【1553】 夢の終わりやり直し  (沙貴 2006-05-29 08:44:34)


 ※ 完全オリジナルです。
 

 世の中に胡散臭い言葉は数多い。
 胡散臭いということは、その言葉には何かしらの下心があるということ。
 転じて人の悪意が根底にあるということになる。
 
 それは例えば三週間くらい続く「今週限りの大特価」セールだったり、「食事療法なし、毎日五分の簡単な運動で激ヤセ!」な運動器具だったり。
 客(カモ)にお金を沢山落としていってもらおうとする店側の戦略とも、良いものをより多くの人の手に渡したいという営業者の努力ともいえる。
 仮に誰かがそれを悪意というなら、他の誰にもそれを否定することはできない。
 善悪の判断は本人にしかできないからだ。
 
 だから彼女、神楽坂 聡美(かぐらざか さとみ)は、どんな胡散臭い言葉もできる限り好意的に捕らえようとしてきた。
 勿論実際に経済的な影響が発生したり、あからさまな悪意から来たりしているものに関しては慄然と拒否をして。
 しかし多少の努力で克服できたり、ささやかな労苦だけで誰かを喜ばせたりできることなら彼女は喜んでその口車に乗ってきた。
 ボランティアの慈善活動や募金、「あなたの幸せを祈らせてください」などなど。
 
 しかし。
 
「あー。実は俺、魔法使いだから」
 
 の一言には、彼女もフォローの言葉が見つからずに固まってしまったのであった。
 
 
 時は僅かに遡る。
 時刻は夕暮れ。場所は駅前のロータリーまで直結しているやや寂れた商店街のアーケード。
 体調不良を理由に(即ち仮病で)早引けした彼女は、本日発売の新刊図書に思いを馳せつつ家路に付いていた。
 
 聡美は軽くパーマをあてたウェービィなボブを明るい栗色に染めている、二十五歳の独身女性だ。
 1DKの一人暮らしで恋人は居ない。家族は同じ市内に住んでいるが、色々あって現在は疎遠になっている。
 今日の服装は薄茶を基調にダークグリーンがアクセントに加わった、少し皺のよっているビジネススーツ。帰宅には少し早い夕方の斜陽におぼろげな陰影を刻んでいた。
 勤務先は社員三十名程のソフトハウス。零細とはいわないまでも中小でいうなら小に入る程度の株式会社だ。
 仕事内容は主に事務、及びまぁ、体の良い使い走り。
 社員の多くが血眼になって、パソコンに英語だか何語だか(一度質問した時はA言語だかB言語だかと説明された。良くわからない)を一心不乱に打ち込む中、のんびりと社長のお茶を汲んだりしている。
 流石に月中ともなると月の締め作業に忙しくなるが、暇な時はとことん暇な仕事である。
 
 だから今日の早引けもあっさり申請が通り、彼女はウキウキと駅に向かっていた。
 目的の書店は、いつも通勤に使っている駅とは別の駅前にあるショッピングビルの三階。
 本を買った後は二階のカフェでお茶をしてのんびりしよう。
 ああ、そういえば昨日のシーザーサラダで野菜が尽きてしまったから、帰りしなに買っておかなきゃ。
 そんな風に、贅沢ではないがやや優雅なアフターファイブに思いを馳せていた時だ。
「これこれそこなお嬢さん。今、あんたは悩みを抱えているね?」
 そんな声が聞こえたのは。
 
 肩に引っ掛けていたショルダーバッグの紐を持ち直して声の聞こえた方を聡美が振り向くと、一人の占い師が道の反対側から彼女を見やっていた。
 すぐに占い師と判ったのは、手相観や易者が良く路上に出している白いクロスの掛かった小さなテーブルの上に、座布団に乗った水晶玉がぽつんと置かれていたからだ。
 虫眼鏡も山ほどの棒もない。その上で水晶玉と来れば、もう占い師以外の選択肢は無いだろう。
 でもまるでコントに出てくるような占い師ね。水晶玉の占いなんて今時やっているのかしら。
 聡美が些か失礼な感想を胸中で浮かべていると、占い師は興味を引けたと思ったのか彼女を手招きした。
 腕時計に視線を落とすと、本屋とカフェの閉店時間まではまだ時間がある。
 溜息一つ吐いて、聡美は足の向く先を変えた。
 
「まぁまぁ、かけて。先ずはお仕事お疲れ様」
 酷く気安く椅子を勧めた占い師に聡美は一瞬怪訝な顔をしたが、人懐っこくにこっと笑った彼の表情に毒気を抜かれた。
 彼女が渋々ながら安物のパイプ椅子に腰を下ろすと、占い師は更に嬉しそうに笑う。犬みたいだ、と漠然と聡美は思った。
 その占い師は随分若く見え、聡美よりも年下なのは間違いない。
 髪はもう殆ど金髪に近いくらいの激しいブリーチを掛けていて、伸びた前髪で目を完全に覆い隠していた。
 左耳にずらっと並んだピアスは五、六個もある。
 彼が着ていた大きめの真っ黒なTシャツには白文字極太のゴシック体で「I Love Lansing」と書かれていた。
 椅子を勧める際に伸ばしてきた右手首にはチープで分厚いシルバーのバングル。その上にはチェーンのブレスが三重に巻かれ、五指には全てリングが嵌っている。
 占い師には見えなかった。
 どー見ても見えなかった。
 
「あ、今、俺のこと占い師には見えないって思ったでしょ?」
 すると、心の中を呼んだように占い師が言う。
 全くその通りだ。その通りだけれど――
「ええ、でもそれを言い当てたからってあなたを信頼する訳じゃないわよ。今日日、悩みを抱えていない人を探す方が大変だし……あなたの身形じゃ誰だって占い師には見えないって思うからね」
 と、聡美は先にジャブを打ち込んでおく。びしりと占い師の笑みが凍った。
 ひゅるりと春先の冷たい風が吹く。
 どこか遠くで車のクラクションが鳴った。
「は、はは、手厳しいな。ま――ま、ま、それは置いておいて。じゃ適当なパフォーマンスは止めて本題に入ろうかな」
 パフォーマンス?
 聡美内部で不審レベル(最大値10)が3から5に上昇した。
「俺は一応占い師なもんで、占いをするから金をくれ、という話になる。そのついでに明日を生きるアドバイスとかを少々。お代はシンプルにワンコイン五百円、どう?」
「どう? と言われてもね」
 意外に真っ当な方向に話が進んだことに聡美の不審レベルは2まで下降したが、それはそれで返答に困ってしまった。
 別にアドバイスがないと明日が生きていられない訳ではないし、占って欲しいことも特には無い。
 悩みはあるが、基本的に未来への羅針盤である占いではどうしようもないことだからだ。
 
 ならばさっさと話を終わらせて本屋に向かえば良いのだが、そこはそこ、神楽坂 聡美である。
 ワンコインで眼前のフリーター(に違いない)が喜ぶなら協力してやっても良いし、占い自体も決して嫌いでない。
 大人しく健康運とか今日の晩御飯の献立は何にすれば良いかとか占ってもらおうか。
「じゃあ――」
「占いじゃなくても良いぜ。相談乗るし愚痴聞くし、逆ナンなら大歓迎! その場合は金は要らないからさ」
 仏心を見せようとした瞬間にこの台詞。
 不審レベル2 → 7。
「さて、それじゃ私は行くわ」
「わー待て待て! 冗談! ジョーク! イッツ・ジョーク! 逆ナン待ちなら流石に場所選ぶって!」
「……その言い方もムカつくわね」
 つまりこの辺り(聡美の通勤地帯)にはロクな女が居ないということで、この辺りに生息している聡美としては大いに異議を唱えたいところだ。
 まぁ、金髪の若造に声を掛けるほど落ちぶれたくはないけれど。
 しかしやっぱりその一言で毒気を抜かれた聡美は、一度浮かした腰を再び椅子に下ろす。
 これがもし占い師の手であるとするなら中々の策士、不審レベルはとりあえず8に上げた。
「悩み自体はあるんだろ? 占いたいことがないなら愚痴ってってよ。俺の稼ぎ時は本格的なアフターファイブだから、今は暇なんだ」
 占い師はそう言って、にっと笑う。
 
 聡美は腕時計をもう一度見た。当然先ほどから殆ど変わっていない、本屋の閉店時間はまだまだ後だ。
「あなたも相当暇人ね……愚痴ってどうにかなるものじゃないと思うけど」
 と聡美は前置きしたものの、それが話し始める序文であることは占い師にもすぐわかる。
 彼は黙って先を促した。
「片思い中なの。在り来りだけどね」
「おお、良いねえ。初々しい」
 思わず合いの手に入った彼の言葉、年下から言われた「初々しい」の一言に聡美の口元が引き攣る。
「あんた人のこと馬鹿にしてる?」
 ぶんぶんと首と手を振った彼に、はぁと溜息をぶつけて彼女は続けた。
「ま、会社の後輩でね。可愛い子なんだけどなかなか鈍で困ってるの。まぁそれが焦らされてる感じでまた可愛いんだけど」
 視点を占い師背後の壁に固定し、聡美は熱に浮かされたように饒舌に語る。
「元々奥手なのよね、彼。真面目っていっても良いのかな? 仕事が好きで好きで仕方ないって感じはしないんだけど、仕事中はもう雑念ゼロって感じでパソコンに齧りついてるし、帰りも基本的には遅いわ。雑談を振ればある程度までは乗ってくるけど、そこまで。後は仕事って感じ? 多分サボり方を知らないのね。先輩見りゃ、どの辺りまで手を抜いて良いかくらいすぐに判りそうなもんだけど……いや、判ってもサボれないのかな。性格上。因果な性格よね」
 聡美はヘンなスイッチが入ったことをすぐに自覚したが、こうなると大概にしてもう遅い。
 愚痴に主観も大いに交じってきている、つまりが恋する乙女の妄想炸裂である――乙女というには、やや”とう”が立っているが。
 
「私は事務員、彼はプログラマー。職場は同じでも接点はあんまり無いんだ。私の方が先に来て、私の方が先に帰る。二人きりになるようなシチュエーションはそれこそデートにでも誘わないとね。ああ、後は時々する会社での飲み会の、二次会とかかな。私、基本的に二次会はチギるんだけど、彼が入社してからは頑張って残るようにしてるから。その時は結構話したりもできる。でもそれくらい。年上で事務員の私から露骨に誘うのもねー……引かれても困るし」
「はー。そりゃ確かに愚痴っても仕方ないな」
 聡美の長台詞が一段落した丁度のタイミングで占い師は言った。
 髭を生やしても居ない顎を擦り擦り、少し呆れたように。
 聡美は眉を寄せて答える。
「だから愚痴ってどうにかなるものじゃないって言ったでしょう」
「いや。そうじゃない。カレシがどうこうじゃなくてさ、あんたがハナから諦めてるからだよ」
 
 ぎゃあぎゃあとカラスが鳴いた。
 車のブレーキ音がけたたましく響く。
 伸びた前髪の向こうで光る占い師の目は、聡美に見えなかった。
「良いじゃん、引かれても。アプローチもしないまま告白待ちなんて有り得ないって。そんなことしてる間に他の女に取られるぜ、カレシだって会社以外の繋がりあるんだろーし。カレシ、地元こっち? それとも田舎から出てきてんの?」
「……こっち」
 神経を逆なでする口調と台詞だが、占い師は反論しようにも反論できないことを言ってくる。
 イラつきつつも、聡美は素直に答えた。
「あんまり。時間ないんじゃない? 地元が田舎ならガッコ時代のダチは置いてきぼりだろーけど地元こっちってことは、中坊高校時代のダチも結構いるってことでしょ。こっちに。合コン誘い放題誘われ放題、同窓会なんかも意外にヤバいぜ。ぼーっとしてれば掻っ攫われるだけ」
「……うっさいわね」
 気にしていることをいちいち突っついてくる占い師。
 心を言い当てていると言うよりは、割と的確な状況判断だ。こういった愚痴も聞きなれているのかもしれない。
 聡美の中で彼の不審レベルが急激に下降した。1。
 
「それで良いんなら良いんだろーけど。それならそれでさっさと視点切り替えた方が、少なくともあんたの為にはなりそうだ。さっきも言ったけど、待ってるだけじゃ白馬の王子様は現れない」
「判ってるわよ! そんなこと」
 思わず声を荒げて聡美は反論する。
「諦められるならとっくに諦めてるわ。私は年上趣味なの、本当はね。……でも」
「好きなのか」
 言い澱んだ彼女の後を占い師が継いだ。
 聡美は否定しなかった。
 
 好いた惚れたに明確な理由はない。
 好きになったらおしまいだ、そこにはどんな倫理も論理も通用しなくなる。ただ好き。
 幻想を相手に抱きもするし、妄想と判っていても勝手な幸せ未来予想図を空想する事は止められない。
 聡美は久しぶりにそれを実感していた。
「接点がないとか、どうしようもないとか。そんなことと、好きだの嫌いだのってことは関係ないの。私、馬鹿だから」
 そう自虐気味に言って笑う聡美。
 占い師は眼前に垂れた己の髪の奥からその作り物の笑みを眺めていた。
 
 彼は言う。
「生年月日」
「え?」
「生年月日は判るか? カレシの」
 不意に問われた質問の意図を計りかね、聡美は軽く首を傾げた。
 彼は続けて問う。
「生年月日と名称を教えてくれるなら、気休め程度のオマジナイをしてやれるぜ。占いよりは今のあんたに必要だろ?」
「オマジナイ?」
 随分昔懐かしい単語を聞いた、と聡美は小さく笑った。
 しかし占い師は大真面目に頷く。
「そう。一気に結婚まで突っ切ってハッピーエンド、ってのもできなくはないけど味気ないだろ? だから気休め程度のやつをね。どうだい、現状に甘んじ続けるのは本意じゃないんだろ?」
 聡美は彼の真意を伺おうとじっと顔を睨んだが、真剣そのものである表情から悪意は感じられない。
 馬鹿にしている風もなかった、ただ、目が見えないことだけが気がかりだった。
 
 数秒の間が空く。
 
 聡美はそっと答えた。
「高科(たかしな)君。高科 真一郎(しんいちろう)。昭和五十九年九月二日よ」
 占い師は頷いて、更に問う。
「あんたの名前と生年月日をどうぞ」
「神楽坂 聡美、昭和五十六年六月十七日」
 すると占い師はほう、と感嘆の息を漏らした。
 その溜息がどういう意味かは聡美に知る由もなかったけれど、彼はにぃっと口元を吊り上げて笑う。
「良いんじゃねぇか? 相性は兎も角悪くないと思うぜ――俺からすりゃね」
 そして、左掌を聡美の眼前で広げた。
 細い、若者らしい華奢な指先だ。怪しげな文様が刻まれているでもない、ただの普通の掌。
 
「サトミ・カギュラツァカ・リヴ・エブ・デティーフニ・モルフ・シィニチロ・タカシィナ・ヴォーロモット……エフ・リヴ・エブ・ヨレェフ・デッセレティニ・ニィ・レフ……ツィ・シィ・ツノイツィッヴスニ・オット・エソポルプ・オット・レフ」
 
 そして日本語ではない、英語でもない言葉を占い師は綴った。
 独特の響き。
 まるで言葉自体が意志を持っているかのように、優しく聡美の鼓膜を振るわせる。

 一瞬、意識が遠くなる。
 しかしすぐに舞い戻った。

 続いて占い師は手を下げ、机の下から小さな皮袋を出したかと思うと、机の上にその中身をそっと出した。
 白い粉(何かは判らない)が小さじ一杯程度山盛りになる。
 占い師はそれが飛んでいってしまわないように風上に右手を置いて、言った。
 
「レドヴォップ・リヴ・エカン・タフト・スデラヴ・ラーエ……リア・エフト・セルブオート・エラ・デラエルク・ヤーマ・デナ・エフト・イツェフポルプ・シィ・デル・オット・ツネーメフィフカ」
 
 そして机の下に再度手を入れた彼が今度取り出したのは、ビニールの小袋とホッチキス。
 急に庶民的なアイテムが視界に入って、聡美はどこか微笑ましくなって笑った。
 占い師は小出しした粉をビニールの袋にサラサラと詰め、三度折り返した後でパチンとホッチキスで止める。
 机に置いたそれを聡美の方に向けて差し出して、言った。
「ほい。とりあえずコレを明日、香水と一緒に耳の裏とかにつけて行きな、良いことあるぜ。ああ、無臭で肌に害は無いけど飲んじゃだめだ。目に入ったら水道水ですぐに洗って、痛みが残るようなら眼科へな」
 そして袋から話した手を裏返し、首を軽く傾げる。
 彼の言わんとするところを察した聡美は苦笑して、ハンドバッグから財布を取り出した。
 結局口車に乗ってしまったのだろうか。
 
 五百円玉を彼の掌に乗せて、彼女は問うた。
「これ本当効くの?」
 そうして彼は、言ったのだ。
「あー。実は俺、魔法使いだから。信じて良いぜ」
 不審度1 → 10。
 思わず顔を引き攣らせ、聡美は乾いた笑いを小さく上げた。
 
 
 〜〜〜
 
 
「でね、もう真君ったらその時の反応が可愛いのなんのって。もーあの時は本気で理性が崩壊してさ、終電もう良いやーとか思ったんだけど。JRが終電五分遅れとか有り得なくない? 気が利かないったらないわ、お陰で普通に帰るしかなくなっちゃったんだから。まぁ? そりゃ一回目のデートでってのはアレかも知れないけど、あーゆーのに場の空気とか流れって重要じゃない。あと既成事実とか」
「いや、あの、ちょっとぶっちゃけ過ぎだから……」
 饒舌な聡美の長台詞を、心持仰け反って占い師が遮った。
 渾身の惚気を中断させられた聡美は不満げに一瞬顔を顰めた――が、すぐににへらっとだらしなく笑う。
 それは彼女らが出会った日の翌々日のこと。
 またしても早引けした聡美は占い師のところを訪れていた。
 ちなみに今日の彼のTシャツは「I Love Phoenix」だ。
 
 占い師の「オマジナイ」通り、聡美は翌日の昼休みに真一郎から夕食の誘いを受けた。
 そして平日ではあったもののそのまま洒落たバーで終電まで飲み語るという、判りやすいデートをしたのだ。
 その時に彼を「真君」と呼んで良いという許可を得、「また誘いますね」という嬉し過ぎる言質すら手にした。
 今までの不遇からすれば流石に浮かれもしようというもの。
「あなたのオマジナイのお陰かしら、まさか彼の方から誘ってくれるなんて思いもしてなかったもの。あの時はもうちょっと本当――」
「判った、判った。まぁ効果あったんだろう? 良かったじゃないか。後はあんた次第でどうにでもって感じか」
 再び惚気モードに入りかけた彼女を押し止め、占い師は言う。
 
 しかし、それを聞いた瞬間に聡美の顔に陰が落ちた。
 本来なら彼の言う通り、切っ掛けを手にした以上は聡美次第である筈なのだが。
 聡美は首を横に振る。
「それが……今日の真君はまた前と同じような感じになっちゃって。こっちを見てくる訳でもないし、誘ってもくれなかったし……」
「昨日今日の話じゃないか。カレシだって連日デートには誘えないだろ、金の問題もある」
「昨日今日の話だからこそよ。何も誘えとは言わないけど、話題を振ってくれたりしても良いじゃない」
 聡美の発言には小さな矛盾がある。
 占い師は敢えてそこを指摘はせずに置くと、聡美は言った。
 
「オマジナイは、二回目も五百円なの?」
 
 ひゅうと風が吹いて、テーブルクロスがはためく。
 占い師は静かに頷いた。
 即座に聡美は問う。
「あの粉、副作用とかって……本当に無いの?」
 占い師は再び頷いた。
 そして答える。
「あの粉はオマケみたいなもんだ。言っただろう、俺は魔法使いだって。あんたに掛けた言葉の方が主なんだ」
 
 すると聡美はスーツのポケットから一枚の銀貨を取り出して、机に置いた。
 占い師はそれをじっと見る――伸ばした前髪の奥から。
「もう一度掛けて。私に、あのオマジナイ……魔法を」
 占い師はそっと彼女の眼前に左掌を広げた。
 問う。
「一昨日のアレで良いんだな」
 
 間。
 
「サトミ・カギュラツァカ・リヴ・エブ・デティーフニ――」
「待って」
 
 更に、間。
 
「他に何ができるの」
「何でもできる。俺は魔法使いだから」
「五百円で?」
「五百円で」
 子供からすら失笑を買いそうな程に滑稽なやり取りが続く。
 しかし占い師は勿論、聡美は真剣な表情だ。
 
 更に更に、間。
 
「真君が私を愛するように、とも?」
 占い師は頷いた。
 ただ、頷いた。
 
 そして。
 聡美は。
「サトミ・カギュラツァカ・リヴ・エブ・デフォル・モルフ・シィニチロ・タカシィナ……エフ・リヴ・エモッツェブ・オット・エスィム・レフ……デナ・ツィ・ツンシード・エゲナフツェ・ヴィ・ゲニスポルプ」
 一方的に、不可思議に、絶対の力を以って。
 理不尽に、彼の愛を手にしたのだった。
 
「レドヴォップ・リヴ・エカン・タフト・スデラヴ・ラーエ……リア・エフト・セルブオート・エラ・デラエルク・ヤーマ・デナ・エフト・イツェフポルプ・シィ・デル・オット・ツネーメフィフカ」
 眼前で再び粉がビニールに詰められるのを、聡美は心臓を破裂させそうな動悸と共に眺めていた。
 
 
 〜〜〜
 
 
「本当ありがとうね、占い師さん。いや、魔法使いさんの方が良いのかしら? 昨日、正式に真君からコクられちゃったわ」
 聡美はそういって朗らかに笑い、占い師の手を両手で掴んでぶんぶんを振った。
 時は彼女らが初めて出会ってから約二週間後、最後に会ってから一週間と少し経ってからのこと。
 今日の彼は「I Love Manaus」。主要都市はとことん外したいらしい。
 占い師は苦笑う。
「そりゃおめでとう……というべきなのかな。そうするように仕向けたのは俺だからなぁ、めでたくも何ともない気がするが」
 聡美は首を横に振った。
「ううん、そんな事ないわ。きっとあなたのお陰に違いないから。本当にありがとう、千円でこんなことまでしてもらって本当に良いのかしらって思うわ」
「何言ってるんだ、千円でも貰い過ぎなくらいだろ。怪しげな言葉を二、三言うだけにしてはボロい商売だと思わないか?」
「でも、魔法なんでしょう?」
 
 浮かれて、聡美はそう言った。
 占い師は一瞬言葉に詰まったが、頷く。
 はっきり。二度、頷いた。
「そうだ。魔法だ。誰も否定できないし拒否できない、限られた人間だけが知る世界の式だ」
 聡美は笑って言った。
「もう無いと思うけど、また何かあったらよろしくね」
「五百円はちゃんと貰うぜ」
 軽く言った彼の言葉を、聡美は軽く聞き流した。
 
 
 〜〜〜
 
 しかし己が台詞とは裏腹に、聡美はそれからも幾度か占い師の元を訪れた。
 
「もー、ちょっと聞いてよ。何かさー最近プログラマーの新橋(しんばし)ってやつが良く話しかけて来るのよね。ウザイだけだっつーのに、全然気付かないでさ。真一郎と話してても割り込んでくるってどういう了見なのかしら。場の空気を読まないとかそんなレベルじゃないのよねー、真一郎の鈍は最近治ったんだけど、他人にそれが伝染しなくても良いと思わない? もうサイアクよ」
 
 「I Love Cuiaba」を着た占い師に畳み掛けるように言った聡美は、五百円を差し出して言った。

「どうにかしてくれない? 新橋 浩介(こうすけ)って言うんだけど」
 
 
 或いは。
 
 
「田中 芽衣(たなか めい)って子が最近真一郎にちょっかい出してるっぽいのよね。勿論真一郎は見向きもしてないんだけど、見てて腹立つからさ」

 彼女が放ったコインが、ちゃりんと机の上で音を立てる。
 「Porto Alegre」を愛する占い師はそれをそっと手に取った。
 
 
 など、大小含めて様々な願いと五百円玉を握り締めて。
 いけないことだと判っていつつも、ワンコインの気楽さに負けて彼女は通う。
 
 
 〜〜〜
 
 
「ねぇ」
 
 けれどそんなある日。
 聡美はいつものようにアーケードの下に居た。
 彼女の眼前には、これもいつものように「I Love Santos」な占い師。
 彼の魔法に頼るようになって約三ヶ月、聡美はその魔法により多くの望みを叶えてきた。
 だからこの日もまた何か願い事かと占い師が椅子を勧めると、聡美は首を横に振ってそれを断った。
「あんた……真一郎に何したの?」
 冒頭から飛んできた、今更な質問に占い師は首を傾げる。
 聡美は続けた。
「昨日ね。ちょっと私機嫌悪くてさ。イチャモンつけて真一郎に色々言っちゃったのよ。彼、何も悪くないのに」
「色々?」
「色々。酷いこと」
「酷いことって?」
 聡美は押し黙った。
 言えなかった。とてもではないが、再び口にできるような言葉ではなかった。
 
 占い師は再び首を傾げた。
「まあ良いけど……それで? あんたとカレシの間に何か問題が?」
「……いいえ。何もないわ。夜に彼の方から電話があった。許して欲しい、って」
 「じゃあ良いじゃないか」と彼が肩を竦めると、聡美は首を横に振った。
 激しく振った。
「おかしいわ。私が一方的に無茶を言って、酷いことをしたのに。どうして真一郎が謝るの? しかもあんなに早く。おかしい、普通じゃないわ」
「普通じゃないに決まってるさ」
 
 占い師は即答した。
「今のカレシはあんたを愛するようにあんたが変えたんだろう。それで喧嘩なんてされたり、愛が否定されたりなんかしたら俺の信用問題だ。有り得ないね」
 聡美は口篭る。相変わらず彼は正しいことしか――反論できないことしか口にしない。
「彼は、どうなってるの」
 だから聡美は、ただ問う。
「あんたを愛している」
 そして占い師は端的に言い切った。
 その言葉こそに聡美はぞっとする。その通り、その通りだったから。
 真一郎は聡美を愛している。それ以上でも以下でもない、愛している。
 その根底に理由はなく、何の観念もない。彼はただ彼女を愛している。
 だから聡美はぞっとする。
 誰かを好きになることに理由はなくとも、家族以外を愛することに理由はある筈だから。

 愛は無償でなければならない。でもそれは理想だ。
 宗教家なら兎も角、一般人である聡美や真一郎にその信条は無い。実践できる筈がない。
 だが今の真一郎は、正にそれだ。彼女を無償で愛している。恐らく、彼女が死ねといえば彼は喜んで死ぬだろう。
 果たして。
 ”それ”は真一郎なのか?
 彼女が恋した高科 真一郎なのか?
 
「どうして……どうして、こんなことに」
「あんたが願ったんだろ。五百円でさ」
 呆然と呟いた聡美の言葉に、占い師は律儀にも答えてくれた。そしてそれがまた一層に彼女の胸を刻む。
 そう、彼女が願ったからだ。
 彼に自分を愛して欲しいと願ったからだ。
 だから彼は変わった。彼女を理不尽に愛するようになった。
 聡美は、高科 真一郎という一個人を否定したのだ。
 対価に僅か五百円を支払って。

 五百円を支払って! たったそれだけで!
 一人の人格を否定した金額がワンコイン。
 聡美は打ち震えた。
 
 
 初夏の夕暮れ、ひゅるりと寒い風が吹く。
 季節外れの突風、穴の開いた聡美の胸を突き抜けるように。
 
 
「――て」
 気付けば、聡美はその場に蹲っていた。
 ぺたりと尻餅をついて、膝と腰からは完全に力が抜けてもう入らない。
 全身を満たした自責に四肢が振るえ、金額と効果の異常なる釣り合いに恐怖した。
 これが魔法。
 抗えない世界の式。
「戻して……許して! ああ、戻して! 真一郎を、私を、何もかも戻して! こんなの、こんなのっ!!」
 人目も憚らず、聡美は叫ぶ。
 ぼろぼろ涙が零れて止まらなかった。
 申し訳なかった。
 哀しかった。
 何より怖かった。
 怖かった。
 
 自分の思い通りに人を変革できる魔法が。
 その魔法により頼んで、思い通りに人を変革してきた自分が。
 
「了解、それじゃあ何もかも戻そうか」
 けれど、占い師は端的に了解の意を告げる。
 真一郎を変革させた時、或いは芽衣を退職させた時と何ら変わらない口調で。
 彼に取っては真に、怪しげな言葉を二、三言うだけのことなのだ。
 彼の唇が言葉を刻むだけで世界はこんなにも簡単に変革する。
 それこそ恐怖の根底だが、しかし、今の聡美にはそんなことはどうでも良かった。
 ただ。
 ただ、真一郎が戻るなら。
 これまでの彼女の願い、自己中心的で理不尽な願いが清算されるなら。
 
 占い師はそして、言う。
「お代はシンプルにワンコイン。さ、五百円出してくれ」
 
 世界を崩したのが五百円なら、世界を戻すにも五百円。
 絶望すら伴うその低レートに聡美はもう、声も無かった。
 
 そして占い師は呪文の詠唱を始めた。
 「サトミ・カギュラツァカ・スンルーター・ニィ・エフト・ツサッフ――」

 
 一瞬、意識が遠くなる。
 
 
 〜〜〜
 
 
 しかしすぐに舞い戻った。
 
 彼女の眼前には広げられた左掌。
 見慣れた占い師の綺麗な手だ。
 聡美はぼうとそれを眺めていた。
 舞い戻った意識が――落ち着かない。
 眠ってしまっていたような、気がする。判らない。良く、判らない。
 ただ、心地良い占い師の呪文に頭がぐらぐらした。
 
 続いて占い師は手を下げ、机の下から小さな皮袋を出したかと思うと、机の上にその中身をそっと出した。
 白い粉(何かは判らない)が小さじ一杯程度山盛りになる。
 占い師はそれが飛んでいってしまわないように風上に右手を置いて、言った。
 
「レドヴォップ・リヴ・エカン・タフト・スデラヴ・ラーエ……リア・エフト・セルブオート・エラ・デラエルク・ヤーマ・デナ・エフト・イツェフポルプ・シィ・デル・オット・ツネーメフィフカ」
 
 そして机の下に再度手を入れた彼が今度取り出したのは、ビニールの小袋とホッチキス。
 急に庶民的なアイテムが視界に入って、聡美はどこか微笑ましくなって笑った。
 そしてそれで一気に意識が覚醒した。
 占い師は小出しした粉をビニールの袋にサラサラと詰め、三度折り返した後でパチンとホッチキスで止める。
 机に置いたそれを聡美の方に向けて差し出して、言った。
「ほい。とりあえずコレを明日、香水と一緒に耳の裏とかにつけて行きな、良いことあるぜ。ああ、無臭で肌に害は無いけど飲んじゃだめだ。目に入ったら水道水ですぐに洗って、痛みが残るようなら眼科へな」
 
 彼のTシャツに書かれている文字は「I Love Lansing」。
 会う度に変わっていた都市の名前の中で、彼女が最もはっきり覚えている名の都市だ。
 初めて会った時のTシャツ。
 だからたった今盟約がなされようとしているのは、「明日、神楽坂 聡美は高科 真一郎からデートに誘われる」こと。
 戻ったのだ。
 彼の言葉通り、五百円を対価に彼女は再びこの時間に戻ったのだ。
 
 差し出されたビニールの袋を聡美はじっと見詰める。
 真一郎――否、今の時期では高科君、と呼んでいたか。彼とデートするための特急券が目の前に置かれていた。
 聡美はそれにそっと手を伸ばして。
 
 つい、と占い師の方に押し返した。
 言う。
「ごめんなさい。やっぱり結構だわ」
 
 占い師が固まる。
 露骨に引き攣った口元が、彼女の行動が全くの規定外だったことを告げていた。
「魔法の力なんかに頼っちゃいけないのよ。そうやって操作した彼は、彼じゃなくなってしまうもの」
「た、高々一回のデートくらいでそんな大仰に考えなくても。気休めだっつったろ?」
 五百円が惜しいのか、占い師はそう言ったが聡美ははっきりと首を横に振る。
「一回のデートも結婚の約束も、強制する時点で同じことよ。お人形遊びでしかないわ」
 
 言って聡美は立ち上がる。
 愚痴を聞いてくれた礼に五百円くらい置いていこうかと思ったけれど、止めた。
 置いていってはいけないと思った。
「じゃあどうするんだ? 諦めんのか?」
 占い師が問う。
 聡美は再び首を横に振った。
「明日私からデートに誘う。断られたら、そうね、明後日デートに誘うわ。私か彼のどっちが根負けするかってね」
 
 にっこり笑い、そうして聡美はその場を後にする。
 背中越しに軽く片手を上げて、占い師に訣別の挨拶をして。
 もう振り返らなかった。

「アー・シガム・アー・エルティル・エリィフ・オーガ・シィ・デレクナック」

 やがて、背後から溜息混じりのそんな言葉が聞こえた。
 意味は判らなかったけれど、きっと魔法のキャンセルなんだと思った。
 聡美の足がより軽くなる。
 
 
 聡美は夕焼けの中を力強く歩む。
 ショッピングビルで新刊図書を買って。
 カフェでお茶をして。
 スーパーで野菜を買って。
 そして、明日に備えて今日のお風呂とケアを念入りにしなければならない。
 やるべき事は一杯だ。
 
 あれは白昼夢だったのか、本当の現実だったのか。
 ただ、夢のような世界だったと思う。吉夢のような、悪夢のような。
 自分の思うようなことが、何でも叶う。
 しかも五百円のワンコインという破格の値段で。
 でもきっとそんな世界には、やっぱり五百円のワンコインくらいの価値しかないんだろう。
 五百円の高科君。
 五百円の新橋さん。
 五百円の芽衣ちゃん。
 そして五百円の聡美。
 そんなもの、どれもこれも願い下げだ。
 
 聡美はだから、ブラウンのウェーブを揺らして夕焼けの街を颯爽と往く。
 自分の思い通りにならない世界を生きるために。
 価値のある――少なくとも五百円よりは価値のある明日を生きるために。
 
 なるほど、明日を生きるアドバイスか。
 不意に占い師の言葉を思い出した聡美は薄く笑って、夕暮れの空を見上げた。
 今日はもうすぐ終わる。つまり明日が近い。それが何より嬉しかった。
 
 
 ちなみに、聡美が別の用事で同じような時間帯にショッピングビル周辺に向かう時も含めて、彼女は二度とあの金髪の占い師に出会うことは無かった。
 けれどそれは聡美に取って非常な幸運であったと言えるだろう。
 聡美自身も会いたいとは思わなかったし――何より高科君改め真一郎は結構な焼餅焼きで、占い師とのツーショットが見つかろうものなら大喧嘩は免れないからだ。


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