【1797】 どこにでもある逆行もの  (まつのめ 2006-08-19 19:24:12)


※だから、読んだ本を端からSSにする義務なんてないのに(と自分でツッコミ)
※また長い
※完結してない




 序


 心地よい冷たい感触。
 それを首筋に感じ、祐巳は目を開いた。
 目の前に顔があった。
「――」
 その顔を見たとたん絶句してしまった。
 辛うじて声を上げなかったのは、リリアン学園の生徒としてはしたない行為をしないようにと日頃から心がけていた成果、……というわけでは決してなく、驚き具合が激しすぎて、行動が追いつかなかった為に瞬間的に凍結してしまったからである。
「あ、あの……」
 自力でどうにか半生解凍したものの、どういう状況なのか判らない。
 どうしてこのお方がこんな近くで自分に向かって微笑まれていたのか、目を開ける前がどうにも思い出せないのだ。
 完全にパニック状態だった。
 腰まで伸ばしたストレートヘアーは、庶民の手に入らない特製のシャンプーでも使っているかのようにつやつやで、この長さをキープしていながら毛先まで殆ど痛んでるように見えないくらい。
「祐巳?」
(ええっ!?)
 何が起こったか。
 彼女が祐巳の名前を呼んだのだ。
 ここリリアンには、普通の学校と違って妙な慣習がある。生徒同士、互いに名を呼び合うときは下の名前で呼び、同学年なら「さん」をつける。上級生なら「さま」だ。そして下級生を呼ぶときは親しみを込めて「ちゃん」とつけるか、特に親しくない相手なら「さん」が普通だ。
 呼び捨てというのは、よほど親しい間柄でない限りしないのだ。
 なのに、彼女は祐巳をこう呼んだ『祐巳』と。
 彼女は僅かに首をかしげて祐巳の名を呼んだ後、何故かパニックする祐巳を見てきょとんとした表情を見せた。
「あ、あ、あの、私に一体何の御用でしょうか?」
 やっとのことで、言葉を絞り出してそう言った。
 判らない。思い出せない――。
 もしかしてなにか失礼なことをしてしまってお叱りを受けている最中とか?
 でも、そんな記憶はまったくない以前に彼女との接点なんて何も無かった筈なのに……。
 彼女は「あ」っと何かを思いついたようになり、
「そう、そういうこと?」
 そう呟いた直後、彼女はあろう事か、腹を抱えて笑い出した。
 整ったお顔に切れ長の目。
 二年松組、小笠原祥子さま。それが彼女の名前。通称『紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)』。
 祐巳のような平凡な一生徒が、そのお名前を語ってしまってもいいのでしょうか、――そんな気持ちになってしまう、全校生徒のあこがれの的。
「祐巳っ……たら……」
 その祥子さまが、なんと祐巳の目の前で腹を抱えて爆笑、とまではいかないけれど、お腹を抑え、口に手をやり目に涙を浮べて笑っていらっしゃる。
 そこではたと気付いた。
(ここは何処?)
 何処かの野外だって事まではすぐに判った。
 祐巳も祥子さまも、光沢の無い黒い生地にアイボリーの襟なワンピースのセーラー服。リリアンの制服を着ている。
 パチパチと耳に入っていた音はなんとキャンプファイヤーだった。
 さっきから聞こえていたオクラホマミキサーは楽器を持った生徒たちが奏でていた。
(校庭だよね?)
 祐巳は校庭のトラックの外の堤のように盛り上がった土手の高いところに立っていた。
 見上げると既に夕暮れ時でちょっと欠けたお月様が空に昇っていた。
「お腹が……痛いわ……」
 祥子さまはまだ笑っていらっしゃる。
 何がなんだかさっぱり判らなかった。
 新入生歓迎会で祥子さまのピアノ演奏を新入生の一人として拝聴した以外に小笠原祥子さまと福沢祐巳の接点は存在しないなずなのに。
 いや少なくともいまの祐巳の記憶にはそれ以外なにもないのだ。
「祐巳」
「は、はい!?」
 ようやく笑いの収まってきた祥子さまが言った。
「今はまだ説明できないけれど、そのうち判るわ」
「え?」
 祥子さまは校庭の方を向いていた祐巳の隣に立ち、祐巳の肩を抱いた。
(えーーっ! 祥子さまが私の肩を抱いている!?)
 ドキン、ドキンと胸の動悸が高まっていくと同時に頭に血が上った。
(あれ?)
 そのとき首になにか違和感を感じた。
 最初に感じた心地よい冷たい感触。なにかが首に掛かっている。
 手で触れて、それを持ち上げて見る。
 小さな十字架とそれに連なる鎖だった。
(これって、ロザリオ? つまり……?)
 すうっと視界が闇に包まれて、そこで祐巳は意識を失った。



 1章 波乱の火曜日



 祐巳は転げ落ちた。
 どたっ、と、思い切り強くお尻を打ちつけた。
「痛い……」
 涙目になりながら顔をしかめたが、一瞬、何が起こったのか判らなかった。
(そうだ。祥子さまに肩を抱かれて、その後……)
 それであまりのことに気を失って倒れたんだ。
 左手で体を支えつつ、痛いお尻をさすったが、幸い絨毯がクッションになって大した痛みではない。
 絨毯?
 祐巳はきょろきょろとあたりを見回した。
 見覚えのある絨毯・ベッド。
 そして勉強机、部屋の真ん中には座卓。
「あれ……?」
 ここは、祐巳の部屋だった。
 祐巳は、絨毯の上にぺたりと座り込んだまま、自分の服を見下ろした。パジャマだ。
「……夢?」
 祐巳はベッドに目を向けた。
 眠っていながらも咄嗟にしがみついたのだろう、シーツや掛け布団がベッドに下にずり落ちていた。
「なんだ、夢だったの?」
 祐巳は自分の寝ぼけ具合に苦笑し、それからなんとなく胸元に手をやった。
 随分とリアルな夢だった。まだ感触がありありと思い出せる。
「でも、夢だったらもっと見たかったかも……」
 あの、憧れの祥子さまと……。
 ロザリオが掛かっていたってことは祐巳は祥子さまの妹になっていたのだ。
 ありえない。
 平凡な一般生徒の代表選手の祐巳が、あの全校生徒の憧れ、紅薔薇のつぼみと姉妹だなんて、どう転んでもありえない話だ。
「ああ、でもあんな近くで!」
 思わず絨毯の上にずり落ちていた布団を抱きしめて、頬をすり寄せてしまう。
「……姉ちゃん」
 せっかく夢を思い起こそうとしていたのに、その邪魔をする声が聞こえた。
「祐麒、部屋に入るときはノックしてって言ってるでしょ?」
「つうか、時間はいいのかよ? 母さんに起こして来いって言われたから来てやったんだぞ」
「え? ……きゃ!」
 祐巳は飛び上がった。いつもならもう家を出る時間だ。慌ててパジャマのボタンに手をかける。
「うわっ!」
「まだ居たの! 着替えるんだから出てって!」
 言い終わる前に、祐麒は引っ込んで扉を閉めていた。
 大急ぎでパジャマを脱ぎ捨て、制服に着替える。タイを結びながら鏡を見る。
 くせっ毛は相変わらず勝手気ままな方向に跳ねている。
(これは結ぶ時間ないな)
 ブラシで髪を強引に寝かしつけて、いつもは両側に結ぶゴムとリボンはポケットに突っ込んだ。
 そしてどうしても纏まらないところを髪留めで抑えた。
 ソックスを穿いて、身支度終了。鞄を持って部屋を飛び出した。
 階段を急いで下りて、台所に顔を出す。
「お母さんお弁当は?」
「テーブルの上よ。……偶には自分で作ったらどう?」
 いや自分で作ることも吝かではないのだけど、そうなると弟の分も作る嵌めになるので滅多に作らないだけで、偶にはつくるのだ。
 でも反論している暇は無いので、聞き流す。
「お父さん、おはよう!」
 弁当を掻っさらいながら、新聞を広げていたお父さんに挨拶をする。
「朝ご飯は?」
「時間が無いから!」
 祐巳は叫ぶようにそう答え、慌しく家を出た。


 余裕無く、教室に着いた祐巳だが、なんとか遅刻は免れた。
 教室に入ってすぐ、周りから注目を浴びている気がしたのだけど、滅多にしない朝寝坊をした上に、今日はリリアン生活十数年間結び続けていた両側をリボンで結んだいわゆるツインテールではないので、珍しがって注目しているのであろう。
 朝のショートホームルームも終わり、間を空けずに担任と入れ替わりに現国の教師が教室に入ってきた。
 教師が、教壇に立ち、教科書のページを指示したところで、祐巳は言った。
「あれ? なんで現国?」
「どうしたの?」
 隣の子が心配そうに聞いてきた。
「一時間目って英文読解(リーダー)じゃなかったっけ?」
「えっ? “火曜日”の一時間目は現国でしょう?」
「火曜日? でも、日曜日の次は、月曜日でしょ?」
 彼女は「どうしてそんなことを聞くの?」という顔をした後で言った。
「ええ、それで、月曜日の次は火曜日よ。祐巳さんちゃんと起きてる?」
「お、起きてるけど……」
「もしかして、教科書?」
 そう言いながら、教科書を私のほうに寄せてきてくれた。
「え? う、うん……」
 私は机を彼女のほうに寄せて教科書を見せてもらえるようにした。
「福沢さん、教科書忘れたんですか?」
 教師が目ざとく祐巳の行動を見つけて言った。
「す、すみません……」
 とりあえず、謝ってしまったが、祐巳の頭の中には疑問符が飛び交っていた。
 そして、筆入れと代わりのノートを用意しようと思って鞄の中を見た時、祐巳の疑問符が爆発した。
(な、なんで?)
 鞄の中には現国の教科書とノートがちゃんと入っていたのだ。
 いつ入れたのだろう。
 それは判っている。昨日の晩だ。今日の授業の用意をするのは昨日の晩に決まっている。
 だが、月曜日の時間割にない現国の教科書を、なぜ用意したのであろうか?
 祐巳に注目していた教師が咳払いをした。早く準備しなさいと言いたいのであろう。
 せっかくのクラスメイトの好意を無にしてまた恥をかく勇気はなく、祐巳はそのまま現国用のノートだけを取り出して授業を受けた。


 一時間目は教科書を見せてもらいつつ、更に教師にまで目をつけられてしまい、余計なことを考える暇が無かったが、休み時間を迎えて、改めて祐巳の中に疑問が湧きあがってきた。
 何故、今日は火曜日だと言うのだろう? 昨日は日曜日だったのだから、今日は月曜日のはずなのに。
 そのとき、さっき教科書を貸してくれた子が祐巳に話し掛けてきた。
「ねえ、祐巳さん」
「あ、教科書ありがとうね。助かったわ」
 ちょっとヒヤヒヤしながらそう答えると、彼女は言った。
「じゃあさ、感謝ついでに聞かせてくれないかしら?」
「え? 何のこと?」
 彼女は顔を寄せてきて「私だけに聞かせて」みたいに小さな声で言った。
「……紅薔薇のつぼみとの噂って本当?」
「えっ!?」
 一瞬、今朝の夢のことを思い出してドキリとした。
 でもまさか。あれは夢だ。最近、校庭でキャンプファイヤーなんてやってないし、やる可能性のある学園祭まではまだ2週間もある。
 祐巳は恐る恐る訊いてみた。
「噂って、なんのこと?」
「聞いたわよ? 祐巳さん、昨日、紅薔薇のつぼみから姉妹の申し出を受けて、断ったんですって?」
「ええっ!?」
 思わず祐巳は大声を上げてしまった。
 祐巳の大声でどういう訳か、近くのクラスメイトまで祐巳の席に寄って来てしまった。
「ねえ、あの噂の話?」
「私も聞きたいですわ」
「どうなの? 祐巳さん」
「あ、あの……」
 昨日の話?
 紅薔薇のつぼみから姉妹の申し出?
 祐巳にはさっぱり記憶のない事だった。
 それ以前に今日は本当に火曜日なのか、それすらも祐巳には確証がない。
「ほらほら、祐巳さん困ってるじゃない」
 返答できなくて俯いてしまっていたら、呆れたような声が聞こえてきた。
 顔を上げると、クラスメートの蔦子さんが人垣の向こうに見えた。
「あら、蔦子さん、私たちは祐巳さんの噂の真偽を確かめたいだけですわ」
 彼女はフレームなしの眼鏡の両目の真ん中を指で押し上げた。
 そして、
「ごめんなさい、ちょっと祐巳さんに用があるの。さ、祐巳さん行きましょ」
 そう言いながら、蔦子さんは人垣を押し分けて祐巳の腕を掴み、人の輪から祐巳を連れ出した。
 蔦子さんは祐巳を引っ張って廊下を進み、階段の付近のあまり人が居ないところで立ち止まった。
「あの、ありがとう……」
 取り合えず、困っているところを助けてくれたのでそう言った。
 蔦子さんというのは、写真部に所属していて、校内でも有名人だ。
 同じクラスになるのは初めてだけど、それ以前に自分の写真を二、三枚もらった事がある。
 その蔦子さんがどんな気まぐれで祐巳の窮地を救ってくれたのか?
 そんなことを考えていると、蔦子さんは言った。
「何か、聞きたいことがあるんじゃないの?」
「え?」
 そうだった。この際だから蔦子さんに聞いてみよう。
「あの、今日って本当に火曜日?」
 そう言うと、蔦子さん、目を丸くした。
 それも、変なことを聞いたからというのとはちょっと違って、なにか珍しいものを見つけたような表情に近い気がする。
「ふうん……そうか」
「な、なに?」
「いえ、そうよ、今日は確かに火曜日よ」
 蔦子さんははっきりとそう答えた。
(どういうこと? やっぱり今日は火曜日なの? じゃあ月曜日は何処へいっちゃったっていうの?)
「ああ、もう時間が無いわ。話は後ね」
 腕に巻いた時計を見ながら蔦子さんはそう言った。


 二時間目も火曜日の時間割通りの教師がやってきた。
 それに、祐巳の鞄の中には火曜日の用意がしっかり入っているのだ。
 つまり、今日は本当に火曜日。
 でもそれを認めるとすると、祐巳の月曜日の記憶が無いってことになる。
 どうして?
 実は月曜は24時間寝続けて朝起きたら火曜日だったとか。
 いや、幾らなんでもそれは無理がある。もしそうなら、朝、家族がそれなりの反応をみせるだろうし、第一鞄の中に火曜日の準備がしてあった理由がそれでは説明できない。だって日曜日にはちゃんと月曜日の授業の用意をしてから寝たのだ。それはちゃんと覚えている。
 判らなかった。
 どう考えても日曜日寝て起きて今日になったとしか思えないのだ。
 授業が終わってすぐ、祐巳は席を立って蔦子さんの所へ向かった。
 蔦子さんは祐巳が来るのを見ると教室の扉を指差してサインを送ってきた。外に出ましょうってことだ。
 そして、二人でさっきの休み時間と同じ場所まで移動した。
「あの、蔦子さん、変なこと訊いていい?」
「なあに、変なことって?」
「私、昨日、学校に来ていたかな?」
「来てたわよ? それが何?」
 記憶喪失? そんな単語が思い浮かんだ。でも他の記憶ははっきりしているのに、昨日の記憶だけを綺麗さっぱり忘れてしまうなんて事があるのだろうか?
 頭を打ったとかならまだしも、そんな覚えは全く無いのに。
 でも、記憶を失っているというのなら一応説明がつく。
 私は蔦子さんに訊いた。
「その、昨日、私、学校に来てどんな事をしたか覚えてる?」
「良く覚えてるわよ。あんな事忘れろって言われても難しいと思うくらいだわ」
「ええっ? な、何したの?」
 どうやら蔦子さんは祐巳の昨日の行動に関わっているらしい。
「変な祐巳さんね。私が祐巳さんに写真を見せてそれを公表する許可を取りに薔薇の館に行ったじゃない。ショックで忘れちゃったの?」
 知らない。そんなこと知らないよ。
「……そうかもしれない」
 祐巳は青くなってそう答えた。
 蔦子さんはやれやれと言う風にため息をついた。冗談を言っているとでも思ったのであろうか。
「じゃあ、これも覚えてないの?」
 そう言ってポケットから二枚の写真を取り出して祐巳に差し出した。
「何?」
 三、二、一。
 それがそんな写真であるのかわかるまでかっきり三秒は要した。
「えーー!!」
 リリアンにあるまじき大声に、蔦子さんは祐巳の口を慌てて抑えた。
 一寸、廊下を歩いていた他の生徒の注目を浴び、二人で愛想笑いをしてやり過ごす。
「こここ、これっ」
 なにこれ、なにこれ、なにこれっ!?
 一枚の写真は祐巳と紅薔薇のつぼみ、小笠原祥子さまのツーショット。
 しかも祥子さまの両手はしっかり祐巳のタイを握っていた。祥子さまはやはりお美しい。でも蔦子さんの腕なのか、一緒に映っている祐巳までがつられて天使のように写っていて、まるで祐巳が祥子さまの妹で制服の乱れを直して頂いているかのようにさえ見える。
 今朝の夢のまた別の場面を写真に撮ったかのようだった。
 もう一枚は望遠で撮ったらしくそれの顔のあたりのアップだ。
「祐巳さん、そう言う反応は昨日見せた時にしてもらいたかったわ」
 蔦子さんが呆れたように祐巳の顔を見ていた。
「へ?」
「覚えていないって言うんだったら一応教えておくけど、」
 そう言ってあたりを見回した蔦子さんは顔を寄せて祐巳にだけ聞こえる声で囁いた。
「祐巳さん、祥子さまの賭けの対象になってるのよ?」
「ええっ?」
「祐巳さんを妹に出来るか出来ないかってね。祥子さまが祐巳さんを妹に出来たら祥子さまは主役のシンデレラを降りて、代わりに祐巳さんがその役を演じるのよ」
「……」
 反応できなかった。とりあえず今年の山百合会主催劇の演目はシンデレラだって判った。主役は祥子さまか。美しいだろうなぁ。
 でも降りるって? 代わりに祐巳がやるって?
 賭け自体も、その賞品(?)も、どこを、どうやってそういう賭けが成立したのかさっぱりだった。
 祐巳が固まっていると蔦子さんは「一応」といって続けた。
「祥子さまはシンデレラを演りたくないのよ。だから薔薇さま方と賭けをしたの」
 何で?
 百歩譲って、祥子さまがシンデレラを演りたくないってことを認めたとしても、どうしてその賭けの対象に祐巳が出てくるのか?
「そんなの祐巳さん祥子さまに妹になってって言われて断ったからじゃない。それも薔薇さま方全員の前で」
「ええ! なんで?」
「なんでって、それは祐巳さんのことでしょ? 私は知らないわよ」
 薔薇さま方全員の前で、祥子さまから姉妹の申し出? それだけで夢のようなシチュエーションなのに、それを断った?
(いったい何者なの? 昨日の私!?)


 休み時間毎に蔦子さんは祐巳を連れ出していたのは、別に何も知らない祐巳に昨日の事を教える為ではなく、昨日の噂を聞きつけて一年桃組に見物に来た生徒たちを避ける為だったようだ。
 じゃあ、昨日の事を『知らない』と言った祐巳にあまり追求することなくいろいろ教えてくれたのは何故なんだろう?
 もしかして蔦子さんは、月曜の記憶が無い原因について何か知っているのだろうか?


 お昼休み。
 新聞部の襲来情報を携えた蔦子さんの手引きによって、間一髪、新聞部員に捕まらずに教室からの脱出に成功した祐巳は、廊下で「祐巳さん、こっちよ」と誘ってくれた藤堂志摩子さんと一緒に、今、お弁当を広げていた。
「こんなところで、毎日お弁当を食べているの?」
 そこは講堂の裏手、銀杏の中に一本だけ桜の木が混ざって生えている、目立たない場所だった。
「季節限定よ。春と秋の天気のいい日」
「夏は?」
「この桜の木にね、毛虫が湧くからちょっと嫌ね」
 そんな会話をしながらのんびりとお昼休みを過ごした。
 そして志摩子さんは祐巳に「お近づきになれて良かったわ」と言ってくれた。
 志摩子さんといえば、祥子さまにも引けを取らない、西洋人形と形容されるほどの美人だ。
 祥子さまの申し出を断って白薔薇さまの妹になったってことでも有名だった。
 だから、それほどの人が、どうして祐巳を誘ってくれたのかはよく判らなかった。
 いや多分“昨日の祐巳”が何かしたのであろう。
 悪い事ではないのだけど、祐巳はちょっと気持ちが悪かった。


 放課後、祐巳は掃除が終わった音楽室に一人で残っていた。
 音楽室の掃除はそんなに時間が掛からないので普段の祐巳なら速攻で帰ってしまうのだが、知らないうちに“話題の人”になってしまった今、下校時間で高等部の生徒が固まっている中へ飛び込んでいける勇気はなかった。
 他の掃除当番の人には「私が日誌を書いておくから」と言って先に帰ってもらった。
 彼女らも私が時間をずらしたがってる事を察してくれたようで特に何も訊かずに行ってくれた。
(はぁ……)
 今日は月曜日でなく火曜日。
 そして祐巳には月曜日の記憶が無い。
 いまだ信じられないのだが、認めざるを得ないことは確かだった。
 だが、それはもういい。問題はなぜそうなったのかだ。なぜ月曜日のことを覚えていないのか、である。
 昨日何があったのだろうか? あるていど大枠は蔦子さんから聞いて知ることが出来た。
 でも、細かいところは本人でないと判らないであろう。本人とは即ち祐巳自身である。
 まるで知らない人格が勝手に祐巳の身体を動かしているようで、不安であり、恐ろしくもあった。
 でもだったらどうするのか、というところで祐巳の思考は停止してしまうのであった。
(わかんないよ)
 祐巳はなんとなく目の前のピアノの蓋を開けた。
 ミ――
 右手の人差し指で、高いミのキーを鳴らした。
 うん、この音だ。
 祐巳は椅子を引いて、ちゃんと鍵盤に向かい合った。
 ピアノに触るのは久しぶりだった。
 ミ――
 ファ――
 ソ――レミ――
 グノーのアベマリア。半年前、山百合会主催の一年生歓迎式で、紅薔薇のつぼみと紹介された、小笠原祥子さまが新入生の為に弾いてくれた曲だ。
 思えば祥子さまを最初に意識したのはあの時だった。
 それ以来、祐巳は自他共に認める紅薔薇のつぼみのファンになったのだ。
 だからこそ。
 “昨日の祐巳”が祥子さまの申し出を断ったのが何故なのかが判らなかった。
 何か理由があったのだとは思うけど、祐巳には考えつかなかった。
 それも昨日の記憶が思い出せれば判るのかもしれない。
 主旋律だけを追っかけてたけど、もう止めて、ピアノにつんともたれる。
 と、視界の端に何かが映った。
「☆×■◎※△δδδ―――!!」
 それがなんであるかを祐巳の意識が捉える前に、言葉に表現できない奇声が、祐巳の喉から飛び出していた。
 それは手。
 誰かの手が自分の背後からぬっと伸びて鍵盤に触れようとしていたのだ。
「なんて声を出してるの。まるで私が襲っているみたいじゃないの?」
 その手の所有者の顔を見て、祐巳は飛び上がった。
「さ、さ、さ……」
「どうしたの? そんなに驚く事?」
「祥子さまっ!?」
「あら、なあに?」
 そ、そんな親しげに?
「い、いえ、近くにいらしたのに気がつきませんでしたので……」
「ピアノの演奏の邪魔をしてはいけない、という配慮からよ?」
 なんという恐れ多い。祥子さまが祐巳なんかの演奏に配慮だなんて……。
 祥子さまはそのまま伸ばした左手の小指でドの音を出した。
「弾いて」
「え!?」
「もう一度、さっきの通り弾いてみて」
「ええ!?」
 慌てて椅子を降りようとすると祥子さまは空いている右手で祐巳の肩を抑えた。
「じゃあリズムは……、一、二、三、四、一、二、三、四」
 祐巳の肩でリズムを刻んで、四回目の“三”の次に「はい」と合図した。
 慌てていたのに、祐巳は反射的にミの音を出してしまった。
 それに重なって、
 ドミソドドミソド
 と左手のパートが重なった。
 ペダルも踏んで本格的に、
(祥子さまと連弾だぁ)
 自分が弾いた音に綺麗に別の音が重なり合い、気持ちよく耳に戻って来る。
(ビバ! 昨日の私!)
 思いもかけず、祥子さまと素敵な経験が出来て舞い上がってしまった祐巳だったが、それは長く続かなかった。
 なんとなれば、近くに居るのが、あの小笠原祥子さまであると、意識してしまって、舞い上がるどころじゃなくなってしまったからだ。
 お胸が祐巳の左手に当たったり、艶やかな髪が祐巳の肩に掛かってふわりといい匂いがしたり。
 ドキドキというか、頭の中が真っ白になってしまい、いつしか祐巳の右手は止まってしまっていた。
「あら、もう終わり?」
「す、すみませんっ、祥子さまにはついていけませんでした!」
 椅子から降りて祥子さまに頭を下げ、祥子さまから距離をあけた。
「そう? とても気持ちよく弾けていてよ」
 そういって祥子さまはカタン、とピアノの蓋を閉めた。
 何故か祥子さまは祐巳に近づいてきて言った。
「じゃ、そろそろ行きましょうか?」
「は?」
「は、じゃないわよ。私が何をしにここまで来たと思っているの?」
 何故だろう。
 祐巳には皆目見当がつかなかった。
「あ、あの、何故ですか?」
「もちろん、あなたを迎えに来たのよ」
(えーー!?)
 祥子さまが祐巳を?
 これも“昨日の祐巳”の仕業か?
「いい? これから学園祭までずっと、放課後は私たちの芝居の稽古に付き合ってもらうわよ。それはあなたの義務ですからね」
 ただでさえ忙しい祥子さまが、学年も違う祐巳を説得するのは無理がある。だから、条件をフェアにする為に部活のない祐巳は放課後の数時間を山百合会に提供すべきである、これが祥子さまの言い分であった。
 それを聞いて、祐巳は、妹にして下さるって言うのなら喜んでなっちゃうんですけど、なんて思ったが、そこで蔦子さんの言葉を思い出した。
 『代わりに祐巳さんがその役を演じるのよ』
 そうだった。今祥子さまの妹になったら、祐巳は恐れ多くも山百合会主催の芝居の主役を務めなければいけないらしいのだ。
 なんということだ。祐巳は祥子さまのファンだったはずなのに、昨日の祐巳は何を考えてこんなこんな憎憎しい約束をしてしまったのか。
「あら、不満なのかしら?」
「い、いいえ」
 山百合会の芝居の練習に付き合うなんて早々出来る経験じゃない。諸手を上げて同意しちゃうことなのだけど、納得行かないのは「なぜ私なんかが」である。
「あなたはシンデレラの代役なんですからね。練習に出ないなんて許されないことなのよ。よく覚えておいて」
 でた。
 蔦子んさんの言葉が正しい事がここに証明された。
「あの、でも代役って、私が、その妹(スール)になった場合、ですよね?」
 自分で言った“妹”って言葉が何故かこそばゆい。
「ロザリオを受け取らないって確固たる自信があるから、祐巳は稽古に出ないつもりなの?」
(うわっ、呼び捨てだぁ)
 祐巳は夢の再来だと思った。
「……だったら私も出なくていいという理屈になるわね」
「そんな」
「でも私は練習に出るわ。『絶対』なんていえることは世の中にそうあるものじゃないから。お姉さまたちとの賭けだって、自信や確率は別にしても未来に待っている結果は二つに一つだもの。祐巳と私のどちらかしかないのなら私は練習をする。負けないという自信とこれとは別よ。本番でみっともない姿を晒すよりはましだもの」
 流石は祥子さまだ。
 賭けに負けないという自信がおありなのに、いつ自分がシンデレラをやることになっても良いように練習もこなす。
 その自信に満ち満ちた祥子さまに、祐巳は見惚れるしかなかった。
 だから、思わず訊いてしまった。
「あの、」
「そうね、あなたにはあなたの考えがあるのだから、強制はしないわ」
「いえ、そうではなくて、その、私は、どうして祥子さまのロザリオを受け取らなかったのでしょう?」
 そう口に出してしまって、祐巳は後悔した。
 だって、祥子さまが、目を見開いて口を開け放ったまま固まってしまわれたから。
 ちょうど、ぽかーんって言葉が似合いそう。
 祥子さまにこんな顔をさせてしまって申し訳ないというか……。
「あ、あなたね……」
 絞り出すように聞こえてきた祥子さまの声。
 その後、祐巳は思い切り叱られた。
 それはもう、自分の事もわからないのかとか、馬鹿にするなとか、だったらなんで受け取らなかったのかとか、激しく祐巳を怒鳴りつけてくれた。
 もちろん祐巳は目をきゅっとつぶり、縮こまっているしかなかった。
 もしかしたら“昨日の祐巳”がしたことを台無しにしてしまったのかもしれないなんて思って不安にもなった。
 嵐のような祥子さまの怒りはやがて収まって、
「祐巳、涙を拭きなさい」
「え?」
 目を開けると祥子さまが白いハンカチを差し出していた。
「大声を出して悪かったわ。あなたにはあなたの想いがあるのよね」
「あ、あの……」
「でもあなたはあの時、私のロザリオを受けとらなかった。受け取りたくない理由があったのよ」
「は、はい」
 今の祐巳は知らないけれど、多分。
「だから、今強引にロザリオを渡したりはしないわ」
「え?」
「ちゃんとその理由をあなたの中で解決しなさい。まだ時間はあるわ。でも練習には付き合って欲しいの。私の練習を見にきてくれない?」
「……はい」
「じゃあ鞄を持って」
 祥子さまに促されるままに掃除日誌と自分の鞄を抱えた。
 なんとなく判った気がした。
 ロザリオを受け取らなかった理由が。
 祥子さまが賭けの対象ってだけの理由で祐巳を妹にするようなお方ではない。
 だから、もしも“昨日の祐巳”も今と変わらぬ祐巳ならばこう考えただろう。
 『どうして私なんかを』と。
 祥子さまが祐巳を選んだ理由は“昨日の祐巳”も知らないのではないだろうか?


  ◇


 大変な一日だった。
 祐巳は家に帰るなり、ただいまの挨拶もそこそこに部屋に入り、鞄を放り出してそのままベッドに突っ伏してしまった。
 あのあと、祥子さまに体育館まで連れていかれ、ダンス部と山百合会の合同練習を見学する事になったのだけど、そこで紅薔薇さまに話し掛けられるわ、白薔薇さまとはいきなりダンスを踊っちゃうし、そのあと、黄薔薇のつぼみ、支倉令さま、最後は祥子さまと、蒼々たるメンバーとダンスを踊る経験をしてしまったのだ。
 そのなかで、祥子さまが主役を降りたがっている理由も判った。
 祥子さまはなんと男嫌いで、本番でお相手となるゲストの花寺学園生徒会長さんとダンスを踊るのがお嫌なんだそうだ。
 薔薇さま相手に賭けとしちゃうくらいだから余程のことなのだろう。
 というまあ、サプライズが盛り沢山な一日だった訳だけど……。

 ――覚えていないのだ。
 その原因たる昨日の出来事を。

 間接的な情報から、“昨日の祐巳”は祥子さまと出会ってなにかやらかしたらしい、その“何か”がわからない。もしかしたら記憶が無い事と関係あるのかもしれないのに。
 というか二重人格?
 でも突然昨日からってのが腑に落ちない。
 いよいよとなったら両親に相談するとか、医者に相談って話になるけど、別に事故に遭って頭を打ったとかでは無さそうなので周りに余計な心配はかけたくなかった。
 かといって一人で解決するには自分の頭脳はあまりに頼りない。
 誰かに相談できたら良いのだけど……。
 “自分の頭脳”と考えてふと思いついた。
 もしかして昨日の自分がなにか書き残していないだろうか?
 祐巳はベッドから起き上がり、勉強机の引出しを引いた。
 そして小さな鍵を取り出し、机の別の鍵のついた引出しを開いた。
 ここに日記が入っている。
 中等部の頃までは割とマメに書いていたのだけど、最近は思い出したときとか、なにかイベントとがあったときしか書かなくなっていた日記だ。
 引出しの奥、レターセットの下に隠れた日記帳を引っ張りだして、椅子に座ってそれを机の上に広げた。
 最初の方は関係ない。
 ずっとめくっていって、最後に書いたページ。
「あった」
 日付は昨日の月曜日だ。
 昨日の出来事がこと細かく描写してあるかと思ったら書いてあったのは次のような文章だった。

『あなたは今、今日あったことで困惑していることと思う。あなたの身に何が起こったのか、これから何が起こるのかは教える事は出来ない。でも記憶喪失でも、二重人格になったわけでもないから心配しないで。あと、このことは絶対に他人に話してはだめ。あなたが相談していいのは小笠原祥子さまだけ。祥子さまなら真剣に相談に乗ってくれるから』

 祐巳は息をするのも忘れて何度も何度もこの文章を読み返した。







(この先どうしよう?)


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