【1261】 だから私は笑顔をみせたくて  (沙貴 2006-03-16 00:01:31)


 かわら版・号外を発端としてリリアン女学園に一陣の旋風が巻き起こり、瞬く間にリリアン高等部全域を巻き込んだ。
 右を向いても左を向いても、聞こえてくるのはその号外の内容に関する噂話や黄色い歓声ばかり。
 細川可南子の在籍する椿組も勿論その例に漏れず、休み時間になる度にクラスは煩いくらいの喧騒に包まれた。
 淑女の卵であるリリアン女学生一年生をして姦しくさせているのは一つの単語。
 身近なようなそうでないような、けれど酷く魅力的な言葉――”茶話会”。
 ゴシップに最も耳聡い一年生が、それに飛びつかない筈はなかった。
 
 薔薇のつぼみ二人が参加するというだけで、何の変哲もない茶話会が一般生徒には途方もなく雅なイベントに思えてしまう。
 元々そして現在も一般生徒側に立つ可南子にはそのことが良く理解できた。
 リリアンフィルターというか、恋に恋する下級生フィルターというか。
 そんな少々歪な色眼鏡を掛けたリリアン女学生に取って、薔薇の館や薔薇のお姉さま方、そしてそのつぼみといった言葉は絶大な影響力を持つのだ。
 可南子も過去その色眼鏡に振り回された一人であるし、祥子さまと祐巳さまによって強引に取り払われなければ取り返しのつかなくなるところだった。
 本当に危ういところで、しかもそれで全く誰にも迷惑を掛けなかった、という訳ではないけれど。
 
 でもそのおかげで物理的な距離こそ離れたとは言え、精神的な距離ではぐっと近づくことが出来た。
 祐巳さまとも、祥子さまとも。
 それが無ければ学園祭の件で父と和解することは出来なかっただろうし、夕子先輩の幻影から逃げることも出来なかっただろう。
 だから可南子は傷ついたし、祐巳さまを傷つけたし、祥子さまに心労を煩わせたかも知れなかったけれど、あのイベントは必要だった。
 必要だったのだと思う。可南子、いや、可南子”達”には。
 
 それらはけれど、秘密裏の行動であり会話だった。
 祐巳さまを可南子が尾行していたことを知っているのは、極一部の二年生と祥子さまだけ。
 薔薇の館や温室での出来事は、それこそ密かな傍観者でもいない限り誰にも知られてはいない筈だ。
 だからパブリックイメージとして、可南子は未だに祐巳さま信奉者の第一人者としてある。
 それを今更否定すると一気に印象が反転して、細川可南子と紅薔薇のつぼみ不仲説などが流れかねないので否定しないが――。
 
 
「茶話会、可南子さんは参加なさるのよね?」
 と、クラスメイトや非クラスメイトから何度も問われ続けるのには閉口する。
 放課後、だらだらと掃除が始まりかけている空白の時間でぼうと天井を見上げる可南子の机まで、また一人がやってきた。
 これでめでたく十人目だ。
 
「いいえ、私は参加しないわ」
 軽く首を振って否定するのも慣れたもの。
 まぁ、なんて口元に手を当てる相手の仕草も、校則にでも載っているのだろうかと思うくらい見飽きてしまった。
「どうして? 折角紅薔薇のつぼみも参加されるのに」
 そして引き合いに出されるのは勿論祐巳さま。可南子の心がしくりと痛む。
「私達にとって茶話会はお姉さまを見つける場所でしょう? 今は部活に入ったばかりで忙しいから――」
「ああ、そういえば以前から”祐巳さまの妹になる気はない”って仰っていたかしら」
 可南子の台詞を遮って、彼女は勝手に納得した。
 しかも可南子は部活を持ち出したのに、彼女の焦点は祐巳さまから外れていない。
 腹立つ前にぞっとした。
 
「ごめんなさい、可南子さん。お邪魔したわね」
 そして常套句の「ごきげんよう」を残して去っていく彼女。
 そのままクラスの後方に移動して、待ち構えていた数人のグループに飲み込まれた。
 可南子の口からはぁと重い息が自然と漏れる。
 
 細川可南子は茶話会に参加してさも当然と。
 福沢祐巳さまの妹候補として茶話会に参加するのが自然だと。
 他者の理想を押し付けられる苦痛に可南子は喘いでいた。
 思いも行動の理由も本人にはしっかりとあるのに、それを無視して未来を示唆されることがこんなにも辛いとは思わなかった。
 とことん、とことん祐巳さまには申し訳がない。
 
 けれどこれでもまだまだマシな方なのだと思うと、別の箇所で胸が痛い。
 可南子は祐巳さま信奉者だったとはいえ、姉妹に関しては一貫して「祐巳さまの妹にはならない」としてきた。
 だから茶話会に参加しないと返答したところで違和感はないし、相手もすぐに引き下がってくれる。
 でも。
 もう一人、一年椿組には可南子と同じような境遇の者がいる。
 松平瞳子さん。
 可南子とは全く別の理由から、茶話会に参加して然りと認識されている不遇の人だ。
 
 ついと視線を飛ばして瞳子さんを探すと、今日は掃除当番だったのだろう、用具ロッカー付近で何か探し物をしている彼女を見つけた。
 縦ロールを苛立たしげに揺らしながら、ロッカーを開けたり閉めたりしている。
 その小さな背中一杯から”不快”のオーラを発散し、授業の合間にあった出来事を主張していた。
 何気なく、可南子は鞄を持って立ち上がる。
 そしてかわら版を片手にきゃいきゃいとはしゃぐクラスメイトを掻き分けて、用具ロッカーの元へ向かった。
 
 
「瞳子さん」
 ばたん。
 可南子が声を掛けるのと殆ど同時に、瞳子さんは開いていたロッカーをけたたましく閉じた。
 顔を半分だけ後ろに向けた瞳子さんの右目が眉間に突き刺さり、可南子は半歩退きかけた自分を堪える。
 あの夜以降、そして昨今になってより一層。
 瞳子さんは凍りついていた。
 
「何かしら」
 言って、ホウキを右手に持った瞳子さんはくるりと体で振り返る。
 ゆったりとした回転の仕草はリリアン生らしく優雅、流石は生粋のお嬢様。
 だけど叩きつけてくる敵意と手に持った”得物”の所為で、それはまるで剣士のよう。
 可南子の上背が僅かに身じろいだ。
「用はないの?」
 瞳子さんは片眉を吊り上げて言い捨てる。
 元々ジェスチャーを多用していた瞳子さんは、最近余り動かなくなった。
 微かな表情の変化と口調に感情を(特に負の感情を)乗せることに終始して、いつもどこか冷ややかにいる。
「ないと言えば、ないわね。何をしているのか少し気になっただけだから」
 可南子が気圧されないように胸を張って言うと、瞳子さんはちらと背後のロッカーに視線をやって、「あら、お騒がせしたかしら」と慇懃に笑った。
 胸にじわりと染み出す不快感を抑え、可南子はじっとその横顔を見る。
 整った眉、大きな目、高い鼻に広い口。
 高い品性の遺伝子を引き継いでいるのだなと一目で判る顔の作りだ。雰囲気が祥子さまと似ている。
 だから高圧的な態度が似合うし、不機嫌さを醸せば誰であれ一歩退いてしまうだろう。
 
 退いてはならない。何故だか直感した。
「いいえ、それは良いわ。それより――」
 お互い大変ね。
 言おうとした危険な語句を、可南子は寸前で撃墜することに何とか成功する。
 それをこの場で言うことで可南子や瞳子さんに群がる不快な輩を牽制することは出来るだろうけど、それだけだ。
 可南子が瞳子さんに言いたいことはそれではない、そこで会話が止まると拙い。
「乃梨子さんの様子がおかしいようなのだけれど、何かご存じない?」
「乃梨子さん?」
 言いながら可南子が顔を後方にやった。瞳子さんは脇から覗かせるようにひょいと顔を傾ける。
 窓をぼーっと見つめながら、機械的にホウキをただ動かしている乃梨子さんがそこにいた。
 
 ずっと同じ箇所を掃いている所為で、乃梨子さんの足元にはチリ一つ無い。
 でも逆に、何も考えずに掃いている所為で、乃梨子さんを中心とした同心円状にチリが四散していた。
 面倒な作業にしろ気楽な仕事にしろ、効率的にテキパキと終わらせることを信条としているような乃梨子さんにしては珍しい。
 傍目からも判りやすい、”心ここにあらず”の図だ。
「何か考え事でもあるんじゃないですの?」
 けれど、可南子の正面から上がったのはそんな声だった。
 驚いて前に向き直ると、さも下らない、と言わんばかりに眉を寄せた瞳子さんが肩を竦める。
「私は乃梨子さんの保護者じゃありませんもの、乃梨子さんの悩み事までは知りませんわ。相談されたのならまだしも」
 目を丸くした可南子に畳み掛けるようにして、瞳子さんは言った。
「もう宜しいかしら? 私は部活があるの、あまり暇じゃないのよ」
 そして返事も待たず、どんと(多分わざと)肩をぶつけて瞳子さんは行く。
 それを見送る可南子は呆然としてしまって、呼び止めるどころか指一本動かすことが出来なかった。

 可南子の知る、瞳子さんにとってのキーパーソンは幾人かいる。
 小笠原祥子さま。
 福沢祐巳さま。でもこの辺りは今回、使えない。
 細川可南子。これも間違いなくキーパーソンだろうけれど、本人が使うにはいけない。
 そして、二条乃梨子さん。
 彼女もまた瞳子さんにとってキーパーソンで、一年椿組ではもっとも親しい友人である筈だ。
 それは同時に、リリアン内で最も親しい友人である、ということでもある。
 
 だというのに、”私は乃梨子さんの保護者じゃありませんもの”と来た。
 まさか本気で言っているとは思えないが、冗談ででもそんなことが口をつくようになっていること自体が問題なのだろう。
 以前の瞳子さんなら絶対にそんなことは言わなかった。
 可南子に指摘などされる前に、乃梨子さんがSOSを出すよりずっと早く、瞳子さんは乃梨子さんに絡んでいる。絡んできた。
 でも今はそうでない。
 乃梨子さんの変調に気づかず、心にもない言葉を口にする。
 
「どうしたの、乃梨子さん」
 
 瞳子さんの声を背中で聞きながら、可南子は真剣に”これは拙い”と感じ始めていた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 茶話会前日の放課後、可南子は部活前に寄ったミルクホールで偶然にも乃梨子さんと出くわした。
 「やぁ」と手を上げた乃梨子さんの表情には疲労の色が濃い。
 大きなイベント寸前と言うことで、山百合会幹部としては雑務に追われているのだろう。
 瞳子さんは、不参加が数日前くらいから椿組のみならず決定的に知れ渡り、風当たりも随分と落ち着いてきた。
 とはいえ、だからと言って乃梨子さんの疲労が全て山百合会の雑務だけだと思うのは――早計。
 半分、いや、それ以上はやっぱり瞳子さんのことだろう。
 
「ごきげんよう。お疲れのようね」
 買ったアツアツの缶紅茶を弄びながら乃梨子さんの正面に座った。
 間近で見ると尚更に、表情や雰囲気から発せられる乃梨子さんの疲弊と苦悩が感じられる。
 いつもクールな乃梨子さんをして他者にそれを感じ取らせてしまうのだから、彼女も相当に参っていると見えた。
「お疲れよー。もう、我侭なお姉さま方を持つと大変なんだから」
 乃梨子さんは飲み終わっていたコーヒーの空き缶を器用に避けつつ、ぐたっと机に半身を倒して愚痴を吐く。
 短いけれどさらさらの黒髪が卓上に散った。
 ぷしっと音を立てて可南子の缶紅茶が口を開く。
「明日で終わりじゃない。今が正念場よ」
 そう労って紅茶を口に含むと、火傷しそうに熱いレモンティが舌に乗った。
 ふっと、薔薇の館で飲んだ紅茶を思い出す。そう遠い過去ではないのに、とても懐かしかった。
 
 ゆっくり顔を上げた乃梨子さんは苦笑い。
 無言で「明日が終わってもね」と告げているような気がした。
 可南子ははぁと息を吐いて、言った。
「瞳子さんは、どう」
 
 直球。
 何の捻りもない一言に、乃梨子さんの表情から笑みが消える。
 睨みあうようにして視線がぶつかること数秒、乃梨子さんは軽く首を縦に振った。
「最近は落ち着いてきた、と思うよ。環境も変わったしね」
 そう、と可南子が紅茶をテーブルに置きながら相槌を打つと、乃梨子さんは続ける。
「少し前までは本当酷かったから……周りも瞳子も。でもどうしたの? 可南子さんから瞳子の話題を振るなんて珍しいじゃない」
「そうね。自分でもどうかと思うわ」
 可南子はそう言って薄く笑った。本当に、どうかしている。
 でも。
「ただ、最近の瞳子さんを見ていると良い気分でないの。気に食わないからって気にならない訳じゃないから」
「き、気に食わないの?」
「何を今更」
 眉を寄せて可南子は不機嫌さをアピールした。
 それ自体は本意でない、ということを主張することは大事だと思ったから。
 
 
 可南子は瞳子さんが好きな訳ではない。「好き・嫌い・わからない」の三択なら嫌いに丸をつける。
 何というか、性根の部分が合わないのだ。
 薔薇の館で作業をする中で、あるいは半年を越えるクラスメイト生活の中で、可南子はそれを痛切に感じている。
 可南子の方に問題は確かにあるけど、瞳子さんの方にも問題はある。
 だから可南子は瞳子さんが嫌い。そして同時に、瞳子さんも可南子が嫌い。
 
 でもだから何だというのだ?
 嫌いな人間は全員不幸になれば良い、なんて思いはしない。
 殺したいほど憎い相手はまぁ、不幸になれば良いと思うけれど。
 どうでも良い人、嫌いな人に関して別に不幸になることを願うほど可南子は暇ではない。
 それに昨今の可南子は、夕子先輩という別格を除いた「殺したいほど憎い人」「どうでも良い人」というカテゴライズにもう一つの項目を追加しても良いかな、と思っているのだ。
 「友達」。
 筆頭は祐巳さまだ。クラスメイトやクラブメイトにも何人か、入れたい人がいる。
 乃梨子さんも。
 そして、殺したい程憎くはないけどどうでも良くもない、という消去法的理由から瞳子さんも。
 嫌いだけれど、嫌いなままでも「友達」のカテゴリに入れたいと、思っている。
 
 
 だから、理由はどうあれ不本意でも。
「でも、早く元の瞳子さんに戻って欲しいと思っているのは本当よ。きっと乃梨子さんに同じくらいに」
 缶紅茶をまた少し、口に含んだ。
 飲みなれた大衆茶の、ほのかな甘みが口の中に広がる。無意識にため息が落ちた。
「そんなに?」
「”そんなに”? ふふ、乃梨子さんは一体どれだけ瞳子さんのことを思っているのかしらね」
 珍しい失言を突っつくと、乃梨子さんは顔を真っ赤にして(これも珍しい)首をぶんぶんと振る。真っ黒なおかっぱが綺麗に舞った。
 それが意外にも可愛らしくて、くすくす笑いながら紅茶をまた飲む。
 けれど視界の端で捕らえた時計は、もう余りのんびり出来ないことを可南子に教えてくれた。
 
「ごめんなさい、そろそろ私は行くわ」
 可南子がそうして立ち上がると、乃梨子さんは真顔に戻って言った。
「待って、可南子さん。今度の土曜日……じゃない、来週の土曜日。剣道部の応援って行くよね?」
 照れ隠しの話題転換にしては随分と味気ないものを振ってきた乃梨子さんに、可南子は一瞬言葉に詰まる。
 来週の土曜日といえばリリアン剣道部の地域交流試合応援。茶話会終了後、初の高等部全体における共同行事に当たる。
 余りにもその指針転換が急角度過ぎて、意識がついていかなかった。
 二秒程、無意味な沈黙が二人の間に降りる。
「ええ。剣道は詳しくないけれど、学校行事だもの。行くわよ」
「瞳子、お願いして良いかな」
 
 即座にそう切り返した乃梨子さんに、可南子は納得した。剣道大会は話題逸らしではなかった訳だ。
「お願い、と言われても。確かに美幸さん達ではお互いに荷が重いとは思うけど――ああ、乃梨子さんは白薔薇さまと一緒なのね」
 乃梨子さんは頷いた。
「本当なら一緒に居てあげたいんだけどちょっと事情があって、私は薔薇さま関係席に居ないと駄目っぽいんだ。別にそれが嫌って訳じゃないんだけど」
「ええ、それは判るわ。白薔薇のつぼみだけ別行動というのも変よね」
 ふむ、と可南子はしばし思考する。
 見上げた天井から視線を下ろして、乃梨子さんと正対した。悩むことなんてなかった。
「良いわよ。引き受けたわ」
 可南子が瞳子さんの傍にいれば、少なくとも茶話会の結果を持って彼女の周りをうろつく輩を追い払うことは出来よう。
 そんな輩が居ないとなればそれで何の問題もないのだが、リリアン女学園高等部は存外に。
 清らかなる乙女の園、では、ない。
 
 聞いて、乃梨子さんがほっと息を吐く。
 そんな友達思いの所作に可南子の胸が優しく温まった。
 心地良い。これだから”友達”は良い。
 本当にそう思う。
 
 飲みかけの缶紅茶を「あげるわ」と乃梨子さんに手渡して、可南子はミルクホールを後にした。
 少しは冷めてしまっていたけれど、でも両手に持つとじんわりと温かみを感じられる缶紅茶。
 あれくらいの温もりがきっと、乃梨子さんからもらった温もりと同じくらいの温度だったに違いない。
 
 
 〜〜〜
 
 リリアンを含めた地域内高校合同で行われる剣道交流試合。
 体育系イベントの少ないリリアンではそれなりに大きな行事だ。
 元々剣道部が強いということもあったけれど、黄薔薇さまである支倉令さまが主将を務めているということもあって、応援に力が入っている一年生も多い。
 でも勿論、力が全く入っていない生徒も少なくない。
 文化部系の子は大概が人込みや喧騒を苦手としているし、運動部とは言え可南子は極最近に始めたばかり。それにそもそも人込みは苦手だ。
 折角の土曜日の午後もふいになるのだから、憂鬱でないといえば嘘になる。
 でも今回ばかりはそうも言っていられなかった、乃梨子さんから託されたものがあるから。
 可南子には、四時間目終業のチャイムがじれったい程に遅く感じられた。
 
 とは、言いつつも。
 実際に四時限目が終了した後、「瞳子さん、一緒に市民体育館に行きましょう」なんて直接声を掛けようものならそれだけでも悪目立ちしてしまう。
 結果的に何らかの噂を呼び込むことにはなろうが、何も率先して煽ることもないだろう。
 だから可南子は、掃除を終えて教室を出た瞳子さんをそっと追いかけた。
 その行為に嫌なことを思い出したことは間違いないけれど、今はそれに眉を寄せている場合ではない。
 胸を静かに抉る自責と共に可南子は瞳子さんを追った。
 
 けれど、それでも十分な効果はあったのか。校門を出るまで瞳子さんに話しかける人は居なかった。
 視線は何度も感じたけれど、逆に、可南子も感じているということは瞳子さんに集中していないということ。
 それだけでも随分楽な筈だ。
 追い込まれている人間はあらゆるストレスが何倍にも重く感じられるから。
 
 
 校門を出る辺りで、一度立ち止まった瞳子さんは天を仰ぐ。
 釣られて可南子も空を見上げた。真っ青に晴れ上がった冬晴れの空を、切れ切れの雲が飛んでいた。
 不意に、その空を一声が過ぎる。
「いつまで尾行するつもりですの」
 ――。
 判っていた、か。だろうとも。
 顔を空から戻すと、いつの間にか振り返っていた瞳子さんがこちらを睨んでいた。
「尾行だなんて。向かう先が一緒なだけよ」
 考えてみれば、その間に走って逃げ出すことも出来ただろうに――立ち止まって。
 逃げ出すような無様な真似は出来ないのか、走るなんてみっともない行為は出来ないのか、それとも?
 何でも良い、と可南子は思った。
 
「ふん、随分とありきたりな言い訳ですわね。それならどうぞお先に。後ろを延々歩かれると気持ちが悪いわ」
 瞳子さんはそう言うと、身体を開いて道を開ける。
 その先、少し離れた場所にはバス停が見える。
 結局は向かう先も同じなので、ここで可南子が前に出たところで立ち位置が逆転するのは僅かな時間だけだ。
 よもやリムジンでも呼んでいて、一人市民体育館に向かうと言う裏技は使わないだろうし。
 多分。
「いいえ、お気になさらず。私はのんびり歩いているだけだもの。人から指図されるのも嫌いよ、放っておいて」
 慎重に言葉を選びながら、可南子は軽く肩を竦めた。
 冷え切った言葉の応酬は、二人の間に吹き抜ける風よりも冷たい。
 瞳子さんは冷ややかに笑った。
 
「ま、確かにそれはそうですわね。私の知る限り、あなたに”協調”なんて高等なことが出来たのは体育祭くらいだもの」
「また懐かしい話を持ち出したわね」
 何だか微笑ましくて、可南子は苦笑する。
「でもそうね。しかもあれは限りない例外よ、二度と同じ事はないでしょうし私もしないわ」
 素直に肯定されるとは予想していなかったのだろう、瞳子さんは睨んでいた目を大きく見開いた。
 何か言おうとして失敗する、と言うことを二度繰り返して、結局悔しそうに俯いてしまう。
 可南子は言った。
「だからね、私は今、あなたの言うことなんて聞かないってことよ。ほら、早く歩きなさい。二人揃って欠席なんて私は嫌よ」
 
 ぐっ、と右の拳を握り締めるのが遠目にも良く判った。
 全身に力が篭って、強張る。今にも爆発しそうだ。
 俯いた表情が見えないことが少しだけ怖かったけれど、ぶるぶる震える縦ロールに何かしらの激情が乗っていることが判って可南子は嬉しくなった。
 さぁ、可南子の嫌いなあの大声を上げて叫べ、喚け、罵倒しろ。
 それでこそ”松平瞳子”だ。
 例えそれが無理矢理に引き出された紛い物でも、それで晴れる心のモヤはきっとある。
 飛んでくるだろう怒声に身構えて可南子が少しだけ気を引き締めた、正にその時。
 
「――して――どうして……っ、あなたも乃梨子さんも。紅薔薇さまも、皆、皆、おせっかいですわ。おせっかいよ。どうしてっ――」
 
 搾り出すような声で。殆ど泣いているように悲愴に。瞳子さんは言った。
 それは可南子の期待した口調でも言葉でも無かったけれど、でも、瞳子さんの本音には違いなかった。
 血を吐くような本音。思い出すのはリリアン学園祭の――
 止めた。
 あの時、可南子は傍に居なかったのだ。何も知らない、聞いていない。
 可南子は力を抜いて大きく息を吐き、一歩だけ、瞳子さんに近寄った。
 言う。
「どうして? さぁね、私には私以外の人の気持ちなんて判らないわ」
 瞳子さんは顔を上げない。
 可南子はもう一歩、踏み出した。
「私はただ、あなたが嫌い」
 瞳子さんは顔を上げない。
 間違いなく、今更言うまでもなく気付いていることだから。
 可南子はもう一歩、踏み出した。
「だから、あなたにおせっかいをする」

 
 瞳子さんは顔を上げた。
 可南子は足を止めた。そして。
 笑った。

 
「嫌っていたいのよ、あなたをずっとね。今更どうでも良いなんて思いたくないの」
 一歩。
 また一歩。
 瞳子さんはぐっと見上げて動かない。
「どうでも良いなんて思えない、かしら。どっちでも良いわ。ただ私はあなたを嫌っていたい」
 目の前にまで可南子は来た。それでも瞳子さんは動かない。
 可南子は微笑んだまま、「それだけよ」と言って締め括った。
 
 十秒はそのまま見合っていただろうか。
 
 瞳子さんはずっと可南子を睨みあげていたけれど、やがて根負けしたのか首が痛くなったのか。
 溜息を吐いて項垂れるように頭を下げた。
 一呼吸を挟み、そのままくるりと回れ右してバス停を眺める。
「遅れてしまいますわ」
 そう言って歩き出した瞳子さんを可南子がぼうと眺めていると、瞳子さんは突然立ち止まった。
 それから顔を半分だけ向けて。
「遅れてしまいますと言っているのに。早く行きますわよ、二人揃って遅刻だなんてみっともないったらありませんわ」
 
 嫌そうに。
 酷く嫌そうに、瞳子はそう言った。
 それは随分久しぶりに聞いた気のする”松平瞳子”の声で、再び歩き出した瞳子さんを可南子は慌てて追いかける。
 隣に並んだ。もう、こそこそを後ろをついていくようなことはしない。
 
「先に立ち止まったのは瞳子さんの方じゃないの。遅れたら瞳子さんの所為に決まってるわ」
「可南子さんがついてこなければそもそも良かったんです。私の所為なんかじゃありません」
「まぁ、何を勝手な。さっきも言ったけれど行く先が一緒なだけよ、何が哀しくて瞳子さんについていかなければならないの」
「そんなヘリクツを言ってなさい……ああ、もう。無意味に足が長いのだから歩幅くらい調整したらどうです。全く気の利かない」
 
 
 軽口を言い合いながらバス停に向かう二人。
 いがみ合いながら笑っていた。
 土曜日の午後、お互いに制服で。
 嫌いあう二人はまるで気心の知れた友達のように、笑っていた。


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