【1799】 悲しみの螺旋  (まつのめ 2006-08-20 10:33:18)


『桜の季節に揺れて』
 【No:1746】act1〜act2
 【No:1750】act3〜act4
 【No:1756】act5〜act6
 【No:1761】act7
 【No:1775】act8




act.9 螺旋軌道


 もくずと出合ってから一週間余り。
 私はもくずと一緒にお弁当を食べたのは今日が初めてだった。
 考えてみれば、先週一緒に映画を見た以外、昨日までは、朝、マリア像から校舎までの短い道のりを一緒に歩くってだけだった。その間、もくずの“問題ある”一日を全く知らなかったのだ。
 いや、一度は知ろうとした。でもそのときは「本名くらいは」という軽い気持ちで行った為、不意打ちを喰らい、私は逃げたのだ。それから深く関わるのを避けていた。
 以来、もくずとの表面的な付き合い以外には無関心にしていた、いや、無関心を装っていたのだ。
 繰り返される嘘(おとぎばなし)に苛立ちつつも、もくずの嘘の向こうにあるものを知ることをどこかで恐れていたのだと思う。
 でも、それも今日になって一気に崩れてしまった。


 お弁当を食べた後、校舎に向かって歩きながら私はもくずに言った。
「左耳が聞こえないんだったら、ちゃんと言わなきゃだめよ」
「違うよ、人魚の掟だから……」
「もくず」
 目を見つめてそう呼んだ。
「……」
 もくずはちょっと不満そうな顔で膨れた。
 でも、小さく頷いていた。
 後の言葉には相槌も無かったけど、多分聞いてると思って言った。
「お願いよ。クラスのみんなと険悪にならないで。無理に仲良くしろなんて言ってるんじゃないわよ。判るよね?」
 ここまで言って教室に戻って即、もくずが君江さんとやらと再戦するようではもう私の手に負えない。
 でも、これは勘としか言いようが無いのだけど、もくずはそんな子じゃ無い。
 私はそれを信じた。


 5時間目が体育だった為、着替え等で休み時間に様子を見に行くことが出来なかった。
 私はもくずのことを心配しつつも6時間目の授業が終わるのを待った。
 今日になって急に四六時中もくずを気にしているというのは、自分でも行き過ぎという気がしないでもない。
 でも、決めたから、もう、もくずのことは放っておかない。
 多分、最初から私はどこかで気付いていたのだろう。関わろうとしたら最後、もくずのことは、もはや放って置けなくなるって事を。
 急いで掃除を終えた後、迷わず一年の教室の方へ向かった。もちろん薔薇の館に行って志摩子さんから話を聞くという選択肢もあったが、今はもくずが最優先だ。

 階段を降りて一年生の教室の廊下に差し掛かったところで、もくずと同じクラスの眼鏡の彼女に会った。
 彼女が私の顔を見つけて「白薔薇のつぼみ」と声をかけてきたのだ。
 この子とも縁があるな、と思いつつ、私は「まだ、名前を聞いていなかったわね」というと、『沙耶子』という名前を教えてくれた。
「もくずは教室?」
 私がそう訊くと、
「やっぱりご存知じゃなかったんですね?」
 沙耶子ちゃんは、ちょっと申し訳なさそうな顔をしてそう言った。
「え?」
「愛子(ちかこ)さん、自宅待機で午後の授業は出ていなかったんです」
「自宅待機? どうして?」
「はい、実は……」
 生活指導室への呼び出しがあったのは昼休みだったそうだ。
 私ともくずは外に居たから放送が聞こえなかった。
 いずれそうなるとは思っていたが、考えてみれば、あの騒動がシスターの耳に入るのにそんなに掛かるはずも無かった。
 呼ばれたのは当事者の君江さんともくずの二人。
 昼休も半ば過ぎてから教室に帰ってきたもくずに、呼び出しがあったことを伝えたのは沙耶子ちゃんだったそうだ。
 これは君江さんが教室に戻って自宅に帰るまでの短い時間に聞いた話だそうだが、指導室では何があったかを聞かれ、そのまま帰宅して処分が決まるまで待機するよう命じられたそうだ。
 もくずの方も話は聞かなかった(話を訊く人が居なかった)が、すぐに帰ってしまったので同じであろうとのこと。
 でも、あのくらいで自宅待機? と思った。
 金曜の午後の授業は出なくていいからなんて、殆ど『謹慎処分にする予定』と言っているようなものだから。

 私は、もう少し話を聞きたかったので、沙耶子ちゃんをミルクホールに誘った。
 彼女とは落ち着いて話して正解だった。
 沙耶子ちゃんはもくずが同じ中学にいた事があって、もくずが障害者手帳を持っていることや、元の本名が海野藻屑で今は戸籍名が海老名藻屑、愛子(ちかこ)というのは通り名だということなど、噂では判らなかった情報が得られたからだ。
 ようやく、私は少しもくずに近づく事が出来たことを実感した。

 私は一通りの話を聞いてから彼女に言った。
「沙耶子ちゃん、あの子のこと『もくず』って呼んであげて」
「え?」
 父親と何があったのかは今だ判然としない。
 でも、あの子は藻屑と呼ばれたがっている。これは多分間違いない。
 きっと、曲がりなりにも私がもくずと仲良くなれたのは、私がずっとあの子を“もくず”って呼んでいたからだ。
「あの子と友達になってくれる気があるのなら、そうしてあげて欲しいの」
「で、でも……」
「話をする時はね、真正面か右側から話しかけてあげて。そうすれば無視されないと思うから」
「え……、あっ」
 沙耶子ちゃんはなにか思い当たったようだ。
 もくずの左耳のことが母親の話にあったのかもしれない。
 席の問題は後で担任の先生に掛け合ってみよう。
「あなたなら、もくずが悪い子じゃないって判ってくれると思うわ。どうかな?」
 私がそう言うと沙耶子ちゃんはこう言った。
「あの、白薔薇のつぼみがそう仰るのなら……」
 まあ、私としてはお願いだから、じゃなくて心から友達になって欲しいのだけど、その心配はいらなそうだった。
 彼女は続けてこう言ったのだ。
「私、藻屑さんはずっと気になってて。でも、本当は仲良くなりたかったんです」


   ◇


 志摩子さんから聞いた話では、学校側は過去の暴力事件を背景に、もくずの在学を危険視しているってことだった。
 あのくらいの事件でもくずがいきなり自宅待機になったのはそのせいだろう。
 だから、学園が今回の事件をもくずを追い出す口実にしてしまわないか私は心配だった。
 私は沙耶子ちゃんとの話が終わってから、急いで教室に戻って帰り支度をし、真っ直ぐ校門に向かった。
 そして、門を出てすぐ、もくずに電話した。
 もくずはすぐに電話に出た。
『もしもし、もくずです。乃梨子?』
「うん、私。ねえ、もくず、知らなかったわよ自宅待機って。どうなったの?」
『えっとね、とりあえず明日土曜日と明後日の日曜日は外出禁止で反省文書いて提出だって』
「……それだけ?」
 土日謹慎ってのはあまり意味が無い気がする。“とりあえず”って事はまだ処分は検討中なのかもしれない。
『電話もダメなんて言うんだよ。でもこの携帯はお母さんに秘密だから今日は大丈夫』
 ん?
 さらっと言ったから、ちょっと理解するのに時間がかかったけど、つまり、もくずは母親に内緒で携帯電話を持っていて、だから母親が居ない今日はコッソリ電話で話せると言いたいのか?
 でも、疑問が湧いた。
「あれ? 秘密って? 未成年は保護者の同意が無いと契約とかできないんじゃ……」
『お父さんと居た時に買ったから。捕まったからって警察はぼくの携帯まで取上げたりしないよ』
「ちょっと、警察って? 捕まったってなによ?」
 父親の同意で買ったってとこまでは判った。でもそのあとの不穏な単語はなんなんだ。
『口座はちゃんとぼくの名義のがあるんだ。だからお母さんは知らないの』
 もくずは私の疑問はお構いなしに、話を先に進めてしまっている。
 嘘じゃ、ないよね?
 もう少し詳しく聞きたいけど、つつくとまたおとぎ話に移行しそうなので、肝心のことを先に聞くことにした。
「ちょっともくず、それで、処分とかはいつ判るの?」
『処分?』
「そうよ。反省文書いて終わりなのか、それともまだあるのか」
『わかんないけど、多分月曜日』
「じゃあ月曜は学校に来るのね?」
『何にも言われてないけど』
 どうやら月曜には会えそうだ。
 込み入った話はやはり顔を見ながら話したい。
 あ、そうだ。
「明日は連絡つかないの?」
『ん、土日はお母さんいつ帰ってくるか判らないから。携帯は使えないよ』
「そうか、それって母親に携帯の存在を悟らせないためよね?」
『うん』
 なるほど、この間の待ち合わせの時の謎が判明した。
 あのあと母親が帰ってきてしまって携帯の電源を切ったんだ。出て来れなかったって事は、厳しい人なのかな? もくずのお母さんって。
 もくずは続けてこう言った。
『だから、かけるんだったら家の電話にして』
「あれ、電話禁止じゃなかったの?」
『お母さんほとんど家に居ないから。帰ってきたら切ればいいし』
「帰ってきたらって……。お母さんって何の仕事してるの?」
 もくずはこともなげにポロっと言った。
『女優』
「じょ……ええ!?」
 “じょゆう”って、映画とかドラマに出るあの“女優”よね?
 そのとき私は、なんとなく特徴的な髪型をした友人の顔を思い出していた。
 もくずは続けて言った。
『でももう落ち目。最近Vシネマとか出てるし』
「そうなんだ」
 ちょっとびっくり。
 でも、女優ばりに綺麗なもくずの顔もなんか納得だ。
 そして、もくずが「電話は母親が出た場合取り次いでくれないから諦めて」という話をした直後だった。
『あっ! お母さん帰ってきたからもう切るね。電源切っちゃうからもう通じないよ』
 本当に焦った様子だったので嘘ではなさそう。
「明日も電話、していい?」
『だめかも。お母さん休みかもしれない』
「とにかく! 一度かけるから!」
 聞いていただろうか? 私が話してる途中でぷつっと通話は切れてしまった。


 私は結局、山百合会の会合をサボってしまった。
 でも、志摩子さんと顔を合わせづらいというのもあるし、もともと仕事があるわけではなかったからかまわなかった。




act.10 螺旋降下


 山百合会会員名簿というものがある。
 ここには建前、高等部在学生全員の住所と連絡先が載っていることになっている。
 でも実は個人情報保護の面から、当人と保護者が発行目的に同意したものだけが掲載されているのが実態だ。
 過去に名簿の売買が問題化して廃止も検討されたことがあるこの名簿だけど、今は個人情報保護法なるものが施行され、売買事体は禁止じゃないものの、業者での個人情報の扱いが何かと面倒になって売買自体が行われにくくなった背景があり、廃止されずに今に至ってるとか。まあこれは蛇足だ。


 土曜日。
 昼頃になって、私はその会員名簿でもくずの連絡先を調べ、その電話番号にかけた。
 電話は呼び出し音三回で繋がった。
「もしもし、私、リリアン女学園高等部の二条乃梨子と申しますが、海老名愛子(えびなちかこ)さんの……」
 言いながら、そういえば志摩子さん以外にリリアンの友達の家にかけるのって初めてだ、なんて思ったが、全部言い終わる前に返事が返ってきた。
『もくずだよ!』
 もくずだった。
「よかった。もくず、元気?」
 まあ聞くまでもなく元気そうだけど。
『あははは、乃梨子の声変だった』
 最初のよそ行きの声とのギャップが可笑しかったらしい。よほど退屈してたのか、たっぷり笑ってくれた。
「今、大丈夫なの? 一人?」
『うん、丁度今、お母さん買い物』
「じゃあ帰ってくるのね」
『やっぱり土日は仕事休みなんだって』
「そうか」
『外いけないから退屈だよ〜』
 なんだか今日のもくずは応対が普通だった。家に居るからかな?
 私は訊いてみた。
「退屈って、いつもは何してるのよ?」
『ん、ゲームセンター。電車でいろんなとこ』
 そういえば“いっぱいある”って言ってたわね。
 そのとき、私はいいことを思いついた。
「退屈してるのなら私、行こうか?」
『え?』
「禁止されてるの電話と外出だけでしょ?」
 謹慎中の友達に陣中見舞いに行くなんて良くある話だ。まあもくずのはちょっと違うけど。
『ほかは聞いてないよ。乃梨子来れるの?』
「行けるから言ったんじゃない。明日は別に予定ないし」
『じゃあ、来て来て! 大丈夫! 明日はお母さんエステとか買い物に出かけるって言ってるから、多分夜まで帰ってこないよ』
「別にお母さんが居ても大丈夫じゃないの?」
『大丈夫じゃないよ。お母さんぼくの友達が家に来るの好きじゃないから』
「そうなんだ」
 どういう母親なんだろう?
 まあいい、とりあえず何時頃が良いか検討しよう。
 もくずによると、どんなに遅くとも昼には出かけると言う話だから、行くのは午後だ。昼食をとってから行く事を考えると、午後の二時頃から一、二時間が妥当か?
 それをもくずに伝えた後、私は言った。
「反省文とかはちゃんとやっておくのよ? 私、面倒見ないからね?」
『うん、ちゃんと書いてるよ』
「それなら良いわ」
 そんな感じで、電話は終わった。
 一度もくずと落ち着いて話をしたかったのだ。別にプライベートなことを根掘り葉掘り聞こうっていうんじゃない。もちろん知りたいとは思っているけど、そういうんじゃなくて、上手く言い表わせないけど、それは、もくずのそばに行きたいっていう気持ちだった。それは物理的にってだけでなくて。


   ◇


 日曜日。
 午前中、私はパソコンに向かって、メールやいつも訪問するサイトのチェックをしていた。
 特に目新しいものはなし。
 新着の画像で気に入ったものの保存なんかも一通り終えてから、私はちょっと思うところあって、とある有名な総合検索サイトに移動した。
「ふむ……」
 そして少し考えて、“人魚 もくず”と打ち込み、検索をかけた。
「345件。童話のページばっかりだな」
 出て来たのはアンデルセン童話の人魚姫に関するページが多かった。
 あとはそれ以外の人魚伝説とか、あとペンネームでも幾つかヒットしてる。
「まあいいか」
 人魚姫だったら幼い頃に読んだことがあった。絵本だったと思うけど。
 別にそれが目的で検索したわけでもないのだけど、幾つかページを開いてみて、童話そのものが掲載されているのをざっと読んでみた。
 なるほど、アンデルセンの人魚姫は地上では口がきけなかったんだ。これはもくずの人魚と違う点だ。自称人魚のもくずはそれはもうよく喋るし。
 私は再検索する為に検索結果の上方にある検索フォームにまたキーワードを打ち込んだ。今度は“海野桃子”。彼女が最初に名乗った名前だ。
 が、横スクロールしてて“人魚”の文字が消えていなかった。
 でも検索結果はちゃんと出た。
 果たして、海野桃子さんというのは私も名前は知っている女流SF作家の小説の主人公の名前だった。この海野桃子さんは友達から“もくず”というあだ名で呼ばれていて、そこに紹介されていた小説の冒頭の一文で、この桃子さんが『どこの世界に海野もくずなんて凄い名前を付ける親がいるかってのよ』とぼやいているのだ。
 間違いない。もくずはこの小説を知っている。読んだのか、私みたいにその情報のみを知ったのかは判らないけど、あの時名乗った名前はここから取っているのだ。
 驚くというより感心した。
 自分の親のことを『居るわけ無い』と宣言した小説の主人公の名前を名乗る、もくずのセンスにだ。
「まあ、外部受験で高等部に入ったわけだから勉強は出来るのよね……」
 私もそうだけど、別に自慢してるわけではない。遊んでて受かるような試験じゃないってことを言いたいのだ。
「ちょっと印象変わってきたかな?」
 最初、嘘つきでバカな子ってイメージだったのだけど、これは彼女に対する印象を根本的に改める必要があるかもしれない。
 そんな事を思いつつ、検索結果のページに戻って他の検索結果を眺めた。
 なにか気になるページがあった。

 『バーチャルネット人魚 海野桃子14歳』

「なんだこれ」
 “VN(バーチャルネット)なになに”ってのは一時期流行ったWebサイトの形態だ。
 大元のWebサイトはいまだ健在だけど、最盛期には一千を超えたといわれるそのVN系サイトは今やすっかり下火になって大元を除いたら有名なところしか残っていないらしい。
 私も一度くらいは訪れたことがあるけど、サイト管理人が架空のキャラクターになりきって日記やニュースなどを更新するという、まあ遊び心が顕現したようなページだ。
 トップに紹介文があった。

 『はじめまして。私は電子の海で生まれた仮想人魚、海野桃子といいます。
 もちろんこの名前はペンネームです。
 人魚の本当の名前は人間の言葉では表現できないんですごめんなさい。
 ここでは皆さんに私のこととか、人魚の世界のことをいろいろ紹介できたらなって
 思っています。どうかよろしくお願いします。』

 そしてその下にイラストチックな女の子の顔の絵が貼ってあった。これが海野桃子なのであろう。なんとなくもくずに似ていると思った。
 その下は日記だった。

『平成○年○月○日 悪い魔女と決戦その3
 前回の続きです。私はこの魔女の学校での生活を通じて魔女にもいい魔女と悪い魔女がいることを知りました。
 私が最初に出会った魔女は悪い魔女だったんです。でもこの“良い”、“悪い”も実は魔女の属性に過ぎません。だから出合った魔女が悪い魔女だからといってその魔女を恨んではいけません。だって、悪い魔女は良かれと思って魔法を使ってもどうしても悪い結果になってしまうのだから……』

 どうやら、日記形式で人魚の物語が進行する形態のようだ。
 続き物なので最新のをちょっと読んだだけでは意味不明だった。もっと昔のから読まないと。
 もくずの影響だと思うのだけど、私はこの話に大変興味が湧いた。ただ、量が多く、今読み始めたらもくずの家へ行く時間を忘れかねないので、リンクを保存して後で読むことにした。

 最初、名前と“人魚”ってキーワードの符合から、『まさか、もくずのサイト?』なんて一瞬思ったけど、この“海野桃子”って名前が小説の主人公の名前である以上、その可能性はかなり差っ引いて考えなければならないだろう。
 それに、この人魚の一人称は“私”で、もくずの口調とは程遠いように思われた。


   ◇


 早々にPCから離れた私は、出かけるからと菫子さんに断って早めの昼食をとった。
 そして、約束の時間までに着くにはまだ一時間程余裕があるのだけど、なにか差し入れを用意するならと考え、もう出かけることにした。
 着ていく服装は以前の失敗を教訓に、ちょっと気を遣った。
 といっても、大した服は持っていないので、この前みたいにいいかげんな格好はしないってだけ。
 なのに、私が部屋から出るなり菫子さんは、
「お、気合入ってるね? デートかい?」
「“友達”の所へ行くだけよ」
「でも志摩子ちゃんじゃないんだろ?」
 鋭いな。私は志摩子さんに会うときはちゃんと「志摩子さんに会う」と口に出すのだ。
 「ボーイフレンドかい?」なんて聞いてくるから、「女の子よ」と答えると、菫子さんはなにやらしみじみと言った。
「リコもすっかりリリアンに染まったねえ……」
(学校が女子高ってだけじゃない。別に染まったとか関係ないよ)
 菫子さんの言葉に頭の中でそんな反論をしながら、私は家を出た。
 家を出て、早速だけど私は悩んでしまった。
 差し入れって何を持っていけばいいの?
 雑誌とかお菓子の類? でも私はもくずの嗜好なんて知らないし。
 片親とはいえ、もくずの家は結構お金持ちっぽいし。ヘタなお菓子なんかもっていけないんじゃないだろうか? ……なんていうのは、庶民の発想だ。
 結局、悩んでも判らないものは仕方が無いので、ターミナル駅の駅ビルに寄ってケーキを適当に選んで三つ買った。この辺が無難なところであろう。


 もくずの家は都内でも高級住宅が立ち並ぶ街の中にあった。
 とはいっても一軒家ではなく高級マンションの一室だ。
 私はメモしておいたもくずの家の住所を頼りに、そのエントランスに辿り着いた。
 約束した時間には、ちょっと早かったがまあ、許容範囲だろう。
 マンションの入り口は、まあ予想通りなのだけど、電子ロック式だった。部屋番号を打ち込んで訪問先の家の人に開けてもらう仕組みのやつだ。
 私がもくずの部屋番号を打ち込んで呼び出しキーを叩こうとした時だった。
「あなた、うちに何の用?」
「え?」
 振り返ると、ぱっと見、派手な成りの、おばさんが立っていた。
 おばさんというか、顔立ちは彫りが深い美人で、彼女は何処となくもくずに似ていた。
「あ、あの、もく、いえ、愛子さんのお母様ですか?」
「そうよ。あなたは? クラスメイト?」
「いえ、私は……」
 私の言葉を待たずに彼女は言った。
「あの子の友達、……じゃないわよね、あの子に友達がいるわけないし」
(……え?)
 彼女の台詞に一瞬、耳を疑った。
(これがもくずのお母さんなの?)
 とにかく、唖然としていてはいけない、と、何とか気を取り直し、私は言った。
「あ、あの、私、その友達というか、愛子さんとは親しくさせていただいていて……」
「無理しなくていいわよ。苦情でもいいにきたんでしょ?」
 嫌な目だった。
 表面だけ繕って内に憎しみを秘めているような。美人なだけにそれが余計際立って気持ちが悪かった。
 私は何も言えなくなってしまった。
 私の横から手を伸ばし、もくずのお母さんは自動ドアを開けるコードを打ち込んだようだった。
「あの子は壊れてるからね。あれの父親が壊したのよ。……身体も、心も」
 彼女がそう言い残してエントランスから入っていくのを、私は唖然として見送る事しか出来なかった。
 彼女が扉の向うに消えてから、私ははっとして、急いでもくずの部屋番号を打ち込み、呼び出しボタンを叩いた。
 呼び出し中の表示が点滅し、少ししてスピーカーからもくずの声が聞こえた。
『はいー』
「あ、私、乃梨子」
『あ、来たんだ。今、開けるね。お母さん朝から出かけちゃってるから』
「あのね、たった今、帰ったわよ」
『え?』
「あなたのお母さん、今入って行ったから。もうすぐそっちに着くと思う」
『お母さんに会ったの?』
「うん。……今日は帰ったほうが良いよね?」
『そっか。ごめんね。夜まで帰らないと思ってたんだ』
「いいよ。じゃ、明日会いましょ?」
『……うん』

 手にさげたケーキの箱の重みが指に食い込んだ気がした。




(続)


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