【1754】 それだけで幸せただ、ありのままで  (沙貴 2006-08-06 02:12:02)


 祐巳の空気がおかしい、と気付いたのはクリスマスの頃だったと思う。
 クリスマスイヴか、当日か、あるいはその翌日か。
 その頃は祐麒もいろいろとドタバタしていて、祐巳に気を向けることなんて殆どなかったけれど、気が付けば祐巳の雰囲気が少し違っていた。
 挙動不審になった訳ではない、それまでから比べても様子に変化は余りないといえる。
 でも、何かが違った。
 弟の直感というか、家族の絆というか。目に見えない、言の葉にも乗らない、発する空気の違い。雰囲気の異なり。
 些細で漠然としたそんな違和感は、だからこそ「何かあったのだろう」と確信出来る変化でもあった。
 
 気にならなかったといえば嘘になる。
 でも、もう、今更「俺が助けてやろう」なんて思ってしまうほど祐麒は傲慢ではなかった。
 祐巳には祐巳の生活があるし、関係があるし、問題もあるだろうから。
 それに口を出すべき立場にいるとは思えないし、逆の立場で口を出されても煩いだけだ。
 祐麒は祐巳の弟であって、祐巳は祐麒の姉であって、お互いの保護者などではない。
 ほんのり寂しいが、事実だった。
 
 
 
 〜〜〜
 
 
 
「はーでも、寒いねー」
 そんな”空気のおかしい姉”は今、新年明けてまだ一時間と経たない深夜の町で祐麒の隣を歩いている。
 はぁっと掌に息を吹きかけて暖を取る仕草がどこか幼稚で、横目で盗み見た祐麒の口元を知らず上げさせた。
「冬だからな」
 誤魔化すようにして在り来たりの返答をし、ふっと短く吐き出した祐麒の息が白く流れる。
 人通りの疎らな新年の町は、当たり前のように寒かった。
 冬、だからだ。
「そんなことわかってるわよ。もう、なんでそんな当たり前の事言うかな」
 しかし祐巳は当然な自然の摂理に納得がいかなかったようで、そんなことを言って唇を尖らせる。
 冬だから寒い。言われるまでもなく当たり前のことだが、ならば何故にわざわざ今このタイミングで寒いと言ったのかと祐麒は思う。
 口に出して「寒い」というだけで体感気温は下がるのだ――0.1℃くらいは。
 寒い時に寒いと言うな、暑い時に暑いと言うな、とかいう掛け合いはリリアンで行われないのだろうか。
 祐麒は呆れて眉を寄せた。
「じゃあ何て答えれば良いんだよ。今の時期暑かったら大事だろ? 当たり前のこと言ったのは祐巳じゃないか」
 首を縮めて露骨に寒そうにして言ってやると、祐巳はぶぅとリスみたいに口を膨らませて抗議する。
「当たり前じゃないわよ、こんな時間帯に外を歩くから寒いんじゃないの」
 言われてみると、一転して祐麒はなるほどと頷いた。
 確かに日付が変わってから外を歩く経験は祐麒とはいえ余りない。
 男である祐麒がそうなのだから、当然女である祐巳はもっと少ない筈だ。
 そもそも日付変更直後の初詣といった、家族皆でする深夜の外出といった習慣がない福沢家のこと。
 祐巳はもしかすれば、こんな深夜の外出は初めての経験かもしれなかった。
 
「そりゃ、そうか。言われてみればそうだな、夜は寒いもんなんだ。忘れてたよ」
 そう祐麒が答えると、「わかれば宜しい」的満足げな表情を浮かべた姉が前を向く。
 けれど、すぐにまた振り返った。
 そして半分に据わらせた不審な目を祐麒に向けて、言う。
「何、祐麒。もしかして夜出歩いたことあるの?」
 抜けている姉にしては鋭い指摘に祐麒はおっ、と思ったが同時に向けられた視線にげんなりと項垂れた。何故なら――
 
 夜に出歩くなんて、素行の悪い友達と付き合っているのではなかろうか。
 その子らと煙草吸っちゃったりお酒飲んじゃったり、まさか暴走族とか!
 
 とまぁ、わかりやすい疑いの視線がぐさぐさと遠慮なく祐麒の眉間に突き刺さったから。
 祐巳も流石に暴走族までは考えていないかも知れないが、似たようなことは間違いなく考えている。
 姉は弟を何だと思っているのだろうか。これでも一応、花寺学園生徒会長の肩書きを持っているのに。
 
「あるよ?」
 だから敢えて、祐麒は殊更何でもないことのように言ってやった。小首を傾げて、一息に。
 さも当たり前、日常茶飯事ですよと言わんばかりだ。
 するとそれが功を奏して、祐巳はこれまた判りやすく狼狽し始めた。
「ど、ど、ど」
 どうしてと言いたいのだろうが、生憎と祐巳の口は道路工事に忙しくて正しい言葉を発しない。
 連続して吐き出される短い息が白い塊になって祐麒と祐巳の間で生滅する。
 その向こうで目を丸くした祐巳の表情が真剣そのもので、思わず祐麒は笑ってしまった。
「ははっ、何て顔してんだよ」
 するとすっと何かが抜けるようにして、祐巳の大きく見開いていた目が戻る。
 合わせて口を閉じた所為で、二人の間を遮っていた白い膜が消えた。
 足を止めて。
 目が、合う。
 
「祐麒、あんた――」
「そ。前に俺、夜走ってただろ。いつだったかなぁ、もう随分前だけど」
 だから慌てて祐麒は種明かしをした。
 祐麒が軽く笑った所為で、祐巳の勘違いがいきなり洒落にならないレベルにまで達してしまったからだ。
「え?」
 急激な転換についていけない祐巳が目を白黒させる。
 止めてしまった足を思い出させるように肩を軽く叩いてから先に歩き始めると、祐巳は一瞬の間の後小走りで祐麒の横に並んだ。
「ほら、体力つけるとか何とか言ってさ。結局すぐ止めちゃったけど」
 そうなのだ。以前、祐麒は夕食の後に外を走っていた時期があった。
 友人内で夜に走るのが流行し、それにらしくもなく便乗した形で始まった祐麒の個人マラソン。その中で、何度か随分遅い時間に走ったことがある。
 ちなみに仲間内で真っ先に脱落したのが祐麒で、最後までやっていたのはアリスだった。
 
 その辺りまで話すと、祐巳は漸くその頃を思い出したのか表情を緩めてくれた。
「ああ、ああ。あれね。何だ、びっくりしたじゃない」
 少しだけ怒ったように、そしてそれよりずっと安心したように、祐巳は笑って祐麒の背中を叩く。
 容赦なくばんばん叩かれるのは正直痛かったが、まぁその痛みの分だけ心配してくれたということなのだろう。
 良いように無理矢理思って、祐麒はどうにか不満の声を上げることを堪えた。
 しかし――
 
「もう。こっそり暴走族にでもなってるのかと思っちゃった」
「ってやっぱりか! 姉ちゃん馬鹿だろ!」
 お約束のようにそう言って退けた祐巳の天然には、流石の祐麒も突っ込み根性を抑え切れなかった。
 
 
 そうして、二人の間に不意の沈黙が訪れた。
 それは何故だかぽっかり空いた会話の狭間、台詞の隙間。
 こつこつとも、ぺたぺたとも違う独特の足音を二足のスニーカーが鳴らすだけで、それ以外には時折祐麒らの脇をすり抜ける車の駆動音くらいしか聞こえない。
 静かな夜だった。
 人通りはそれなりにあるものの、明け始めということもあってか皆が皆静々と歩いているので、目を閉じてしまえば周りには誰もいないように錯覚できるくらいに静かな夜。
 冷たい空気に満ちた、孤独で、静かな――夜。
 はぁっ。
 けれど、再び掌に息を吹きかけながら隣を歩く姉の仕草が”それは違う”と教えてくれた。
 例え周りに誰もいなくても、祐麒の隣には祐巳が居る。そして同時に、祐巳の隣には祐麒が居るのだと。
 目を開けた祐麒はくすりと笑って、そうだな、と。
 唇に刻むだけで答えた。
 
 幼少時ならいざ知らず、今、祐麒と祐巳の繋がりは決して強いとはいえない。
 祐麒と祐巳は家族であり姉弟であるから、そういった繋がりは勿論ある。
 そして仲良し家族であり仲良し姉弟なので、それは一般的平均よりもは強いかも知れない。一般的平均がどれくらいなのかは祐麒に想像も出来ないけれど。
 しかし今更、昔のように近所のいじめっ子に泣かされたと祐麒が祐巳に泣きついたり、怪我をして泣き続ける祐巳を宥めながら祐麒が手を引いて帰ったりするなんてことはない。
 もう、そんな事は有り得ないのだ。
 
 あの頃の祐麒と祐巳は男女の違いこそあれ、殆ど一心同体だった。
 二人の年齢はかなり近いし、福沢家の教育方針が男女平等だということもあって祐麒らが一緒に過ごした時間は長い。
 男友達を交えて缶蹴りをしたし、女友達を交えておままごともした。
 友達は殆ど共有していたし、部屋も一緒だった。
 ちなみに良く一緒にお風呂にも入っていたが、何故だかその時のことを思い出そうとしても脳裏に蘇るのは祐巳の顔だけだ。
 きっとその頃の祐麒は首から下に興味なんて全く無かったのだろう。
 今では全く別の理由から首から下なんて見ることも出来ないが、こればかりは仕方がないか。
 
 今では勿論別の部屋だし、風呂はそれぞれで入る。
 お互い別の学校に通って、それぞれの友達を作って、そして、色んな問題を抱えて悩んで解決して。
 祐麒の中では、祐巳のことを”お姉ちゃん”ではなく”祐巳”と呼ぶようになったことも大きい。身長もいつの間にか追い越してしまった。
 でもそれで全く疎遠になった訳ではない。
 同じ屋根の下で暮らしているから嫌でも毎日顔を合わせることになるし、”空気の違い”なんかを如実に感じてしまう姉弟テレパスは未だに健在だ。
 良く話すし、一緒にTVを見ることも珍しくない。祐麒は祐巳好みのココアの淹れ方を知っているし、祐巳は祐麒好みのコーヒーの淹れ方を知っている。
 またそうして、時々今のように二人並んで道を往くこともある。
 下らないことや大切なことをぽつぽつと話して、それ以上でも以下でもなくて。
 近付いたり離れたりすることなく、ただ、ありのまま二人は居る。姉弟は在る。
 
 きっと、と前置きをすることもなく。
 祐麒と祐巳はこれからずっとそうやって生きていくのだ。
 何故なら姉と弟であるから。
 何があっても切れないのが血の縁であり、無条件で傍にいることが出来る、傍にいることを強制されるのが家族という絆。あるいは、枷だから。
 今だって例えば、祐巳が怪我をして泣き続けているなら祐麒はその手を引いて帰ってやれる。負ぶることだって今なら出来る。
 祐麒が泣いて縋れば、祐巳も祐麒を泣かせたいじめっ子に何かしらの対策を立ててくれる筈だ。
 しかし、祐巳はもう怪我をしても一人泣き続けるようなことはなくなったし、祐麒がいじめっ子に泣かされることもなくなった。
 ただそういう事なのだろうと思う。
 
 血は水よりも濃いともいう。
 本当はでも、それは単なる言葉の綾で、科学的化学的共にそんなことはないのかも知れない。
 昨今家族内における凄惨な事件が後を絶たない。そんな現状を見れば、血の縁だの絆だの、そういった言葉がどこまでも軽薄に思えてしまう。
 そして実際に軽薄なのだろう。だからこそ――そんな事件が起きたりする。
 でもそれは最近になって急に目立つようになっただけで、これまでずっとゼロだった訳ではないはずだ。
 今まで、血は水よりも濃いと言われ続けていた時代からきっとあった。
 
 でも。
 祐麒と祐巳はこれからもありのまま居続けられるだろう。
 仮にそれが祐麒だけの思い込みだとしても、むしろ構わない。
 漠然と祐麒は祐巳の傍に居続ける。それはきっと祐巳の隣でも背後でも正面でもない場所で、でもすぐ近くで。
 親、旦那、子供。親友、友達、”お姉さま”。そのどれとも違う立ち位置。世界で祐麒だけに許された位置だ。
 もっとも、世界で祐麒以外にその位置を欲しがる人間が居るとは思えない場所ともいえる。
 
 
 悪くない位置だけどな、と意識が現実に回帰するのと殆ど同時に、隣から声が上がった。
「見た? ね、見た?」
 振り返って見ると、寒さからか興奮からか、ほっぺたを真っ赤にした祐巳が空を指差している。
 その方向を負うようにして夜空を見上げると、満天とはいわないがきれいな星空がそこには広がっていた。
 冬の深夜、澄み切った空気を突き抜けて降り注ぐ星の光が優しい。
 優しいけれど――
「何が?」
 視線を戻した祐麒はシンプルに問う。
 祐巳の言葉には主語が抜けていて、何が「見た?」なのかわからなかった。
 空を指しているので何らかの星だろうとは思うが、飛行機だったり別のナニカだったりするかもしれない。
 祐巳は天然だから、その春っぽさに惹かれてナニカも警戒を解いている可能性だってある。
 
 本人を目の前にして割と失礼なことを考える祐麒を尻目に、祐巳はバシバシと祐麒の二の腕辺りを叩きながら捲くし立てた。
「流れ星だよ、流れ星。東京でも見られるんだね」
 言われて祐麒はもう一度天を仰ぐ。
 けれど天上を悠然と覆う星空はさっきと何ら変わりなく、動く星は一つもなかった。
 しばらく待っても星が流れる気配はやっぱりなくて。祐麒はやがて再び視線を地に戻した。
「年末年始は都会の空気がきれいだからな。そっか、いいな祐巳は見られたなら」
 自分には見られなかったことがちょっとだけ悔しかったが、中々見られないから流れ星は貴重なのだ。
 祐巳が見られたならそれはそれで良いのかもしれない。
 祐麒には流れ星に願うようなことがなければ、そんなロマンチックな趣味もないことだし。
 
 けれども。
「よくないよ。お願い事し忘れた」
 流れ星に願うようなことがあり、そんなロマンチックな趣味を持つ祐巳にはそれだけで満足できるようなことではなかったらしい。
「お願い事、あるの?」
「そりゃ」
 思わず問うと即答で返ってくる。これは結構真剣に残念がっていると見た。
 けれど、世話の掛かる姉だなぁと内心溜息を吐きながらも、その不満をどうにか解消させてやろうと思案を始める律儀な自分が祐麒はちょっと好きだ。
 このシスコン、と小林の揶揄する声が聞こえる。
 家族思いと言って欲しいね、と撥ね除ける祐麒は言った。
 現在、祐麒らが歩いている辺りから行ける範囲に唯一在るお稲荷さんの場所を思い出しながら。
 
「どこでもいい?」
 
 
 
 〜〜〜
 
 
 
「どうせ、っていうとアレだけど。祥子さんのことだろ?」
 二人きりの初詣もすきっと終わらせ、寒風の家路で祐麒は聞いた。
 話題は勿論、突発的初詣の切っ掛けとなった祐巳の「お願い事」だ。
 不躾に問うのは姉弟とはいえマナー違反かも知れなかったが、教えてくれなければ別にそれでも良かった。
 自分のお願い事を洗いざらい喋るのは人としてどうかと思うし、一応祐巳も女な訳だから。男である祐麒にはいえない願い事だってあるかも知れない。悩みもそうだ。
 そしてそれは祐麒にもいえることなので、仮に祐麒が願い事を聞かれたところで答える気は余りなかった。
 でも祐巳はあっさりと答える。
「勿論だよ。祥子さま、令さま、由乃さん、志摩子さん、蔦子さん――って言ってもわからないか」
 けれど指折りながら名前を列挙し始めた祐巳は、途中で数えるのを止めて照れるように笑った。
 確かに今の祐麒と祐巳の交友関係は全く異なる、半年前の祐麒なら今上げられた名前の半数もは顔と体格が一致しなかっただろう。
 そもそもその頃は会ったことすらない人も居る。
 けれど。
「何言ってんの、俺だって劇でリリアンに散々行っただろ? その辺りまではわかるよ」
 祐麒はそう言って祐巳の頭をこつんと小突いた。
 散々賛辞を聞かされた”お姉さま”こと”祥子さま”こと小笠原祥子さん。その親友にして同じ生徒会長支倉令さん。島津由乃さんに藤堂志摩子さん、カメラの武島蔦子さんと、今では顔と体格に名前とオプションまで一致する。
 
 そっかそうだねと繰り返した祐巳は、うん、と頷いて続けた。
「皆の無病息災をお願いしたんだ。祐麒の知ってる子、知らない子、知らない人、勿論お父さんお母さん祐麒も。やっぱり年始のお願いといえばそれでしょ」
 にっこり笑って。
 寒さを堪えて震える頬で、ちょっと無理をして笑って。
 だから祐麒は気付いてしまった。祐巳が嘘を吐いたこと――正確にはそれとは別に、祐麒には教えたくないお願い事があったのだということに。
 けれど祐麒はそれを水臭いな、とは思わない。それはそれで当たり前のことだ、言いたくないなら言わなければ良い。別に祐麒は尋問がしたいわけではないのだ。
 
 それよりも祐麒にとって意外だったのは、祥子さんが”皆”に含まれていたことだ。
 あの祥子さんが、である。
 祐巳にとって神にも等しい存在である筈だった祥子さんが、それまでの完全な特別枠ではなくて”皆”に。
 それは特別枠からの降格だろうか。
 それとも隔絶した位置からの昇格だろうか。
 祐麒にはわからない。
「そっか。皆の幸せか」
 でもきっとそれは降格でも昇格でも、どちらも良い。
 少なくともその変化は祐巳と祥子さんの関係の変化そのものだろうし、”皆”の第一番に祥子さんを持ってきた辺り、悪化しているとは到底思えないから。
 具体的に、神格から先輩へ。リリアン風には”お姉さま”へというところだろう。
 
 何だか凄い。
 祐麒にとって小林や柏木先輩は、”友達”や”先輩”というカテゴリから始まって以来、殆ど変化なんてしていない。
 まぁ”神格”なんてカテゴリがそもそも祐麒にはないのだが、人間関係の変化・整理だなんて高校生程度で果たして必要なものなのだろうか。
 祐麒には想像もつかないそれが出来る姉は、やはり姉なのだろうなと思った。
 約一年の人生経験差は伊達ではない。きっと。
 
「皆の幸せ?」
 思わず口にしてしまって祐麒自身後悔し始めていた恥ずかしい台詞を、祐巳は復唱した。
 無垢な天然には勝てない、と苦虫を噛み潰したような顔を背けて祐麒は答える。
「だってそうだろ、無病息災ってのは幸せの第一歩だ。健全な精神は健全な肉体に宿るとも言うしな。それをお願いするってことは、皆が元気で幸せにいられますように、って祈ることと同じじゃないか?」
 花寺では引き合いに出されることの多い言葉だが、リリアンでは余り聞かないのだろうか。
 健全な――の下りでふうんと感心したように白い息を吐いた祐巳の反応に気を良くし、祐麒はちょっと得意気に続けた。
「ところで祐巳、ちゃんと自分の無病息災もお願いしたか? 皆のことをお願いすることも良いけど、それで自分が倒れちゃ世話ないぜ」
 
 ぴしり。
 有り得ないことだが、祐麒の耳はそんな音を確かに聞いた。何かが凍りついたか、ひび割れたような乾燥した音。
 そしてそれは間違いなく、隣を歩く祐巳の心の中で起きた音に違いなかった。
「祐巳ぃ」
 漫画であれば間違いなく大きな汗マークが張り付いているだろう姉の横顔に苦笑して、祐麒はこめかみを押さえる。
 相変わらずどこか抜けている姉だが、それがまた”らしくて良い”と感じるのは弟馬鹿だろうか。
「だ、大丈夫だわよ。私、昔から体だけは丈夫……だもん」
 祐巳は口篭って、羽織った分厚いコートで良くわからないが何となく(できるわけないのに)力こぶを作って見せようとしたのがわかって、無理矢理笑おうとして結局失敗した。
 何故なら祐巳にはその言葉を口にする資格が無いからだ。
「んなこと言って学校でぶっ倒れたのはどこの誰だよ。大事に至らなかったから良いものの、本当、もう勘弁してくれよ」
「はあい、反省してます」
 肩をオーバーアクションで竦めてやると、祐巳も大袈裟にしゅんと小さくなってそう言った。
 そうして二人顔を見合わせて、くすくす笑う。
 
 全くもって似たもの姉弟、仲良し姉弟。
 新年早々こともなしだ。
 
 でもあのお稲荷さんに効果があるなら、祐巳の無病息災に関しては実はもう何の問題もなかったりする。
 祐巳には聞こえないくらいの小声で祐麒は呟いた。
「ま、俺がお願いしてるから大丈夫か」
 自分、家族、友人、先輩。
 祐麒も祐巳と同じように皆の無病息災と多幸をお願いしたし、その中には当然祐巳の名前も挙がっているから。
 
「何、何か言った?」
「なーんも。あ、げ、ヤバい。少し急ごうぜ。門限が近い」
 耳聡く聞きつけた祐巳の追究をさらりと交わし、腕時計を見せた祐麒は少しだけ歩幅を広げた。
「あん、待ってよ祐麒」
 祐巳に小走りをさせるくらいで、でも決して置いてきぼりにはしない微妙な速度で祐麒は往く。
 優しい光を降らせる星空は変わらずきれいで肺に染み渡る冬の空気は澄み切っていたけれど、体は随分冷えてしまっていて頬に当たる冷たい風が身に染みた。
 けれど、温かい部屋、温かい家。
 両親の待つ祐麒らの福沢家はもう少しだった。
 
 
 
 〜〜〜
 
 
 
 新年が本格的に空けて、三箇日を越えて。
 祐巳はやっぱり変わりなかった。
 リリアン新年会を越えても、”発する空気がおかしい”という祐麒の評価は覆らない。
 いつぞやのように何か強烈な鬱屈を抱えているような様子はないが、全くもっての順風満帆というわけでもないようだ。
 それに関して相変わらずに根拠は無い。敢えていうなら弟の直感と家族の絆だ。
 
 けれど、祐麒はやはり何も言わない。何もしない。
 祐巳は祐巳。祐麒は祐麒だから。
 縋られたのなら話は別だが、自分から土足で乗り込むような真似はしないし出来ない。
 
 だから祐麒はベッドに転がってただこう呟くのだ。
「しっかり頼むぜ、お稲荷さん」
 祐麒が祐巳の傍にいて、祐巳が祐麒の傍に居て。父さんが居て、母さんが居て。
 
 
 ただ家族として在るだけという、有り触れてささやかで、そして途方もない幸せの為に。


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