放課後の、薔薇の館にただ一人。
紅薔薇さまこと小笠原祥子は、誰もいない会議室の中、口元に小さな笑みを浮かべて、オレンジ色に染まる暮れかかった窓の外を見つめていた。
カップから立ち昇る、淹れたての紅茶の香りが、祥子の鼻腔を微かにくすぐる。
今日は珍しく仕事が無かったため、全員を早く帰らせたのだが、たまたま個人的な用事もなかったので、適当に時間を潰すため、ここに来た次第。
普段の結構騒がしい雰囲気も良いが、今のように静かなのもまた趣があるものだと思いながら、ゆっくりと時間が過ぎてゆく。
祥子の耳に届いた、小さな音。
薔薇の館の扉が開く音に続いて、階段を上がる足音が響く。
ノックも無しに開くビスケット扉から顔を覗かせたのは、山百合会の助っ人だった細川可南子。
「あ…」
「ごきげんよう、可南子ちゃん」
「ご、ごきげんよう、紅薔薇さま」
若干の動揺を表に出しつつ、祥子と挨拶を交わす可南子。
「珍しいわね。何か御用?」
「あ、いえ。昼休みにお邪魔していましたのですが、皆さん帰られたというので、窓を閉め忘れていないか確認に…」
「そう…」
「では、私はこれで…」
「お待ちなさい」
そそくさと帰ろうとする可南子を、凛とした声音で呼び止める。
この声で呼ばれると、大抵の生徒は立ち止まってしまう。
それは、可南子も例外ではなかった。
足を止めて振り向けば、祥子はその声音とは裏腹に、穏やかな微笑を浮かべていた。
「もし急ぎの用がないのなら、もう少しゆっくりして行きなさいな」
本音を言えば、あまり祥子と一緒にはいたくない可南子だが、断って下手に溝を深めるのも得策ではない。
「お座りなさい。お茶を淹れるわ」
「あ、いえ。紅薔薇さまにそんなことさせるわけには…」
「いいのよ。山百合会関係者でも、滅多に飲めなくてよ?」
冗談めかしてシンクの前に立つ祥子の背中を見ながら、仕方なく一番下座に腰を下ろした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
実際のところ、祥子手ずから淹れたお茶を飲むのは、初めての可南子。
流石と言うかなんと言うか、香りも色合いも完璧だった。
お互い口にする言葉もなく、しばし無言で時間が過ぎる。
時折警戒心を露にしながら可南子は、祥子をちらちらと伺っていた。
「少しは落ち着きなさいな」
余裕すら感じさせるその言葉に、
(誰のせいだと思っているのよ)
と、もう少しで悪態をついてしまうところだった。
テーブルに肘を突き、手の甲に顎を乗せてこちらを見る祥子に対し、あからさまに敵意を見せるも、まるで通用していないようだ。
「あなたとは、一度じっくりと話してみたいと思っていたの」
「………」
無言で、祥子の顔を見やる可南子。
「私、祐巳が好きよ」
いきなり何を言い出すのか。
「これに関しては、誰にも負けないと思っているわ。もちろん、可南子ちゃんにもね」
「私だって!」
「ええ、分かってるわ」
「え?」
「私が祐巳を好ということに関しては、誰にも負けない。でも、同じように可南子ちゃんも祐巳を好きということに関しては、私にも負けない…そうでしょう?」
それは、誰にも言ったことがない確信。
「あなたには、私に対して蟠りのようなものがあるし、私にも、あなたに対して蟠りがあるの。でもね…」
優雅に立ち上がり、音も無く滑るように可南子の脇に立った祥子は、彼女の肩に手を置きながら、
「私たちには、祐巳が好きという、誰にも負けない思いがある。その点で、お互い歩み寄れるのではないのかしら?」
思ってもみなかった言葉に、呆然とした可南子。
「祐巳には未だ妹がいない状態。あなたが紅薔薇のつぼみの妹候補って言われていた時は、正直面白くなかったけど、でも、同時にとても嬉しかったのよ。終にあの子にも妹が出来るんだって」
黙ったまま、祥子の言葉に聞き入る可南子。
「あなたは私にとって、いわゆる孫になるかもしれなかった子。祐巳が選んだ子なら、私はきっと可愛がってあげられるわ。いえ、例え選ばなかった子であっても、祐巳が信用したあなたなら…」
「紅薔薇さま…」
肩に乗った祥子の手から感じる、優しさを含んだぬくもり。
可南子は、自然に呼び起こされた感情の赴くまま微笑を浮かべると、祥子の手に、自分の手を重ねた。
今日が無ければ、決して心のうちを吐露できなかったであろう、語り合う二人の横顔を、沈み行く夕日が、穏やかに照らしていた。