「あら?」
ホームルームが終了し、薔薇の館へ行く前にお手洗いを済まして来た白薔薇さまこと藤堂志摩子は、教室に珍しい顔があるのに驚いた。
「ごきげんよう、白薔薇さま」
「めずらしいことがあるものね。ごきげんよう瞳子ちゃん」
縦ロールがチャームポイントの、演劇部所属にして紅薔薇のつぼみ、松平瞳子だった。
「このクラスの、部の先輩にお話がありましたもので」
「そう。これから薔薇の館?」
「はい」
「それじゃ、一緒に行きましょうか」
教卓の脇に瞳子を待たせ、自席にカバンを取りに行く。
二人して、教室を出ようとしたその時。
『お待ちなさい』
バレーボール部所属の二人が、志摩子と瞳子の前に立ち塞がった。
「何かご用かしら?」
クラスメイトの行動に疑念を持ちながらも、瞳子をさり気なく庇いつつ、優雅に二人に問い掛けた志摩子。
「あなたたちを、薔薇の館に行かせるわけにはいかないわ」
「代表に命じられているの。申し訳ないけど、時間一杯まで、この教室に留まっていただくわ」
二人して、志摩子に手を伸ばす。
「あら、それは困ったわね。お仕事があるから、行かないわけにはいかないのだけれど」
素早く、志摩子から見て左側の生徒の右手を取ると、背中の方に捻り上げ、ポンと背中を押し叩けば、もう一人の生徒に頭から突っ込むことになった。
「あきゃぁ!?」
縺れ合って倒れ込んだ二人に、
「ごめんあそばせ」
と一言残し、瞳子の手を取って、教室を後にした。
「お待ちなさい」
下足室へ向かう廊下の曲がり角で、再び志摩子たちを引き止める生徒が一人。
誰かと思えば、空手部の元主将ではないか。
「何かご用?」
「言わなくても判ると思うけど、すぐに教室まで引き返して貰えないかしら?」
構えを取りながら、睨みつける相手に、
「残念ながら、それは出来ないわ」
「…でしょうね」
ふっと息を吐くと、そのまま正拳を繰り出す相手。
志摩子は、サッと一歩下がり、素早く間合いから外れると、ゆっくりカバンを下に置いて、右半身で対峙した。
流石に空手部元主将、牽制とはいえその速い突きに、驚嘆せざるを得ない。
一人で来るだけのことはある。
「もう一度だけ聞くわ。引き返す気は?」
相手を見据えたまま、その言葉にゆっくりと首を振る志摩子。
「なら、力づくよ!」
目にも止まらぬ攻勢に、防戦一方の志摩子。
しかし、目が慣れてきたのか、だんだんとそのスピードに対応できるようになってきた。
突然の出来事に、オロオロしている瞳子にチラリと目を向けた志摩子。
早いところ、ケリをつけるべきだと判断し、やや疲れが見え出した相手の懐に、滑るように飛び込んだ。
「くっ!」
あまりにもあっさりと飛び込まれたための躊躇いのせいか、次の行動に移れない。
ほぼ無意識に後退しようとするも、志摩子の左脚が右脚を止めてしまっているため、体制を崩すことになった。
「ふっ!」
軽い息吹とともに志摩子は、相手の肩に突きを放ち、
「ったぁ!?」
そのままズドンと、元主将を背中から倒すことに成功した。
「それでは失礼」
相手にほとんどダメージは無いと見た志摩子、あたふたしていた瞳子の肩を持って、相手が起き上がる前にその場を去って行った。
「それにしても白薔薇さま、お強いんですのね」
靴を履き替えながら瞳子は、感嘆を露にしていた。
「小さい頃から、護身術を学んでいたのだけれど、近頃物騒だから、改めて鍛え直してもらったのよ。今では、護ってあげたい子もいるしね」
ちょっと困った顔の志摩子だったが、それでも空手部の元主将を退けたその技術は、素人のレベルではない。
「乃梨子さんですか?」
「ええ。それに、そろそろ乃梨子も、妹を作るかもしれないし」
「妹…ですか」
当然ながら、乃梨子と同じ学年の瞳子。
つぼみであるからには、妹を作るのは、義務に近いものだった。
そのまま黙り込んだ瞳子を目で促し、下足室を出ようとしたその時。
「お待ちください白薔薇さま!」
一年生らしき生徒が一人、血相を変えて志摩子のもとに駆け込んできた。
「ごきげんよう。何か?」
「白薔薇さま、このまま薔薇の館に行ってはいけません」
また引きとめようとするのかと思ったものの、何故かその子は悲壮な表情だった。
「…何故?」
感じるものがあったのか、素直に理由を聞くことにした。
「いつもの通りには、弓道部員が大勢潜んでいます。このまま進まれますと、吸盤付きの矢でハリネズミになってしまいます」
「そう」
「私は白薔薇さまが下足室に現れたら、それを知らせる役目でした。でも、白薔薇さまが危険な目に遭われるのを看過できません」
涙ぐんでいる彼女の肩に手を置くと、
「ありがとう。あなたのお陰で助かったわ」
頭を下げて、二人をを見送る彼女に礼を言うと、いつもとは逆の方向に脚を向ける志摩子だった。
「お待ちなさい」
またかと思いつつも目をやるとそこには、体操部員らしき生徒が二人立っていた。
「何かしら?」
問いながらも、ちょっと眉を顰めた志摩子。
身体や関節が柔らかい体操部員には、相手の力や関節を利用する技が効きにくい。
打撃技に長けていない志摩子には、もっとも闘いにくい相手だ。
「いちいち説明する必要はないわね。進むか戻るか二つに一つよ」
「戻らないわ」
「でしょうね」
志摩子を挟み込むようにして、同時に迫る体操部員。
一対一ならともかく、同時にかかってくる相手には流石に対応できない。
とにかく密着だけはされないように、日舞の流れるような動きを用いつつ隙を窺う。
(このままでは、ジリ貧だわ…。)
珍しく弱気になる志摩子だった。
しかし、今まで後で見ていただけの瞳子が、体操部員の一人に飛び掛っていったではないか。
「白薔薇さま!今のうちに!」
「ええ!」
一対一にさえなれば、格闘に勝る志摩子が遅れを取ることはない。
やや苦戦するも、強引にねじ伏せた志摩子は、瞳子にも加勢し、なんなく取り押さえることができた。
「ありがとう、瞳子ちゃん。お陰で助かったわ」
「いえ。白薔薇さまばかりお手を煩わすわけにはいきませんもの」
その場でへたり込んだ体操部員はそのままに、足早に立ち去る志摩子と瞳子だった。
「やっぱり無駄だったようね」
薔薇の館まであと十数メートルといったところで、見知った剣道部員がただ一人。
短めの髪を風になびかせながら、竹刀を片手に立っていた。
「…ちさとさん」
剣道部員、田沼ちさと。
その実力は、あえて言うなら並ではあるが、黄薔薇がらみでの話題には事欠かない人物。
そういう意味では、なかなか名の知れた人物ではある。
「まさかあの子が、あなたたちの味方をするなんてね。お陰で、伏兵がパァになったわ」
「あの子って、さっきの?」
「ええ。あの子は私の、いわゆる孫にあたる子なのよ。まぁ、一年生じゃ、薔薇さまの威光に負けてしまうのも仕方がないとは思うけどね」
やれやれといった風情で、肩をすくめるちさと。
「それはそうと…、その目はどうしたの?」
志摩子が問うのも無理は無い。
なんとちさとは、左眼に眼帯をしていた。
「裂けた竹刀の破片が瞼を傷付けてしまったの。大したことはないんだけど、しばらくはこのままね」
「そう、お大事に。ではこれで」
「どうもご丁寧に…って、どこ行く気?」
「あら、やっぱりバレちゃったわね」
ビシと竹刀を構えた、片目のちさとのその姿は、曹魏の盲夏候を彷彿とさせる。
「これまでの刺客を退けてきたあなたの実力、私が試させてもらうわよ!」
凄まじい気迫とともに、志摩子に迫るちさとだった。
「へぇ、そんなことがあったんだ」
「さすがは志摩子さんってところね」
志摩子と瞳子の話を聞いた、紅薔薇さまこと福沢祐巳と、黄薔薇さまこと島津由乃は、流石白薔薇さまと、大いに褒め称えた。
この志摩子の行動は、のちに『五関突破』又は『志摩子千里行』と呼ばれ、その武勇の程を、リリアンに大いに知らしめることになったのだった…。