【1635】 突撃無様だっていい  (沙貴 2006-06-24 18:51:56)


 ※完全オリジナルです。
 
 
 さぁ、かっ飛ばすぜ。
 全力疾走だ、準備は良いかい?
 遅れても待たないぜ、置いてきぼりが嫌なら気ぃ入れな。

 こう見えても蘭は小学校の頃からかけっこじゃ負けなしなんだ。
 中学校でもそこらの男子なんかにゃ負けなかった。
 今だってその足は錆付いちゃいないよ。
 
 風になるか光になるか、とにかく死にもの狂いで走るんだ。
 良いか? 良いな?
 じゃあ、ぶっ飛ばすぜ。
 
 着いてきな!
 
 
 
 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 
 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 
 
 
 
「振られたぁ?」
 明日から始まるゴールデンウィークの連休を前に、描き掛けだった胸像のデッサンを一人進めていた風見 蘭々(かざみ らんらん)は、泣きながら美術室に飛び込んできた明石 初美(あかし はつみ)の背中を片手で撫でてやりながら素っ頓狂な声を上げた。
 蘭々の胸に縋る初美は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらうん、うん、と二度頷く。
 カキーン。
 第二校舎を挟んで美術室から丁度反対側に位置する運動場で、硬式野球部のバットが高らかに鳴った。
 
 
 蘭々と初美は十六歳。市立の共学普通科に通う、良くも悪くも普通の女子高生だ。
 肩裏までのセミロングを偏執的なまでに固持する蘭々と、割と髪の長さを伸ばしたり短くしたりと忙しない初美の二人はクラスメイトで、更に同じ美術部に所属している。
 二人揃って絵の才能は残念ながら見受けられない(と、こともあろうに部の顧問が断言した。酷過ぎだ)らしいが、単に絵を描くことが好きな初美と、兎に角運動部から離れたかった蘭々は高校入学と共に入部した美術部を、二年生になった今でも続けていた。
 しかし典型的文系少女だった初美はともかく、小学校ではミニバス、中学校では女子バレー部と運動部一直線だった蘭々の身体能力は極めて高く、当時はしつこい勧誘を断るのに苦労した。
 今ですら中途で良いから入部しないか、という女子バスケ及び女子陸上からの勧誘は続いているのだから相当である。
 とはいえ、本人としては意外に(本当に意外に)楽しい美術部の活動に心底ハマっているので、掛け持ちや転部の予定は今のところ全くなかったりする。
 
 さて同じ学校、同じクラス、同じ部活という共通点ばかりの二人だが、一点。体力以外にも大きな違いがあった。
 恋人の有無である。
 初美は小学校低学年からの幼なじみ、斉藤 和哉(さいとう かずや)と中学校の頃から付き合っていた。
 丁度その頃から初美と付き合い始めた蘭々にとって、和哉の存在は初美の脇を定位置とする強制的なセットモノ。
 居れば基本的には邪魔だが、居ないなら居ないで物足りない。そんな相手だ。
 しかし初美と和哉は純粋に相思相愛で、流石に何年も彼女らのラブラブオーラに当てられていれば些細な疎ましさなんて消えてしまう。
 蘭々は初美のことが好きだし、初美が好きなら和哉のこともまぁ好きになってやらなくもない。
 そんな消極的な友人としての好意は、蘭々、初美、和哉という三角形を強固な絆とするのに一役買った。
 
 綺麗な三角形を描いていた蘭々達。
 正確には恋人同士とそのお邪魔虫、という関係だったそれが今日この夕方、夕焼けに赤く染まる美術室で終わってしまったのだと初美は泣いた。
「マジか? マジで言ってんのか? ちょっと信じらんないんだけど」
 削るのを面倒臭がり、ほんの1mmも出ていない芯で描いていた鉛筆を放って蘭々は頭をがしがしと掻く。
 高校二年生ともなればコイバナには事欠かない、蘭々は自分の友人関係だけで五組のカップルを知っていた。
 そしてその中で最も安泰で最もラブオーラが強すぎて傍迷惑なカップルはと問われれば、蘭々は迷わず初美・和哉を上げる。
 そう即答できてしまうくらいには仲睦まじい二人であった筈なのだが――
 
 
 初美は蘭々のブレザーに顔を埋めるようにして涙を拭くと、痙攣する喉を総動員して言った。
「もう、もう、しんど、いって……疲れたって……ぇっ! ひっ、ひぃ、もう良いって、言って、行って、行っちゃったの! 行っちゃ、ったの!」
 ブレザーの端をぎゅっと握り。
 途切れ途切れ、短い息継ぎの度にぽろぽろ涙を零しながらのそれは悲鳴だった。
 初美とそれなりに付き合いの長い蘭々でもはじめて見た慟哭、喘ぐようにひっくり返った声が胸を強く強く締め付ける。
 蘭々は初美の頭を抱き抱えた。
「行ったって……どこに行ったんだ。あのバカは」
 少しでも安心できるように、初美の後頭部と背中をぽんぽんと軽く叩く。
 お母さんにそうして貰うだけも、子供の頃は随分救われた事を覚えていた。
 
「駅……だ、と思う……うぅっ、部活の合宿だって、いっ、てたから」
「が! が――合宿ぅぁっ!!」
 蘭々の喉からの思い切りにドスの利いた声が出た。初美への気遣いもその一言で一気に吹っ飛んでしまう。
「じゃ何、和哉、初美振ってそんまま合宿行ったっての! 部活? 部活だって! ざ、ッザけんなよー!」
 叫んで、蘭々は座っていた椅子から立ち上がった。
 縋りついていた初美がそれでバランスを崩して、ぺたりと可愛らしく床に伏せる格好になる。
 泣き濡れている表情も合間って異常に絵になる様だったけれど、そんなところに突っ込んでいる余裕は今の蘭々には、ない。
「キーレーたー! キレたキレたブチキレた! ヤロー、何考えてんだ! 初美のことなんだと思ってやがる! くそっ! 一発ぶん殴ってやる! いーや、三発ぶん殴る! んで蹴る!」
 和哉は蘭々の高校運動部で最も期待されており、且つ実際に結果を残している部である男子サッカー部に所属している。
 サッカー部のゴールデンウィークは学校指定の合宿所(ジム、プール等かなり豪華な設備アリ)で強化練習というのが毎年の恒例行事だ。和哉もそれに向かったのだろう。
 初美を置いて、”たかだか”部活に!
 腹が立つなどというレベルではない、これは猛烈な憤慨だ。
 蘭々はもう殆ど完成しており、単色画とはいえ美術部顧問が目にすれば蘭々への評価を見直したかも知れないと希望を持てることも無きにしも非ずな(つまりがまぁ微妙な)デッサンの描かれていたキャンパスを裏拳で殴り倒した。
 
 そんな暴力的な豹変に涙の止まった初美がうろたえる中、蘭々はブレザーの右ポケットからゴム紐を一本取り出し、用済みとなったブレザーを教室背後のロッカーに投げる。
 距離がやや遠すぎて、空気抵抗を存分に受けたブレザーは中途で床に落ちたが、蘭々は気にしない。寧ろ初美の方がそれを気に病んだ。
 蘭々は片手でぐいっと髪を纏めると、低い位置をゴム紐で縛ってテールを作る。続けて椅子脇に置いていたペンケースに挟んでいたヘアピン二本でアップにした。
 それで一気に首周りの風通しが良くなる。すうすう突き抜ける夕暮れの冷たい風は、けれど、火のついた蘭々を抑えてくれるような効果はなかった。
「見てな、初美。蘭はマジでぶん殴ってやるからな」
 勢いそのまま左掌を拳で打って、蘭々はそう宣言する。
 初美は口に手を当てて「え!」と叫んだ。
「い、今から!」
「ったりめーだ! 今から走れば十分間に合う、特急は一時間に一本しかないんだぜ? すぐ前は……二十分くらい前のやつか。和哉はそれに乗ったのか?」
 蘭々がそう問うと、初美は一瞬考えるように視線を落としたが、すぐに顔を戻した、
 首を横に振る。
「だろね。初美が泣きながらここに来たってことは、寸前まで和哉と一緒にいたってことだ。それならさっきの特急には間に合わねぇ」
 言いながら、蘭々はぴょんぴょんとその場で跳ねた。
 絵を描き続けていたお陰で体力は十分残っている。気力は和哉(バカ)のお陰でMAX値まで充填済み。
 今なら世界記録が狙えるね、と蘭々は暗い情熱を燃やした。
 
「でも蘭ちゃん、無理だよ、もう間に合わないよ。ガッコから駅まで3kmはあるんだよ?」
 立場を逆転させて宥める側に回った初美の台詞に、蘭々はにやりと笑う。
「なぁに、蘭々のランはランニングのランだ! しかも二倍で誰にも負けねぇ! 蘭はバカまで余裕で追いつけるから、初美は後からチャリなりタクなりで駅まで来なよ」
 ぐいっと腰を落として。
「蘭ちゃん待って!」
 そんな初美の悲鳴を合図に、蘭々は美術室の出口目掛けて飛び出した。
 
「絶対来いよ! やつは蘭が止めておいてやっから!」
 
 
 椅子を二脚蹴っ飛ばして廊下に消えた蘭々の背中を呆然と眺めて、初美は。
「蘭ちゃん……和哉君――」
 小さく、呟いた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 美術室は一年全クラスと二年のA〜Cクラスまでがある第一校舎、その三階最北端に位置する。蘭々のスタートラインで、学校の最も駅に近い出口は第一校舎の南側にある正門だ。
 先ずはさっさと学校を出て街に出なければならない、その為の最短コースは美術部在籍丸々一年の蘭々が誰より良く知っている。
 
 美術室のフローリングからリノリウムの廊下に飛び出た蘭々は、そのまま全力疾走で美術室すぐ脇にある二年A組の前を駆け抜けた。
 誰も居ない廊下を蹴り付けるようにして甲高い足音を響かせながらの一区間、そしてその直後に横から大口を開けている階段に飛び込む。
 今は放課後のそれなりに遅い時間帯、階段とはいえ急に飛び込んでも前方確認の必要が全くないことは周知の事実。当然のように、目が痛くなるくらいに赤く染まった階段に人気はなく、三段跳びで駆け下りる蘭々を邪魔する影も一切になかった。
 最後の跳躍は大きく高く、七段跳び。真ん中で折り返してからの半分以上を蘭々は一度に跳んだ。
 だんっ! と今までの足音とは次元の違う、異常に激しい音が静かな夕焼けの校舎に響く。
 じぃんと足裏の痺れる感覚も慣れたもの、蘭々は半秒と待たずに駆け出した。階段を出て、二階廊下の南方向へ。
 
 転がるように廊下に飛び出た蘭々の正面に伸びる廊下は、三階のそれと同じように真っ赤に染まって静かで、反響する足音がより一層に寂寥感を募らせる。
 けれど三階の廊下とは違う点が一つだけ。丁度校舎の中央辺りに、ぽつんと一人の人影が立っている。
 廊下に出た直後では遠目でそれが誰だか判らなかったが、位置的に走り寄る形になる蘭々にはそれが徐々にはっきりと見えてきた。

 男子。クラスメイト。軽音部の長尾 大介(ながお だいすけ)!
 
 ぶつ切りの情報が酸素不足で処理速度の低下する蘭々の脳内で飛び交った。
 どうしてあそこにアイツが居るんだろう、とか。
 そういえば音楽室は美術室の真下じゃなかったっけ、とか。
 てゆーか窓の向こうにイイ視線飛ばしてるんですけど馬鹿ですかー、とか。
 割とどうでも良い付加知識やら感想やらも生まれて混ざり、何が何やら判らなくなったまま彼の背面を通りすぎようとした時。
 大介は不意に顔を蘭々の方に向けて、言った。
 
「ようランボー! 何だ、どこぞでゲリラがふぅーーーっ!」
 
 しかし台詞の最中で、彼は思い切りに速度と体重の乗った蘭々の左跳び膝蹴りを受けて轟沈した。
 一応腕を下ろしてガードをしたとはいえ、極自然に(且つ全力で)飛んで来る一人の女子高生を受け止められる軽音部はいない。腕諸共に脇腹を貫く鈍い一撃を入れられた大介は1mほど吹っ飛んで蹲った。
 対して華麗に着地した蘭々は、やりすぎたかなぁとほんのちょこっとだけ思わないでもなかったけれど、まぁ、自業自得というやつか。一人納得して頷く。
 大介の口にしたランボーというあだ名は 蘭々 → 蘭 → 蘭坊 → ランボー の変遷を辿っているが、最終的にはこともあろうにシルベスタ・スタローンのかなり暴力的な映画の主人公に落ち着いている。
 しかも「ランボー」は「乱暴」にも繋がり、うら若き女の子へのあだ名としては最悪の部類に入るはずだ。
 蘭々も散々に言うなと言ってきているそのあだ名を性懲りもなく、しかもこの忙しい時に口にしたのだから相応の報復は当然。必然でもある。
 
 荒い息を一度大きくはぁっ! と吐いた蘭々は床で丸くなった大介を指差した。
「悪いけど蘭は今忙しいの! 大介の詰まんないボケなんかに突っ込んでる暇は無いんだから邪魔すんなよな!」
「お、思いっきり突っ込んでるじゃねぇか――」
「じゃなっ!」
 呻くような不平を切り捨てて、大介を飛び越えるように大きく跳んで。
 蘭々は再び走り出した。
 大介に食らわせた膝蹴りのお陰で左膝は微妙に痛いし、一度立ち止まってしまった所為で体が少し重い。
 何もかも大介の所為だ、ちっくしょう!
 
 胸中で悪態を着く蘭々は振り返らず、疾走する彼女と地面に転がる彼以外の誰も居ない廊下を、南端目掛けて猛然と走り抜けた。
 
 第一校舎二階の南端には理科実験室がある。
 その隣は理科準備室で、その正面は、当然ながら窓である。
 窓の向こうには季節外れの鰯雲が美味そうに並ぶ赤い大空が広がっており、その下は正門までの一本道である桜の並木道が続いていた。
 理科準備室の更に手前には、北側の階段と同様に一階と三階に繋がる階段があり、そこを降りれば第一校舎の南側出口まで目と鼻の先になる。
「よいしょっとーっ!」
 しかし、蘭々は階段には向かわない。
 理科準備室の正面の窓、そのすぐ下の壁に設置されている消火ホースの入っている赤い箱に、歳不相応な掛け声と共に飛び乗り、眼前の窓を開け放つ。
 冷たい風がひゅうと吹き込み、すっきりした蘭々の首筋を優しく撫でた。ほんの少しのクールダウン、三秒だけの小休止。
 ひらりと蘭々は飛んだ。
 
 
 と、いっても二階の窓から一気に跳び降りるような無謀な真似はしない。
 実は、理科準備室正面の窓直下には第一校舎南側出口の屋根があり、窓を越えてもそこに降りるだけなのである。
 しかも、出口のすぐ隣には一段ほど低い屋根の駐輪場があった。出口の屋根からは50cmも離れていない、女子でも助走なしで楽々飛び越えられる。
 そして駐輪場の屋根自体は十分に跳んで降りられる高さ、2m強程だった。朝の登校ラッシュ時にはそれを逆走して二階に向かう者も居る。
 
 よって、二階の窓から出口の屋根に降りた蘭々はそこから駐輪場の屋根に飛んで、更に続けて地上まで降り立った。
 本日二度目となる、一瞬の飛行体験とスニーカー越しの足裏強打。流石に今度は腰に来た。
 そんな身体に鞭打って、駆け始める。
 目の前に真っ直ぐ伸びる並木道は一旦のゴール、学校の出口まで一直線に続いているのだ。こんな所で立ち止まってはいられない。
 
 走る、走る、走る。
 大きなストロークで、地を跳ぶように蘭々は走る。
 急いで駅へ、急いで学外へ、急いで正門へ、急いで兎に角並木を抜けて! さもないと――
「ひぃーーーっ! 降って来たぁーっ!」
 天上より不定期に降って来る毛虫の餌食になってしまうから。
 
 初夏の桜並木は鬼門だ。
 詳しい虫の名前は蘭々のみならず同校の誰一人として知らないだろうけれど、この時期の桜並木が超絶的な危険地帯になることは誰だって知っている。
 幹やら枝やら葉やら梢で蠢く無数の影、毛虫。やつらは人が下を通ると何故か狙い済ましたように、次から次へと落下してくるのだ。
 どんなに気をつけていても、一所懸命に走っても、並木を抜ける頃には肩や靴の端っこに一匹二匹は必ずついている。
 確実に避けたければ傘を差すべきなのだろう。
 
 でも。
 第二校舎から正門に通じる最短距離は間違いなく桜並木であり、ここを迂回すると第一校舎の辺りにまで足を伸ばさなければならなかった。
 裏門から出るなら問題ないが、そうすると今度は駅に向かうために学校の周りを半周しなければならなくなる。
 だから蘭々にはそこを走る以外の選択肢は無かった。
 降り注ぐ(は流石に誇張だが)毛虫の中を突き抜けて、兎にも角にも学外へ。
 走る、走る、走る!
 
 
「だぁっ!」
 声を上げて正門を抜けた蘭々の眼前に、夕焼けに染まる街並みが開けた。
 空。
 雲。
 夕陽。
 空は、綺麗な茜色がその全てを染めている。
 
 家。
 壁。
 木。
 地上には、影の黒と反射する紅が壮絶なコントラスト。
 空にはない物悲しさが、荒れた息を吐く蘭々の胸をひゅるりと抜ける。
 
 人。
 犬。
 車。
 影を連れて流れてゆく。そして。
 
 そして小さな影を蘭々の肩に落とす――
 
 虫。
「ひぃぃっ!」
 
 悲鳴を上げた蘭々は、やっぱり左肩に乗っていた毛虫の一匹を払い落とし、どういう加減か、右脇腹の辺りにくっ付いていた別の一匹を叩き落した。
「あー、もー! やっぱりか、くそー!」
 ばしばしと服を叩きながら悪態を着く蘭々は、毛虫の幻影と一緒に初夏の夕焼けというアンニュイな空気を払い除ける。
 今必要なのは虫に唾を吐くことでも美しい自然に浸ることでも、また切ない夕陽にまだ見ぬ誰かへの想いを募らせることでもない。
 走ることだ。そして和哉をぶん殴ること。しかも全力のぐーで。
 ぐっとお腹に力を入れる。そろそろ足も不満を言ってきそうだが気にしない。
「っしゃ! 行くぜ!」
 頬を一度ぱちんと叩いて、蘭々は改めて夕焼けの中に飛び出した。
 
 
 〜〜〜
 
 
 先ず突っ込むのは、正門の正面に横たわる片側二車線の大道路だ。
 都合四車線で車通りもそれなりに多く、朝と夕のラッシュ時は横断歩道でもなければとてもじゃないけど渡れない。横断禁止の標識も道のど真ん中に立っている。
 しかし横断歩道は学校の正面にはなく、道に沿って20〜30mは脇に逸れないと使うことは出来なかった。
 今も蘭々の前を結構な頻度で車がびゅんびゅん走っている。
 けれど、迂回の20mは余りに惜しい。
 
「ごめんよっ」
 言うと、両手をばっと上げて蘭々は車道に飛び出した。
 如何に交通量の多い横断禁止の四車線とはいえ、ここは高校の正門前。無理矢理横断する猛者がいない訳ではないし、ドライバーもそこを見越して多少警戒しているフシがある。
 そこに付け込んでの強行横断だ。
 決して褒められたことではないが、背に腹は変えられない。
 キュキュッと急ブレーキの音を右と左で聞きながら、蘭々は道路を渡った先の民家へ逃げるようにして飛び込んだ。
 
 
 飛び込んだ民家は二年D組の山本 可奈(やまもと かな)の実家である山本家。
 可奈と蘭々は昨年度のクラスメイトで、今でも関係の続く友人だ。
 学校の真正面というステキな立地である山本家に蘭々は学校帰りなどに度々訪れ、小母さんや小父さんにも良く可愛がられている。
 しかし今現在で重要なのはそんな一年来の友情物語ではなくて、学校と駅を繋ぐ直線上に山本家が存在するという事実にある。
 詰まりがまぁ邪魔なのだが。
 一直線に貫通することが出来るなら、一転して最高のショートカットルートということになる。
 
「蘭です! お邪魔しますっ!」
「あいよー。好きにしなー」
 玄関の扉に向かって一礼、体育会系的に大声で挨拶から。蘭々は文化部なのだが、こういうことはやはり大事だ。
 すると、既に蘭々が走り始めていた方向、庭の方から野太い女性の声が聞こえた。
 庭に出ると案の定、犬のチビ(セントバーナード♂八歳。超デカい)がぬぼーっと転がるその脇で、洗濯物を取り込んでいる恰幅の良い小母さんが居た。
 チビに駆け寄り、しゃがみこんで頭と頬をぐりぐりぐりっと撫でること約一秒。
 ウザったそうにチビが首を振り払うのを切っ掛けに立ち上がる。
 蘭々はびしっと小母さんに向かって敬礼した。
「じゃ、失礼します!」
「また来てな、今度はゆっくり」
「はいっ!」
 流れるような掛け合いを経て、そのまま庭の奥へ。
 低いブロック壁をよじ登れば、すぐ傍に商店街のある地下道への入り口が口を開ける路地裏に出る。
 
 
 地下に降りた蘭々は舌打ちした。
 判りきっていたことだが、夕方の地下街は人が多い。
 放課後の学生から定時上がりの社会人まで老若男女、まるで蘭々の行く手を阻むように行き交っている。
 人一人通れないくらいにごったがえしているという訳ではないが、少なくともジグザグに何度も進行方向を変えなければ先へは進めない位の人垣はできていた。
 
 蘭々の街の地下街は地上の商店街よりもお洒落な店が多く、街一番の遊びどころといえば駅地下だ。
 現在蘭々が立っている地下街もその駅地下まで続いているが、そこまでを地下で進むとかえって時間が掛かってしまうことは明白。
 折りの良いところで地上に抜けなければならない――けれど当然ながら、そのプランは蘭々の中で出来ている。
 どこで曲がって、どの階段を上がって、どの出口に出るか。そしてそこからどうやって駅まで向かうかまで確立している。
 蘭々は前方を睨みつけ、駆け出すと同時に人波を抜けるコース取りを頭の中でシミュレートした。

 シミュレートに忠実に一人交わし、続けてまた一人交わす。
 すれ違う人を迂回して、前方をゆっくり行く人を追い越して。
 途中三度「ごめんなさい」して、傍迷惑な暴走を続けた蘭々はやがて地上への階段に辿り着いた。
 駆け上がれば、駅からまだ距離は多少残っているものの人通りの少ない路地に出る。
 普通に道を行けば遠回りだが、このルートでもショートカットが使えるため、結果的に地下道を進むより圧倒的に早く駅に着くことが出来るのだ。
「っしょいっ!」
 気合の声と共に一段飛ばしで駆け上がる。重力に逆らう動きで、どずんと身体の重みが増した。
 文字通り全力で走り続けた所為で、蘭々はもう足どころか全身に疲労を溜めている。
 足は重いし、邪魔なBカップのお陰で肩も痛い。走るためにセットした髪も乱れてきているし、ハイソックスはいつの間にかルーズ仕様になっている。激烈なオーバーワークに肺が悲鳴を上げて胸も痛いし、息はし辛く頭も痛くて何はなくても兎に角暑い!
 けれど蘭々は走った。空に向かって長い階段を駆け登った。
 全ては――ええと、和哉をぶん殴るため。
 
 
 そうして再び紅の世界に舞い戻った蘭々を迎えたのは。
「きゃあっ」
 という、何だかとても可愛らしい悲鳴だった。
 
 
 〜〜〜
 
 某国際救助隊の三号が飛び立つ時のような感覚で、地下からの階段を飛び出した蘭々は止まれない。
 眩しさに眩む視界の片隅で、白髪のおばあさんが自転車を押していた。さっきの悲鳴はおばあさんのものだったのか。
 前の荷台には一杯に膨らんだレジ袋。ニンジンとジャガイモが見えた、今日はカレーなんだろうかとふと思う。
「ごめんなさいっ!」
 驚いて目と口をぱっと開けていたおばあさんに謝って、着地した。
 アスファルトの上で疎らに散らばっていた砂利を踏み拉いた足裏からじくりと痛みが湧き上がる。
 限界は明らかに近かった。特に最後、階段の駆け上がりが致命的なまでに膝を痛めつけた。
 地面を穿ち続けた爪先は痺れて感覚もないし、衝撃を受け続けた足の裏はイヤな熱を持っている。絶対腫れてる。
 
 気にしない。
 気にはなるけど気にしない。
 気を強く持って再び夕暮れの街並み、その奥にある駅を目指して蘭々は駆け出した。
 地下街の出入り口から一直線に進むこと20m程、すぐに右へ曲がれば――
 
 
 がしゃん、がたーん。どさどさっ、どっ。
 
 
 その時、遠い。
 どこか遠い、というか後方で。
 何かが、いや、間違いなく自転車が。
 きっと、ではなくて確実にさっきのおばあさんの自転車が。
 倒れた音がした。
 原因は120%、蘭々だ。
 
 しかし全力疾走していた蘭々は、その音が聞こえた時にはもう角を曲がってしまっていた。
 今更戻るのは余りに辛いタイムロス。その上、今の状態で走る勢いを反転させること程精神的肉体的に辛いことはない。
 一応だが、「ごめんなさい」とも謝った。
 人の良さそうなおばあさんだったから、怒って追いかけてくるようなことはないだろう。
 仮に追いかけてきても、生まれつき人の二倍走るようになっている蘭々のこと、追いつかれることは絶対にない。仮に起こした自転車で追ってきても大丈夫だ。
 だから。
 だから先へ。先へ、駅へ、和哉のところに――
 
 
「行けるわけねぇだろっ! ちくしょうっ!」
 
 
 喚いた蘭々は急ブレーキをかけて、スカートを棚引かせて反転、それまでの”全力疾走”に倍する力と速度で駆け戻った。
 意外に余力がある、のでは決してない。身体リミッターを超えた領域に蘭々が到達してしまっただけだ。筋細胞が目まぐるしい勢いで断裂してゆく。
 気にしない。
 メチャクチャ痛くてかなり気にはなるけど、気にしない。しないったらしない!
 
 胸中において(色んな意味で)泣きながら蘭々が地下街の出入り口まで戻ると、やっぱり、あのおばあさんが倒れた自転車を起こそうとうんうん唸っていた。
「よっ……こい、しょぉ。ふぅー」
 丁度蘭々が辿り着いたのと同時にどうにかこうにか起こし終わり、一仕事終えたおばあさんは達成感露に額の汗を拭っていた(でも汗なんて掻いていなかったけれど。きっと気分の問題だ)。
 でも道端に転がったジャガイモにニンジン、洗剤やサラダ油はそのままで。
 散らばった範囲はそう広くないとはいえ、一個一個拾い上げる事を考えれば、それはかなり気の重たくなる作業だった。
 
 蘭々は無言で蹲り、すぐ傍のジャガイモのビニール袋を胸に拾い上げた。
「あら、あなたはさっきの」
 自転車を両脚スタンドで固定したおばあさんが、今始めて気付いたように言う。
 きっと本当に今気付いたんだろう。おばあさんにとって、倒れた自転車を起こすという大事業は回りに意識を配りながら出来ることではないから。
「ごめんなさい、蘭が飛び出した所為で」
 言いながら、転がっていた玉葱と牛肉を胸に抱える。どうでも良いけど、今晩のおばあさんとこはカレーで決定。
 するとおばあさんは「あらあら」と小さく笑った。
「気にしなくても良かったのに。急いでいるんでしょう? ほら、ここはもう良いからお行きなさい。後はおばあさんがやっておくから」

 そう言いながら自転車を回り込んで、蘭々の方へ歩み寄るおばあさん。
 その台詞が、その微笑が、蘭々には痛かった。
 だって倒したのは間違いなく蘭々なのだ。
 物理的にぶつかった訳ではなくて、故意でもなかった。でもだからなんだというのだ? おばあさんの自転車を倒して荷物を路上にばら撒いたのは蘭々なのだ。
 それだけで、十二分に戻ってきた理由になる。
「いや、良いですよ。大丈夫です」
 疲労その他諸々でどうしても作り笑いにしかならなかったけれど、蘭々は精一杯に笑った。
 
 
 道に転がった荷物の殆どは蘭々が拾った。
 おばあさんも手伝ってはくれたけど、何分速度に差がありすぎたのだ。
 一番遠いところまで転がっていたみりんの瓶を自転車の荷台に入れて、ふぅと一息。
「本当にありがとうね。助かりました」
 おばあさんは、皺くちゃの顔でにっこり笑った。ほんの少しだけ疲れが取れたような、幸せな気分になる。
 蘭々も今度は自然に笑えた。倒して申し訳なかった、でもやっぱり戻って良かった。そう思えたから。
 しかし、倦怠感がじわりじわりと自分の周りを取り囲もうとしていることを感じ取った蘭々は、慌ててびしっと敬礼のポーズを取る。
「それじゃ、もう行きますね。本当、ごめんなさいでした!」
 最後にもう一度だけ頭を下げて、身体の向きを反転させた。
 地下街から飛び出たときから、明らかに太陽はその位置を下げている。無駄な時間だったとはいわないが、痛いタイムロスであったことは違いない。
 
 おばあさんの「気をつけてね」を背中で聞いて、どっしり重くなった身体を引き摺って蘭々は駆け出した。
 
 
 足を止めたばかりか、逆送して距離と体力を浪費した上に立ったり屈んだりの運動を続けた所為で、蘭々の疲労は急激に蓄積されていた。
 おばあさんの笑顔で癒されたのはやっぱり錯覚だったらしい。
 まぁ、人の笑顔で疲れが取れるならマラソンの応援団とか全員強制的に笑わされるんだろうなぁ。笑顔に満ちた街道。超怖ぇ。
 などと割と下らない思考が出来るくらいには余裕があり、しかし、それは余裕というより残り少ない体力を絞りきるやけっぱちのような、非常に宜しくない精神状態で蘭々は走る。
 残るショートカットルートは唯一つ、住宅街の一角にある公園だ。
 
 その公園は立地が立地ということもあり、広さはそれなりにあるがそれよりも特徴的なのは遊具の豊富さだった。
 近隣の子供達が遊ぶための場所として作られたそこには、鉄棒やブランコは勿論ジャングルジムや上り棒なんかも設置されている。
 埋めタイヤにシーソー、バネ木馬。ちょっとしたアスレチックコーナーだってある。
 蘭々の子供時代にはなかったし、家の方向ではないのであったとしても遊びには来られなかっただろうけど、兎に角子供にとっては正に楽園のような場所だった。
 そしてその楽園は、防犯の意味を込めてか綺麗な正方形になっている敷地の三方を高い壁で囲っている。
 出入り口は残った一方だけ、逆にこの面は完全に障害物が撤廃されてどの角度からでも公園のほぼ全景が見られるようになっている。
 
 基本的に住宅街は家が密集しているから住宅街なのであって、その中を突っ切るためには入り組んだ路地を通らなければならない。
 先を急ぐ蘭々には、例え直線距離が短くても本来なら入るべき区画ではない筈だった。
 少し迂回して車通りも多い大通りを選んだ方が、曲がりくねった路地を通るよりも結果的には早く着くだろう――その公園がなければ。
 ポイントは高い壁だ。
 公園は住宅と住宅の合間に存在し、その裏にも勿論住宅はある。壁に囲まれた三方の向こう側は全て家だ。
 そして公園の壁はそのまま住宅の方向に伸びている。即ち、壁の”上”に登れば、そのまま壁を走って反対側まで抜けることが出来るのである。
 
 だから蘭々は公園に駆け込んだ。少し遅い時間帯、子供の影も疎らなその公園へ。
 入るなり、砂煙を上げて急停止。
 蘭々は膝の上に両手を付いて、「はぁーっ!」と激しく息を吐いた。
「ぜぇ、ぜぇ、は、はぁ、くそ、後、後少し」
 汗だくで、夕暮れの街中を走ってきた所為で髪も服も乱れて。
 もう何のために走っていたのか、殆ど見失っていて。
 でも走らなきゃ、という思いは沈む太陽に比例して大きくなって。
 くそったれ、首洗って待ってろセリヌンティウス。
 言葉にならない悪態を吐いた後、下品に唾を吐いて顔を上げた蘭々と、公園奥のジャングルジム頂上に陣取っていたチャパツの子供と目が合う。
 良く見れば彼の周りや下の方にも五、六人の同じような子供達が居て、ジムの壁や中から訝しげな視線を蘭々の方に送っていた。
 
 ゆっくりとジャングルジムに歩み寄る。
 壁際に設置されているジャングルジムが、唯一壁に飛び移れるだけの高さと安定性を持った遊具だった。
 しかし。
「おっとおばちゃんそこまでだ! それ以上近付くなよな、ここは俺たちの秘密基地なんだぜ」
 ある程度まで近付いた時、頂上に居た子供(間違いなくリーダーだ)がそう言った。
「そうだ帰れ帰れー」
「どっか行けー」
 続けてその手下共――もとい、下僕達――でもなく、友人らであろう下方の彼らも声を合わせる。
 疲れた蘭々の耳にそれは酷く反響して聞こえた。
 
 蘭々は、「おばちゃん」と言われて本気でキレるほどには老いていない。
 しかし問題はそんなところではなく、子供達がジムを占拠しているという事実にあった。蘭々には今、ジムが必要なのだ。
 ここは余裕のある大人気を見せて、平和的に行きたいところ。
 蘭々じゃ努めて友好的に声を出した。
「はぁ、はぁ、ごめんねボクー? 悪いけど、ちょおっと、お邪魔するよ。おばちゃん、急いでるんだわー」
 息も切れ切れ、一歩歩くだけでも恐ろしいまでの重力が身体を引き倒そうとしてくる。
 それでも蘭々はどうにかこうにか地面を踏んで、空を、ジムの頂上で踏ん反り返る子供を見て、歩いた。
「くんなってー」
 しかし。
 しかし、である。
 下方に居た子供の一人がそう言いながら蘭々に駆け寄り、ぐいぐいと押し返そうとした時に蘭々は気付いた。ちょっと遅かったけど気付いた。
 
 ああ。
 蘭。
 余裕、ないわー。
 
 蘭々は迷わず、何の躊躇いもなくその子供をその場で転がした。
 がしっと彼の両肩を掴み、否応なく左側に放ったのだ。子供は文字通り転がった。
 頂上で余裕吹いていた子供の目が丸くなる。
 彼の周りで見ていた他の子供達も、先鋒が外敵に突っ込み、降伏勧告もないまま排された現実にぽかーんと口を開けた。
 転がされた子供すらも、自身に何が起こったのかがわからず眼前で風に揺れる雑草を眺めている。
 蘭々は言った。
「はぁ、はぁ、オトナ、舐めんなよ。ガキ。邪魔、すんなぁ!」
 咆哮。
 子供相手に本気の咆哮である。
 大人気など微塵もない。
 
「うわ、なんだあいつ」
「ヤバくねー? 頭オカしいって」
「そーじ、どうする?」
 ”そーじ”と呼ばれた頂上の子供を中心に、緊急首脳会議がジム上方で行われた。
 ちらちらと蘭々を見ながら、下方の子供達も上部に登って無条件降伏か徹底抗戦かで意見が割れる。
 その間も、我関せずで蘭々はジムに向かってゆく。
 例え子供達がどちらを選択しても、ジムに登って壁に渡って、駅に走って。
 駅に走って。
 そう、和哉をぶん殴るのは確定の事実であったから。
 
 全員参加での会議は五秒ほどで終了した。
 ”そーじ”が結論を出したのである。
「ここは俺たちの秘密基地だ!」
 つまりが、徹底抗戦と。
 
 愚かな選択だ。彼我の戦力差が分析できねば無用な血が流れるに過ぎないというのに――と。
 ジムから駆け下りてくる子供達をどこか諦観した目で眺めながら、芝居染みた台詞をこっそり吐いた蘭々は。
 
「和哉、てめ、絶対ぶっ殺す!」
 
 非常に物騒かつ八つ当たり甚だしい絶叫と共に、攻め込んでくる子供を迎え撃つため、腰を下ろして両腕を大きく広げた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 住宅街を抜ければ、駅までは一本道である。
 第四コーナーを回っての最終直線というやつだ、とズタボロの蘭々は再び両膝に手を付いた姿勢のまま目の前に伸びた直線を眺めて、本当に最後の気合を入れた。
 
 個体的戦力差は甚大であったとはいえ、子供軍に対し孤軍奮闘した蘭々は今や埃塗れで、服と髪の乱れと汚れはもう目を覆わんばかりに酷かった。
 「にーちゃんに言いつけてやるーっ!」という”そーじ”の捨て台詞は耳に心地良かったが、流石にあの乱闘での体力消費は辛い。最後の最後だったから余計にだ。
 これから走り出した後、足を止めたら次はない。
 もう唾も吐けなく、寧ろ吐き気がしている。戻したらきっと二度と立てなくなるだろう。
 体力の限界なんて二度三度超えている、しかし体力のリザーブも次こそ本当にないようだ。
 足と肩と胸と頭の痛みなんてもう慣れてしまった。この苦痛が今の平常。
 
 掌で膝をぐいと押し、上半身を跳ね上げる。
 それが戻る微かな勢いを持って、蘭々は足を前に出した。
 倒れ込まないための自衛本能までも使わければ走り出せなかった。
 
 ととっ。
 とっ。とっ。とっ。
 とっとっとっとっ……
 
 徐々に速度を乗せて、体重を前に前に駆けてゆく。
 早く走るためでも長く走るためでもなく、ただ前に進むためだけのランニングフォーム。
 蘭々は夕暮れの学校を駆け抜けた時の半分にも満たない速度で夕闇の街を進む。
「お願いしまーす」
 言いながら消費者金融のチラシを配るお姉さんをシカり。
「カラオケどう? お友達といかない?」
 金髪ピアスが差し出すカラオケの割引券をブチり。
 一歩一歩踏み出す毎に、体力の残滓と生気の欠片を吐き出して。
 走る、走る、走る。
 
 もう歩けよ。もう良いじゃん。間に合ったって。
 
 どこからか囁かれたそんな声が聞こえた。
 腹ただしい。疎ましい。その弱音が自分の内からでたものだということが何より気に食わない。
 けれど反論する気力がなければその体力もない蘭々は、無視してただ足を前に放った。
 
 だってボロボロじゃん? 走るっつっても、そんなんじゃ歩いてるのと変わんないからさ。のんびりいこうぜ。
 
 ああ、ああ。その通りだろうともさ。
 泣きそうな半眼で前を睨んで、ちょっと近付いてくる駅を臨んで、胸中で同意する。
 その通り。ボロボロだ。”走る”とはいえ、実質的には早歩きくらいの速度しか出ていない。
 髪も服も汚れまくり乱れまくり、ヘアピンが二本とも無くなっていることには公園の壁から飛び降りた時に気がついている。
 で、実は。
 駅の前、ロータリー辺りでぶらつく蘭々の高校指定ジャージはもう見えていたりする。
 七、八人は居るだろうか。視界がブレるお陰で数もロクに数えられないが、ブルー一色のダサすぎるジャージは見間違えない。
 今の時間帯にジャージで駅に居る、ということからも彼らがこれから合宿場に向かうサッカー部である確率は極めて高い。
 そしてつまり、その中に和哉が居る。間に合った。必死で走った甲斐があり、蘭々は遂に間に合った。
 
 だから本当はもう、走ることなんてない。
 歩いて近寄って、ぶん殴ってやれば良いだけなのだ。
 
 でも、蘭々は走る。
 走る、走る、走る。
 駅に向けて。和哉の下に。拳を力いっぱい、握り締めて。
 それに意味なんてないのかもしれない。蘭々が和哉をぶん殴っても、結局は初美と和哉の話だから。余計二人の仲を拗れさせるだけかも知れない。
 でも、蘭々は和哉をぶん殴るために学校を飛び出したのだ。
 その勢い、半時間くらい前の自分自身を否定する訳にはいかない。
 だから、蘭々は走る。
 
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ」
 掠れた声が喉から漏れる。呼吸するだけでも体力が絞られるようだった。
 徐々にはっきり見えてくる人影。ダサイジャージ。
 背格好から人物の判断は出来ない、蘭々は足元に置かれていたり肩に背負われていたりする彼らのバッグに着目した。
 地味な無地のボストンバッグに有名スポーツグッズメーカーのドラムバッグ。キャリーカートで来ている者も居た。
 その中で、ただ一つ。
 蘭々は見覚えのあるドラムバッグを見つける。
 それは中学の修学旅行の時から使い始め、今でも長期旅行の時には必ず使う程に愛用している彼のバッグに違いなかった。
「かず、や」
 蘭々はその名を口ずさむ。体力ゲージがゼロになりきる最後の瞬間、その残りを使い切って名を呼んだ。

 しかし僅かその一言で、蘭々の身体に何かが宿る。
 棒になりかけていた足が僅かに柔らかさを取り戻した。
 ブレる視界が和哉の背中に焦点を合わせて固定される。
 得体の知れないナニモノかが背中を押したのを、蘭々は確かに感じた。
 
 思い出したのだ。
 和哉。
 彼を殴らなければならない理由――初美を突然振った挙句、フォローもせずに部活の合宿に行こうとしてるんだってことを!
 まだいける! 走る! 走れる! ぶん殴ってやる!
 
 だっ!!
 
 蘭々は力強く、改めての第一歩を踏み出した。
 強かに地を打ったその一歩で大きく身体を前方に押し出す、随分と久しぶりに風を切る感覚があった。
 右拳を大きく後ろに引いて、硬く硬く握り締める。
「和哉ぁぁっ!」
 絶叫した。
 何か口にする度に体力を消耗していたそれまでがまるで嘘のように、叫んだ口から蘭々はたぎるような初夏の熱気を吸い込んだ。
 
「え? 蘭?」
 振り返った和哉に。
 ズタボロのクラスメイトが走り寄ってくる様に言葉をなくした和哉に。
 初美を振った割には随分平然としている和哉に。
 あんまり、そんな、色恋沙汰の重大イベントを経たようには見えない和哉に。
 今更(色んな意味で)止まれない蘭々は。
 
 
「でありゃぁーーーーっ!!」
 
 
 振り被った拳を、自分の身体と一緒に思い切り叩き付けた。
 
 
 〜〜〜
 
 
「まさかホントに来るとは……怖ぇなぁ、蘭」
 
 結局蘭々は、ぶん殴るというより捨て身の体当たりを敢行したため、和哉と重なり合って地面をごろごろと転げまわった。
 振り抜いた拳は完全にスカった。やっぱり最後の爆発力は身体にとっても異常状態だったんだろう、目測なんて高度な真似は出来なかった。
 尤も、体力が少しでも残っていれば狙いを定めたりぶつかった後でも堪えたりすることができたかも知れなかったが、和哉に向けて跳んだ時点でもう燃料計はゼロだったから仕方がない。ブレーキオイルも切れていた。
 そして”そーじ”の手下共同様、地面に転がったまま動けなくなった蘭は、和哉に引き摺られるようにして駅前のベンチに身体を預けた。
 もう本当、一歩も歩けなかった。というか立てなかった。倒れた姿勢は何気にスカートが捲れ上がってパンツ丸見え状態だったけれど、それすら直せなかった程だ。

 突然の理不尽な突進を食らってもめげずに、ちゃんと蘭々を気遣ってやれる和哉はやっぱりいつもの和哉で。
 蘭々は何となく、気がついた。
「誤解、なの? 初美」
 日本語として成立するかしないか、ギリギリでアウトっぽいそんな台詞でも和哉にははっきり伝わったようで、彼は呆れたように眉尻を下げて頷いた。
 これだけで話が通じるということは、恐らく和哉は初美から警告を受けたのだろう。
 蘭々は急襲する為に連絡しなかったが――と、そこで蘭々の視界が真っ暗に染まる。
 もう十分。瞼も遂に力尽きたのだ。
「しんどいとか、疲れたとか。部活の話だよ。明日から合宿でブルー入ってたから機嫌も悪かったし。多分、その辺で俺が何か言ったんだろうけど」
 はぁと溜息をついて、和哉は続ける。
「別れてないし別れるつもりもさらさらない。何が哀しくてあいつと別れなきゃいけないんだっての」
 
 走って。走って走って走って、汗掻きまくって、服汚しまくって、パンツ見られまくって。
 体力はゼロ。気力もゼロ。
 それで、得た成果が。
 最終的な成果が。
 
「俺は初美にぞっこん・Loveなんだぜ?」
 
 という破滅的に時代錯誤な惚気なのだ。
 救われない。
 救われない。
 救われねぇっ!
 
 そこでばったりと、蘭々はベンチに倒れ伏す。
 その後、「蘭ちゃーーーんっ!」と聞き馴染みのある声を木霊させながら、自転車に乗った初美が駅までやってくるその時まで。
 蘭々はもう指一本動かせなかった――
 
 
 
 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 
 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 
 
 
 
 これにて完走、何はともあれお疲れさん!
 あんたは蘭に着いてこれたかい?
 
 しかし何とも締まらないゴールテープだねぇ。とほほ。
 でもま、偶には全力疾走も悪くないだろ。
 疲れっけどな。にひ。
 
 
 じゃあ、またどっかで。


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