作者注:この作品は完全オリジナルの上、競馬ネタとなっております。付け加えて少しだけ百合要素を含んでおりますので、以上のことを踏まえてご賞味下さい。
「さあ、行こう。」
私はその子の肩をぽんと叩いた。
「秋月 桜、前へ。」
「はい。」
研修校の卒業式、私は数少ない女性卒業生の一人として壇に上がった。
「騎手課程卒業おめでとう。今日から君も騎手だ。」
校長先生が、にっこりと笑って証書を手渡した。
…それが半年と少し前。そんなことを思い出しながらロッカーを開ける。
その前は…そうそう、かなりキツイからって母親に反対されたっけ。
「女の子なんだから、そんな体に負担がかかるようなことはやめて。」
「元々、小柄なんだからそれ位乗り越えられるわよ。」
若い時の無理な減量は出産の時に負担になるんだそう。
その時は夢に向かう気持ちの方が大きくて気にも留めなかった。
学校に行って、その厳しさは身にしみたけど。
一方、父はと言うと、娘が決めた道だからと反対はしなかった。
「自分の信じた道を進みなさい。でも諦めないように。」
それも本音だったのだろうけど、小さい頃に連れて行ったレースが元で娘が騎手を目指したのだから、強くは反対出来なかったんじゃないかな。
ふふっ。少し思い出し笑いしながらヘルメットなどを着けていく。
「あら、今日が初騎乗の割には緊張してないのね。」
…と、思い出し笑いを指摘したのは、先輩でありライバルであり憧れの人、東 希美騎手。今日のレースでも一緒に走ることになっている。
「少し、昔のことを思い出しまして。」
「そういえば桜ちゃんは小さい頃にレースを見に行って、この道を選んだんだっけ。」
「はい。」
そう、小さい時に一度だけ競馬場に連れて行かれたことがある。
「ほうら、桜。おうまさんだぞー。」
今思えば、馬を見せるだけなら牧場の方がいいだろうに何故競馬場だったのか。いつか聞いてみようとは思っているけれど、予想通りの答えだったらどうしよう。
ただ、そのレースに連れて行って貰って良かったと今では思っている。本当にあの走りは凄かった。何度かビデオを見せてもらったが、あの馬の、いや人馬の走りを超えるレースを見たことがない。
轟音。
観客の、馬群の、そして風の音が周りを埋め尽くしていた。普通の子供だったら泣き出しているだろうに、その時は黙ってレースを見ていたと父は言った。
「レースが終わってからもその一頭をじっと見ていたんだよ。」
その一頭‐今では英雄と頭に付けられて呼ばれることが多い‐は、ゴールに向けて走る馬の群れの中を一本の線をなぞるかの様にすっと間を抜け、周りの馬とは別の世界でも目指すように走り抜けて行った。そう私は印象付けている。
「ああ、あのレースを見ていたのね。」
ふわりと希美さんが微笑む。何か懐かしがってるような、そんな微笑み。希美さんも印象深かったレースなのだろう。
「私もあの馬が切欠で騎手を目指したようなものかな。」
「えっ、希美さんも?」
驚いた。まさか同じ馬が切欠だなんて。
「私の場合は、あのレースと言う訳ではないけれど…。あら時間だわ。」
丁度、騎乗の時間になったようで係りの人が声をかけに来た。少し残念な気もしたけれど、また今度話を伺おう。
「うん、緊張も取れたみたいね。さっきはちょっと笑い顔が引きつってたから。お互い、頑張りましょう。」
「は、はい!」
そう言って、希美さんは私の頬に手を触れてから去っていった。どうやら自分でも気づかない内に顔が強張っていたらしい。
それにしても。最後に触れられたことで別の緊張が走ったことに、希美さんは気づかないんだろうな。
パドック(馬見せ場)に着き、目的の馬を見つける。私は挨拶代わりに軽く首に触れた。
「今日はよろしくね、コスモス」
数ヶ月前、私が初騎乗する馬を紹介された。まだデビューしてない馬を新人の私に依頼するなんて…とその時は思ったものだ。活躍している馬を依頼されても同じことを思いそうだけれど。
「名前はアズマコスモス号、桜ちゃんよろしくね。」
「は、はい。…えっ。」
名前を紹介された時は驚いた。コスモス…秋桜なんて、いくら馬が驚かないように大きな声を出さないでと言われていたからといって、突然のことには対処しきれないものだ。
「秋に桜でコスモス。桜ちゃんにぴったりでしょう。女の子同士仲良くね。」
そう言って華やかに笑ったのは、オーナーの娘さん。確か名前は…未来さんだったっけ。
「え、ええ。それにしても…私でよろしかったのですか。」
「誰にでも最初はあるものよ。それが世界で有名な騎手でもね。」
と、未来さんは少しだけ怒ってみせた。それが少し可愛く見えるのだから、美人さんはお得である。
そこまで思い出して、はっと気づいたら周りの騎手はみんな騎乗して馬場に向かっていた。
「いけない。」
少しだけ慌てて乗ったので、コスモスは「落ち着けよ」とばかりに一声上げた。
普通は騎手が馬を落ち着かせるのに、これじゃ逆だと反省。きっと顔は赤いんだろうな。
静かに馬場に向かい、返し馬(慣らし)ついでに場内を見回す。こんな新馬戦でも結構観客がいることにちょっと感動。恥じない走りをしないと…と思ったところで希美さんと目が合う。
希美さんはちょんちょんと、自分の頬をつついて見せた。また、緊張した顔になっていたらしい。
私がにっこりと笑って返すと、希美さんも微笑んでから引き締まった顔になった。
「負、け、な、い、わ、よ。」
そう口パクで伝えて、希美さんはゲートに向かった。自分もちょっとだけ顔を引き締めてからその後を追う。
そう、これはレースだ。勝負事なんだ、と。
コスモスは牝馬としては落ち着いた様子で、すんなりとゲートに入った。でも気合が入ってないって訳でもなく、また一声だけ唸った。
会場の声が高まっていく。そろそろスタートのようだ。
他の馬が入る間、少しだけ目を閉じる。自分が如何にこの瞬間を望んでいたか。この瞬間の為にどれだけ頑張って来たか。
そんなことがほんの一瞬だけ、胸の内によぎる。
でも、それはちょっと違うと思い直した。これからなんだ。これからレースが始まる、この子とゴールに向けて走り抜ける。そう、思い直した。
「さあ、行こう。」
私はその子の肩をぽんと叩いた。
カシャン。
ゲートが開く。どんな結果になるか分からない、分からないから良い結果を思い描いて頑張ろう。そのゴールに届くまで。
だって、レースは始まったばかりなんだから。