【1297】 宿命の対決はじめちゃいました  (翠 2006-03-28 18:29:53)


【No:1286】→【No:1288】→【No:1291】の続き




高等部に入って三度目の梅雨の季節。
その日は暗雲が立ち込めていた。
そして、それは私達の居場所である薔薇の館にもあった。


それが起こったのは、私が隣の席にいる菜々に仕事を教えている時だった。
志摩子さんがボールペンを床に落とした。
「祐巳さん、拾ってくれる?」
転がった場所は、ちょうど志摩子さんと祐巳さんの間。
自分で拾えばいいのに、志摩子さんはわざわざ祐巳さんに頼んだ。
「瞳子ちゃん、拾ってあげて」
祐巳さんはそれを鮮やかにかわす。
「あら、私は祐巳さんに頼んだのよ?」
志摩子さんが微笑みながら言った。
でも、その目は笑ってない。
果たして祐巳さんはどう出る?
皆が固唾を飲んで見守る中、祐巳さんは予想外の行動に出た。
「仕方がないなぁ」
そう言いつつ、なんと床に落ちているボールペンに手を伸ばして拾ったのだ。
これには皆が驚いた。
あの祐巳さんが素直に拾った!?
ボールペンを拾った祐巳さんは、それを志摩子さんに渡し……、
「はい、志摩子さん。っと!ごめんなさい、落としちゃった」
……私の目には投げたようにしか映らなかった。
部屋の隅の方に転がっていくボールペン。
「あの場所だと、志摩子さんの方が近いね」
暗に自分で拾えと祐巳さんは言っている。
「……乃梨子」
「……はい」
可愛そうに、乃梨子ちゃんはボールペンを拾いに行かされた。
この勝負はドローね。
でも、動かされた分、少し祐巳さんの方が不利?
そんな事を思っていると、祐巳さんが口を開いた。
「ねぇ、志摩子さん。ここ計算が違うよ?」
そう言って志摩子さんに自分が持っていた書類を見せる。
「あら、ごめんなさい。うっかりしていたわ」
志摩子さんはそう言うけれど、こめかみの辺りが引き攣っている。
まぁ、ライバルに自分のミスを指摘されたら腹も立つだろう。
若干、祐巳さんが優勢になった。


しばらく静かで穏やかな時間が過ぎた。
「あら、また?」
何故か、志摩子さんが嬉しそうな声を上げる。
何が嬉しいのだろうか?
隣に座っている乃梨子ちゃんと、電卓を叩いて確認している。
頷き合うと、志摩子さんが立ち上がって言った。
「祐巳さん、さっきから何箇所か計算が違うわよ?」
勝ち誇った表情の志摩子さん。
皆の視線が集まる中、祐巳さんはさらりと言った。
「備品の合計が全部プラス100になってるんでしょ?志摩子さんがちゃんと仕事してるか試したの」
「……」
「合計欄だけわざわざ鉛筆書きにしてあるのに、なかなか気付かないからどうしようかと思ってたよ」
勝ち誇った表情のまま、まるで彫像のように固まっている志摩子さんを尻目に祐巳さんは続けた。
「でも、思ってたより気が付くのが早かったね」
表面上はあくまで穏やかに笑っているだけの祐巳さん。
でも、心の中では志摩子さんを嘲笑ってるに違いない。
だって、志摩子さんは鈍いって言ってるのと同じなんだもの。
「ふ……、ふふふふふ」
志摩子さんはゆっくりと席に戻った。
この勝負は間違いなく祐巳さんの勝利。
志摩子さんは逆に追い詰められたわね。


あれからしばらくの間、平穏な時間が過ぎた。
「乃梨子、皆さんのお茶を頼める?」
志摩子さんが突然、妙な事を言った。
自分の分だけ頼むならともかく、みんなの分のお茶を頼むなんて黒志摩子さんには有り得ない。
絶対に裏があるはず。
「ちっ……」
祐巳さんの舌打ちが聞こえた。
どういう事だろう?
「志摩子さん。それくらいなら瞳子ちゃんがやってくれるよ。ねぇ、瞳子ちゃん?」
「え?ええ、そうですわ。乃梨子さんの手を煩わせる事はありません」
いきなり祐巳さんに話を振られて、それでも即座に応える瞳子ちゃんは流石だと思う。
「瞳子ちゃんは、まだ皆さんのお茶を淹れるほど慣れてはいないでしょう?」
「そ、そんな事は……」
瞳子ちゃんが志摩子さんに反論しようとした時に、ギリッと歯軋りの音が祐巳さんから聞こえた。
なるほど、そういう事か。
今回は妹で勝負なワケね。
これは祐巳さんの分が悪いわね。
二人とも確かに気が利くけれど、瞳子ちゃんは数ヶ月前に正式に入ってきたばかり。
逆に乃梨子ちゃんは、もう一年はここに出入りしている。
当然、皆の好みも熟知している。
瞳子ちゃんだって、祐巳さんの好みだけなら当然知っていると思うけど……。
祐巳さんを見てみると、特になんともない表情をしているが、きっと心の中は荒れているのだろう。
この勝負は志摩子さんの圧勝。
祐巳さんはここから形成逆転できるのかしら?
っていうか二人とも仕事してよ。


再び、薔薇の館に平穏な空間が戻った。
そんな時、祐巳さんが口を開いた。
「志摩子さん」
「なぁに、祐巳さん?」
「認めるよ、志摩子さんの事」
「え?」
志摩子さんが不思議そうな顔をしている。
「志摩子さんは仕事ができるし、人格者だし、皆の憧れだし、私では太刀打ちできないよ」
「まぁ、祐巳さん。太刀打ちだなんて、そんな事を本気で考えていたの?ごめんなさい気付かなくて」
突如、奇妙な事を言い出した祐巳さんに警戒しながらも毒を吐く志摩子さん。
「だって、私は志摩子さんの半分も仕事ができない……」
悲しそうに言う祐巳さん。
その隣で瞳子ちゃんが何かゴソゴソとやっている。
「何を言ってるの?仕方ないわよ、私の方が先にここに来ていたもの」
ゴソゴソしている瞳子ちゃんを見て、私は隣にいる菜々にある事を耳打ちしておいた。
菜々は素直に頷いた。
そんな私達を見て乃梨子ちゃんもゴソゴソし始めた。
「正直、薔薇の館で一番仕事が出来るのは、志摩子さんじゃないかなって私は思ってる」
悔しそうに祐巳さんが言うと、満面の笑みで志摩子さんが言った。
「ふふふ、そんな当たり前の事を言われても何も出ないわよ?」
「そうだよね。当たり前だよね」
という事で、と祐巳さんは悔しそうな表情のまま続けた。
「今日の残りの仕事は、志摩子さんにやって貰いましょう」
「え?」
呆けた表情の志摩子さん。
何時の間にか微笑んでいる祐巳さんは言った。
「瞳子ちゃん、帰るよ」
「はい、お姉さま」
会話の最中に、二人分の荷物を片付けていた瞳子ちゃんは、祐巳さんに自分の物以外の荷物を渡し、
『ごきげんよう』と残して二人で部屋から出て行った。
そんな二人に続けて、私と菜々は椅子から立ち上がって扉へと向かう
私達の荷物は、先程、菜々に耳打ちして既に片付けてある。
「よ、由乃さ……」
扉を開けた私に向かって、何か言いかけた志摩子さんを乃梨子ちゃんが遮った。
「じゃ、志摩子さん頑張って。ごきげんよう」
私達を追い越して部屋から出て行く。
「の、乃梨子!?」
片手を伸ばしたまま、固まっている志摩子さん。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、白薔薇さま」
私達は、そんな志摩子さんを部屋に残したまま扉を閉めた。




帰り道。
「あれで良かったんですか?」
「もうほとんど仕事は終わってたし、残りを一人でやっても30分もかからないわよ」
「そうですか」
「それよりも、流石は魔王ね」
「見事でした」
「いつか、アレに戦いを挑むのよ」
「強敵ですが楽しみです」
「勝てると思う?」
「ムリじゃないかと……」
「私もそんな気がするわ」
菜々と二人でそんな会話をして途方に暮れた。


空にも薔薇の館にも、暗雲は立ち込めたまま未だ晴れず。


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