別に意味は無い。ただ「何となく」したかっただけだ。
あまりに能天気に祥子と歩くあの子を見てたら、つい昔の出来心が働いてしまっただけなのだ。
何となく
「ではお姉さま、また明日」
「ええ、それじゃ。気をつけるのよ」
「はい」
お姉さまの後姿が見えなくなるまで見送ったあと、いつもの通りバスに乗り込む。
いつも通り一番後ろから二番目の、特に理由は無いが気に入ってる席に腰をかける。バスの揺れが体の疲れを一気に呼び起こす。こうして今日も一日が終わるのだ。
だが、今日はなんだか可笑しい。何が可笑しいのかは分からないけど、とにかく可笑しいのだ。あるはずの無いものがあるっていうか。そんな事を考えていたら、また疲れが押し寄せてきた。
でもそれも、家が近づくにつれ何なのか分かってきた。最初は恐怖に近いものもあったが、分かってしまえばどーって事なかった。なんか一生懸命やってるから気づかないフリをしてあげることにした。
それからやっとの事で家に着き、我が家の敷地に足を片足踏み入れた所でようやく奴は動き出した。
「捕まえた!」
そう言うと祐巳の背後から抱きつく抱き付き魔が一人。
「放して下さい、聖様」
「ありゃ?ばれちゃってた?」
まいったなぁって。全くこの人は、大学に入っても何にも変わってない。いや、家まで着いてくるところからして、度が増してるんじゃないだろうか。
「バレバレです。家まで来て何か用ですか?」
「うんうん、別に」
「じゃあ何で着いて来たんですか?」
「何となく」
即答。そうだった、これが佐藤 聖という人間だった。
「はぁ、、じゃ、せっかくだから上がっていきます?」
これ以上こんなとこで尋問してもしょうがないし、理由はどうあれせっかく来たのだからとりあえず誘ってみた。
「うん!そうする!」
これまた即答。無邪気にはしゃぐ聖様を見てると、もうどうでもいいやって気になってしまう。祐巳自信、久しぶりに会えてちょっと嬉しいから。
というわけで、福沢家へストーカーさん御一人ご招待となった。
「ただいま」
「お邪魔します」
「おかえり祐巳ちゃん。あら?年上のお友達?いらっしゃい。」
「うん、まぁちょっとね」
「初めまして、佐藤 聖と申します」
すっかり優等生モードで挨拶する聖様。全く、さっきまでストーカーだったくせに身代わりの早いこと。
「佐藤 聖さん、、っていうと、貴方が白薔薇様?」
「はい、以前はそう呼ばれてました」
「あらあらどうしましょう!我が家に薔薇様が!とりあえずお入りになって」
お母さんったら、元薔薇様と知ったら急にあたふたしちゃって。そういえば、うちのお母さんも元リリアンで熱狂的な薔薇様信者の一人だったんだっけ。
「わぁ!ここが祐巳ちゃんの部屋かぁ!結構広いんだねぇ」
祐巳の部屋に入るなりはしゃぎだす聖さま。ベットにうつ伏せに寝転がって足をバタバタ。お母さん、これが奴の本性ですよ。
「ねぇ祐巳ちゃん。何かしようよ」
「はぁ、何かですか。でもこれと言って家には何にも無いですよ?」
「えぇ〜。じゃ、しょうがない。祐巳ちゃんでも襲っちゃおうかなぁ」
そう言うとすくっと立ち上がり、祐巳との間合いをじりじり縮めてきた。
「やめて下さい」
本気で襲う気などない事は分かってるけど、とりあえず嫌がっておいた。まったく、この人は凝りもせずまだこんな事を。でもこんなやり取りも今となっては随分懐かしいな。最近では祐巳が一年生を襲いつつあるのだから。
「おっ、逃げるかぁ?ふふふ、でも私からは誰も逃げられないのよ」
そういうと一気に間合いを詰めてきた。聖さまに今まさに捕まろうかという時に、トントンとノックの音が。その音に反応しすぐさま手を下ろす聖様。
「祐巳ちゃ〜ん、入るわよ」
助かったお母さん。もう少しで大事な娘がストーカーに襲われる所だったんだよ。
「ジュースとお菓子ここにおいて置くからね。ごゆっくりどうぞ」
「お世話様です」
勿論、またもやすっかり優等生モードでお出迎えする聖さまだった。今回はギリギリセーフといったところか。
「そっか、何にも無いのかぁ。じゃあお話しでもしましょうか」
そして何事も無かったように、数分前にまき戻して時間をくっつけちゃうんだからこの人は。
「話って何を?」
「分かんない。聞きたい事とかないの?」
「聞きたい事ですか。あの、別に聖様に関係ない事でもいいのでしょうか?」
「う〜ん、まぁこの際いいだろう。可愛い祐巳ちゃんのためだ。で、何?」
「黄薔薇さま。いえ、江利子様はどうやって令様を妹にしたのかなぁって」
これは前々から誰かに聞きたかった事だった。でも祥子様に聞いても詳しくは知らず、由乃さんにはこのネタは危険地帯だったりと、結局今まで知らず仕舞いだった。で、思い立ったが吉日。聖さまなら知ってるだろうと聞いてみた。でもやっぱりこういう事は本人に聞かなきゃまずかったかな。と思いなおしても時すでに遅し。
「変わった事聞くのねぇ。でもまぁ話のネタにしちゃあ良い所ついてるから教えてあげる」
そんな祐巳の心情を察してか、理由は問い詰めずすんなり許可してくれた。でも良い所ついてるって?聖様はすっかり「そうだったそうだった」って一人で思い出し笑いしてるし。
「お姉さま!こっちです!こっち!」
「はいはい分かったから」
剣道部の練習を影から覗く生徒が二人。
「で?どの子なの?」
「ほら!あの一人だけ背の高い子」
「ああ、、たしかにこいつは稀に見る掘り出し物だわね」
一人の生徒をこうして練習中ずっと眺めていた。わざと中から見える位置をキープしているのは、同じ剣道部の子が、彼女を妹に出来ないように圧力をかけるため。なんせ彼女達は、学園では特別な存在だから。
放課後、江利子はお姉さまのいる教室へと足を運んだ。
「お姉さまはみえますか?あっ、いたいた」
「ちょっと江利子ちゃん?またなの?」
「当たり前です。私は彼女の事を良く知らないし、こうしてる間にも他の人が妹にしちゃうかもしれないじゃないですか!さっ、早く!」
「だからって何で私も連れてくわけよ?たまには薔薇の館でゆっくりお茶でもしたいわ」
「あらやだ。じゃ可愛い妹一人で観察しろっていうの?」
「それを言われちゃついてかざるを得ないじゃない。まったく、この子には敵わないわね」
江利子は毎日こうして剣道部の練習を見学するのが日課になっていた。そのためにはお姉さまだろうと振り回すのだ。
「よし、今日妹にする事にするわ」
剣道部の見学を始めて一週間経っただろうか。最初は一緒に楽しんでいたお姉さまもいい加減飽きてしまったようだし、いつまでもこうしてはいられない。だから彼女の事も自分なりに分かってきたつもりだし、ついに決心したのである。
「でもまだ妹になるとは決まったわけじゃないのよ?…って、江利子に言っても無駄か」
「そういう事ですお姉さま」
実際、江利子はまだあの背の高い一年生、支倉 令とはまだ一度も直接話した事すらなかったのだが、江利子に断られるという考えは全くなかった。
「じゃ、私は薔薇の館で待ってるから。いい?彼女を連れてきて今日皆に発表すること」
「勿論そのつもりですわ」
去り行くお姉さまを見送り、江利子もゆっくりと腰を上げた。ちょうど剣道部の練習も終わったようだ。
「ごきげんよう。ちょっといいかしら?」
「ご、ごきげんよう…何でしょう」
「こっちへ来て」
部活帰りの彼女を引きとめ、人目のつかない所へと呼び出した。
「あの…ご用件は?」
「分かっているでしょう」
彼女は恐る恐る聞いてきた。でも江利子が毎日部活を見学してるのを知ってるだろうし、何より学校中の噂なのだからなんで呼び出されたかは気づいているだろう。
「どうして私なんですか?」
「そうね、“何となく”かしら」
「“何となく”、ですか…」
「ええ、そうよ。一年生の中で、一人だけ背の高い貴方が“何となく”気になったから」
「でも私達は今日まで話した事無かったですし、貴方は本当のあたしを知らない」
「貴方は私がお嫌いかしら?それともすでにお姉さまにしたい方などがいて?」
「いえ、そういうわけじゃ…」
「じゃ問題無いじゃない。私の妹になりなさい」
そう言うと、江利子は胸ポケットからロザリオを取り出し、彼女の前で掲げた。
「でも…私にそれは受け取れません。きっと後悔します」
やはりそう簡単には妹には出来ないか。でもこれも想定の範囲内。
「何でそう思うわけ?」
「私はきっと貴方の思ってるような人間じゃないからです…本当はただの弱い、臆病な人間なんです」
彼女は江利子の目を真っ直ぐ見つめ返事をした。決してこの場を逃れようと適当な言い訳をしているわけではないようだ。だから江利子も相手に本心をぶつけた。
「見くびらないでちょうだい。私はここ一週間ちゃんと貴方を見てきたわ。強い面も弱い面も知ってるつもりよ。仮に、もし私の思っていたような子じゃなかったとしても、それは私が勝手に勘違いしただけであって、貴方に責任は無いのよ。だから貴方は下らない事は気にしないで、ただ私について来たらいいし、私に至らない点があったら遠慮無く姉妹の契りを解消してよくってよ。分かった?」
そう言うと江利子はもう一度ロザリオを掲げた。彼女の目を真っ直ぐ見つめ。
「…はい。宜しく、お願いします」
「よろしい」
彼女は一度目を見開いた後、今までに無い落ち着いた顔を見せ、しばらくの沈黙のあと今度はロザリオを受け入れてくれた。江利子が彼女を本気で妹にしたいという気持ちが伝わったのだろう。思いのほか早い判断に少し驚いたけれど。
でもそんな事はどうでもいい。彼女は妹になる事を認めてくれたのだ。最高に嬉しい事じゃないか。
ひょろりと背の高い彼女に、背伸びして首にロザリオをかけてあげる。彼女は瞳を輝かせ、しばらく首にかかったロザリオに見入っていた。
「じゃ、いらっしゃいな」
江利子は彼女の手を取り歩き出した。
「ど、どちらへ?」
「薔薇の館。貴方に会いたいって人がいるから早速見せびらかしに行くのよ」
「見せびらかすって…ふふ」
彼女が始めて私の前で笑ってくれた。こんな顔も出来るのかと、江利子はつい見入ってしまった。
こんな可愛い子、そう簡単に飽きるわけないじゃない。
江利子はこの子のことをもっと知りたくてたまらなくなった。
「とまぁこんな感じね。江利子らしい口説き方よねぇ。でもその後の江利子ってきたら」
そう言うとまた笑い出す聖様。話によるとその後薔薇の館で、江利子様は令様をいじり倒したり、蓉子様や聖様に自慢したりとこれまでに無いはしゃぎっぷりを見せ、蓉子様でも歯が立たなかった薔薇様でさえも手に負えなかったという。
たしかに凄く江利子様らしいなって思う。自分の欲しいものはスッポンが如く食いつき、結果ちゃんと手にするのだ。祐巳は今まで何度も江利子さまのように積極的になれたらって思ってきた。
「あっ、もうこんな時間か。そろそろ帰ろうかな」
その後も聖様と昔話に花が咲き、小一時間話し込んだだろうか、時間はすっかり晩御飯時となっていた。祐巳にとって、そしてきっと聖様にとってもとても有意義な時間となった。
「ではバス停まで送りますよ」
「いいよ別に。って言いたい所だけど、生憎バス停までの道が分からないからお願いしよっかな」
外はもう夜に包まれていた。たしかにストーカー行為に夢中になってついてきた聖様には分からないだろう。
玄関のドアを開くと、そこには祐麒がいた。
「おっ、祐巳。どっか行くのか?」
「ちょっと聖様を送りにね」
「聖様?って!!」
「おーっす祐麒!元気してたか?」
「え、まぁボチボチです。ってかなんで聖さんが家に?」
「カワイイ祐巳ちゃんに引き付けられてね。じゃね」
祐麒はしばらく、呆然と去り行く裕巳達を見送ってから、家に入っていった。
夜風が気持ちいい。横切る家々からは晩御飯のいい匂いが立ち込める。
「今日は良かったな。何となく祐巳ちゃんのあとをついてきて」
「もう、だからってストーカーみたいなマネしなくてもいいじゃないですか」
「だって祥子がいたし、祐巳ちゃん見てたら何だか悪戯したくなったんだもん」
「もう、聖様ったら」
いつもはちょっと遠くてウンザリするバス停までの道のりも、聖様と話しながらだとすぐついてしまった。バスが来るまで、今度は大学での話や、最近の山百合会の話などで盛り上がった。
「おっ、残念。バスが来た」
楽しい時間もどうやら終わりのようである。
「またいらして下さいよ」
「そうだね、今度は蓉子や江利子も連れてこようか」
「はい、是非とも!」
バスのドアが開く。
「じゃね!祐巳ちゃん!」
「はい。またお会いしましょう」
「そだね」
バスのドアが締まり、ゆっくり発進する。祐巳はバスが見えなくなるまで見送った。
帰り道、聖様の話を思い出す。
江利子様は、きっかけは何となく令様を妹にした。そして今日、聖様は何となく福沢家へやってきた。
「何となく、か」
一見いい加減な言葉だけど、時には素敵な出会いを生み出す事もある不思議な言葉。
祐巳は“何となく”お姉さまに電話したくなった。