【1785】 戦乙女  (七式 2006-08-13 22:25:43)


それは、ある夏の日の出来事。

早朝の心地よい涼風の中、乃梨子は菫子のお下がりの有名ブランド製シティサイクル(高級ママチャリ)
に乗って、久方振りのサイクリングを満喫していた。
かの古畑何某刑事もドラマ中に愛用していたと言うそれは、さすが高級品だけあって、まるで滑るかの
ように路面を進んでいく。そのあまりの快適さに、知らず微笑も零れよう。

「初夏の風〜心地良きかな、志摩子さん〜♪」

風流かつ雅な句なぞ詠みつつ、益々機嫌を良くしていく乃梨子。その内に鼻唄で歓喜の歌をフルコーラス
してしまいそうな程だ。まあ偏屈なルードヴィッヒも、ママチャリを漕ぐ白薔薇のつぼみに唄ってもらえ
るならば、それは本望の極みってものだろう。

「ふん・ふん・ふん・ふん↑ふん・ふん・ふん・ふん↓ふん・ふん・ふん・ふん、ふ〜んふふ〜ん♪」

(お昼はオープンカフェでサンドイッチを摘もう。たまにはエスプレッソなんて良いかもしれない。)

普段は紅茶より日本茶、ケーキより豆餅、マリア様より菩薩様という乃梨子も、ついついハイカラ嗜好
に染まってしまう程の夢心地。おニューのワンピースの裾が、気持ち良さげに柔らかな風に揺られている。

(いや、いっそこのまま志摩子さん家まで遊びに行っちゃおうかな。)

もしも自転車で志摩子の家まで行くのなら、それは最早サイクリングではなくツーリング。到着する頃に
は"明日"になっているだろうが、それすらも気付かない程の蕩け具合。いや、仮に気付いたとしても、笑
顔で野宿さえしてしまいそうな程の蕩け具合か。

(そんで、ウェイタースタイルの志摩子たんに、エスプレッソを注いでもらうのだ!のだのだ!)

だが、そんな上機嫌は、そう長くは続かなかった…



「ジャリジャリジャリジャリーン!ジャリジャリジャリジャリーン!」

突如背後からけたたましく鳴り響くのは、お世辞にも上品とは言い難いベルの音。
フランスはパリのシャンゼリゼ通りを、優雅に、かつ小粋にサイクリングしていた筈の乃梨子は、たち
まちの内に喧騒溢れる帝釈天通りに引っ攫われてしまった。まるで高速道路をデロリアンでドライブし
ていたマーフィーが、うっかり140km/h出して西部開拓時代にぶっ飛ばされてしまったかの如くに。

(誰だゴラァァァ!)

瞬く間に乃梨子の脳内給湯器に点火命令が下った。無論火力はマキシマムでアンリミテッド。
何かと気疲れの多い山百合稼業。たまの休みに癒しを求めた乃梨子の乙女ハートは、今、何者かの無粋
な乱入騒ぎでぶち壊しにされてしまったのだ。うっかり怒髪が天を突いてしまったとして、誰が彼女を
責められようか。

聖母の如き慈愛の面から、瞬時に般若の形相となって後ろを振り返る。ちびっ子ならば七度悪夢に見て
うなされるだろう眼力を伴って、早朝の闖入者を全開で威圧する。それは、例え山口さんや稲川さんの
お宅のお子さんであろうとも、必ずイワしてくれんぞ?という、白薔薇のつぼみの必殺の魔眼。

そして、そこには…

「ごきげんよう、乃梨子さま。」

Tシャツに短パン、麦わら帽子を浅めに被り、イボ付き健康サンダルを引っ掛けた一人の少女。
挑発的な眼光をたたえ、露骨に口端を持ち上げながら、「チャリは石橋さんが一等強ぇんですよ」とで
も言わんばかりの生意気な表情。

最年少の山百合会幹部、暴走機関車の妹、"娯楽の探求者"こと有馬菜々が立っていた。



* * *



「な…菜々ちゃ…ん?」

顔色が褪めていくのが分かる。まずい物を見られてしまった。うっかり後輩にメンチ切っちゃった事な
んて志摩子さんに告げ口なんかされたりしたら…いや、この娘のことだ。明日にでも薔薇の館で面白可笑
しく皆に語って聞かせるに違いない。「いや〜昨日は驚いてしまいました。サイクリング中の乃梨子さま
をお見かけして、ご挨拶したんですが、それがもう物凄い形相でメンチを切られちゃいまして。本当、あ
の時は生きた心地がしませんでした。きっと私、乃梨子さまに嫌われちゃってるんですね。私、これでも
精一杯皆様のお力になろうと励んでいるつもりなのに…ごめんなさい、乃梨子さま…うるうる」なんて。
もちろん私と志摩子さんの表情をニヤニヤ窺いながら。

「ごほん。ごきげんよう、菜々ちゃん。貴女もサイクリング?」

だから、ここで口を封じて置かなくてはならない。視線にメッセージをこめる。「もし誰かに話したら…
わかってるな?」と。トドメにスマイルも追加。私は志摩子さんの妹なのだ。「いつも余裕を持って優雅
たれ」が白薔薇の家訓。なれば私が白薔薇の、ひいては志摩子さんのイメージをぶち壊すような真似をす
る訳がない。そうでしょう、そうよね、菜々ちゃん?


乃梨子「…………」


菜々「…………」


乃梨子「…………」


「私…乃梨子さまに…いじめられちゃった…うるうる」

「こっ…こんの一年坊がぁ…」

俯いて泣き真似をする菜々の目に、嗜虐の光が宿っている。クソ、なんて性悪かつ生意気な小娘だ…
チラチラ私を見上げる目が、「なんでしたら、今の出来事を山百合会緊急連絡網を使って薔薇さま方みな
さまに大至急お伝えしても宜しいのですよ、乃梨子さま?」と訴えている。


菜々「…………」


乃梨子「…………」


菜々「…………」


「何が望み?」

「さすが乃梨子さま、話が早くて助かります。」

ケロッとした顔で頭を上げる菜々。この策士がっ!まったく黄薔薇一家にはロクな奴がいない。いや、
先代の令さまは人格者だったが…この菜々といい由乃さまといい、「穴があれば飛び込め、垣根があれ
ば突っ切れ」なんて家訓、迷惑この上ない。お蔭で、"山百合会の良心"こと我が白薔薇ファミリーが
日頃どれだけの苦労をしていることか!

「…何かとても無礼な事をお考えじゃありません?乃梨子さま。」

ぐぅ、コイツ、心が読めるのか?

「一応申し上げて置きますが、私は兎も角、由乃さまへの侮辱だけは決して許しませんよ。お姉さま
をイジって良いのは世界でたった一人、私だけですから。」

さっきまでのチェシャ猫顔から一転して、真剣な表情になる菜々。なるほど、祐巳さまの「ああ見え
て菜々ちゃんは、由乃さんにガチでラヴなんだよ」という人物評は正鵠を射ていた訳だ。


菜々「…………」


乃梨子「…………」


菜々「…………」


「了承した。」

「わかって頂けて良かった。では、ちょっぴり険悪ムードになった所で本題に入りましょうか。」

「…………」(首肯)

「話はとても簡単なことです。乃梨子さまVS私でレースをしましょう。そのスカした洋物チャリと、
私の国産自転車、どっちが速いか?白薔薇のつぼみと黄薔薇のつぼみの名誉を賭けた勝負です!」

「…えっ?それだけで良いの?」

「ええ、それだけです。もしも、あくまでも"もしも"ですが、乃梨子さまの洋チャリが、私のこの
大和魂の結実たる石橋さん謹製ママチャリ『迦具土』に勝てたのなら、私は今日の事はスッパリ
忘れて差し上げましょう。」

思わず吹き出しそうになってしまった。そのロシナンテで、私の『弥勒』に本当に勝つつもりなの?
そんな駄馬、スタート3秒でサイドミラーに映るゴマ粒になってしまうわよ?

「ふふっ、乃梨子さま、自転車の値段が戦力の決定的な差とならない事を、教えてあげますよ。」

「言うじゃない、菜々。部屋の隅でガタガタ震えて土下座する心の準備はOK?」

私と菜々の愛車が、スタートラインとなる白線の前に並べられる。
久しぶりの緊張感に、思わずハンドルを握る手に力が篭る。日頃から鶏ささ身とプロテインを欠か
さない肉体は、すでに躍動の刻に備えて爆発的な燃焼を開始している。大腿二頭筋が唸りを上げる。

「一年坊、グリコーゲンの貯蔵は十分か?」

「乃梨子さまは、グリコーゲンよりエレキバンを用意なされた方がよろしいのでは?」

「上等!」

運命の時を告げる歩行者信号に青光が灯る。さあ、戦を始めよう!



「「マテリアライズ!」」

続…く?


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