【1323】 クエストオーバー  (沙貴 2006-04-09 21:37:36)


 由乃さま。
 由乃さま。
 由乃さま。
 
 待ち合わせのメッカ、K駅の改札口で一人ぶつぶつと呟きながら、菜々は幾度となく肩を上下させた。
 日曜日の朝、清々しい陽光に満ちた街を多くの人が行き交っている。
 はぁ、と吐いた息が目の前を白く漂って消えた。
 午前十時をとっくに回っているのに、まだまだ気温は低いまま。
 緊張に硬くなる体を一層に縮めこませるこの寒さ。菜々は静かに眉を寄せた。
 
 全くの見知らぬ他人に会うというわけではないとはいえ、90%くらいは見知らぬ他人と会うのだ。緊張だってする。
 初対面の人と触れ合う機会は剣道の大会などで多いけれど、それは防具を着けて竹刀で打ち合うという公然のルールがあるから良い。
 基本的に自分がすること、相手がすることの範囲は狭い。ルールの中で戦うのが試合であり、剣道だから。
 でも街で待ち合わせてどこかに行くとなると、お互いの行動範囲は俄然広くなる。
 途方もない失敗をすることがあれば、とんでもない不意打ちを食らうこともあるだろう。
 不安と言えば、一言だ。
 
 由乃さま。
 島津、由乃さま。うん。
 島津、島津由乃さま。
 
 しかし、菜々の心配はそれだけではない。
 待ち合わせを約束している相手は学校の先輩、しかも超が付く有名人とくる。
 失敗は許されない、無様な真似は見せられない。そう思う。
 菜々自身は決してミーハーな訳ではないので、超が付こうと付くまいと、有名人だろうと凡人だろうとそれは特に関係ない。
 けれど、相手は学校の先輩。それだけで、武道家系に生まれた菜々にとっては十二分に緊張する理由だった。
 自分をより良く見せる必要はなくても、相手の尊厳を貶めたり恥を掻かせたりするような真似は厳禁。
 名前を間違える、なんてことは当然の事ながらあってはならない。少なくとも、もう間違えてはならない。
 
 由乃さま。
 島に、津。自由の由に、乃木大将の乃。
 島津、由乃さま。
 
 そもそも菜々は由乃さまのことを良く知らない。自分は中等部で相手は高等部だから、接点自体も殆ど無い。
 今回だって律儀な由乃さまが態々中等部まで足を運ばれたから実現したのであって、それがなければ菜々の中で「転んで綺麗なロザリオを落とした人」の由乃さまはそのまま記憶の彼方に沈んでしまったことだろう。
 けれどそうはならなかった。
 交流試合の日以来、構内で掠りもしなかった菜々と由乃さまは朝一番の「田中さんっ!」という大声で再び結ばれた。
 人通りの多い時間帯、しかも昇降口。あの場に「田中さん」は二人くらい居てもおかしくはなかった。
 けれどその声に振り返っておさげ髪を確認した時、何故だか菜々は直感したのだ。呼ばれたのは「田中さん」ではなく、「有馬菜々」たる自分なのだと。
 
 足元に転がっていた小石を小さく蹴った。
 ころころ回ってピタリと止まる、まるで今の菜々のように。
 何か大きな力――世界だとか空間だとか、そういう大きくて漠然とした何かの力――に背中を押されている、せっつかれている気はするのに、足踏みをしてしまう。立ち止まってしまうのだ。
 不安はある。心配も大きい。背中押すその”何か”が判らなくて釈然としない。
 けれどそれ以上に菜々が戸惑う理由があった。
 それは。
「何で私で、何で由乃さまなのかな」
 という、至極根本的な疑問。
 
 由乃さま。
 鳥居江利子さまの妹さま、支倉令さまの更に妹さま。
 現黄薔薇のつぼみ、由乃さま。
 
 菜々と由乃さまの接点は唯一の例外を除いて全くない。
 接点がないということは、交流は当然成立しないということ。
 にも拘らず、今菜々は由乃さまを待っている。それが疑問だ。
 唯一の例外、交流試合での一件のお礼と由乃さまは仰っていたがそれにしては大袈裟過ぎるだろう。
 あの時の問答にどれだけの価値があったのか菜々は知らないけれど、一言二言言葉を交わしただけのことをそうまでしてお礼されても寧ろ困ってしまう。
 「あの時は助かったわ、ありがとう」とでも仰っていただければそれで十分だというのに、ケーキセットを驕るとまで言われたのだから由乃さま側に何かしら思惑があるのだと想像しても仕方がない。
 
 件の際、(言葉は悪いが事実として)適当に言ったことを実現するために、由乃さまは奮闘しているのだろうか。即ち、菜々が自分の妹候補だと。
 だとすれば相当な暇人か発言の撤回を認めない自信家の二択。どちらも、余り好意的な印象は持ち辛い人種といえる。
 菜々も得意ではなく、元々我の強い菜々は暇人にはすぐ飽きるし自信家とは衝突してしまう。
 先輩だから最低限必要な礼儀は重んじるけれど、もし由乃さまがその二種類のどちらかなら、今日という一日はかなり憂鬱な一日になりそうな気がする。
 菜々は重い息を吐いた。
 
 すぐに顔を上げて首を振る。
 いや、いや。
 今日になってからまだ由乃さまと直接会話もしていないのだから、今そこまで決めてしまうのは早計。
 でも大勢としては余り面白くない方向に流れている気配があるから、今日しっかり見極めなければならない。
 禍根を残すのは嫌だから、良くも悪くも今日決める。
 支倉令さまとの接点というのは非常に魅力的な要素だけれど、その為だけに由乃さまを”利用”するのはちょっと嫌だし。
 今日一日、しっかり由乃さまを観察して見極めよう。
 
 由乃さま。
 リリアン女学園高等部二年生、由乃さま。
 転んでロザリオを落とした人、由乃さま。
 
 名前を口ずさむ度に菜々の中でころころ変わる由乃さまのイメージは、結局「転んでロザリオを落とした人」に戻ってしまった。
 でも。
「ふふっ」
 それが何だか、一番しっくり来る由乃さま像だった。
 元気一杯に髪を揺らして走り回る、そんなイメージが朝の昇降口で叫んだ由乃さまとぴったり合う。
 深いことは何も考えずに、適当な事を想像するのは止めて。
 今まで実際に菜々が目の当たりにした由乃さまだけを思い返せば、暇人でも自信家でもない、何だかとても具体的な人物像が頭に浮かんだ。
 
「お待たせ」
 
 そしてそれが具現化したようにして由乃さまは現れる。
 シックな深緑で纏まったアンサンブルは大人っぽくて、菜々の予想とは少しベクトルがずれていた。
 裏をかかれた、と菜々はこっそり笑う。
「ごきげんよう」
 勿論挨拶する時にはそんなこと、おくびにも出さなかったけれど。
 
 
 〜〜〜
 
 
 何やら面白いことになってきた。
 列車に心地良く揺られながらそうほくそ笑む菜々の前を、車内に落ちる縞模様の陰影が流れていく。
 休日のお昼前に下り方面へ乗った所為か、車内の人影は疎らだった。
 仕事に向かっているのだろうか、朝から早くも疲れた顔のサラリーマン。
 競馬新聞を眺めてうんうん唸っているおじいさんの隣で、おばあさんが茶色の毛糸で編み物をしていた。
 平和な休日。
 目下、令さまのお見合いの邪魔をしに行っている(?)菜々達には少し眩しすぎるくらいだ。
 
「あぁ、もうサイアク」
 今日何度目かの溜息を由乃さまが吐く。
 姉妹制度は菜々にとってまだまだ無関係なこともあって詳しくは知らないし良くも調べていないが、まぁ、仲の良い先輩後輩といえば大体合ってくるものだとは予想していた。
 その仲の良い先輩が、後輩に相談しないどころか何の連絡もなくお見合いに行ってしまったのだから、納得がいかないという気持ちは菜々にも良く判る。
 良く判るが、だからってそれをずっと嘆かれるのも辛かった。
「サイアクって……私、やっぱり邪魔でしたか?」
 意地悪な聞き方だな、と菜々は言ってから気付いた。
 「邪魔でしたか?」と聞かれて「邪魔です」と答えられる人は少数派だ。これではまるで「邪魔ではない」という言葉を聞きだしたいが為の誘導尋問。
 ほんの少し自己嫌悪に陥った菜々に、由乃さまは首を横に振った。
「とんでもない、邪魔なんかじゃないわ」
 
 そうはいっても由乃さまの顔は晴れない。
 菜々が無言で問い続けると、由乃さまはもう一度深い息を吐いた。
「ただ予想外だなって。本当はもっと静かな場所でケーキセットを摘んでいたり、映画を観たりしてる筈だったのに」
「映画、観るつもりだったんですか?」
 不用意に飛んできた単語に菜々が目を丸くする。
 元々誘われたのはこの前の(とは言え本当に口裏を二言三言合わせただけだけど)お礼としてケーキセットでもどう、という話だった。
 ちょっとお茶をという割には待ち合わせ時間が午前だったので、菜々も本当はやはり何か交流試合の時のようなメイン・イベントを由乃さまが考えていらっしゃるのではないかと勘ぐっていたが、どうやらその予想は大きく外れたらしい。
 お茶をして映画を観て、なんてそれではまるで友達だ。今日を含めてまだ三回しか会っていないのに。
 
 すると由乃さまは「例えよ、例え」と笑われた。
「でも私が誘った以上は私がホステス、有意義な時間を提供する義務があるわ」
 それがこの体たらく、と由乃さまは自嘲気味に首を振る。
 フォローしようとしてその言葉が全く浮かばない自分に閉口する菜々をおいて由乃さまは続けた。
「今日は、今日くらいは、令ちゃんのことをすっぱり忘れて色々しようと思っていたんだけれどね。結局、令ちゃん追いかけて列車の中。何だかなぁって思うよ」
 そして右のお下げをくるくると指に巻きつけて愚痴る。
 一見すればとても幼稚な仕草だけれど、今日のコーディネイトと意外に似合う憂い顔の所為で気にならなかった。
 菜々も何となく自分の脇髪を指に巻こうとする。勿論、一巻きもすればすぐに解けてしまったけれど。
 答えた。
「それだけ大切な人ってことじゃないですか。姉妹なんですし、当然ですよ」
 多分、と。
 最後の一言は唇だけで刻む。当てずっぽうで断言はできない、でもここは断言しておくべき箇所だったから。
 その言葉で驚いたように少し目を見開いた由乃さまは、やがて「そうね」と柔らかく微笑まれた。
 
 
 がたん、ごとん。
 がたん、ごとん。
 
 
 列車は進む。
 さっきの掛け合い以来ぱったりと会話の止んだ二人の間に、窓から差し込む冬の陽射しが心地良かった。
 基本的にアウトドア派で、寝るより立って歩く方が好きな人種である菜々にとって、こんなゆったりした時間は珍しい。
 いつもならとっくに飽きて、窓の向こうを忙しなく見渡したり、意味もなく別の車両に移ったりしている頃だ。
 でも今日はそうしない。
 先輩と肩を並べているということもあるけれど、何よりこの空気が心地良いから。
 
 家族で旅行に行く時、菜々は大体姉達と並んで座る。親や祖父は大人ゾーン、菜々達は子供ゾーン。そんな分類はいつの間にかできた田中・有馬家暗黙の了解。
 その中で、菜々はいつも一番の端っこに居る。
 最年少ということもあるけれど、端に居ればふらっと居なくなってもバレ辛いということがあるからだ。
 冒険好きを自称する菜々は、気になることや面白そうなものがあるとまるで磁力で引っ張られるように勝手に足が向かってしまう。
 そんな時に姉に両脇を固められたりすると菜々的には非常に困ってしまうのだ。
 だから菜々は子供ゾーンの端っこで、常に回りに視線を飛ばして興味のアンテナを張り巡らせている。
 でも今日はそうしない。
 幾許かの緊張を胸に秘めて、静かな時間を楽しんでいた。
 
 微かな眠気すら催す停滞の時間。
 後の慌しさを予感させる、過ぎるほどに静かな空間。
 目を伏せた菜々の耳に囁くような声が聞こえた。
「でも、大切すぎるのも考えものよ」
 それは果たして菜々に仰ったのか、それとも由乃さまご自身に仰ったのか。
 菜々には判らなかったけれど、きっとどちらに対しても菜々の答えを待っているようには聞こえなかった。
 だから菜々は何も言わない。
 がたごと揺れる、列車にただ身を任せる。
 由乃さまはその中小さく続けられた。
「特に相手が、支倉令なんて大人物ならね」
 
 
 がたん、ごとん。
 がたん、ごとん。
 
 
 列車は揺れる。
 菜々にはまだその言葉の意味は判らない。
 「森の中のホテル」は、まだ遠かった。
 
 
 〜〜〜
 
 
 がたん、ごとん。
 がたん、ごとん。
 
 
 列車は駆ける。
 静かな時間を引き連れて、斜陽に伸びる影を引き摺って。
 上り方面のローカル線は、時間帯が時間帯ということもあって閑散としていた。それがまた停滞している空気の気だるさを助長する。
 そんな、人影の少ない車両で仲睦まじく眠る二人の少女が居た。
 こっくりこっくりと船を漕ぐおさげの少女と、彼女の肩に頭を預けて眠るセミロングの少女。
 良く歩き、良く走った今日という一日の疲労を全身から漂わせる彼女らの四肢は完全に弛緩していて、微笑ましくも近寄り難い独特の空気を発散している。
 対面に座っていたおばあさんがくすりと笑った。
 
 
 心地良い振動と車体の立てる音という安らかな子守唄に誘われて転寝していた菜々は、不意にぷしゅぅと鳴ったドアの開閉音に薄ら目を開く。
 瞼は重い。
 疲労感は深く全身を満たしていて、指一本動かすことすら躊躇われた。
 狭い視界から入ってくる、窓から差し込む紅の日は意識を失う前と変わっていないように思えたから、そんなに長い間眠っていた訳ではないようだと菜々は想像する。
 けれど逆に、ほんの少しの間だけ眠ってしまった所為で怠惰な眠気はより一層頭と体に纏わりついていた。
 もう少し眠ってしまおうか。寝過ごしたら寝過ごした時考えれば良い。
 
 自堕落的な思考に囚われて緩々瞼を再び落とす菜々の鼻に、くんと甘い匂いが届いた。
 あ。良い。
 甘い、気持ち良い、良い匂いだ。
 原始的で幼稚な思考を最後に、菜々の意識が再び闇に落ちる。
 気が抜けるように、脳と全身を繋ぐ神経が切断される――
 
「って」
 
 菜々は声を上げるが早いか勢い良く身体を起こし、その匂いの発生源を見た。
 それは今日一日で随分と見慣れてしまった感のある由乃さまのお下げ髪の左房。
 シャンプーの香りだったのだろう。
 長い髪の隙間から、香水のように洗練された匂いではない純粋で単純で、けれど確かに心地良かった香りが薫っていた。
 勿論、シャンプーの残り香なんて微々たるものだ。
 相当に近付かないと匂うものじゃないし、どれだけ近付いても匂わないことだってある。
 それが匂うくらいに顔を近付けていた。それ以前に、「身体を起こし」た以上は身体を倒していたということ。
 何に? 由乃さまの肩にだ。
「ああ」
 菜々は項垂れた。
 確かに今日一日で随分由乃さまのことを知ったし、菜々のことも知られただろう。
 お互いの距離は縮んだ、気心も知れるようになった。
 でもだからって肩に凭れ掛かって転寝なんてみっともない、なんてこと。
 
 朝方にはしっかり気を入れていた緊張も今ではすっかり失せてしまっていた。
 多分、令さまを探す(お見合いの邪魔をする)という目標を見据えて街やホテルを右往左往していたから、その間に仲間意識のようなものが芽生えてしまったのだろう。
 先輩や友達にはいくらか遠慮しても、同じ目標を持つ同士に遠慮はしない。だから気が抜けた。
 でも勘違いしちゃいけない、由乃さまと菜々は同士なんかじゃない。
 今日は由乃さまの令さま探しをお手伝いした、というのが正しい認識。
 令さまを探すこと自体は面白そうだと思ったけれど、竹刀を持っていない令さま自体に菜々はそんなに興味はない。
 由乃さまは見つけたかった、菜々は探したかった。過程は同じでも、根底と結末は全くの別物だ。
 だから結局、由乃さまと菜々は学校の先輩と後輩。相手を立てて、自分は引いて然るべし。
 直情的な菜々は良く忘れてしまうが、でも有馬の性を持つ田中の娘としてそれは確りと根付いている。
 ああ、自己嫌悪だ。
 
 額を押さえて首を振ると、いつの間にか目を覚ましていた由乃さまが菜々の方を向かれていた。
「おはよう、菜々。お互い眠っちゃったわね」
「すみません」
 間髪入れず、菜々は謝った。
 疲れたとはいえ友達に凭れ掛かるのすら気を使うというのに、先輩にそれをしたのだから言葉も無い。
 由乃さまは余りそういったことを気にされるような方には思えなかったが、これは菜々の問題だ。
 案の定、由乃さまは笑って手をひらひらさせて「良いのよ、私も眠ったし」と仰った。
「それより顔色が悪いわね。列車に酔ったのかしら?」
 でも続けて気を使ってくださった言葉はやや的外れ。
 表情に乏しい菜々にも問題はあるだろうが、どうも由乃さまと菜々は言葉を交わさないと意識が完全にずれる性質にあるらしい。
 朝の時だって、菜々は今日の話を聞かされてかなり興奮していたというのに、それをちゃんと口にしないと由乃さまには伝わっていなかった。
「いいえ、そんなことは」
 菜々が答えると、由乃さまは「そ、そう」と苦笑いされる。
 それ以上答えようがなかったので、菜々は一度軽く頷いて顔を正面に戻した。
 
 
 がたん、ごとん。
 がたん、ごとん。
 
 
 列車は往く。
 車内の至る所にできている影から忍び寄ってくる眠気を振り払いながら、今日をしみじみと振り返る菜々達を乗せて夕闇の迫る街並みを往く。
「今日はどうだった」
 不意に、由乃さまが呟かれた。
 ちらりと横に視線を飛ばしても由乃さまは前を向いたまま。菜々の方を向くことはしなかった。
 だから菜々も前を向いたまま答える。
「流石に疲れましたね。体力に自信はありましたが、練習でやることとかとは全然違いましたし」
「でも中等部とはいえ、練習は結構ハードなんじゃないの?」
「まぁ、それなりには。でも家系ですし、強制されてやっている訳でもありませんから苦ではありません」
「そう。それは良いわね」
 流れるように会話が過ぎた。
 二人とも疲労困憊しているから台詞は平時よりも随分ゆっくりしていたけれど、それがまた疲れた身体にじんわりと染み渡って気持ち良い。
 気を抜けば、また眠ってしまいそうだった。
 
「でも面白かったです。ご迷惑を承知で無理を言った甲斐がありました」
 今日は正しく菜々の大好物、アドベンチャーな一日に終始した。
 色んな小さなイベントを挟みつつ、二人で悩んで二人で走って。
 そして結果的には令さまをちゃんと見つけて、意外な事実が発覚して。
 王道も王道。ベタ過ぎてどんなドラマでもやらないだろうそんな冒険は、でも菜々達がしっかりと自分の肌で感じた現実の物語。
 それはどんなドラマよりも胸踊り心に残るものだ。
 今日の思い出は、今後中等部三年生を振り返る中でもかなりの上位に入るだろう。
 
 菜々のそんな言葉に、由乃さまはくすりと笑われた。
「アドベンチャーは堪能できた?」
「それはもう」
 言って、菜々も合わせて小さく笑う。
 そして菜々はふと思い出した。
 今日令さまを探しに行こうとしたのは由乃さま、それに乗っかったのが菜々。あわよくば令さまに紹介を、と思ったがそれは流石に虫が良すぎたか。
 でも結局、何故、今日、由乃さまは、菜々を誘われたのだろうか。
 始めは暇すぎる時間を潰す手段としてか、あるいは誇り高き有言実行の信条を護る為に、菜々に対して「高等部に入ったら妹になりなさい」とでも仰るつもりなのかと邪推したが――
 菜々は由乃さまの端正な横顔を眺めた、そして。
 違う。
 直感的にそう思った。
 
 少なくとも今日はそんな素振りを一切見せなかったし、途方もない暇人にも見えなかった。
 プライドの有無は流石に見えてこなかったけれど、姉候補として自分を売りに来るつもりならそれこそケーキセットのおしゃべり+映画を選択するだろう。
 良くわからない。当初の予定はともかく、結局由乃さまは令さまを見つけたかっただけだ。
 令さまは見つかった。
 けれど、菜々のすぐ隣に居る筈の由乃さまは見つからない。
 もうすぐ今日という一日が終わってしまうというのに。
 
「由乃さまは」
 思ったら口が勝手に言葉を紡いでいた。
「今日はどうして私を? 何度か考えたのですが、やっぱり判らなくて。日を改めて御礼をしていただける程あの時のやり取りって重大なことだったんでしょうか? だったら私、適当な事を申し上げてしまって、かえって宜しくなかったんじゃないでしょうか」
 ぴしり。
 聞こえるはずのない音が聞こえて、判りやすく由乃さまが凍りつく。
 ちろりと目だけをこちらに向けて、前に戻して、もう一度こちらに目をやって、それから言った。
「いいえ、問題ないわ。全くないと言えば嘘になるでしょうけど、許容範囲。菜々は気にしなくても大丈夫よ」
 少し声が上ずっていたことに菜々は気付いていたけれど、敢えてそこは無視をして。
「そうですか」
 とりあえず頷いた。触れてくれるな、突っ込むな、と由乃さまが言外に仰っているような気がしたから。
 多分、許容範囲ではなかったのだろう。でもそれに関しては実情を知らない菜々ができることは何もないし、触れるなと言われたらそれに従うしかない。
 菜々は前を向く。
 
 暫くしてから、何故か隣で小さな溜息が聞こえた。
 
 
 がたん、ごとん。
 がたん、ごとん。
 
 
 列車は走る。
 菜々と由乃さまの街を目指して、ひた走る。
 冒険の終わり。
 一日の終わり。
 ゴールを目指して走ってゆく。
 
 
 今日の冒険の成果は――。
 支倉令さまのお見合い相手は谷中の小父さまのお子さんだった。
 由乃さまは姉思いで、ちょっと頼りなくて、でも見てて飽きない面白い人。
 そんなところか。
 
 うん。
 良いんじゃない?

 今日も一日、楽しかったな。


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