 真っ白い煙がもうもうと立ち上る。
「さあ、いまのうちに引いてください。 」
「なによ、私は悪くないわよ」
「山羊さま、本気で修繕費をつけて差し上げましょうか?」 にーーっこりと微笑んでみせる。
帰りの道中で、大事な書類が食べられないようにもう一度クリアケースに落とし込む。
それを渡しながらも、同時にぐいぐいと背中を押して扉の外へ。
ばたん。
ようやく薄れてきた煙を、つい とひと撫でして掌に収め、にっこり笑って振り返る。
「納得して帰っていただきました」 にこっ。
じーーーー。
に、にこっ。
じぃぃぃーーーー。
に、に、にここっ。 (ひくひく)
「修繕費は……」
「はい、もちろん払っていただきます!」 チラリと肩越しに振り返ると、ビスケットの扉は斜めにかしいで、隙間風が吹いている。
「でも、貴女さっき……」
「払わなくて良い、 とはひとことも言っていませんから。」 (笑顔全開)
「まあ、良いわ」
「えへへ」
「それにしても、随分たぶらかすのが巧くなった事、狸娘の面目躍如ね」
「そりゃあ、わたし。 本当に狸ですからー。」
ぽぽぽん。