【1796】 白薔薇さんちのひ・み・つ♪  (若杉奈留美 2006-08-19 11:03:59)


今回は趣向をがらりと変えまして。
白薔薇家のとある伝統についてのお話です。


したたり落ちてくるような、濃い緑の木の下。
俺は自分に笑顔を投げかけてくるその人に、どうにも居心地の悪さを感じていた。
ロザリオを差し出すその表情は自信と愛情に満ちている。

「俺に…これを受け取れって?」

濃い目の茶色の髪をしたその先輩が柔らかく笑っている。

「そういうこと」
「つまりは…俺に、白薔薇のつぼみの妹になれと?」

先輩の返事はない。
その表情そのものが、すでに返事だったから。

「あなたがここに入ってきた当時から決めていたの…あなた1人のためにガトーショコラを作ろうと」

白薔薇のつぼみこと、野上純子さまはそう言って、この上もない美しい表情を見せた。

「ガトーショコラだけじゃないわ。お菓子もデザートも、それからあなたの好物みんな、私が作ってあげたいと思った…
こんなふうに思わせてくれたの、あなたがはじめてよ」
「待ってくださいよ純子さま…俺はそんな人間じゃない」
「いいえ、あなたはそんな人間です」

ふいに純子さまの表情が真剣なものに変わる。
俺…もしかしてまずいこと言っちまったんだろうか。

「あなたには、それほどの価値があるのよ」

その瞳が強い意志に彩られる。
どうしてそこまで言い切れてしまうのだろうか。
まだ入学して間もない、どこの誰とも知らないただの1年生である、この俺のことを。

でもどうしてか、俺は思い始めていた。
この人なら間違いはないと。
俺も15年生きてきて、それなりに経験も積んできた。
末の妹が生まれて3か月後に、両親が離婚した。
その後しばらくは俺たちと一緒に暮らしていた母親だが、あるとき自分が
同性愛者であるのを理由に、突然家を出て行った。
その後俺たちがこうむった様々な差別やら嫌がらせは、とてもここでは言い切れない。
そういうことをする奴らから弟や妹を守るために、俺は人を疑うということを覚えた。
人の顔色を見て、人の目の色がいつ変わるかを敏感に予測しなければ生きていけなかったのだ。
だから目の前にいる人間の言葉が嘘か本当かぐらい、少しは見分ける力もある。
嘘をついてる人間の目は、どこか濁っている。
表情も不自然になる。
今の純子さまの表情には、そんな不自然さや濁りがまったくない。
あくまでも自信と…もしあるのなら…俺への深い愛情。
それだけが確実に存在している。

今俺のお姉さまになろうとしているこの人は、俺が生きるために身につけた数々のことがまったく必要ないのだと、全身で言ってくれている。
無防備でいてもいいのだと。

応えてみよう。

これほどストレートに向かってくる人間はいなかったから、多少なりとまどいがあるのは事実だが、それもきっと乗り越えてゆけるかもしれない。

「…分かりました」

覚悟はもう、決まった。
もしもなんかあれば、そのときに考えればいい。
今は、この賭けに乗ってみよう。
どうせ人生そのものがギャンブルなんだし、なんか未知の要素があったほうが、
はるかに面白いじゃないか。

「謹んで、お受けします…そのロザリオ」

胸にかかった金属の冷たい感触とともに、俺、小野寺涼子は実感していた。
白薔薇のつぼみの妹になったことを。




「実はもうひとつ、渡したいものがあるの…」

そういって俺の手に握らせた、白く薄い紙。
中身を開いたとたん、俺は頭痛に襲われた。
なぜならそこには、どうにもわけのわからないおたまじゃくしが所狭しと書かれていたから。
しかもよく見ると、"Allegro sostenuto"とか、見たこともない文字が書いてある。

「あ…頭痛い。なんなんだ、この楽譜」
「ショパンの『エオリアン・ハープ』よ。今日から涼子にはこれを練習してもらうわ」

おい、どういうことだ。
そんな話、一言も聞いてないぞ!
俺は今お姉さまになったばかりのその人に詰め寄った。

「じゃあ今から、音楽室についてきて」

まったくもって理由が分からないまま、俺は音楽室に引っ張られるはめになった。


音楽室で待ち受けていたのは、聖(こいつをさま付けで呼ぶのは、どうしても俺の性に合わない…)から始まって真里菜さまにいたるまで、
代々白薔薇さまと呼ばれてきた人々だ。

「純子…おめでとう。涼子ちゃん、これからどうぞよろしくね」

言い終わるが早いかいきなり抱きついてきたのは真里菜さま。

「なるほど…そこそこって感じね」

何がそこそこなのか、あとで小一時間問い詰めてやりたい気分だ。
まあ…その…抱かれ心地は悪くなかったんだが…って、認めてどうする、俺。

「涼子ちゃん…お互い頑張ろうね」

何を頑張るんですか、乃梨子さま。
しかもお互いって何なんですか。

志摩子さまも真里菜さまも、ただ笑っているだけで何も言おうとしない。
その笑顔がかえって不気味です、お二方。

「さ〜てと、始めますか。白薔薇家伝統のピアノ・レッスン」

脳天気としか言いようがない声をあげる聖。
こいつの頭の中はいったいどうなっているんだろうか。

「涼子ちゃん、白薔薇ファミリーはね、最低1曲はピアノが弾けないとだめなのよ」

志摩子さまが優雅さを崩さずに言う。

「そうなんですか…?すると志摩子さまは、何が弾けるんですか?」
「そうねえ…リストの『愛の夢 第3番』とドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』と
『アラベスクI』かしら」

なんか難しそうなのばっかりだな。

「乃梨子はやっとモーツァルトの『トルコ行進曲』が弾けるようになったのよね?」
「…あれには本当に参りました」

乃梨子さま、お疲れさまです…あれ?やっとって今聞こえたような…気のせいか?
もしかしたら、俺…とんでもない世界に足を踏み入れちゃったのか?

「ちなみに聖さまは『月光』全3楽章コンプリートだし、真里菜さまは『ラ・カンパネラ』が大丈夫な方だから」

…すいません、もう帰ってもいいですか。
俺、白薔薇ファミリーでやってく自信ないです…。

「あら涼子ちゃん、もう帰っちゃうのかしら?」

志摩子さま、頼むからその有無を言わさぬ笑顔はやめてください。

(マリア様、恨むよ…)

その後俺は腕が筋肉痛になり、お月様がごきげんようと姿を現し始めるまで延々と
エオリアンハープを弾きつづけることになった…。


(おまけ)

事情はどうやら紅薔薇家も同じらしく、美咲が愚痴っている。

「まったく…紅薔薇家は家事ができないと認められないんだってさ。
蓉子さまを送り出し、ちあきさまを抱えるファミリーだから仕方ないのかもしれないけど…
いったい何皿オムレツ作ったか…いったい何回部屋掃除のやり直しを命じられたか…
不器用の代名詞みたいな祐巳さまも、真性のお嬢様である祥子さまや瞳子さま、智子さまもエプロンして洗濯物干してるんだもの…
ついていけない」

要はメイドさん姿で…ってことか?
絵を想像すると…かなりかわいいかもしれないぞ。
苦労はあるだろうけどな…。

「いいじゃん、ピアノとか家事とかなら…うちはなんでもいいから、何か1つ突出したものを見つけろって、江利子さまに厳命されちゃったのよ…
自分だってそんなもの何もなかったくせに」

理沙もそうとう苦労しているらしい。
っていうか、かなりあいまいな厳命だな、それって。
江利子さまらしいといえばそうかもしれないけど。

顔を見合わせて大きなため息をつく俺たちプティスールズ。
こんな俺たちに、マリア様、どうかご加護を…。












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