「ごきげんよう、祐巳さま。 重そうですね、半分お持ちします。」
そう声をかけられたとき、祐巳は一瞬 『瞳子ちゃんかな?』 と思ったあと、すぐにそんな自分をわらった。
瞳子ちゃんはもう、そんな嬉しがらせを言ってくれるはずが無い。
色々な思いを押し包んで、気を取り直した祐巳は当代の薔薇さまらしくなるだけ優雅に傍らを振り向いた。
やっぱり瞳子ちゃんじゃない------解っていても抱いてしまう微かな落胆を笑顔で隠し、祐巳は静かに挨拶をしようとして、目の前の顔に見覚えが有る事に気が付いた。
「あれ?」
「あ、覚えていてくださいましたか」 よかったと嬉しげに、娘は祐巳の是も非も聞かぬうちに、両手に抱える重たげな書類の山の半分を取り上げた。
「えと、一度踊った事ある、よね?」 半分疑問形になるのは、あの時の記憶とは、目の前の娘の様子がずいぶん変わっているからだ。 なんだかとてもよい方向に。
「はい、 その節は、祐巳さまのおみ足を踏まずに済んで何よりでした。」
くすくすと悪戯っぽい表情。 小さな身体をとりまく柔かな雰囲気。 あのときは、確かもっとギクシャクと緊張してた。
それはそれで、とても可愛らしかったんだけど。
でも、面はゆいほどに真っ直ぐな好意が込められた、その眼差しは変わっていない。
祐巳は、最近ようやくモノになってきた薔薇さまスペシャルスマイルをゆるめ、ふにゃりと かつてのように笑み崩れながら改めて挨拶を。
「ごきげんよう、、、ええと」
「ロボ子でいいですよ」
「へ?」
「知ってます。 体育祭のあとご友人の方々とお話されるときに、私のことをそう呼んでらしたのでしょう?」
「あああう、えぇう、あれは、その、、、」
くすくすくす。 祐巳の困りがお百面相を堪能しながら、自称、ロボ子は言葉を続けた。
「字面だけならアレですけど、祐巳さまからの親しみが込められているようで、むしろ嬉しかったです。 だから是非このままアダ名で呼んでください」
邪気も無くニコニコとそう言われてしまえば、祐巳にはもう他の呼びようもなくて。 過去の自分の不用意な発言に内心ポカポカ頭を叩きながらも、祐巳はこれから暫く、彼女を 『ロボ子』 と呼びつづけることになる。
「ええと、じゃあ仕切りなおして。 ごきげんよう、ロボ子、ちゃん」 たはは。
「はい、ごきげんようです」 心底楽しげなロボ子。
称号を受け継いで以降に祐巳の周りを取り巻くようになった少女たちは、無闇にはしゃぎ立てるか。 恐れ入ってかしこまるか。 それとも昔の可南子ちゃんのような思いつめた理想化をするか。
いずれ皆がみな、祐巳そのものではなく、薔薇の号を冠した祐巳を薄いガラス窓の向うから愛してくれているようだった。
(蓉子さま、開かれた自然な雰囲気の山百合会はまだまだ遠いです。)
だが、ロボ子はそんな普通の少女たちとは少し違う。
眼差しも態度も、確かに ”祐巳へ” の好意に溢れているが、戴冠した薔薇のことはなんとも気にしていないらしい。 その証拠に、未だに祐巳の事を ”紅薔薇さま” とは呼んでいない。 意識して呼ばないのではなく、どうやら 『祐巳=紅薔薇さま』 という等式をスッポリと失念しているようだ。
この振舞いようは、可南子ちゃんに似ている。 祐巳を理想化し、現実の平凡さに煩悶し、それらを乗り越えて等身大の ”祐巳” を見てくれるようになった少女。
可南子ちゃんの時のよう、二人の間に濃密な出来事があったわけではないのに。 この娘は、自然な祐巳自身を好いてくれている。 そう感じられた。
薔薇さまになって日が浅くいつも気を張りつづけている祐巳は、この少女がそばに居るとなにやら息をするのが楽になる気がした。 ほとんど初対面も同然というのに ”相性がよい” というのはこういう事を言うのだろうか。
荷物を半分コしたまま、他愛のないおしゃべりに興じつつ薔薇の館へ向かう2人。
部活に趣味に、放課後を謳歌する沢山の少女たちが廊下をすれ違ってゆく。 2人に向けられる視線は様々だ。 微笑んでいるもの。 緊張しているもの。 紅くなっているもの。 はしゃいでいるもの。 多種多様な、だが概ね好意的な視線と挨拶が向けられるのは、ただ、祐巳が人気者の薔薇さまだというからだけでなく、隣にいるロボ子がなんとも自然に祐巳の雰囲気に溶け合っているから、なのかも知れない。
そうして2人が昇降口に差し掛かったとき、向うから特徴的な凸凹コンビが歩いてくるのに気が付いた。
祐巳はぴょんと跳ねて、頭を左右に振る。 どうやら両手がふさがっているので、手を振る代わりに頭を振ってみたらしい。
「ごきげんよう、瞳子ちゃん。 可南子ちゃん」
何度となく袖にされているというのに、相変わらず好きな相手に素直に好意をあらわす祐巳の姿は正直薔薇さまの威厳が台無しでは有るが。 傍らのロボ子も相対する可南子も、ともに良いものを見たというように目を細めている。
和やかでほのぼのとしたこの場の雰囲気に、ただ一人乗ってこないのが瞳子だった。
つい先ほどまで隣の可南子を相手に、ちょっと意地悪げな、楽しそうな様子で談笑していたのに。
いまの表情は鬼か羅刹か! (ってのはちょっと言い過ぎたね。 ごめん瞳子ちゃん) きりりと眉をそびやかせて、じっとりと祐巳をねめつけている。
「紅薔薇さま。 薔薇さまというものは全ての生徒の規範であり、目指すべき理想でなくてはならないのです。 だというのに、なんですか! その体たらくは。 挨拶代わりにヘッドシェイクをするなんて。 少しは恥かしいとお思いになって下さい。 そもそも紅薔薇さまは……」
廊下の真中で始まるお小言の嵐は、いつものごとく祐巳をえへへと喜ばせ、周囲の一部を微笑ませ、一部を嫉妬させ、そして残る人々の嫌悪をあおりつつ 今しばらく続くかに見えた。
と、そこで一歩前に出るロボ子。
怪訝な顔で言葉を切る瞳子に、ロボ子が柔かく微笑んで言う。
「瞳子さん、そこまでになさいまし」
いつにない展開に、むしろ瞳子は良い獲物を得たとばかりに喰い付いてくる。
「あなたに口を挟まれる筋合いは有りません。 私は一生徒として、いまだ自覚の足りない薔薇さまに、ひと言、ご注意を申し上げているのです」
いや、全然一言じゃ無いから、という周囲の無言の突っ込みは、瞳子の分厚い女優の仮面に弾き返されて霧散した。
「瞳子さんの薔薇さまへの愛情は、大変貴重なものだと思いますが。 時と場と人を選ばなくては。 こんな公衆の面前で、愛の鞭とは言え、薔薇さまを相手に直截すぎるご忠告をなさるのは、あなたの評を下げるだけでなく。 大事な薔薇さまの権威をも貶めますわ。」 あなたが薔薇さまの姉か妹というなら兎も角、そうでない以上、この場はここまでになさいまし。
後半部こそやや声をひそめ配慮をしたものの、辛らつな内容を終始はんなりと瞳子をたしなめるロボ子は、チラリと周囲を見渡した。
周りにはかなりの数の生徒がいて、常に無い事態に固唾を飲んでいるようすがありありと見て取れた。
だが、それが解ってもなお言い募ろうとする瞳子に、隣の可南子が先んじた。
軽く瞳子の首筋あたりに右手をおき、ちょこんと頭を下げる。
「そうね、言葉が過ぎたわ。 ごめんなさい。 たしなめてくれて有難う」
顔を真っ赤にして踏ん張る瞳子のうなじを、可南子はその利き手でジリジリと押し下げてゆく。 緊迫した状態が暫らく続いた後、やがて瞳子はがっくりとこうべを落とした。 それでも、謝罪の言葉が無いあたり意地っ張りも極まれりというところか。
可南子もこれ以上の譲歩は無理と見たか、うなじに置いていた右手をそのまま瞳子の肩に回して、抱きかかえるようにその場を撤収にかかる。 流石に今度は瞳子も抵抗しないようだ。
「では、ごきげんよう。 祐巳さま。 ごきげんよう、皆さん」
「ごきげんよう、可南子ちゃん。 瞳子ちゃん」 ほっとした気持ちと、感謝の気持ちをこめて、両手をふさぐ荷物をそのままに、指先だけをピコピコとさせて挨拶を贈る祐巳。
一体どうなる事かと内心はらはらさせられたが、自分自身が仲裁に入っては逆効果、周囲をあおる事になるという分析くらい、さすがに出来るようになっていた祐巳だったから黙ってみているほか無かったのだ。
祐巳は、全幅の信頼を置く可南子と、柔かくおおどかなふぜいのロボ子に下駄を預ける事で平静中立を維持し、事態を収集する事に成功した。 (って、祐巳ちゃんは何もしてないじゃん)
面白そうな見世物があっさり終わってしまって残念そうなシスター(!?)。 珍しく瞳子のほうが折れた姿を見て満足そうな3年生。 祐巳のぴょこぴょこした振る舞いを見れてお腹一杯そうな2年生。 凛々しい可南子を見てぽうっとなっている1年生。
そこへ遅れて通りかかった鹿取先生が突入してくる。
「なあに、みんな何集まってるの? 楽しい事?」 わくわく、と擬音が聞こえてきそうな勢いで。
これわまづい、と皆しらんぷりで、三々五々に散ってゆく。
「あれ、なに? なんなの?」 一人蚊帳の外に置かれて不満そうな先生は、輪の真中に祐巳たちを見つけて再び瞳を光らせた。 (獲物を見つけた山猫の目だ)
「あらあら、紅薔薇さま。 ごきげんよう。 何が起きていたの? 楽しい事? ねえ楽しい事?」 ほとんど女子高生ののりである。
「ごきげんよう鹿取先生。 ちょっと祐巳さまと立ち話をしていたら、ギャラリー(観衆)が集まってきちゃんたんです。 助かりました」
「あら、ロボ子ちゃん。 ごきげんよう。 本当にそれだけー? ねー?」
「先生ってば、欲求不満なんですか? 彼氏と巧くいってないとかー?」
「そーなのよ、聞いてよ。 ひどいのよアイツ。 両親に紹介しようとか思ったのに。 ここに来て逃げ腰になっててさー。 男のくせに。 何とかならないのかしら、ねえロボ子ちゃん、、、って。 あらやだ」
相手が自分より年下で、しかも生徒だった事を思い出し、鹿取真紀はひらひらと手を振った。 幸い廊下にはもう、この3人しかいない。
「あー忘れて頂戴。 ここだけの内緒ね? ……それにしてもロボ子ちゃん。 古狸っぽくなってきたわねえ。 巧く話をそらしちゃうなんて。 1年のときはあーんなにちっちゃくって初々しくて何でも真に受けて、生まれたての小鹿見たいに可愛かったのにー」
「そりゃあ、お姉さまに鍛えられましたから。 でも、ちっちゃいのは変わらないんですよ。 どーしたらあと20cmくらい伸びますかねぇ。 あと、先生みたく凹凸の激しいボディになるには? やっぱり牛乳ですか?」
「ええー、ロボ子ちゃんはちっちゃい方が可愛いわよー。 ところで牛乳はね、あれはじつは迷信よ。 それよりもね、、、」
ころころころ。 まるで女子高生同士の会話のようにどこまでも転がってゆく。
置いていかれた祐巳は、脇でくすくす笑いながら、ちょっと寂しく思っている自分に気がついた。
でも、会話に入れなくて寂しいというよりも、 ロボ子に姉(ぐらん・すーる)がいることが解って、それが寂しいような気がする。
……それは変だ。 あのギクシャクしていた少女がこんなにも柔かく、おおどかで、したたかに変化できたのなら、それは間違いなくこの少女のお姉さまの指導とそれに応える少女自身という美しい姉妹関係の発露というべきで。 だからソレを祐巳が喜ぶ事はあっても寂しく思うなんて、何か変。
「よね!紅薔薇さま」 「ですよね!祐巳さま」
「ひゃっ!?」 深く内省していた祐巳は、一気に現実に戻されて奇妙な声を上げてしまった。
「あ、あの。 ごめんなさい鹿取先生。 これ運ばなくっちゃいけないので。 失礼しても宜しいですか?」
「あ、あら。 そうね。 ごめんなさい引き止めてしまって。 じゃあ、ごきげんよう」
「「ごきげんよう鹿取先生」」
すこし白々としながら、2人は一旦お互いに荷物を預け合い靴を履き替える。
「申し訳ありません。 紅薔薇さま。 話をそらすのにかまけてお仕事を滞らせてしまいました」
この日初めて ”紅薔薇さま” と呼ばれて、祐巳はなんだか悲しくなった。
「そんな他人行儀に呼ばないで。 ”祐巳” でいいよ。 一緒に踊った仲じゃない。 それよりも、ロボ子ちゃんって先生にまでそう呼ばせているの?」
「え? ああ。 祐巳さまにそう呼ばれたことを知ったとき、とても嬉しくて。 さんざ、各方面に根回しをしまくりましたから。 まあ、真紀ちゃん先生はのりがよいので呼んでくれますね」
「へえ、そうなんだ」
「やっぱり、嬉しいという気持ちは力が有りますね。 引っ込み思案だった私が、あれで変わりましたから。 お姉さまにも 『一皮剥けたわね』 って誉めていただきましたし」
あ、また ”お姉さま” だ。 ロボ子ちゃんがソウ言うたびに、祐巳の心の中に冷たいビー球がころりと落ちてくるような気がする。
「へえ。 じゃあ今は、学園中がロボ子ちゃんのことを ”ロボ子”って呼ぶの?」
「そうですね。 2、3人頑固な、というか、筋を通す先生が呼んでくれませんねぇ。 この間は園長先生も呼んでくれたんですけど。 ”ロボ子さん、廊下を走ってはいけませんよ”って」
「ああー、廊下は走っちゃ駄目だね。 ロボ子ちゃん。 えーと、ところでロボ子ちゃんの ”お姉さま” も、今はロボ子ちゃんのことを ”ロボ子” って呼ぶの?」
冗談じみた台詞の中に、勇気を出してそろりと質問を混ぜてみる。
なんで私はこんなに緊張しながらこんな事を訊いているのだろう。 祐巳は自分の心を計りかねつつ、ドキドキしながら返事を待っていた。
「え、お姉さまですか。 さー?どうでしょう。 最後に会ったときには名前で呼んでくれましたけど。 今、もし逢えたら案外楽しげに ”ロボ子” って呼んでくれるかも知れませんね。 あれで、結構のりがいい人でしたから」
「もしって?」
ロボ子が彼女のお姉さまのことを過去形で話しているのに気がついた祐巳は、一気に最悪の想像をして顔を青ざめさせた。
「あれ、もしかして誤解してらっしゃいますか? 大丈夫。 お姉さまは健在ですよ。 この春卒業してしまったので逢えないだけで。 筑波の図書館情報大学というところに進学されたので、向うに住まわれているんですよ。 だから簡単には逢えません」 思うに、図書館好きの自分が通うならこの大学しかない、とか言うのりだけで選んだんじゃないかなーって、じつは疑っているんですけど。
最後の方は、ぼやきとも揶揄とも取れるしかつめ面でロボ子が唸っていたが、祐巳はそことは違うところが気になった。
「3年生、だったんだ……」
「今は祐巳さまたちが3年生ですよ。 きっと、お姉さまのことは祐巳さまもご存知です。 昨年度の図書委員長をしていましたから」
「って……えみこさま? えぇぇぇぇ? 笑子さまにスールがいたなんて。 全然聞いてない!」
「あー、あの人は自分の事は秘密主義でしたからねぇ」 そのくせ私の背中は好き勝手押してくれて。 だいーぶ鍛えられましたもの。 あの頃はあの方の愛らしい容姿に舞い上がっていて、言われる通りに振り回されていましたけど。 今になって思います。 むしろ、恥かしがり屋な所とか、こっちから突っついてやれば良かったかなーって。
ははは、と乾いた笑いを漏らすロボ子に、祐巳はうんうんと頷いた。 (なんだか元気が増してきたぞ)
「笑子さまはねー。 年下の私が見ても本当に可愛らしかったもの。 ちっちゃくってふわふわで。 おっきな眼鏡が似合ってて。 逢うたびに抱締めたくなる衝動を我慢してたんだよ?」
ロボ子のお姉さまは、今、この学園にはいないのだ。 何故か祐巳の心は浮き立った。
「そういえば、ロボ子ちゃんはちょっと笑子さまに似ているかも。 体育祭の頃はそうでもなかったと思うけど、今は」
うわーと、ロボ子は嬉しそうな嫌そうな誇らしそうな哀しそうな。 実に微妙な声で笑った。
「アレに似ているといわれると。 複雑ですね。 性格の悪さを外面の愛らしさで全てカバーしてましたから。 あれで権謀術数なんでもござれ、面白くない事は無視だけど、興味が湧いたらとことん喰い付く。 ってゆう。 どーにも傍迷惑な人でしたから。 似てますか〜?」
「そういう意味じゃなくってね。 ちっちゃいところとか。 可愛いところとか。 落ち着いてるところとか。 ふわふわした雰囲気とか。 そういう所がね。 笑子さまに似てるな、って。」
「いや、お姉さまの場合、ですからそれは殆んど猫の皮なんですよ。 大体ですね……」
楽しそうに自分のお姉さまをこき下ろしてみせるロボ子。
じつはこれは惚気なんだ、と気付いた祐巳の心はマタマタずーんと落っこちた。
ロボ子ちゃんと話していると、なんでこんなに心が浮き沈みするんだろう。
”お姉さま”の話をされると沈むし。 ”紅薔薇さま”って呼ばれると沈むし。
今は、お姉さまがいないことに気付いたら浮くし、 ”祐巳さま”って呼ばれたら浮くし。
昔の人を思って微笑んでいるロボ子ちゃんを見ると沈むし。
私に向かって微笑んでくれるロボ子ちゃんを見ると浮くし。
……もしかして、わたし。 ロボ子ちゃんの事好きなのかな?
自問自答して行き着く答えに、祐巳のほほがうっすらと染まる。
「ねえ、ロボ子ちゃん。 わたしのロザリオ貰ってくれない?」
気がつくと、ポロリとそんな言葉を漏らしていた。 本当に無意識の内に。 (ということは、祐巳の心の奥底が、自然にロボ子に反応したのだろう)
「え?」
突然の事に凍りつくロボ子。
祐巳は、自分自身が今ナニを言ったのか、理解したと同時に血の気が引いた。
「ごめん、今のなし。 忘れて!」
逃げよう。
ロボ子が持つ半分の書類を奪い取って一気に走り去ろうとする。
が、ロボ子もカンよく身を捌いてソレをさせない。
じっと見詰め合って対峙する二人。
「祐巳さま、こういうことは後に尾を引いちゃ行けないとおもうんです。 ちょっと話していきませんか。 館に着くのが遅れちゃいますけど」
静かな、切ない眼差しで傍らのベンチを指し示す。
祐巳は言葉も無く、こくりと頷いた。
中庭の一番真中のベンチに座って、二人は書類の束を下ろす。 紙束の癖に結構重かったせいか、下ろしたら背骨が伸びるような開放感があった。
周囲には人影が無く、どこからか吹奏楽部の調律音が降ってくる。 かすかに聞こえる運動部の掛け声。 遠い喧騒が、逆に今、2人切りだということを強く意識させる。
「最初に、結論から申し上げます。 祐巳さま。 お申し出はとても嬉しいのですが、このお話はお断りします」
「そう、だよね。 突然変なことをいってごめんなさい」 ほとんど初めて話したようなものなのに。 もっとちゃんと知り合ってから、それから申し込むべきだったよね。
消え入るように呟きながらツインテールまでしょんぼりとうなだれる祐巳の手をそっと握り、ロボ子は静かに続けた。
「例えよく知り合ってからでも、私の答えは変わりません」 案外、笑子さまは大喜びするかもしれませんが。 『まあ、福沢祐巳さんとグランスールを張り合えるなんて楽しそう』 とか。
苦笑いをするロボ子。
「でも、私は。 私が、笑子さま以外を ”お姉さま” と呼びたくないのです」
自分の中をちゃんと整理して伝えた上で、祐巳の心をよく理解している問いを続ける。
「祐巳さまは祥子さまが卒業されて、いまは一人身ですが、もしどなたかから妹に、と望まれたら? お受けになりますか?」
「ああ」
ようやく得心がいった風の祐巳。
「そうだね。 私のお姉さまは祥子さま以外にありえないね。 それと同じように…」
「はい、私にとってもお姉さまは笑子さま以外にいません。 それは祐巳さまのことが嫌いというわけではなく」
「「ただ、あのひとのことが好きでたまらないから」」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
「あーあ、これで私、6回も下級生に振られちゃったよ」 祥子さまでも2回だったのに。 私、妹運ないのかなぁ。
落ち込む祐巳を、苦笑を浮かべてなだめていたロボ子は、はた、と思い当たった。
「6回? 申し込む前に断られた可南子さんの分を1回とカウントするとしても。 瞳子さんから3回振られて。 私が今1回お断りして。 ……数が合いませんよ? 一体誰に求愛したんですか? じつは祐巳さまって多情なプレイガール(死語)なんですか?」
妙に必死になって聞いてくるロボ子。
「ちちち、ちがうよ。 可南子ちゃんにはお願いしてないんだからノーカウントだもん」
「じゃあ、なおさら。 数の合わない2回は一体どなたに申し込んだのですか、祐巳さま」
「ふえ、ロボ子ちゃん怖い」
「祐巳さま、誤魔化しは効きませんから」
逃げられないように、ガッチリ肘を捕まえてロボ子が迫って来る。 (これはこれで、誰かに誤解されそうな光景だ)
「うー。 ……5回」
「は?」
「瞳子ちゃんに振られたのが5回なの」
「へ?」
「昨日5回目のアタックをかけて玉砕したの。 『お嬢さん、愛してます。 結婚してください』 って、出会い頭にお願いしたら」
「し、したら?」
「その場で 『祐巳さまのスカポンターーン』 って怒鳴られて一瞬で逃げられた」 せっかくお父さんにも、好きな女の子を落とす殺し文句を教えてもらったのにな。
ぶつぶつ呟きながら指先をこねくり回す祐巳を呆然と見詰めながら、ロボ子は乾いた笑いを漏らした。
「あは、ははは、はぁぁ。 ……あー、ちなみに4回目は?」
「瞳子ちゃんちの前に大きなダンボール箱持っていって、張り紙つけて、中に入ってた」
「ちなみに張り紙にはなんと?」
「『拾ってください』」 おっかしいなあ。 花寺の推理同好会の人たちに太鼓判押してもらったんだけど。 絶対落とせますって。
こめかみを揉みながら、ロボ子は念のために確認した。
「それで瞳子さんはなんと?」
「なんにも」 2時間くらいして保健所の人が来て、連れてかれそうになった。 家人から通報があったんだって。
「祐巳さま、それは根本的にアプローチの方向が間違っています!」 これはもう、一から本気で練り直さないと、いつまでたっても瞳子さんを落とせないませんよ?
祐巳は、こめかみに手を当てたまま盛大に嘆くロボ子の剣幕にびっくりして、大事な事を確認してみた。
「ええと、ロボ子ちゃんが親身になってくれるのは嬉しいんだけど。 わたし、たった今ロボ子ちゃんにプロポーズしたばかりなんだけど?」
なんということ。 私が把握していないアクションが2件もあるなんて。 1つは学外。 1つはつい昨日の出来事としても。 監視別班はナニをしていたのかしら。 これは組織のたがを早急に締め直さねば。
祐巳の至極まっとうな疑問を、さっくりとスルーしてぶつぶつと呟くロボ子。
「あのーロボ子ちゃん? 組織って何?」
「 ”とうゆとっこう委員会” です!」
「??」
「 ”瞳子さんを祐巳さまの妹にするための特別行動委員会” の事です。 わたしはそこのチェアマン(議長)をしています」
「なに?それ?」
「その名のとおり。 瞳子さんの秘めた思いを成就せしむるために、あらゆる行動を厭わない秘密結社です。 2年生と1年生のそれぞれ1/3程がメンバーです」
思いっきりいろいろ突っ込みたい祐巳だったが、一番矛盾してそうなところを指摘してみた。
「あのさ、そういう ”秘密” 結社の存在を私に教えちゃってもいいのかな?」
「かまいません。 我々の初期の命題は、 『いかに祐巳さまを瞳子さんのほうに振り向かせるか』 でした。 祐巳さまが瞳子さんを追い掛け回している今、新たな命題は 『意地っ張りモードの瞳子さんを如何に素直にさせるか』 に移っていますから。 祐巳さまに知られても無問題です」
昂然と胸を張って宣言するロボ子は、いっそ凛々しくて。 祐巳は思わず 「おおー」 と拍手を贈ってしまった。
きろり。 能天気な祐巳を横目で見遣って、ロボ子はボソリと告げた。
「ですが、新たな命題が発生したようです。 委員会を招集して 『浮気性な祐巳さまを取り締まる行動別班』 を立ち上げなくては」
「ええー、それってひどい言いようだと思う」 わたし、浮気性じゃないもん。 それに相手はロボ子ちゃん自身なのにー。
ベンチにのの字を描きながら拗ねてみせる祐巳。
「浮気性じゃないならなんですか。 ほぼ初対面の私に、会話して1時間も立たないうちにプロポーズするなんて」
「だって好きだと思ったんだもん。 好いなって思ったんだもん。 ロボ子ちゃんが妹ならって思ったんだもん」 大体、ロボちゃんで2人目だよ。 プロポーズした相手って。
ぷっくり膨れて反論する祐巳。
売り言葉に買い言葉。 あまりに赤裸々な好意をぶつけられ、ロボ子はようやく脳みそでなく心でソレを受け取った。
「たぶんこれって ”一目惚れ” ってやつだと思うよ」
とどめの一撃を受けて、ロボ子の顔はやかんが沸かせそうなくらい急激に温度を上げてしまった。
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沈黙の中を天使が通り過ぎてゆく。
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祐巳は、自分の言った言葉をちゃんと総点検するために。
ロボ子は、祐巳に告げられた言葉を頭と心の両方でちゃんと受け止めるために。
二人には天使たちがひと踊りするくらいの時間が必要だった。
「ええと、その。 ご好意は本当に嬉しいし、祐巳さまのことは好きですし、正直惜しいかなという気もしなくも無いのですが。 笑子さまへの気持ちも有りますし、議長としての立場も有りますから。 残念ですが、この話はお断りさせていただきます」
「ロボ子ちゃんの気持ちがしっかりと決まっているなら、しかたないね」 それにしても、議長って何? そんな組織私知らなかったよ? と、あえて辛い話題を反らす祐巳にロボ子も穏やかにのってきた。
「それは祐巳さまが疎過ぎますよ」
祐巳の気持ちを言葉無く察し、祐巳の心を気遣うロボ子。 ああ、本当にこの子が妹だったら良かったのに。
「現に、祐巳さまたちの3年生中心には 『同学年の妹を持てるべくリリアンを革命する少女の力軍』 通称 『リリアン革命軍 第1軍』 がありますし。
私たちの学年中心で言うと 『年上の妹を持てるよう時代を革命するための聖少女血盟団』 通称 『リリアン革命軍 第3血盟団』 とか。
ああ、そういえば昨年 『年下の姉を持てるべく世界を革命する淑女の旅団』 通称 『第4旅団』 が出来ましたっけ」
「な、なに。 それ」
「まあ、今は無き 第2師団も含めて、第1、第3は みーんな祐巳さま狙いですね。 あと、第4はどうも乃梨子さんや可南子さん狙いみたいです」 主張が先鋭的なせいか彼女たちは結束も強いので、我々のような <<年上の姉×年下の妹>> という伝統的で保守的な価値観の組織は、激しい切り崩しを受けてどうにも劣勢なんですよね。
唖然とする祐巳に、淡々とぼやいて見せるロボ子。
「第2師団はなくなったの?」 箱入り娘の園だったはずじゃあ。 という呟きを呑み込んで、祐巳はちょっとまだ安心出来そうな話題の方に振ってみた。
「ええと、あれは 『可愛い娘を専制的暴君から庇護し皆で愛でるために歴史を革命する乙女たちの師団』 と言ってですね。 先の卒業生たちが中心になっていた師団ですね。 確か去年の梅雨頃に出来たと思いましたけど」
なんだか不味いところに踏み込んだ気がして、祐巳はもう一度方向を転じにかかる。
「ええと、可南子ちゃんとか乃梨子ちゃんも狙われているの?」
「それはもちろん」
乃梨子さんの守護騎士ぶりは既に聖ジョージばりに勇名ですから。 年下はもちろん。 同学年や、年上からもお姉さまになって欲しいひとNo1の栄冠を、軽々と掴んでますし。
可南子さんも冬頃から凛々しいところはそのままに、丸みと柔らか味が加わって。 今では乃梨子さんに迫るほどの人気ですよ。
乃梨子さんには不動の姉がいますが、妹はねらい目ですし。 可南子さんは "姉はいらない” 宣言が伝わっていますが、同時に ”妹は欲しい” 宣言も同時に流布しましたから。
「可南子さんといえば。 先ほども踏ん切りの悪い瞳子さんを潔く謝らせてしまったでしょう? ああいうところが人気なんですね」 そうそう、あとで保健室に瞳子さんの様子を見に行かないと。
「え? それってどういうこと?」
っつ! あからさまにシマッタという表情のロボ子。 どうやって誤魔化そうかと思案しているのが、祐巳には手にとるようにわかった。
ここでこそ薔薇さまの威厳を引っ張り出して、じっとロボ子を見つめる祐巳。 誤魔化されないよ。
好意を持っている相手から至近距離でじんわりと見つめられ。 更に先ほどのプロポーズまで思い出してしまって。 ロボ子はそちらに心が流されないよう、話を続けるために結局祐巳の視線に屈した。
「……先ほど、瞳子さんは結局頭を下げませんでした」
「うん、可南子ちゃんが頭を抑えたんだよね」
「そうではなく、可南子さんの手は瞳子さんの首を決めていましたから。 可南子さんは決して瞳子さんが謝らない事を知っていて、瞳子さんの意識を失わせて形だけでも頭を下げさせる事を選んだのです。 あの場には瞳子さんに批判的なお姉さま方も随分いましたし」 瞬間的にそこまで判断して実行に移せるあたり、さすが可南子さんです。 伊達に ”風に向かって立つ孤高の獅子" と呼ばれてはいませんね。
「そうして意識を失わせた瞳子さんの肩を抱いて、あの場を去ったのです。 おそらく保健室に寝かせに行ったのでしょう」
「じゃあ、なおさらやっぱりお見舞いに行かないと」 私のせいで気を失っちゃったなんて。
おろおろと腰を浮かせる祐巳の肘を掴みなおして、その場にとどめるロボ子。
「落ち着いてください。 あいては可南子さんですから、加減は間違われたはずがありません。 それに」 慌ててお見舞いに行って、目覚めた瞳子さんがなんと言うと思いますか? あの人はきっと 『大きなお世話です。ぷい』 って言いますよ? それはそれで可愛らしいでしょうが、その様子が瞳子さんのことを良く知らない人たちに流布すれば、また ”生意気な娘” ”祐巳さまの好意を蔑ろにするする娘” と言われてしまいます。 そうしたら、また瞳子さんが素直になるときが遠ざかってしまいます。
切々と祐巳を説得するロボ子。
いまは積極的に押すよりも、少し引かなくては。 瞳子の心がはなれたり、周囲の敵意が増さないようにするのが大事なんです。
「……そんなに。 瞳子ちゃんは皆から嫌われているの?」
「そういうわけでは有りませんが」
「どうしてロボ子ちゃんは、瞳子ちゃんにそんなに好意的なの?」
「長い付き合いですから」
私も瞳子さんも幼稚舎以来の付き合いです。 別に親友とかではありませんが。 これだけ長い時間学び舎をともにしていれば、あの子の人となりはおおよそ把握できます。
逆に、瞳子さんに批判的なのは編入組みで付き合いの長くない人たちです。 瞳子さんは仮面を被るのが上手ですから。 特に高等部編入組みは、ほとんどが誤解しているようです。
「だから気風が良くて姉御肌なわりに、恥かしがり屋で一途でへそ曲がりな瞳子さんが、祐巳さまに夢中になったときから。 幼稚舎以来の付き合いの私たちは彼女の味方なんです」
もちろんそれとは別に、私も祐巳さまのことが好きですけどね。
「す、すごく良く解ってるんだね」
「で、よく解ってる私から助言しますとですね。 今は押すときでは有りません。 あれで多分今、瞳子さんは弱気な状態です。 だから押すと逃げ出します。 こういう時は、もう関心が他に移っちゃったー、ってな素振りで引いてやると、そのうち強気モードで齧り付いてきますから。 そこをゲットすべきです」
「なんか、釣りみたい」
「そうです。 瞳子さんを引っ掛けるのは、将に釣りです。 忍耐強く、針を深く飲み込むまで、押して引いて誘うのです」
「押さば引け、引かば押せ?」
「そう、そのとおりです」
なんだか、瞳子陥落講習会の様相を呈してきたところで、祐巳は腕組みをしてふむむと唸った。
あれをこうしてそうすると?
「じゃあ、やっぱりロボ子ちゃんが私の妹になってよ」
「何でそうなるんですかーー!!」 この狸娘は!!
さっきまでの親愛をかなぐり捨ててロボ子は吼えそうになった。
「だって、ロボ子ちゃんの心は笑子さまのものなんでしょう?」 最近、行事とかでアシスタントのなり手がいなくって困ってたし。 瞳子ちゃんが嫉妬して、向うから食いついてくれるかもしれないし。 ロボ子ちゃんは私たちの仲を取り持つ気で一杯だし。
ほらね、丁度いいでしょう? とにっこり微笑む祐巳。
「いやでもあのその」 私は議長なんですが。 仲間から吊るされてしまうし。 瞳子さんが本気になると怖いし。 笑子さまが聞きつけたら別の意味で怖い事になりそうだし。 「あうあう」
「ね?」 にっこり微笑んで、続ける祐巳。 あ、じゃあロボ子ちゃんって呼ぶのは変だよね。 お名前を教えてくれる?
と、全開の笑顔。
ロボ子は自分の理性がとろとろと溶け落ちていく音を心の中で聞きながら、小さく恥かしげに答えていた。
「……はい、お姉さま。 私の事は……」
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v0.1:ROM猫さまの指摘の改行忘れを挿入。 一部の漢字をほどく。
v0.2:吹き出し括弧の位置を若干修正。