【1662】 貴方との幸せな時間  (琴吹 邑 2006-07-05 13:45:22)


「お姉さま……」
 お姉さまが舞台袖に現れたとき、私は思わず立ち上がりそうつぶやいた。だって、お姉さまは来ないと思っていたから。
「志摩子」
 お姉さまは私に近づいて、私の頬にそっとふれた。
 しばらくじっと私をみた後、お姉さまは私にこういった。
「私は強要しなかったわよ。これはあくまで、あなたが決めたこと。だから、当選したら、最後まで責任持ちなさいね」
「それ、言葉間違えてませんか。白薔薇さま」
 端から聞いたら、あまりにも投げやりな態度に、祐巳さんが抗議をしてくれた。
「あらら、祐巳ちゃん元気復活だね。何? 私の言葉が間違っている? どこが?」
「あの普通は、『がんばってね』とか『応援してるわ』とか」
「でも、心にもないこといえないでしょ」
「心にもって――」
 祐巳さんが、そんな言葉はあんまりだという表情を浮かべてお姉さまに抗議するのを私は祐巳さんの肩に手を乗せることで遮った。
「いいのよ、祐巳さん」
 私は、微笑みを浮かべて言葉を続ける。
「あのね。今のお姉さまの言葉ね、私には最大級の励ましなの」
「え?」
 その言葉に、愕然とした表情を浮かべる祐巳さん。
 祐巳さんはすぐにお姉さまの方を向くと、お姉さまはあさって方を向いて、「さあどうでしょうね」と言った。
 そのときの祐巳さんは、本当に訳がわからないといった顔を浮かべていた。


 令さまの演説が終わり、司会が静さまの名前を呼んだ。
「はい!」
 静さまは立ち上がると、ちらりとこちらをみてから、壇上へと向かった。
 数瞬の沈黙のあと、静さまはゆっくりと所信表明演説を開始した。
 私はそれを聴きながら、先ほどお姉さまが言ってくれた言葉を思い返していた。

『私は強要しなかったわよ。これはあくまで、あなたが決めたこと。だから、当選したら、最後まで責任持ちなさいね』

 お姉さまは私に立候補を強要しなかった。それは、お姉さまがいない後、山百合会に無理に所属しなくてもいいという意思表示。

 私にとって、山百合会というのはリリアンという場所に私を縛り付けている唯一の枷だ。
 お姉さまはその跡を継がず、その枷をとってもいいんだよと、何も言わないことで言ってくれたのだ。
『当選したら、最後まで責任持ちなさいね』
 という言葉は、その枷に縛られることを選ぶのであれば、ずっとそこにいられるように頑張りなさい。
 そういう意味なのだ。
 祐巳さんは、いや、あの場にいたすべての人はきっとお姉さまの言葉を理解できなかっただろうが、私にとっては、間違いなく最上級の励ましだった。
 あそこで、祐巳さんがお姉さまに抗議してくれたのも、祐巳さんには言わなかったけれども私にとっては、何よりの励ましだった。
 私には、お姉さまの他にも、私のことを大切と思ってくれる友人がいる。そう理解できたから。


 不意に、拍手が鳴り響いた。
 気がつくと、静さまの演説が終わっていた。
 静さまが壇上から降りると、選挙管理員会の私の名前を呼んだ。
「藤堂志摩子さん」

 私は立ち上がると、ゆっくりと壇上に向かった。

 壇上から降りてくる静さまと目が合いすれ違う。
 
 思えば、選挙に出ようか迷っていた私の背中を押して、選挙に出る決意をさせたのは、静さまだった。

『現在の白薔薇さまが卒業なさった後私はあなたを妹に迎えるつもりよ』

 あの言葉さえなければ、私はこの場に立っていなかったと思う。
 多分、静さまのことは嫌いではない。でも、私とお姉さまの関係に、横から入ってこられるのは許せなかった。
 私のお姉さまは一人しかいないから。私をきちんと理解してくれる人は佐藤聖しかいないから。
 私はあのとき、明確にお姉さまの後を継ぐ。そう意識した。静さまのことをお姉さまとは呼びたくなかったし、お姉さまと私の間に第三者が入り込むのが嫌だったから。

 候補者が4人になった場合、私と静さまの一騎打ちになることは間違いない。
 一年生の私が、二年生の静さまと選挙をして勝てるかどうかわからない。
 でも、あんな考えを持つ静さまに、何もしないで『白薔薇さま』というお姉さまの称号を渡したくなかった。
 だから、私は立候補したのだ。




 壇上に立った。
 目の前に広がる人の海。
 私はマイクの前で深呼吸をすると、最初の言葉を発した。




 環境整備委員会の定例会が終わると、時計は13時35分を指していた。

 選挙の開票結果が出るのが14:00時が目安だったはずだ。
「結果、どうなったのかしら………」
 落選したのは静さまか、それとも私か………。


 普段勝負事にはそれほどこだわらない私だが、今回の結果は大いに気になった。
「ちょっと早いけど………」

 そう思いながら、私は選挙結果が発表される講堂前の掲示板へと足を向けた。


 私が、掲示板につくと、そこはすでにすごい数の人が集まっていた。
 関係者ならともかく、たかが生徒会選挙の結果に、こんな人数が集まっているとは私には信じられなかった。
 何も張られていない掲示板を遠くから眺めて、張り出されたら、ゆっくり確認しよう。そう考えていたのだが、この状況では、それも難しそうだ。
 薔薇の館に行って時間をつぶしてこようか。
 そう思ったときに私を呼び止める声がした。
「白薔薇のつぼみ、こちらへどうぞ」
 その言葉に、掲示板の前にいたすべての人が私のことを注目し、そして、それに呼応するかのように、私の前に掲示板へと続く道ができてしまった。
「ありがとうございます」
 こうなってしまっては、今更戻ることもできないだろう。私は、軽く頭を下げてから掲示板の前へと移動した。




 開票結果が掲示された。

「おめでとうございます。白薔薇のつぼみ」
 次々と祝福の声が私の元に届く。

 生徒会役員選挙。当選者は、小笠原祥子・支倉令・藤堂志摩子の3名だった。

 私は、その結果を何度も見直した。
 しかし、何度見直しても。その結果が覆ることがなかった。






 しばらく、喧噪の中でぼんやりしていると、お姉さまと祐巳さんがこちらの方にやってきた。
「とりあえず、3人ともおめでとう」
「ありがとうございます」
「楽勝だったじゃん」
 お姉さまは投票結果をちらりと見て、私にそういった。
「そうでもないです」
 わたしは首を振ってそう答えた。

 正直、私は選挙に負けると思っていたから。
 2年生の静さまの方が、より生徒会役員にはふさわしいと思っていたから。
 私が立候補したのは、ただ、お姉さまとの関係に割り込まれたくない。ただそれだけの理由だったのだから。
 こんな私が、この場所にまだいてもいいのだろうか?
 そんなことを考えていると、お姉さまは、ゆっくりと近寄ってきて、私の頬にそっと触れた。
 そして一言こういった。

「志摩子。がんばってね」

 その言葉で、私の中でわだかまっていたモノがすべてすとんと落ちていった。
 そしてその瞬間、私の中で何かが切れた。
 目から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
(どうして?)
 泣くつもりなんか無かったのに、次から次へと涙が目からあふれていた。
 「志摩子」
 お姉さまはそんな私を優しく抱きしめてくれた。

 普段、そう言うことを全くやらないお姉さまの体温は、私にとって、甘く、優しく、温かかった。




「そろそろ帰ろうか………」
 気がつくと、掲示板の前には人がほとんどいなくなり、薔薇の館の面々もすでに姿が見えなくなっていた。

 私たちは、ゆっくり歩き、バス停の方に向かう。
 何も語らない沈黙の時間。何もしないという時間は私たちにとって無為ではない。
 その場にお互いが存在していることが重要なのだから。でも、これからは、そういった姉妹で過ごせる時間は、短くなっていってしまう。
 寂しさが胸でいっぱいになりそうになったとき、お姉さまはぎゅっと手を握ってくれた。

「志摩子。がんばってね」

 そしてもう一度、お姉さまはそう言った。
 私はこぼれ落ちそうになる涙を、こらえながら、ぎゅっと、お姉さまの手を握りかえした。


 手を握りながら私は一つお姉さまにわがままを言う。
「お姉さま。今日、うちに泊まりに来てくれませんか?」
 今日はこの手を離したくなかったから。
「じゃあ、家族内の役員選挙のお祝いに交ぜてもらおうかな」
 お姉さまは、ひどく驚いた表情を浮かべたけど、すぐに優しい表情になって、そう言ってくれた。

 そして、私たちは家に向かう。いつもはつながない手をぎゅっと握り合ったまま。


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