『桜の季節に揺れて』
【No:1746】act1〜act2
【No:1750】act3〜act4
【No:1756】act5〜act6
【No:1761】act7
act8. 優しさの円環
これは後で眼鏡の彼女――名前は沙耶子ちゃんといった――から聞いたことだ。
「最初、君江さんが彼女に絡んだんです。君江さんは最近よく愛子(ちかこ)さんにからんでいたんですけど、いえ、入学したての頃はそうじゃなかったんです。その頃は君江さんは率先してみんなに『愛子さんに優しくしましょうね』って言ってました」
もくずと掴み合っていた子の名前はは吉ノ塚君江(よしのずかきみえ)。幼稚舎からのリリアン生のバリバリのお嬢様だそうだ。
「愛子さんが障害者手帳もってることご存知ですよね?」
知らなかった。知りようも無かった。私はもくずのプライベートなことは何もしらないのだ。
「でも、愛子さんは何回か話し掛けないと返事をしないし、足の事を言うと『死んじゃえ』って返事するから……」
私は足の痣を見たときにそう言われた。彼女にとって“足が悪い”という現実は、彼女のおとぎ話を脅かす“敵”なのかもしれない。
お手伝いを志望する“善良なお嬢様”の大半はそれで脱落したそうだ。おそらく美幸さんの後輩の子がかけられた“辛らつな言葉”というのはこれの事であろう。これが普通の公立高校とかだったら、一方的に無視(シカト)されたり苛められたりはあれど、相手がショックを受けるなんて普通ありえない。でもここは純粋培養された善良な子羊の集うリリアンなのだ。
「君江さんが愛子さんに嫌味をいうようになったのは、白薔薇のつぼみと愛子さんが親しくされるようになってからなんです」
純粋培養のお嬢様といっても全てが善意の化身のような子羊とは限らないのだ。
中には、幼い頃からちやほやされたがゆえに我侭で、プライドだけはやたらと高いような人種もいる。
どうもこの君江さんというのがその傾向をもっていたみたいだった。
おそらく、身体の不自由なもくずを、彼女は“自分より下”と認識していたのだろう。そんなもくずが私と親しくなったことが彼女のプライドを酷く傷つけたのだ。
「今朝は、愛子さんと白薔薇のつぼみが仲違いしたって噂があって。私も近くで聞いてました。君江さんは身体的欠陥まで突いて耳を覆いたくなるような酷いことを言ったんです……」
そこでもくずが逆上して、ということではなく、もうワンアクションあったようだ。
「最初に手を出したのは君江さんです。それで愛子さんは席を立ってそこから離れようとしました」
最初は肩を叩いた程度だったそうだ。
「その時、また愛子さん、君江さんに『死んじゃえ』って言って」
彼女が掴んだのか押したのか、そこでもくずは机を巻き込んで転んだそうだ。
つかみ合いになったのはその直後、起き上がったもくずが今朝私にしたように彼女にタックルして、それからだったそうだ。
私が到着したのはその直後だった。
もう少し早ければ防げたかもしれないことが悔やまれた。
◇
「なんで、こんなことするのよ!!」
私が教室に飛び込んで、大声で叫んだ時、もくずは事切れたように手を離し、そして全身の力が抜けたようにぐったりした。
「……もくず!?」
思わず駆け寄るともくずの顔が赤かった。
急にもくずが戦闘を放棄したため、もくずの上でおろおろしていた相手の生徒をどかして私はもくずの額に手を当てた。
結構な高熱だった。
「日出美さん!」
私は振り返って遅れて教室に入ってきていた日出美さんに声をかけた。
「う、うん」
すぐに状況を理解した日出美さんはわたしがもくずの身体を起すのを手伝ってくれた。
そして日出美さんに補助してもらいながら、もくずをおぶろうとしたら、もくずが暴れた。
両脇で支える為に足を開かせようとするともくずが痛がるのだ。
仕方が無く、お姫様だっこをして日出美と交替しながら保健室まで走った。
日出美さんには道程の半分を運んでもらったが、一人でも全部運べたかもしれないと思うほどもくずは軽かった。
保健室に着いてから、保険医の先生に事情(といっても掴み合いの事ではなく、急に発熱したこと)を話してもくずをベッドに寝かせた。
この時点で、時計を見ると休み時間はあと1分も残っていなかったので、もくずは保険医の先生に任せて、私と日出美さんはそれぞれの教室に戻った。
帰りがけに私は日出美さんに「ありがとうね」と言ったら、「困った時はお互いさまよ」と笑っていた。
◇
あの時、沙耶子ちゃんは廊下で私に“もくずさんが”って言っていた。
私はそれに気づいていたが、すぐにそれについてゆっくり話している場合ではなくなってしまったため、後で話す機会があるまで心に留めておいたのだ。
「え? いえ、白薔薇のつぼみ、ご存知じゃなかったんですか? 藻屑って呼ばれていたので私は知っているものだとばかり……」
そう言って沙耶子ちゃんは恐縮した。
話によるともくずは沙耶子ちゃんと同じ中学に居たことがあるそうだ。
そういえば何回も中学を替わってるって聞いた。
「私も最初凄い名前だって思ったんですけど、その時は海野藻屑って名前でした」
「じゃあ今の名前は?」
「海老名というのは彼女の母親の苗字だそうです。それで戸籍を移したら海老名藻屑って名前になる筈なんですけど、事情はよく判らないんですけど、母親が下の名前も愛子(ちかこ)という名に変えようとしているとかで……」
本人が納得していないということで裁判所に認めてもらえず、まだもめているとかなんとか。だから、今は『通り名』ってことらしい。
名前の話は沙耶子ちゃんが母親から聞いた話だそうだ。
なんでこんなプライベートな話を? って思うが、こういう話は何処からともなく漏れてくるものなのだ。
あの子は私に“もくず”って呼ばれて喜んでいた。本人が気に入っているのなら無理に変えることも無いのに。
私に“もくず”と呼んでと初めて言った時、あの子はどんな気持ちで自分の本名を笑ったのだろう。
もくずは“好き”と言っていた父親から離れて母親の元に移って、名前のことで母親と対立している。
よくない噂の真偽はわからないけれど、聞いた話を総合しても、もくずの家庭はお世辞にも平穏と言い難いものらしい。
◇
保健室に置いてきたもくずが心配で授業への集中が三割方落ちていた私は次の休み時間になって即、保健室に向かった。
もくずはよく眠っていた。
保険医の先生に聞くと、熱はすぐ下がったとのこと。熱が上がりやすい体質なのかも、と言っていた。
私はもくずとの仲を隠すつもりも、あえて宣伝するつもりもなかった。
というか、早い話が成り行きに任せていただけだったのだ。
でも、今は違う。
中途半端な関係は、もくずにとっても良くないし、彼女のクラスでの立場が悪くなるって知ったから。
私は三時間目の休み時間も様子を見に行ったが、もくずはずっと眠っていた。
昼休みになって私はお弁当を持って保健室に向かった。
「もくず」
私はまだ横になっていたもくずに声をかけた。
もくずはもう起きていたみたいで、すぐに寝起きのようなぼーとした顔で私に振り向いた。
「もうお昼だけど、お弁当は?」
「購買」
そう言ってもくずは身体を起し、かかっていた毛布をよけて身体の向きを変え、ベッドから降りようとした。
「待って」
私はもくずの前に立ち、ベットから降りるのを制止した。もくずはベッドの横に座って足を垂らしたところで動きを止めた。
スカートが捲れて、青白い太股の蚯蚓腫れのような痣が露になってる。
私はまず、捲くれあがったもくずのスカートを整えてあげて、それから左手を肩に置き、右手で目にかかる前髪を避けて手を額に当てた。
熱はなかった。むしろ無さ過ぎるくらいだった。
もくずはスカートの下を見られたことが不満なのか、非難するような目で私を見つめていたが、今回「死んじゃえ」は出なかった。
「立てる?」
そう言うと、もくずは黙って頷いてベッドを降り、すぐ下に置いてあった上履きに足を入れた。
「じゃあ、購買、私も付き合うわ」
私は保険医の先生に一言かけてから、もくずを連れて保健室を出た。先生はもくずを連れ出すことに特に何も言わなかった。言わないってことは問題ないのであろう。
廊下に出たところでもくずは立ち止まった。
「どうしたの?」
俯いたまま、もくずは黙っていた。
「ほら」
そう言って、私はもくずの右手の前に私の左手を差し出した。
お弁当を持って保健室に向かった時からこうしようと思っていたのだ。
強引に手を繋ぐことも出来た。
でも出来ればもくずの方から手を握って欲しかったから、私は手を差し伸べるだけに留めた。
もくずは動かなかったけど、私は手を差し出したまま待った。
時間にしてほんの数秒だったと思う。
やがて、もくずは震える右手をゆっくり動かし、そして恐る恐る、という感じで、私の左手に触れた。
そっと、その手を私が握り締めると、もくずも弱々しく握り返してきた。
もくずの細っこい手はちょっとかさかさしてて冷たかった。
「さ、行きましょう」
手を繋いだまま、もくずの歩調に合わせて私はミルクホールへ向かって歩きだした。
ゆっくり行ったので購買の人ごみは既にピークを過ぎていた。
それでもホールで昼食をとる生徒達で賑わっていたけれど私は人目を気にせず、もくずと手を繋いだまま購買に向かった。
残り物の菓子パンしか買えないかと心配したが、もくずが購買の前に来ると販売員の小母さんが取り置きしてくれたらしいパンを出してくれた。ここでも私の知らなかったもくずのことがまた一つ。
小母さんは隣で手を繋いでいる私を見てちょっと変な顔をしていた。
私はお弁当があるので自販機で飲み物だけを買った。
「もくずはいつも何処で食べてるの?」
ミルクホールの喧騒から抜け出てもくずにそう聞くともくずは答えた。
「桜の木」
「え? 桜って講堂の裏の?」
「うん」
なんてことだ。
由乃さまの提案で新年度が始まってから、私はずっとお昼は薔薇の館で食べていた。
でも、もし、それがなければ私はもうちょっとだけ早くもくずと出会い、もくずと会う機会ももっと多かった筈だったのだ。
その時は当然志摩子さんも一緒だから、今とは違った展開になっていたのかもしれない。
でも、それを今考えても無意味だ。ifの話をしてもしょうがない。
下足室のところで一旦別れて、外に出て、また手を繋いで講堂の裏まで歩いた。
もくずも私も何も喋らなかったけど、手を握る私の手を、もくずはしっかりと握り返していた。
桜の葉が繁茂するのは意外と早い。
すっかり葉だけになった桜の木の下、ここは昨日最後に志摩子さんに会った場所、講堂の裏口の階段に並んで座って、私はお弁当を、もくずは買ってきたパンの袋を開けた。
もくずは取り出したハムカツサンドの袋をあけてかぶりついていた。
飲み物はいつもの水じゃなくてパックの苺牛乳。2リットルのペットボトルもしっかり脇に置いてあるけど。
私は頬張った卵焼きを飲み込んでから言った。
「熱、もう大丈夫なの?」
もくずはちょっと上目遣いに私の方を見た。
もくずは返事をしなかった。私は続けた。
「昨日の夜も何があったの? 私、心配したんだから」
私から目を逸らし、もくずは俯いた。
「クラスでさ、誰とも話しないの? なにか我慢できないことがあったの?」
もくずはまた残りのパンにかぶりついていた。
「ねえ、どうして返事してくれないの?」
ひときわ大きい声でそう言った。
もくずはまた私のほうを見た。そして、
「なに?」
私の方を見たままおもむろに立ち上がり、パンの入った袋とペットボトルと抱え、足を引きずって私の右側から左側に移動した。
「え?」
私は座る場所をずらして左側にもくずが座れるスペースを空けた。
「……あんた、まさか?」
一緒に歩く時、もくずはいつでも私の左側を確保していた。もしかして左耳が?
「あのね、人魚は左側から話し掛けられたら答えちゃいけないの。人魚の掟で禁止されてるの」
言い終わるともくずは私の顔色を伺うように上目遣いに私の目を見つめた。
私は勤めてやさしい声を出すように心がけながら言った。
「耳、左が聞こえないのね?」
「違うよ、昔人魚が呪われたとき、魔女が左側から呪いの呪文を言ったの。その呪いは人魚が人間と仲良く出来なくする呪いだったから……」
話がかみ合っていないけど、判った。
私は人魚のおとぎ話という、もくずの見事な言い訳を黙って聞いていた。
「……それで、縁起が悪いってことでその掟ができたの」
話が終わってから、今気づいたことを確認する為に聞いた。
「あなたクラスの席、一番右端でしょ?」
もくずはどうしてそんなことを聞くのかという風に首を少しかしげて答えた。
「うん、一番前でドアのすぐ横」
やはりだ。
おそらく足が不自由だから教室移動などですぐ出られるようにという気遣いであろう。
一番右ということは右側は壁。
つまり席についたもくずと話をするには、常に左から話し掛けなければならない。
『声をかけても無視されるんだそうです』
別に無視してたわけじゃない。聞こえなかったのだ。
良かれと思ってした気遣いが見事に裏目に出てしまっていたのだ。
でもこれが今判ったことは僥倖であった。
これで、もくずの教室での振る舞いが決してコミュニケーションの拒否なんかではないと証明できる。
どうして先生に言わなかったのか訊こうと思ったら、
「乃梨子」
もくずは俯き気味に私の方を見ないで私の名を呼んだ。
「なあに?」
「ぼくのこと嫌い?」
「はぁ? なんでよ? 嫌いなら手を繋いだりしないわよ」
そう答えてから考える。
確かに、今朝はもくずを叩いてしまった。その後ももくずの教室で怒鳴りつけた。
「そうね……」
でも、熱を出したもくずを抱えて保健室に走った時、もくずはこの小さな身体で何を経験してきたのだろうと思った。私は出会ってからのもくずの表面しか見ていないのに、叩いたり怒鳴ったり何様なんだろうって。
もくずは顔を上げてじっと私の目を見つめていた。
私はこう答えた。
「今は嫌いじゃないわ」
「今は?」
「うん、今朝までは、なんで嘘ばっかり付くのって苛々してた。教室でもどうしてこんな事するのって腹が立ったわ。でもね……」
私は勝手に『もくずはこんな子』っていうイメージを作ってしまっていたのだと思う。だから、裏切られた気がして腹が立ったのだ。
不穏な噂を聞いて、志摩子さんからもあんなことを聞いて、イメージが壊される事を恐れて。
「……私はこれからあなたのことを好きになるわ。きっと」
『嫌い?』と聞かれて。
『好きになる』と答えた。
私はもっともくずのことを知りたい――。
もくずの『不幸な経緯』もちゃんと受け止めたいと思った。
(続)