【1555】 衝撃告白果てしなき暴走  (翠 2006-05-29 22:23:52)


 オリキャラが出ます。
 【No:1547】→【No:これ】→【No:1569】




 梅雨が明けて、晴れ渡った空の下を瞳子は歩いていた。行き先は当然、薔薇の館だ。
 瞳子は最近、館に行くのが楽しみだった。今までもそうだったけれど、今は特に。そこに行けば、あの子に会えるから。彼女とはまだ姉妹ではないけれど、そして少々変わった子ではあるけれど、それでも自分を慕ってくれる下級生がいるというのは嬉しい。
(ふふっ)
 あの子の姿を思い浮かべると、我知らず微笑が浮かぶ。雲みたいに掴み所のない少女、祝部綾乃。彼女を思い浮かべながら、瞳子は館の扉を開けた。
(あら?)
 瞳子の耳に、歌声が聞こえてきた。
 時に力強く低い声。時に透明感のある高く伸びる声。
 瞳子は目を閉じて、その歌声に聞き惚れた。
 声に合わせて、鳥の囀り、木々のざわめき、川のせせらぎ、風の囁き、あらゆる情景が浮かぶ。それは、生命の音。それは、生命の声。喜びに満ち溢れた歌声。この声の持ち主は、きっと世界に祝福されている。
 瞳子は目を開けた。
(凄い……)
 けれど、こんな声の持ち主が、山百合会のメンバーの中にいただろうか。
 歌声はまだ響いている。気を抜くと立ち止まって聞き惚れてしまいそうになる自分を抑え、音を立てないように階段を上る。
 ドキドキしながら扉をそっと開いて、隙間から中を覗いてみると、
「え?」
「は?」
 タイミング良くこちらを向いた声の持ち主と、バッチリ目が合った。
 当然、瞳子は驚いた。驚いたのは彼女も同じだったらしく、瞳子と同じように口をパクパクさせている。
 そして、
「ええええぇぇ!?」
「うあぁぁぁぁ!?」
 瞳子たちは揃って大声を上げたのだった。



「ななななな何してるんですかー!」
 真っ赤になって、あの歌声の持ち主の綾瀬さんが叫ぶ。
「ごめんなさい」
 瞳子は謝るしかなかった。間違いなく、非はこちらにある。でも考えてみれば、綾瀬さんが一人でここにいるのはおかしい。
「そういえば、綾瀬さんはなぜここに?」
 尋ねると、綾瀬さんは「ふんっ」と瞳子から顔を逸らして言った。
「あなたには関係ありません」
「私は紅薔薇のつぼみですから、関係ないなんて事はありません」
 形勢逆転。薔薇の館は、山百合会の幹部が管理しているのだ。「ふふん」と笑いながら言ってやると、綾瀬さんは悔しそうに唇を噛んだ。
「祐巳お姉ちゃんに会いに来たんです」
 瞳子から顔を逸らしたまま、渋々といった様子で答える。
「それで、勝手にここに上がり込んだわけですか」
「勝手にじゃありません! すっごく綺麗な人に、ちゃんと許可はもらいました。その人は、どこかに行っちゃいましたけど」
 すぐに誰の事か分かった。現在の山百合会に於いて、「綺麗な人」と形容されるのは白薔薇さましかいない。祐巳さまは「可愛い人」だし、黄薔薇さまは「線は細いのに逞しい人」なのだ。それに、そもそも机の上に鞄が置いてある。そこは、白薔薇さまが乃梨子と並んでいつも使っている場所だった。ちなみに、乃梨子は「日本人形」で、瞳子は「小悪魔」。過去の過ちというものは、人々の記憶からなかなか消えないものらしい。
 それはさておき、彼女の歌声は本当に素晴らしかった、と瞳子は思う。歌っていた本人は、祐巳さまを待っている間暇だったので口ずさんでいただけだろうと思われるが。
 そういえば、初めて会った時に、祐巳さまとの会話の中で綾瀬さんは合唱部だったと言っていた。今は入っていないようだけれど、あれだけの美声を持っているのに勿体ない。
「何ですか、さっきから人の顔を見て」
 不機嫌そうに綾瀬さんが瞳子を睨みながら言ってきた。ずっと綾瀬さんの方を見たまま考え事をしていたので、勘違いさせてしまったらしい。
 でも、瞳子は気にならなかった。そんな事よりも、言いたい事があった。綾瀬さんに、どうしても伝えたい事があった。
「先ほどの歌、素晴らしかったです」
「んなっ!?」
 本当の事だから、すんなりと口に出来た。
 綾瀬さんの歌声は、綾瀬さんをあれほど嫌っていた瞳子の心を動かした。自分が割と頑固で意地っ張りな事を自分でもよく知っている瞳子を、だ。
 褒められた綾瀬さんは、顔を真っ赤にして瞳子から視線を逸らしている。続けて、落ち着かないように視線をあちこちに彷徨わせ始めた。
「な、何を言うかと思えばそんな事……」
 こうしていると、年相応の子に見えるから不思議だ。
「あら?」
 ふと時計を見ると、そろそろ山百合会のメンバーが集まる時間だった。となると、いつまでものんびりいるわけにはいかない。とりあえず、お湯を沸かさなければ。
「何か飲みますか?」
「いりません」
 尋ねてみるも素っ気ない返事。
「遠慮しなくても良いですよ」
「祐巳お姉ちゃん来ないし、今日はこの後に用事があるので帰ります」
「そうですか」
 もう少し話をしていたかったので残念に思う。
 初めて会った時は嫌な子だと思っていたのに、落ち着いて話をしてみると案外楽しい。それに、こうして改めて見ると、確かに綾瀬さんは生意気だけど、それでもやはり中学生。見た目よりも言動とか仕草とか、所々に幼い所が見えて何だか妙に可愛い。
 そんな事を考えていると、荷物を纏めた綾瀬さんが椅子から立ち上がって瞳子の名前を呼んだ。
「瞳子さま」
「何です?」
 あれ? と思った。今、まともに名前を呼ばれた? まともに名前を呼ばれたのは、これが初めてのような気がする。少しは、瞳子を認めてくれたのかもしれない。益々綾瀬さんが可愛く見える。
「変な人」
「なっ!?」
 前言撤回。やっぱり嫌な子だ。何か言い返してやろうとした瞳子に、綾瀬さんは何事か呟いた。
「本当は……じゃないです」
「はい?」
 何を言ったのだろう。よく聞き取れなかった。
「今、何て言いました?」
「なっ、何でもないです! ごきげんようっ!」
 綾瀬さんは慌しく挨拶をすると、長い髪を靡かせながら逃げるように部屋から出て行った。その後ろ姿を見送った瞳子は、わけが分からずにいつまでも首を捻っていた。



「ごきげんよう、皆さん」
「もうすっかり山百合会の一員ね」
 黄薔薇さまが、いつものように遊びに来た綾乃さんを部屋の入り口で迎えた。
「ええ。後は瞳子さまからロザリオをいただくだけです。ですが、なかなか堕ちません」
 にっこりと笑って綾乃さん。
「瞳子ちゃんは手強いものね」
「はい。後は、当たって蹴散らすのみです」
「蹴散らしてどうするのよ?」
 黄薔薇さまが呆れ顔になったが、綾乃さんは全く気にしていない様子。綾乃さんは黄薔薇さまとの会話を終えると、真っ直ぐに瞳子の元へと向かって歩いてきた――が、瞳子に話しかけるよりも先に、綾乃さんが来た事に気付いていないフリをしながら書類にペンを走らせている祐巳さまへと話しかけた。
「祐巳っち。私って、そんなに迷惑?」
「ううん、綾乃ちゃんの事は空気みたいなものだと思っているから平気」
「そっか。じゃあ、吸って」
「……」
「ほらほら、私を吸ってー」「ごめんなさい許して」「私の勝ちー」「何でいつも私を苛めるの……」
 瞳子は、目の前でじゃれ合う二人を複雑な想いで眺めていた。従姉妹同士とはいえ仲の良い二人を見ていると、自分だけ取り残されているように錯覚してしまうのだ。
「瞳子さま、どうしたの?」
 瞳子の様子に気付いた綾乃さんが話しかけてくる。見れば、祐巳さまも心配そうに瞳子を見ていた。
「いえ。綾乃さんは、本当に祐巳さまの事が好きなんですね、と思いまして」
「じぇらしー?」
「……まさか」
 笑って返そうとしたけれど、瞳子はぎこちなく笑う事しかできなかった。
 綾乃さんに対しては、嫉妬などしていない。それは、祐巳さまと自分の絆を信じているからだ。だが、祐巳さまに対しては違う。それは勿論、祐巳さまが綾乃さんを取ると思っているからではない。綾乃さんが、瞳子の妹でも何でもないからだ。今は慕ってくれているけれど、明日にでも心変わりして離れてしまうかもしれない。
「大丈夫。私が夢中なのは瞳子さまだけだから」
「前にも言っていましたわね」
「本気だから何度でも言える」
 綾乃さんは、そう言って瞳子を見た。黒曜石を嵌め込んだような瞳で、少しも照れる事なく、真っ直ぐに瞳子を見て。それは、瞳子が好きな、瞳子だけに見せる綾乃さんの真剣な表情。瞳子はそれを正面から受けて、思わず赤くなった頬を両手で隠した。
(こ、こんな不意打ちは卑怯ですわ)
 と、そこに祐巳さまが横から綾乃さんに声をかけた。
「ちょっと綾乃ちゃん。瞳子を独り占めしないでよ」
「祐巳っちと一緒になって愛でる事にする。それならOK?」
「それなら良いけど」
「何て会話をしてるんですかっ!」
 完熟トマトみたいに真っ赤になったまま、瞳子は思わず全力で叫んでいた。



 仕事が終わり、皆が思い思いに寛いでいると、
「今日も一日お疲れ様」
 綾乃さんが、この場にいる全員に向かって挨拶した。
「そういえば、綾乃ちゃんって美術部の方には出なくても良いの? いつも、こっちにばかりいるけど」
 友人の乃梨子が尋ねたその内容に、瞳子はお茶を淹れる手を止めた。
 綾乃さんは、ここ最近瞳子の仕事のお手伝いをしてくれている。それはとてもありがたいのだが、ここの所ずっと薔薇の館に来ているという事は、逆に言えば美術部の方には行っていないという事になる。ひょっとして綾乃さんは、美術部の人たちと上手くいっていないのではないだろうか?
 一方、当の綾乃さんは乃梨子の疑問に対して、「近くに大会でもない限り、部員は自由にして良いので大丈夫」と何でもないように答えた。
「それに、描きたい時に描く。描くときは集中して一気に描く。これが成功の秘訣なのです」
「へぇ、そうなんだ」
「嘘です」
「……」
 感心したように頷いた格好で固まってしまう乃梨子。隣では、白薔薇さまが穏やかに微笑んでいる。とても平和な光景だった。綾乃さんは、見事に山百合会に溶け込んでいる。
「菜々さん、お疲れ?」
「少しお疲れ」
「そんな時には栄養補給。目標、由乃さま!」
「おー!」
 綾乃さんと菜々ちゃんは、二人して天井に向かって手を突き上げた。
「突撃っ!」
「突撃っ!」
「ちょっ――」
 由乃さまが二人に抱き付かれて吹っ飛ぶ。三人一緒に転がって、由乃さまは怒ったけれど、それでも最後には三人で笑っている。
(ですが……)
「祐巳っち、お疲れ?」
「すんごくお疲れ」
「そんな時には栄養補給。目標、祐巳っち!」
「ええっ!? 自分でなんて難しいよそれ!」
「突撃っ!」
「わぁっ」
 祐巳さまと一緒に床に転がる綾乃さん。制服が汚れて怒る祐巳さまに、「ごめんなさい」と謝っている。
(あの性格は何とかなりませんかね?)
 自問自答。すぐに答えが出た。無理だと思う。
 あんまりと言えばあんまりな問答に自分で苦笑いしていると、綾乃さんがパタパタと駆け寄ってきた。そのまま抱き付いてくるのでは? と身構えたのだが、目の前でピタッと止まる。綾乃さんは、悲しそうな、残念そうな、複雑な表情を浮かべて言った。
「明日から一週間くらい来れない」
「え?」
「絵を描きたくなったから」
「……そうですか」
「寂しい?」
 綾乃さんが、心配するように瞳子の顔を覗き込んでくる。
「何を言ってるんですか」
「がっくし。でも、その様子なら大丈夫そう」
 綾乃さんは、花が咲いたように微笑んだ。



 三日経った。言っていた通り、綾乃さんが薔薇の館に来なくなった。
(いたらいたで気になるし、いなければいないで気になるというのは、お姉さまと同じですわね)
 自分は、思っていたよりもずっと綾乃さんの事を気にしていたようだ。気が付けば、綾乃さんの事ばかり考えている。
「気になるのなら会いに行ってあげれば? 綾乃ちゃん、きっと喜ぶよ」
「別に私は……」
「素直じゃないね」
 祐巳さまは、瞳子を見て呆れているようだった。



 放課後。演劇部に顔を出した後に薔薇の館に向かうと、祐巳さま以外の山百合会のメンバーは既に帰宅していて、祐巳さまは自分で淹れた紅茶を飲みながらまったりと寛いでいた。そこまでは問題ないのだけれど、なぜか山百合会とは関係のない少女が、祐巳さまの横にくっ付いている。
「何ですか。人の顔をジロジロ見ないでください」
 祐巳さまの隣の椅子に腰掛けたままそう言ってくる綾瀬さんは、やはり可愛くない。三日前に見たあの可愛らしい少女は、きっと彼女の偽者だったのだろう、と無視する事にして、瞳子は祐巳さまに話しかけた。
「ん、何?」
 祐巳さまはカップを置いて、話を聞こうと瞳子に向き直る。
「綾乃さんは今日も?」
「来てないよ」
「そうですか……」
 綾乃さんは「一週間くらいは来れない」と言っていたが、彼女の事だから瞳子の様子を見るためにひょっこりと顔を出すと思っていたのだ。ところが、予想は見事に外れた上に、自分の方が綾乃さんに会いたくて堪らなくなってしまっている。
 会いに行く事自体は簡単だ。綾乃さんが山百合会のお手伝いをしていた事は、美術部の部員なら誰でも知っている。普通に訪ねて行けば良い。でも、会いに行っても彼女の邪魔にしかならないのではないか。その事が瞳子を躊躇わせていた。
 瞳子が黙り込むと、それまで大人しく会話を聞いていた綾瀬さんが尋ねてきた。
「瞳子さまは、お姉ちゃんを妹にしちゃうんですか?」
「あなたには関係ありません」
「関係あるもんっ! 私のお姉ちゃんの事だもんっ!」
「……」
 確かに、関係ない事はない。瞳子は渋々と答えた。
「まだ完全には決めてはいませんが、妹にする方向で考えています」
「そうですか……」
「何かあるんですか?」
 今度は瞳子が尋ねると、綾瀬さんは眼差しを険しくしながら言った。
「私は、瞳子さまがお姉ちゃんの姉に相応しいとは思えません」
 綾瀬さんの言葉に、瞳子の視線も自然と険しいものとなる。
「なぜです?」
「だって、瞳子サマって変だもの」
「私のどこが変だと言うんですか!」
 瞳子が声を荒げると、綾瀬さんも立ち上がって声を荒げた。
「お姉ちゃんの事が気になるのなら、会いに行けば良いじゃないですか! 何で行かないんです? 本当はお姉ちゃん事なんて、どうでも良いって思っているからじゃないんですか? だって、会いに行くだけでしょ? 凄く簡単な事じゃないですか! そんな簡単な事もできない人、私は認めたくありません!」
(この子……)
 言い方はきつかったけれど、今のは間違いなく、瞳子の背中を押すために言ってくれた。
「綾瀬ちゃんの言う通りね」
 瞳子を睨み続ける綾瀬さんの後を、祐巳さまが引き継いだ。
「瞳子は綾乃ちゃんの事が気になっていて、綾乃ちゃんに会いたいと思っている。いったいどこに躊躇う必要があるの?」
「ですが、私が会いに行っても迷惑なのではないでしょうか」
「綾乃ちゃんが、瞳子の事を迷惑に思うと思う?」
 瞳子は頭を左右に振った。あの子に限ってそれはないと思う。
「それなら話は早いわね」
「はい……」
 祐巳さまの言葉に、瞳子は頷いた。すると、二人の遣り取りをじっと見ていた綾瀬さんは、さっそくとばかりに瞳子に向かって攻撃開始。
「本当に情けない人ですね。誰かに言われないと行動できないんですか」
「あなたは、いちいち突っかかってきますわね。会いに行くと言っているでしょう」
「そんなの信じれないもーん」
 両手を頭の後ろで組みながら綾瀬さんが言う。
「くっ……」
 綾瀬さんに背中を押されるまで実際にそうだったから、瞳子は何も返せない。黙り込んで悔しがっていると、綾瀬さんは調子に乗ったらしく、「ふっふーん」と余裕の笑みを浮かべた。
「本当に情けなーい。そんなんでよく今まで生徒会の一員なんてやってこれましたね。あーあ、何でこんな人を良いなーなんて思っちゃったんだろ」
 それはきっと、悔しがっている瞳子を見て、本当に情けなく思ってつい洩らしてしまった一言。だからこそ、それは彼女の本心に違いなかった。
「え?」
 瞳子は、自分がたった今聞いた言葉を信じられなかった。でも、確かに聞こえた。この耳で、はっきりと聞いてしまった。
「今……」
「何よ?」
 自分の失言には気付いてない様子で、綾瀬さんが訝しげに瞳子を見る。
「私の事を、『良いなーって思った』って……」
「…………わあっ!」
 ようやく、自分が何て言ってしまったのか気付いたらしい。椅子から立ち上がって、しまった、という表情になる綾瀬さん。そんな綾瀬さんを見ていると、綾瀬さんの顔が徐々に赤く染まり始めた。
「ちっ、違っ、違いますっ!」
 両手を振りながら誤魔化すように大きな声を出す綾瀬さんの顔は、今にも火を噴いて倒れるんじゃないかと心配してしまうほど真っ赤になっている。
「瞳子さまの事なんか、良いなーなんて思ってません! さっきのはうっかり口が滑っただけです――って違っ! 今のなしっ! 今のは、えっとえっと、今のはその、あの、ええっと……あ、そうだ。聞き間違いです! そう、瞳子さまの聞き間違い! いくら私が本当は嫌ってないからって、自分に都合の良いように聞き間違わないでください! ……ん、あれ? ……わぁぁぁぁっ! ちっ、違います! 今のも聞き間違いですっ!」
 パニックに陥っている綾瀬さん。あまりに混乱しすぎて、近年稀に見る豪快な自爆を連鎖的に披露し続ける綾瀬さんに、瞳子はどう反応して良いのか分からず頬を掻いた。
(そうですか。本当は嫌っていないんですか……)
「何がおかしいんですか! 何を笑っているんですか! 違うって言ってるじゃないですか! 私は別に、あなたの事なんて何とも思っていません! ほっ、本当ですよっ!」
 そう言う割に、瞳子と視線が合いそうになると慌てて視線を逸らす。そんな綾瀬さんがとても可愛らしくて、瞳子は思わず「ふふっ」と声に出して笑ってしまった。
「わ、笑うなー!」
 何だか、恥ずかしさで目を回しているように見える。先ほどまでの生意気な子と、同一人物だとは到底思えない。
「うぅ〜、もう帰るっ」
 涙目になって帰り支度を始める綾瀬さん。瞳子は、そんな綾瀬さんに声をかけられずにはいられなかった。
「綾瀬さん」
「何よっ!?」
 綾瀬さんは声を荒げながら瞳子を睨んだ。でも、彼女の本心が分かった今、そんな事でこれまでみたいに腹を立てたりしない。というか、むしろ微笑ましい。
「また遊びに来てください。その時は、お茶でも飲みながらゆっくりお話しましょう」
「……ふんっ」
 綾瀬さんは荷物を持っていない方の手で赤くなった頬を押さえながら、ドスドスと大きな足音を立てて部屋から出て行った。
 その一部始終を見ていた祐巳さまは、綾瀬さんが出て行った扉に視線を向けながら言った。
「瞳子も行くんでしょ?」
「はい」
 自分のために。そして、背中を押してくれた綾瀬さんにこれ以上笑われないために。瞳子はこれから綾乃さんに会いに行く。



「祝部綾乃さんを呼んでいただけますか?」
 美術部を訪ねた瞳子は、美術室から出てきた生徒に取次ぎを頼んだ。
「少々お待ちください」
 その生徒は緊張気味に答えて、部屋の中へ戻っていく。それを見送った瞳子は、ドキドキと落ち着かない胸を押さえた。
(緊張しますわね……)
 大きく息を吐く。俯きそうになる自分を、ここまで来て今更怖気づいてどうするのです! と奮い立たせて前を向いた。
 瞳子がそうやっていると、少しだけ扉が開いた。ひょっこりと隙間から顔を覗かせたのは、三日ぶりに見る綾乃さんだった。たった三日会わなかっただけなのに、随分と久しぶりに会ったように感じる。
「瞳子さま?」
 綾乃さんは瞳子を見て驚くと、最後まで扉を開いて出てきた。
「あ、そっか。紅薔薇のつぼみって瞳子さまだった」
 綾乃さんが思い出したように言った。その言葉で、教室の中で何があったのか、何となく想像が付いた。自分を呼びに来た生徒に、「それって何?」と尋ねたに違いない。
「ちゃんと覚えておいてください」
「瞳子さまは瞳子さま。『紅薔薇のつぼみ』って呼ぶよりも、私は『瞳子さま』って呼びたい」
「そう言ってもらえると、確かに嬉しいんですけど……」
 綾乃さんに「お姉さま」と呼んでもらえたら、きっともっと嬉しいんでしょうね、と思う。
「絵はいつ頃完成するのですか?」
「んー? いつだろ? いつも適当だから、分かんない。五日くらい?」
 首を傾げる綾乃さん。どうやら本人にもよく分からないらしい。
「そうですか」
 瞳子ががっかりしながら言うと、
「何? もう寂しくなった?」
 綾乃さんが悪戯っぽい目をして尋ねてくる。
 瞳子は溜息を吐いた。
「あなたは本当におめでたいですわね」
「もっと褒めて」
「褒めてません」
「がーん! 瞳子さま冷たい。いじいじ……」
 綾乃さんはいきなりその場にしゃがみ込むと、いじけたように人指し指で床を突付き始めた。
「髪が汚れますわよ」
 綾乃さんの髪があまりにも長いため、その半分以上が床に付いている。このまま綾乃さんが動けば箒の替わりになりそうね、と思いながら瞳子は手を差し伸べた。
「ほら。掴まってください」
「ん」
 綾乃さんが瞳子の手を握ってくる。少しよろめいたけれど、何とか引っ張って立たせる事ができた。
 綾乃さんは立ち上がると、瞳子に背を向けて言った。
「払って」
「仕方ありませんね」
 言われるがまま髪に付いている埃を払おうと、綾乃さんの髪に触れて瞳子は驚いた。指先が全く髪に絡まる事なく、すーっと通り抜ける。
(とんでもなく滑らか。羨ましいわね。……それにしても、本当に長い。邪魔にならないのかしら?)
 なにしろ膝の裏まで伸ばされているのだ。
 目に見える埃を払い、これで一通り綺麗になったでしょうか? と思った時に、「あ、これ使って」と綾乃さんがヘアブラシを瞳子に差し出した。
「……どうせなら、もう少し早く出して欲しかったです」
 それと、いったいどこから取り出したのだろう。取り出す動作が見えなかった。さすがは綾乃さん。謎が深まる。
 受け取ったヘアブラシで髪を梳いてやると、気持ち良いのか、綾乃さんが「んっ」と声を洩らした。
「瞳子さま、しばらくお願いしても良い?」
「ええ」
 いつもの瞳子なら断っていたけれど、ついそう応えてしまった。それは、瞳子に髪を梳かれている綾乃さんの背中が、何だかとても嬉しそうに見えたからだ。瞳子からは見えないけれど、きっと微笑んでいるのだろう。
 瞳子も嬉しかった。綾乃さんと一緒にいると、いつもそうだ。気が付けば、とても穏やかで優しい気持ちになっている。
「ねえ、瞳子さま」
「何です?」
「絵はできるだけ早く完成させるから。そしたら、また遊びに行っても良い?」
 綾乃さんの髪を丁寧に梳きながら、瞳子はそれを聞いて微笑んだ。
「楽しみに待っています」



 ところで、この時の瞳子たちの様子は、見られてはならない人たちにバッチリ見られていたらしく、後日リリアンかわら版の一面を見事飾る事となった。


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