【1163】 見上げる狂い咲き  (沙貴 2006-02-22 22:11:17)


 ※オリジナルキャラクター主体です。
 
 
 
「ありがとうございます」
「ありがとうございました」

 静かな図書館に”お姉さま”そのものを体現するかのように落ち着き払った声と、その脇で”妹”そのものを体現するかのように静かに弾んだ声が響いた。
 落ち着いた姉、その背を追って浮かれる妹。現代のリリアンではめっきり減ってしまった、典型的な姉妹の挨拶だ。
 姉は年長者・指導者を気取ってより落ち着いてみせ、妹はただ一緒に居られるのが嬉しくてリリアン生らしく淑女を気取りながらもはしゃぐ気持ちが隠せない。
 そして時々、そんな妹の度が過ぎた言動を姉がたしなめ、妹はしゅんと項垂れて「ごめんなさい」。
 古き良き時代というべきか。
 カウンターの奥にある司書室の安い机で雑務書類に目を通す事務員、藤堂 若菜(とうどう わかな)は不意に胸に込み上げたそんな感慨に頬を緩ませた。
 
 
 若菜はリリアンOGだ。
 卒業してから十年もの時を過ごし、様々な人生経験を経て、また何の因果かか武蔵野のこの学園へ帰ってきた。
 世代が三巡以上しているにも関わらず、一切の変化を無く若菜を受け入れてくれたリリアンには驚いたが、明治三十四年創立のこの学園にとって十年と言う時は長いようでも短いのだろう。
 柄にも無く、就職が決まったその日は通い慣れたお御堂に足を運んだ。
 在学中は強制されない限り近付きもしなかったというのに。
 
 
「若ちゃん、そろそろ玄関も閉めようと思うんだけど」
 肩を叩かれて我に返った若菜は、小さく首を振った。
 過去を振り返ってしんみりするには若すぎるぞ、藤堂若菜。そりゃあ、ここに通っている若くてピチピチした子らには叶わないけど。
 顔を上げると、若くてピチピチした――と言うのは勿論比喩だけど、見慣れて着慣れた深い色の制服に身を包む現役リリアン生が上を指して小さく笑っていた。
 天井のスピーカーからはいつのまにか、閉館するので退館してくださいの旨を告げる定例のアナウンスが流れている。
「何度呼んでもぼうっとしてるんだもん。耳まで遠くなっちゃったの?」
 悪戯っぽく笑った少女に「こらっ」と手を振り上げて見せると、司書室とは言え図書館内にも関わらず彼女はきゃあと悲鳴を上げて逃げ出した。
 
 そんなリリアン生らしからぬ気安さと淑徳の無さは、しかし若菜も決して嫌いでは無い。
 とは言え、一回りも年上の彼女を若ちゃん呼ばわりするのは広きリリアンの中でも現在戸締りに向かった図書委員の彼女、平坂 紫苑(ひらさか しおん)ぐらいだ。
 紫苑は何気に一年生の春から三年生の秋である現在に至るまで図書委員を続けて、現在は予定調和的に図書委員長。
 そりゃあ事務員と仲良くもなろうというものだ。
 でもそんな紫苑もあと半年もすれば卒業してしまう。呼ばれるうちに散々呼ばれておくのも良い、と若菜は思う。
 
 とは言え、実は。
 紫苑の妹が既に若菜を若ちゃんと呼び始めているので、若ちゃん呼ばわりはもう一年ほど継承されそうな気配はある。
 運が良ければ、あるいは運が悪ければ、更にその先も?
「鬼が笑うってのよ」
 薄笑いしながら一人ごちて、若菜は立ち上がる。まだまだ、まだまだ先の話だ。
 流し読んでいた書類を放ると、ばさりと音を立てて机の上に散った。
 机の下に落ちたものは無い。
 それなら明日また朝片付ければ良いさね、と今度は唇だけで刻んで若菜はコート掛けからコートを取った。
 丁度その時、紫苑が司書室に帰ってくる。
 戸締りにしては早すぎるから、恐らくは若菜に声を掛ける前に窓の施錠やその他の確認は済んでいたのだろう。
 よほど呆けていたのだなと若菜は苦笑した。
 
 と。
「あら、『桜組伝説』?」
 紫苑が小脇に抱えて帰ってきた冊子に目がいった。
 懐かしい。
 素直な感情に若菜の目が細まる。
「え? ああ、うん。学園祭以来大好評だから、私も借りてみようかなって思って」
 やや乱雑に冊子を机の上に置いた紫苑が小走りに司書室の窓を確認してゆく。
 この寒い秋空の中窓を開けようとする酔狂な者はあまり居ないから、先ず間違いなく閉まっているのに。
 表面的には粗雑でも、紫苑の性根は本当に真面目だった。若菜は長い付き合いでそれを良く知っている。
 そんな彼女の性格と、不意に目にした『桜組伝説』。
 
 若菜の記憶が遡ってゆく。
 
「やっぱりあれだけシリーズで出てると面白いよね。今年度も人気だけど、過去作も随分出てるし。さっきも白薔薇さまがそれ――随分昔の『桜組伝説』を借りていらっしゃったわ」
 年長者で部外者の若菜には対等な口をきき、同姓且つ彼女より遥かに(遥かに、だ)年下、でも白薔薇さまの藤堂志摩子には敬語。
 この辺り、紫苑が生粋のリリアンっ子であることが現れている。
 若菜の『桜組伝説』に注がれる視線が揺れた。
「つぼみも一緒だったから、きっとお二人で読まれるのね。桜に思いを馳せる白薔薇のお二人――素敵」
 壁に掛かっていた図書館裏口の鍵を最後に取り、胸の前で手を組んでうっとり。
 桜に思いを馳せる二人。
 どの世代の桜組伝説でも割とキィワードになるフレーズだ。
 それは勿論、若菜らの代も例外ではない。
 
 
 私、藤堂若菜。よろしくね。
 
 私は、島崎桜。こちらこそ、よろしく。
 
 
 島崎 桜(しまざき さくら)。
 今はもう居ない彼女と、満開の桜の下で交わした自己紹介が鮮やかに脳裏で蘇った。
 それは現実に起きた、実際に若菜が体験した過去。
 十年以上の時を経て、今尚色褪せない大切で尊い思い出。
 間違いなく、死の瞬間まで――若くして病に倒れた桜の元に若菜が向かうその時まで、ずっと胸の片隅で輝き続けてくれるだろう。
 
 思い出す。
 桜の顔。
 桜の声。
 そして。
 
「桜の……枕」
 
 藤堂若菜・著。
 紫苑の持つ桜伝説に収められている、彼女との出会いを忘れぬように書いた若菜の処女作にして絶筆である小説を。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
『桜の枕』
     二年桜組有志
 
 
 自己紹介には特別な意味がある。
 それは例えば、年度毎に初めての教室顔合わせで行われる行儀の良い順繰りの自己紹介。
 レクリエーションなどで行われる班分けで、必然的に出会うことになる相手への自己紹介。
 友人の友人といったツテで知り合う、偶然な相手への自己紹介。
 知り合いたい触れ合いたいと熱望して、勇気を振り絞る特定の相手への自己紹介。それら全てにおいてである。
 
「私、新堂若葉。よろしくね」
「私は、藤村華子。こちらこそ、よろしく」
 
 ならば果たして、彼女らにとってあの自己紹介はどんな意味があったのだろう。
 本来なら必要ではなかった筈だ。彼女らは互いにクラスメイト。今更に言うまでも無くお互いのフルネームを年度の初めに知らされている。
 けれど、彼女らは自己紹介をした。粉雪のように降りしきる桜の花弁の中で。
 華子が望み、そして若葉もそれを望んだから。
 
 これはそんな彼女らが、桜の元で出会うまでの物語だ。
 
 * * *
 
「桜の枕ぁ?」
 新堂 若葉(しんどう わかば)は自分がリリアン女学園に通う純正培養中のお嬢様であるという立場も忘れて素っ頓狂な声を上げた。
 元凶の柊 柚実(ひいらぎ ゆみ)が慌ててその口を両手で塞ぐも時遅く、喧騒に包まれていた休み時間の教室に思いの他響き渡った若葉の声に、何人かの生徒が振り向く。
 けれど若葉と柚実さんが揃って愛想笑いすると、振り向いた彼女らも程無く興味を失って再び元の雑談や予習に帰ってくれた。
 はぁ、と露骨に溜息を吐いてから、眉を吊り上げて柚実さんが言う。
「若葉さんたら。声が少し大きいわよ」
「ああごめん。ちょっと驚いたって言うか何て言うか」
 正確には驚いたというより言葉の馬鹿馬鹿しさに何だか声が漏れてしまったのだが、若葉は勿論黙っておいた。
 
 『桜の枕』。さくらのまくら。
 無意味に韻を踏んだその言葉は都市伝説――と言うと大仰だが、現在リリアンで密かに流れている噂話のタイトルだった。
 柚実さんはこういったゴシップが本当に好きだから、若葉も今まで幾度と無く似たような噂を聞かされている。
 やれまた始まったのかと半ば諦めムードで若葉が相槌を打っていると、その噂は中々面白そうな様子を呈してきた。
 リリアンの銀杏並木に一本だけ生えている桜の木、現在満開のそこで根を枕にして眠ると好きな人の夢を見ることが出来るというのだ。
「夢? 何、想いが叶うとかそんなのじゃなくて、夢なだけ?」
 若葉がそう突っ込むと、柚実さんは満面の笑みで頷いた。
「そう、夢。でもここで大事なのは、夢を見るのは本人の意志ではなくて『桜の枕』効果によるものだと言うことなの」
「『桜の枕』効果」
 突っ込む気力が一気に削ぎ落とされるように直球な名詞を思わず問い返すと、柚実さんは人差し指をぴっと立てて続ける。
「桜が眠っている生徒の深層心理から好きな人を取り出して、夢にしてくれる。どういうことかお解かり?」
 若葉は首を横に振った。
「夢の中でしか好きな人に会えないって言う環境の悪い人か、言い方が悪いけれど意気地が無い人用のお助けアイテム……にしか思えないんだけど」
 樹に対してアイテムと言う単語を割り当てるのにはいささか違和感があったけれど、若葉の少ない語彙には適切な言葉が見当たらない。若葉は理系なのだ。
 対して完全文系の柚実さんは詩的に言った。
「本人の気付いていない、無意識に心惹かれている相手を桜は教えてくれる、ってことよ。夢という心の架け橋を通じて」
 
 
 『桜の枕』は本当に些細でローカルな噂なようで、それから数日経っても若葉は柚実さん以外からその単語を聞くことは無かった。
 しかしその数日後、再び柚実さんの口から飛び出てきた噂の追跡取材結果は耳を疑うようなものだった。
 現在の若葉らが在籍する二年桜組のクラスメイト、藤村 華子(ふじむら はなこ)が件の桜の近くで何度も目撃されているという。彼女がそこで眠っているのを見たという人も居たらしいと言うのだ。
 それがただの女生徒なら大した事ではない。それこそ噂を信じて桜に通う、いじらしい子なんだと好意的に解釈も出来る。
 しかし、華子さんは別だ。全くの別枠だ。
 
 彼女は一言で言えば一匹狼だった。
 悪意ある良い方をすれば、教室で浮いていたと言って良い。
 華子さんが楽しげに会話しているシーンを若葉は知らないし、休み時間はいつも一人で本を読んでいるかふらりとどこかへ出かけてしまう。
 口を開けば「はい、これ」や「昨日のプリントを出してください」といった事務的な台詞だけが飛び出て、一切の私語をしない。
 生真面目を通り越したそれらの性格は、華子さんの社交性のなさを浮き彫りにしていた。
 
 そもそも華子さんは決して悪目立ちするような人ではなかった。
 身長は低くて体格は華奢な方だし、物事の前面に出るような性格でもない。
 でも、綺麗に切り揃えられたショートカットの黒髪と切れ長の目と言うシャープな顔の作りの華子さんは、純粋に美人だった。
 それこそ、薔薇のお姉さま方の隣に座っていても何の違和感も持てないくらいに。
 加えて凍るように冷たく聞こえる独特の声のお陰で、近付き難いオーラは二年桜組はおろかリリアン屈指と大評判。
 余り、良い評判とは言えないけれど。
 
 でも良い言い方をすればクール&ビューティー、華子さんは古風な日本女性の美を体現しているとも評せる。
 バレー部エースにして同年代女子平均を大きく超える身長の若葉だから、その可愛らしい体躯は心から羨ましかった。
 低い上背に強い自我。
 そのギャップがまた彼女の魅力を際立たせていて、友人こそ少ない、いや、全く居ないだろう華子さんは、でも二年生ながらにしてファンを多く持っていた。
 それは上級生、同級生、下級生を問わずで、地下組織的に彼女のファンクラブが形成されていることを若葉は知っている。
 ……若葉も会員の一人だったりするからだ。
 とは言え若葉と華子さんは満足な会話一つしたこともない、どうにかこうにかクラスメイトという関係に過ぎないのだけれど。
 
 そんな皆の、そして若葉の隠れたアイドル華子さんが『桜の枕』効果を求めて桜の元へ。
 
 即ち桜に頼ってでも夢に見たい、夢だけでも良いから会いたいと願うまでに好きな人が居るということだ。
 他校の生徒か社交界の麗人か。
 身を焦がすような暗く熱い情念が沸くのを若葉は感じた。
 失望だったり嫉妬だったりしたそれは胸の奥で蠢き、じわりじわりと身体の中を浸透してゆく。
「あくまでも噂よ、噂」
 聞いているうちに様子が変わった若葉に気後れしたのか、柚実さんはそう言い残して席に戻った。
 若葉はただじっと机を睨んでいた。
 
 * * *
 
 翌日。
 昼休みの華子さんを尾行した若葉は、噂が事実である事を突き止めた。
 華子さんは教室で昼食を取った後は一直線にあの桜の元へ向かい、虚に座るとその幹に背中を預けて目を伏せたのだった。
 満開の桜花と、その真下で眠る華子さんはそれこそ幻想的な一枚絵のように美しかったけれど。
 妄想染みた夢に身を投げる華子さんの姿が酷く、酷く若葉の癪に障った。
 
 
「下らないわね。馬鹿馬鹿しい」
 昼休み終了間近、華子さんに先んじて教室に帰った若葉は、彼女が帰ってくるのを待って柚実さんに言った。
 それは教室中に響くような大声で、殆どの生徒が若葉に注目した。
 勿論当の華子さんも、珍しい若葉の興奮に目を丸くしているのが視界の端に入る。
「『桜の枕』ですって。夢見ることが悪いとは言わないけれど、そんなことに時間を割くくらいならもっと他に出来る努力だってあるでしょうに。態々あの桜にまで通って、頭が悪いわ」
 何人か思い当たる節があるのだろう。露骨に若葉から目を逸らした人達が居た。
 華子さんは目を逸らさなかった。
「若葉さん、少し」
「ねえ、柚実さんもそう思うでしょう? うじうじしているのを見ると、腹立つのよね。私。寝るなら布団で寝ろってのよ。言いたいことがあれば自分の口で言えば良いのよ」
 鼻息荒げて柚実さんを遮り、若葉は言い切る。
 若葉らしくない自覚は本人に強くある、そしてそれを感じ取れない柚実さんではない。
 柚実さんとの付き合いは幼稚舎からだ、何気に若葉が最も気の置けない友人でもある。
 
 だからこそ。
「私もそう思うわ、若葉さん。うじうじしているのは腹が立つものね。言いたいことを言いたい本人に言わずに、無関係のお友達にぶつけてくるような人なんかは特に」
 なんて、若葉の目を真正面から見抜いて柚実さんは言った。
 若葉の息が詰まる。
 それと同時に、視界の端から華子さんが消えたのが判った。教室の奥に入ったのか、廊下に出て行ったのか。それは判らない。
 ただ、柚実さんの言葉が絶対的に正しいことだけは判った。
 数秒の、嫌な、沈黙。
 項垂れて若葉は言う。
「ごめん、柚実さん」
 すると柚実さんは静かに立ち上がり、少しだけ背伸びをして若葉の頭をそっと撫でてくれた。
 温かい感触が頭に乗る。
 一撫でごとに、心が柔らかく凪いでゆくのが判った。
「そんな時もあるわ」
 優しい声に顔を上げた若葉に向けて、柚実さんは向日葵のような笑顔をくれたのだった。
 
 
 落ち着いた若葉が一切合財を柚実さんに話すと余りにも意外な答えが返ってきた。
「それじゃあ、逆に華子さんの無実が証明されたようなものじゃないの。無実と言うと語弊があるかも知れないけれど」
 首を傾げて若葉が問う。
「どうしてさ? あの桜に態々一人で行って、眠っちゃったんだよ。噂と無関係だなんてとても思えない、きっと好きな人が居るんだ」
「それは若葉さんが噂を知っているからでしょう。若葉さん、『桜の枕』の噂はとても小さなものよ。私以外の口からこの話を聞いたことがある?」
 言葉に詰まった若葉に、柚実さんは畳み掛けた。
「それに若葉さんの言う通り、桜の木のところに行く=好きな人が居ると公言するようなもの。知っている人なら尚更、昼休みなんて目立つ時間には行かないわ」
「じゃあ、華子さんは――」
「単にお昼寝に行ったんじゃないの? 元々人気は少ない場所だし、華子さんならあり得そうよ。俗世を離れて一人夢を見るの」
 若葉はそっと俯く。
 そうかも知れない、でもどうにも納得がいかない。
 そんな空気を全身から発散させる友人に、柚実さんは言った。
「華子さんは幹に凭れて眠っていたのよね? 噂の名前をお忘れ、若葉さん。好きな人の夢は桜の根を枕にして眠ることで見られるのよ」
 そしてそれが、決定的な解答だった。
 
 * * *
 
 酷い事をしてしまった。それは間違いなかった。
 確かに華子さんが好きな人の夢をみる為に桜の所に通っている、と言うのは誤解だったけれど――仮に誤解じゃなかったとしても、それを若葉に咎める権利なんてないのだけれど。
 若葉は殆ど明白に、華子さん個人に対して「馬鹿馬鹿しい」だの「頭が悪い」だの罵倒したのだ。
 華子さんがそれに気付いているかどうかはこの際問題ではない。
 謝りたい。謝らなければならない。
 でも、どうやって?
 若葉は日々悶々とそればかり考えていた。
 
 そして気付けば。
 ある日の放課後、若葉は桜の前に立っていた。
 惹き付けられるようにして、殆ど当たり前のようにして。
 好きな人の夢が見られる噂、『桜の枕』。
 若葉はそっと身を横たえる。
 幹に背を預けて、あの時の華子さんの気持ちになってみようと一瞬思ったけれど、止めた。
 何となく。
 華子さんに酷い事を言ってしまう切っ掛けとなった桜に、若葉はその真意を問いたいと思ったのだ。
 
 * * *
 
 夢を見た。
 桜の真下で眠る夢。
 ただ桜は大きな丘の頂上に生えているようで、薄ら開いた目には桜と空が織り成す桜色と茶色、それに青色のコントラストだけが飛び込んだ。
 見慣れた銀杏の枝条はどこにも無い。
 視界に入るのは桜の花、桜の幹、空、雲。そして、ぼんやりしたまま視線を下に落とせば瑞々しい若草が辺り一面を覆っている。
 丘はどこまでも続いていて、果ては無い。爽快だった。
 
 きゅっと。
 右手に違和感があるのに気付く。
 何かを握っている。
 何かが握っている。
 右手を見て。
 握り締めていた相手の掌、そこから繋がった腕、肘、肩、首を追って顔を見上げる。
 
 そこではあの日の昼休み、桜の虚で無防備に眠りこけた時の寝顔を――華子さんが安らかに浮かべていた。
 目を見開いて絶句する。
 でも、美しかった。
 可愛らしかった。
 いつまでも、見ていたいと思った。
 
 * * *
 
「藤村華子」
 
 耳元をくすぐった微かな風と、タイムリーなそんな言葉に意識が戻る。
「ん――」
 ぱたぱたぱた、と足音。何かが駆けてゆく風。
 呻きながらもどうにか目を半分だけ開くと、銀杏並木を駆け抜ける見慣れた制服の後姿が一瞬だけ映り込んだ。
 すぐに角を曲がって見えなくなったけれど、見覚えがあるような無いような、不思議な走り方だった。意識がまだ覚醒していない。
 でも。
「華子さん」
 幹から体を起こして呟く。
 目覚める寸前、確かにその名前が聞こえた。
 そしてまた。
「出てきたなぁ、夢」
 柚実さん曰くの、夢と言う心の架け橋を通じて桜が引き出してくれた若葉が惹かれている相手とは華子さんらしい。
 やっぱりと言うか何と言うか。噂話も馬鹿にはできない、偶然にしてはできすぎだ。
 どんな夢だったかは覚えていないけれど、華子さんが出てきたこと。あの日の寝顔を浮かべていたことだけははっきりと覚えている。
 嬉しいような恥ずかしいような、切ないような。
 微妙な感情に若葉は悶えた。
 
 見上げた桜はさわさわと微風に触れるだけ。
 そして結局、華子さんに謝る参考には全くならなかった。
 
 * * *
 
「それでは去年から今回までの学習を踏まえて、皆さんには桜にちなんだ歌を作ってもらいます」
 翌日。
 古文の授業で教師は去り際にそう言った。
「春の歌にすると少し範囲が広すぎるでしょうし、折角唯一の桜組なんですからね。毎年の恒例行事なので諦めてください」
 突然与えられた課題に生徒が辟易とする中、含み笑いを噛み殺しながら教室の扉を開け、教師は続ける。
「お題は桜の歌、当然五七五七七です。季語は花や桜でなくても結構ですが、花弁や樹と言った季語は全て無条件で桜を意味するという風にします。期限は来週のこの時間まで」
 ぴしゃり、と。
 扉を閉めるその音で生徒らの反論とブーイングを完全にカットした教師が去ってゆくと、教室は喧々諤々の騒音に塗れた。
 
 机に完全に屈服した若葉の元に、柚実さんがやってくる。
 足取りが重いのは、間違いなく古文教師の置き土産のせいだろう。
「面倒臭いねー。柚実さんはまだ得意かも知れないけど、私、こーゆーの致命的なんだよ」
 顔も上げないまま若葉が愚痴ると、柚実さんも深い深い溜息を落とした。
「私も基本的には読む専門だもの、創作は門外漢よ。一週間、インスピレーションをのんびり待つしかないでしょうね」
 それよりも、と。
 ぐいと若葉の肩を持ち上げて無理矢理顔を上げさせると、柚実さんはそっと背後の華子さんに視線をやって囁く。
「どうなってるの。ごめんなさい計画は」
「頓挫中、座礁中、中座中」
 若葉は目を逸らして呟いた。
 頭の痛い問題であるけれども考えなければならないことだと自覚しているし、何より若葉本人が謝りたいのだ。
 でも、一度切っ掛けを失ってしまうと難しい。
 今更何を? なんて突っ込まれれば何も言い返せなくなってしまう。
 華子さんのクールさならそんなことを言ってきても不思議では無いし、面と向かって本当にそう言われれば若葉は寝込んでしまうだろう。
 
「覚悟を決めて少しでも早めにしないと。このままずるずるいくと、本当に、隔絶してしまうわよ」
 
 ぞっとするような柚実さんの忠告に若葉は勿論頷いたけれど。
 判っていても中々に言いだせないから難しいのだ。
 
 * * *
 
 華子さんへのごめんなさい計画や古文の課題、それ以外の宿題などにうんうん悩んで週明けて。
 若葉は再び桜の前に立っていた。
 惹き付けられるようにして、殆ど当たり前のようにして。
 けれど、今回は先週と違う点が一つ。先客が居た。
 
 すー。すー。
 
 『桜の枕』に枝垂れかかるようにして、華子さんが眠っている。
 さらさらの髪を微かに散らして、木漏れ日を頬に映して。
 以前に見た一枚絵の再現。今度のそれはでも、以前のものより遥かに華子さんが可愛らしく描かれていて。
 若葉は自然に緩む頬を抑えられなかった。
 華子さんが『桜の枕』で眠っているというのに、以前のような暗い情念が浮かばない。
 以前にはない申し訳なさがあるということもあるけれど、それよりもただただ微笑ましくて。
 
 歩み寄る。
 寝息が聞こえる、規則的に上下する胸の上で柔らかな春の風にタイが揺れている。
 ふと、若葉は悪戯を思いついた。
 眠っている人間の夢を操作する悪戯、漫画やドラマで時々見るそれ。
 キィワードを呟いて、それを夢に登場させるのだ。
 呟く単語は迷わなかった。
 登場させたい。この場所で、華子さんが今見ている、その夢に。
 若葉は華子さんの耳元に唇を寄せ、そっと囁く。
 
「新堂若葉」
 
「え?」
「ん?」
 
 華子さんが目を開いた。
 若葉がただならぬ既視感に囚われた。
 
 結果、至近距離でお互いの視線が絡み合う。
「きゃっ!」
「わっ!」
 華子さんはがばっと勢い良く身体を起こし、若葉は慌てて飛び退いた。
 その勢いで、と言う訳ではないのだろうけれど、ざぁと音を立てて桜の花弁が舞う。
 若葉達は一瞬にして桜色の世界に隔離され、再び目と目だけが突き当たった。
 
 ざぁ、ともう一度音がして若葉達の世界に色が戻る。
 見上げる華子さんと見下ろす若葉、元々の伸長差もあって視線には相当な落差があった。
 そして先に口を開いたのは――
「お、起きていたの」
 華子さんの方だった。
 顔を真っ赤にして、唇を震わせてそんな事を言う。
 対して若葉の方はと言うと、セリフをそのまま取られたような違和感に苛まれてすぐには返事が出来ないでいた。
 Q:起きていたの。
 A:起きているわ。
 普通に考えればそういう回答になるのだろうが、果たしてそれが正解なのか。違う気がする。激しく違う気がする。
 
 そこで、若葉は思い当たった。
 眠っている誰かの夢を操作する悪戯。
 耳元で囁かれる名前――自分の名前。
 瞬く間に繋がった、「起きていたの」、既視感、「新堂若葉」、「藤村華子」。
 ああ。
 ああ、そう、だったのか。
 
「いや……起きてはなかった。今、気付いた」
 搾り出すようにそう言うと、若葉は自分の頬が燃えるのが判った。
 華子さんが若葉の枕元で自分の名前を囁いた事を若葉は知っている。
 そして今の対応からして――若葉が華子さんの枕元で若葉の名前を囁いた事を華子さんは知っている。
 これはもう殆ど、愛の告白状態だ。
 恥ずかしい。
 照れ臭い。
 何が何だか判らない。
 そしてそれは華子さんも同じなようで、若葉と華子さんは二人向き合ったまま無言で春風に吹かれていた。
 何か言わなきゃ、何か言わなきゃ。
 焦燥感だけが忙しなく胸中を駆け巡る。
 そんな中。
 
 再びざぁと花が降り、辺りを薄紅色に染めて幻想へ彩る。
 不意に若葉の中から焦りと緊張がすっぽりと抜け落ちた。
 目に見えそうな程に濃厚な桜香が鼻をつく。
「――ひとりたち」
 若葉はその香りに誘われるようにして、自然と口を開いた。
 
「独り立ち 離れて高し 桜の背 一往外れて 何を夢見る」
(ひとりたち はなれてたかし さくらのせ ゐちおうはすれて なにをゆめみる)

 それは週末を使って考えた、若葉なりの桜の歌。
 出来上がってから若葉は勿論、それが殆ど華子さんへのラブレターになってしまっていることに気付いた。
 でも直そうとは思えなかった、柚実さん曰くのインスピレーションの結果がこうなのだ。
 歌とは得てしてそうあるべきだろう。
 
 突然そんな、不出来な歌を詠った若葉に目を丸くした華子さんは。
 何故か一度、軽く目尻を拭って詠った。
 傍で満開の桜にも負けないくらいに優しく、暖かい、笑顔で。
 まるで泉から水が湧き出るように、滑らかに、澱みなく。
 
「安けきも 花の香成せし 片手とて 高し背中の 名はも聞けずや」
(やすけきも はなのかなせし かたてとて たかしせなかの なはもきけすや)

 若葉の歌を受けての返歌か、あるいは、若葉同様に週末を使って考えた華子さんなりの桜の歌か。
 とにあれ、そのいじらしさに若葉は眩暈がするほどの衝撃を受けた。
 古文が苦手な若葉にははっきりとした意味までは読み取れない、でも、込められたその想いは良く判る。良く、判る。
 涙が出そうになった、先ほど華子さんが目尻を拭った理由を痛いほどに知った。
 
 だから、若葉は言ったのだ。
「私、新堂若葉。よろしくね」
 
 だから、華子さんは言ったのだ。
「私は、藤村華子。こちらこそ、よろしく」
 
 華子が望み、そして若葉もそれを望んだから。
 彼女らはこうして、出会ったのだった。
 クラスメイトの二人としてではなく、新堂若葉と藤村華子の二人として今、初めて知り合った。
 
 美しくも狂い咲いた桜の下で。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
「若ちゃん! 帰るよって言ってるのに!」
 
 紫苑の声に、再び若菜は現実に回帰した。
 いけない。いけない。
 もうろくするには若すぎるぞ、藤堂若菜。まだまだ女盛りの二十代だ。……ぎりぎりだけど。
「ごめんなさい、今行くわ」
 コートを羽織り、若菜は紫苑の元へ行く。
 司書室の鍵を指で振り回しながら待ちくたびれた紫苑に小さくごめんなさいして。
 鍵を閉める紫苑から鞄と一緒に『桜組伝説』を受け取った。
 
 そっと表紙を撫でる。
 何度も読まれてぼろぼろの表紙が、本と若菜が経た年月を告げていた。
 桜は――経ていない年月を告げていた。
 若菜の眉が寄る。微かに。
 
「良し、じゃ帰ろっか。若ちゃんは職員室寄っていくの?」
 『桜組伝説』を入れて、微妙に膨らんだ鞄を腰の前で持つ紫苑が首を傾げた。
 若菜は少し悩んで――首を横に振る。
「たまには一緒に帰りましょうか。あなたが借りた『桜組伝説』は私達の代のものだから、その頃の話をしてあげるわ」
「あはは、始まったね若ちゃんの昔話。うん良いよ、そうしよう。私もすっごく聞きたいから」
 そうして二人、図書館を出る。
 
 
 若菜らの行く、秋の夕暮れに彩られた銀杏並木の片隅で。
 幾多の出会い、数多の別れ、そして無数の物語を侍らせて。
 花弁はおろか葉の一枚も残っていないあの桜が静かに。
 静かに、佇んでいた。


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