【1755】 イエローデビル  (楓野 2006-08-06 05:37:59)


ごきげんよう、と松平瞳子がビスケット扉を開けた時、そこには黄薔薇が一人でいるだけだった。
「ごきげんよう、瞳子ちゃん」
瞳子の姿を認めた黄薔薇、支倉令はその端正な顔に笑みを浮かべて挨拶を返した。
「今日は黄薔薇さまだけですの?」
「祥子と由乃は体調不良で欠席、志摩子は家の手伝い、祐巳ちゃんは掃除当番。
 乃梨子ちゃんは大叔母さまとお出かけ、可南子ちゃんは聞いてないな」
「可南子さんでしたら早退なさいました。具合が悪いと保健室に行って、そのまま」
「季節の変わり目だからね。体調を崩しやすいのかも」
「そうですわね」
相槌を打ちながら、瞳子は妙なことに気がついた。
少なくとも四人、そのうち薔薇さまが二人もいない状況でなぜ黄薔薇さまはここにいるのか。
ここまで人がいなくては仕事も進まないし、決も取れない。
ならばいっそ今日はお休みということにしてしまえばいいものを、一体何故―――?
「剣道部の方はよろしいんですの?黄薔薇さま」
「顧問の先生が出張でね。今日明日と自主練だよ」
そう言って、不意に立ち上がる令。
「座りなよ。お茶、入れてあげるから」
「いえ、自分で……」
「いいから。それに、少し瞳子ちゃんと話したいこともあってね」
自分でやる、と遠慮しかけた瞳子を強引に制し、令は給湯室へと向かう。
「なにがいい?」
「……紅茶をストレートで」
OK、と言い残して令は給湯室へと消えた。
どうせ祐巳さま以外に来る人はいないのだ、と瞳子は普段祥子が座る椅子に腰を下ろした。
カチャカチャというカップの音を微かに聞きながら、瞳子はなんなのだろう、と自問する。
そもそもあの人――黄薔薇さまが私に話しかけるなど初めてではないだろうか。
もちろん、山百合会の仕事として話したことは何度もある。
廊下ですれ違えば、会釈くらいはする。
だがそれ以外、例えばこういったプライベートで話すというのは初めてだったはずだ。
(なにをお考えになっているのやら)
令の考えがさっぱり理解できずに、瞳子は頬杖をついて窓の外を見つめていた。
木々が風に揺れ、鳥が一羽飛び立つのを見ていると、令がカップを二つ手にして戻ってくる。
「お待たせ」
令がカップをテーブルに置くと、カチャ、とスプーンが音を立てた。
なにを考えているかわからない令だが、さすがに毒が入っているわけではあるまい。
「いただきます」
と、瞳子はカップを手にとって紅茶を口に含んだ。
黄薔薇さまの入れる紅茶というのは初めてだが、想像以上に美味しいものだった。
聞いたところによると、黄薔薇さまのご趣味は料理やお菓子作りとか。
それを考えれば、この紅茶の味も納得というものだろう。
美味しい、と言葉にはしなかったが瞳子の様子から感じ取ったのだろう。
令が嬉しそうに顔をほころばせ、自分も紅茶に手をつける。
「……それで、お話というのは」
ひとしきり紅茶を楽しんだ後、瞳子が切り出した。
対面に座る令は苦笑して紅茶を一口飲むと、テーブルに両肘をついて指を組んだ。
「あんまり愉快な話じゃないかもしれないけどね……祐巳ちゃんのこと」
令が口にしたその固有名詞に、瞳子の身体がわずかな間硬直する。
だがそれも一瞬、女優を自称する瞳子は動揺を隠して令を見据える。
「あの方のことで黄薔薇さまに言われる事はないと思いますが」
語調を強く、拒絶の意をハッキリと込めて瞳子は言った。
だが、令に退く気は見られない。
「うん、ない。だからこれは私のお節介。余計なお世話。自己満足と言ってもいいね」
「でしたら、聞く必要はありません。失礼いたします」
飲みかけの紅茶にもかまわず、瞳子は席を立って扉へと向かう。
上級生に対してする行為ではないかもしれないが、プライバシーは尊重されるべき。
そんな考えの下に席を立った瞳子だったが、ビスケット扉に手をかけたところでその手を掴まれた。
「……放してください」
ゆっくりと令に向かって振り返り、冷たい目で令を睨む瞳子。
だが、そんな視線など意にも介さず令はその手の力を少しだけ強めた。
「まだ話は終わってないんだけどね」
「ですから、お話しすることはありません」
「そうもいかない。こっちは親友に関わることなんだ」
令の顔から表情が消えた。
無表情のまま見下ろしてくる令は、整った顔立ちの分迫力がある。
簡単に気圧される瞳子ではなかったが、祐巳あたりであれば口も開けぬであろうほどに。
「祥子と祐巳ちゃんのすれ違いの原因、瞳子ちゃんにもあることを自覚してる?それが無意識であっても」
「……ええ。無意識どころか意識的にそうなるよう仕向けたことも」
令の目をまっすぐに見上げたまま、瞳子は無機質な声で語った。
それを聞いて、令の口元が僅かに吊り上がる。
「OK、第一関門は突破。これで自覚してなかったら殴り倒すところだった」
「……それはどうも」
言いながら、瞳子はザワザワと背筋が騒ぐのを感じ取っていた。
なぜかわからない、だけど確実に自分の中の何かが警鐘を鳴らしている。
それが何かを感じ取る前に、令が再び口を開く。
「次の質問。祐巳ちゃんにちゃんとした形で謝った?」
「……いいえ」
なぜなら、謝る必要はないから。
祐巳さまは祥子さまの妹に相応しくない、それが瞳子の下した判断だったから。
頭を下げさせたければ、認めさせればいいのだ。
「その事がなにか?まさか、謝れと命令なさるおつもりで?」
「いいや。そんなことしたって瞳子ちゃんが聞くとは思えない」
意外に令は瞳子のことを正しく理解している。
いや、もしかしたら由乃を見てきた経験上なのかもしれなかったが。
理由はどうあれ、令の判断は正解だった。
「それに、人に言われて謝ったって何の意味もない。自分の意思で謝らなきゃいけない。
 そのあたりは別に気にしちゃいないよ……だけどね」
そう言った瞬間、不意に令が掴んでいた瞳子の手を引いた。
瞳子がバランスを崩し、流れるその身体を令が軽く突き飛ばした。
たたらを踏みながら壁へと背を突く瞳子。
その顔のすぐ横に、令の手が叩きつけられた。
「祐巳ちゃんを泣かせたこと―――私は許していない」
ザワリ、と瞳子の背筋が一際大きくざわめく。
瞳子はまだ令の顔を見ていない。
令の足元を見つめたまま、顔を上げない―――いや、上げられない。
それでも、令が今どんな表情をしているのかは手に取るようにわかった。
「姉でもないのに祐巳さまのご心配ですか。黄薔薇さまは随分過保護でしたのね」
顔は上げぬまま、瞳子は皮肉を口にする。
「そうさ、過保護だよ。由乃を見ていればわかるだろう?」
令は軽く嘲笑し、また皮肉で返した。
「今の山百合会にとって、祐巳ちゃんは中心なんだよ。もちろん、実質的な意味じゃない。
 実務という点では私や祥子、志摩子にはもちろん由乃よりも効率は悪い。
 けれど、精神的には……間違いなく祐巳ちゃんが中心だ。依存しているというのかもしれない」
「……随分と情けない方々ですこと」
「なんとでも言ってよ。それでも祐巳ちゃんは私達の中心だから。
 私達は何度も祐巳ちゃんには助けられてる。祥子も、由乃も、志摩子も……私もね」
令の脳裏には、かつての黄薔薇革命のことが思い出されていた。
由乃が手術を受けると聞いたあの時、祐巳の一喝がなければ由乃との道は分かたれていたかもしれない。
仮に戻ることができたとしても、今のような関係になっていたとは思えない。
だから、こうやって祐巳のために動く。
それが自己満足、自分のエゴだとしても。
「祐巳ちゃんのいないここは、火が消えたみたいだった。空っぽだ。酷く居心地が悪かった」
「……だから……なんだというんですの?」
瞳子は顔を上げられない。
声を絞り出すのが精一杯だった。
汗腺すら麻痺してしまったのか、冷や汗も流れない。
「私は瞳子ちゃんが何しようとどうでもいいんだよ。でもね。
 もうあんな空っぽな薔薇の館は見たくないし、祐巳ちゃんも悲しませたくない。
 だからもう一度、瞳子ちゃんが祐巳ちゃんを泣かせたり悲しませたりしたその時は―――」



「―――潰すよ?」



恐ろしいまでの妖艶な笑みと共に、瞳子の耳元で低く呟かれる声。
その瞬間、瞳子は背骨が全て氷に変わったかのような感覚に襲われる。
――絶対的な、恐怖。
瞳子は、完全に思い違いをしていた。
山百合会という集団で最も恐ろしいのは、祥子でも志摩子でも祐巳でもない。
眼前のこの人だったのだ。
圧倒的な暴力と、必要とあらばそれを行使できるある種冷酷な精神の持ち主。
味方には無害な人間でしかないが、敵と認めたものには容赦しない。
普段の情けない姿からは想像もできない、強者の姿。
ひとりでに瞳子の身体は小刻みに震えだす。
女優としての意地や見栄など、何の役にも立たない原始的な感情に支配される。
一度たりとも合わせていない瞳から放たれる、凶悪で圧倒的な重圧。
呼吸が乱れ、こんなにも荒い息をしているのに細胞がそれを拒否している。
神経が氷に入れ替わったかのように身体は動くことを忘れ、指一本動かない。
――この人には、勝てない。
たとえ松平の力をつぎ込んだとしても、この人はなんら関わりなく瞳子を破壊する――!!
…………………………。


気がつけば、重圧は去っていた。
開放された汗腺から、汗がドッと吹き出る。
重圧を放っていた令はまだ目の前にいるが、瞳子は深呼吸して酸素を深くまで取り込んだ。
それとほぼ同時に、階段が軋む音が聞こえてくる。
ごきげんよう、と扉を開けて現れたのは、福沢祐巳その人だった。
「ごきげんよう、祐巳ちゃん」
「ご……ごきげんよう、祐巳さま」
まだ少し息は荒いが、なんとか平静を保って挨拶を返す。
一方の祐巳は、二人が妙に壁際にいることに気がついて小首を傾げる。
「どうしたんですか令さま?そんな壁際で……それに瞳子ちゃん、なんだか疲れてるみたい」
「ちょっと頼まれて、演劇の練習をね」
「そうなの?」
「え、ええ……令さまったら演技がお上手で、ついつい熱が入りすぎてしまいましたの」
瞳子がそう言うと、あっさりと祐巳は納得した。
祥子を始め何人かが欠席ということを令から聞き、令に食って掛かる祐巳。
そして、その祐巳に軽く笑いながら謝る令。
それを眺めながら、瞳子は先ほどまでの重圧を思い出して身震いした。
知らない、というのは幸せなのかそれとも不幸せなのか。
猛獣と相対する人間、蛇に睨まれた蛙の気分を理解したと瞳子は思った。
喰われてもおかしくはなかった、そんな考えまで浮かんでくる。
「瞳子ちゃん!」
祐巳の声にハッと現実に戻る。
「帰らないの?」
「あ、いえ、今参ります!!」
慌てながら鞄を手に取り、祐巳の元へと向かう瞳子。
薔薇の館を出て、校門までを令・祐巳・瞳子という珍しい組み合わせで歩く。
その道すがら、瞳子と目が合った令はにっこりと微笑んだ。
まるで先ほどのことなど覚えていないかのような、爽やかな笑みだった。


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