私、島津由乃が黄薔薇さまとして仕事をしている薔薇の館には悪魔がいる。
それは、天使の顔を持つ白き悪魔。
私が薔薇の館に来ると、まだ志摩子さんと祐巳さんの二人しか来てなかった。
他のメンバーは遅れているらしい。
私が鞄を置いて椅子に腰掛けると、二人が会話を始めた。
「祐巳さん。ごめんなさい」
と、会話が始まったと同時に、いきなり志摩子さんが頭を下げた。
「え?」
目を白黒させる祐巳さん。
「一週間前に、祐巳さんが使ってるカップが割れていた事があったでしょう?」
一週間前に、祐巳さんのお気に入りだったカップが床に落ちて割れていた事があった。
カップがひとりでに動くはずが無いので、誰かが勝手に持ち出して割ったのは明白だった。
そして、犯人は今も見つかっていない。
「うん」
「あれね、乃梨子が割ったらしいの」
「ええ!?そうだったの?」
志摩子さんの衝撃の告白に驚く祐巳さん。
「少し前に乃梨子が白状したの。祐巳さんがとても大切にしていたでしょう?
なかなか言い出せなかったらしくて……、乃梨子に悪気は無かったのよ」
「そっか。うん、別にいいよ」
「乃梨子が、ちゃんと祐巳さんに謝りたいって言っていたから。後で謝りに来ると思うわ」
「え?いいって怒ってないし」
「でも、謝るべき所はちゃんと謝らないといけないわ」
志摩子さんはそんなことを言っているけど、私は知っている。
割ったのは志摩子さん。
しかも、私のカップと乃梨子ちゃんのカップも使ってお手玉していたのを私は目の前で見ていた。
今から一週間前の事。
「どう由乃さん、うまいでしょ?」
三つのカップを使って、自慢げに技を披露する志摩子さん。
「し、志摩子さん。落としたらどうするのよ?」
「その時は乃梨子のせいにするわ」
「……」
こ、この黒志摩子さんは……。
「あ!」
がちゃん。
祐巳さんのカップを床に落として割ってしまった時の志摩子さんの表情は凄かった。
冷たく微笑む志摩子さんに『由乃さん、あなたは何も見なかった。いいわね?』と言われた時は、
『私の人生はここで終わった』って、冗談ではなく本気で思った。
それほど、あの時の志摩子さんは怖かった。
しばらく私の夢に出てきた程なんだから。
まぁ、それは置いておいて。
志摩子さんは、きっと乃梨子ちゃんに泣きついたに違いない。
以前、「涙なんて、私は好きな時に幾らでも流せるのよ」と志摩子さん本人が豪語していたし。
そして、上手いこと志摩子さんは乃梨子ちゃんを言い包めたに違いない。
乃梨子ちゃんは、志摩子さんの為ならなんでもするって事を知っているから。
悪魔め……。
悪魔と言えば、祐巳さんの妹の瞳子ちゃんも。
もっとも、こちらは子悪魔といったところ。
志摩子さんに比べれば可愛い。
あれは、三日前の事。
私は祐巳さんと瞳子ちゃんの会話を聞いていた。
「瞳子ちゃん」
「なんですか?」
「紅茶を淹れてくれる?」
「いいですよ」
「やった!瞳子ちゃんの淹れてくれる紅茶はおいしいもんね」
「当然です。なぜなら、お姉さまに対する私の沢山の愛情が詰まっていますから」
「と、瞳子ちゃん……」
感激したように、潤んだ瞳で瞳子ちゃんを見ながら名前を呼んだ祐巳さんに、
「冗談に決まっています。本気にしないで下さい」
瞳子ちゃんは頬を紅く染めながらも、ツンと澄ました表情でそう言った。
「ええ?そ、そんなぁ……」
それを聞いて、この世の終わりみたいな表情をする祐巳さん。
「あ!ち、違います。そうではなくて……」
祐巳さんの、心底落ち込んだというような表情を見て慌てる瞳子ちゃん。
瞳子ちゃんは、祐巳さんの困った表情を見るのが好きみたいだけど、
たまに自分の予想以上に祐巳さんをヘコませてしまって、自分で慌てる事もある。
まぁ、その辺りも含めて、瞳子ちゃんが子悪魔たる所以なんだけど。
でも、志摩子さんも瞳子ちゃんも知らないでしょ?
あなた達は知らないでしょ?
魔王を知らないでしょ?
実はね、志摩子さん。
志摩子さんがカップを割ってしまった事を知っているのは私だけじゃないのよ。
志摩子さんの慌てる姿を見て、その後にどんな行動をするのか、楽しんでいた魔王がいるのよ。
それに、瞳子ちゃん。
瞳子ちゃんの言葉に大げさにヘコんでみせているのは、あなたをからかう為なのよ。
焦りながらフォローをする瞳子ちゃんの姿を見て、密かに口を歪めて微笑んでいる魔王がいるのよ。
あの豊かな表情に騙されてはダメ。
あれは人を騙す為の超高等テクニックなんだから!
「由乃さん?」
突然、話し掛けられて飛び上がりそうになった。
何時の間にか、志摩子さんと話を終えた祐巳さんが私の横に立っている。
いくら私が考え事をしていたとしても、まさか全く気付かないうちに接近されているとは……。
さすが魔王、恐るべし。
「な、なにか用?」
「何を考えていたか、表情に出てる」
ぎくり、としてしまった。
背筋を冷たいモノが流れる。
そんな私の状態を見抜いているだろう祐巳さんは、にっこりと笑いながら続けた。
「そんなに読まれやすい表情してちゃダメだよ」
ムリよ。
私には、祐巳さんみたいに表情と考えている事が全く違うなんて芸当はできない。
表情は笑っているのに感情は怒ってて、同時に、どうやって楽しもうかと考えてるなんてもっとムリ!
「まぁ、由乃さんが私の域に達するには、まだまだ時間が必要だと思うけど」
祐巳さんがそう言い残して去って行く。
く、この魔王め……。
誰よ!?庶民派なんて言ったのは?
ううん、違う。普段はネコを被っている……いや、タヌキか。
でも、その被り方が尋常ではないのよ。
だから、誰もが問答無用で騙される。
私が気付けたのだって、祐巳さんが何故だかは知らないけれど、
そうと分かるように接触してきたから。
去り行く祐巳さんの背中を見送りながら、なんていうか……、悪魔とか魔王とかいるし、
実はそんな祐巳さんを尊敬していたりする私もいるし、
もう山百合会はダメなんじゃないかって、本気で思った。
私、島津由乃が黄薔薇さまとして仕事をしている薔薇の館には魔王がいる。
それは、百の顔を持つ紅き魔王。