――ごめんね、祐巳。
ボクは祐巳の小さなカラダを抱きしめた。
ボクに出来ることは祐巳を抱きしめて、その冷えたカラダを暖めてあげることくらいだ。
何も出来なかったんだ。
祐巳がその小さなカラダで、残酷な運命に立ち向かっている時、
ボクはただじりじりと、ただ焦燥感に身を焦がすことしかできなかった。
祐巳、ボクは最後までキミのそばに居るよ。
残された時間の最後まで……。
ああ、どうして世界はこんなにも美しく、
そして残酷なのだろう――。
α
あるよく晴れた日の放課後。
薔薇の館でお茶をしてくつろいでいた祐巳は、向かいで同じように紅茶をすすっていた由乃さんに話し掛けた。
「由乃さん」
「うん?」
「わたし、セカイ系になっちゃった」
由乃さんは、一瞬目を見開いてこちらを見た後、また目を伏せて何も無かったようにまたお弁当に箸を伸ばし、言った。
「なんの?」
「なんのって、セカイ系はセカイ系だよ? カタカナで三文字のセカイって書くやつ」
「ふうん」
口に運んだご飯をもぐもぐと味わいながらまた箸をお弁当にのばし、今度は花の形に加工された輪切りの人ニンジンを一切れつまんで、祐巳のお弁当のご飯の上に置いた。
「励ましの差し入れ」
「いらない」
「セカイ系が、好き嫌いしちゃダメでしょ?」
「信じてないでしょ」
それ以前に、祐巳の言葉の意味を理解する気もないようだ。
なにやらアンニュイな顔して弁当を味わうのに集中している。祐巳が、頬を膨らませて不満をアピールしてるのに完璧に無視だ。
祐巳は「ふぅ」とため息を一つついた。
まあいい。急いで信じてくれなくても。祐巳だって急なことで戸惑っているのだから。
由乃さんのくれた『差し入れ』を箸で摘み上げつつ言った。
「とにかくね、私もなったからには自分が何のセカイ系だか知っておきたいんだ」
セカイ系といっても『ポスト・エヴァンゲリオン』といわれた初期の『キミとボク』系から最近のもともと定義が曖昧なせいで無駄に適用範囲を拡大して何処がセカイ系なのか良く判らなくなってしまったのまで、世の中には、ありとあらゆるセカイ系がひしめき合って居る。
祐巳は、とりあえず『年端の行かないガキが、意図せずして世界の命運を握らされる』という説を支持したいと思っているのだけど……。
「でも、どうしたらいいのかな……」
窓の方に視線をやり、そう呟いた。
窓からは明るい午後の日差しが差し込んでいる。
降水確率は10%未満。今日もいい天気だった。
「とりあえず、」
由乃さんは、詰まらなそうな口調で言った。
「明日の小テストの予習でしょ」
「やっぱ信じてない」
明日は朝から小テストがあるという情報がクラスに流れていた。
先生がわざわざ前日に宣言してくれたのは、いい点を取らせようという親ごころからか、はたまたそれで勉強させようという教育テクニックなのか、まあやる人はやるし、やらない人はやっぱり直前までやらないので、あんまり効果は期待できないと思うのだけど。
そのとき、祐巳の横から声がかかった。
「今、セカイ系の話をしてたわよね? 祐巳さん?」
ちょっと離れて乃梨子ちゃんと一緒にお話をしていたはずの志摩子さんだ。
志摩子さんは、音も無く、いつのまにか祐巳の隣に移動していた。
「え? う、うん」
祐巳はちょっと驚きつつ返事をした。
志摩子さんは言った。
「わたしも気づいていたわ。今日の祐巳さんは一味違うって」
「え? わかったの?」
「志摩子さんの家、お寺だしね」
なんか由乃さんが興味なさそうに突っ込み(?)を入れたが、セカイ系とお寺はなにか関係があるのだろうか?
志摩子さんは、両手を胸の前で組んで回想するようにして言った。
「遅刻しそうになって廊下を走ってシスターに咎められていた祐巳さんは、昨日と違う!」
そして、目を見開いたかと思う上体ごと祐巳のほうを振り向いて続けた。
「なにやらエタイの知れないご都合主義的な設定で世界の命運を左右する力に満ちていたわ!」
やはり、わかる人にはわかるのだ。
祐巳は聞いた。
「ということは私は『キミとボク』系なら私、『キミ』の方?」
「私はそうだと思うわ」
「ねえ、由乃さん、そう思う?」
「……見ただけでそんなことが判る志摩子さんの方がエタイが知れないわ」
そんな事いってる。
「で、志摩子さん?」
「なあに?」
志摩子さんはマリアさまみたいに微笑んで祐巳を見ていた。
「『ボク』の方は誰なのかな?」
祐巳のことを的確に『セカイ系』の要素に当てはめた志摩子さんならきっと判るに違いない。
そう思ったのだけど、志摩子さんはきっぱりこう言った。
「わからないわ」
はあ、志摩子さんでも判らないんだ。
ちょっと期待しただけにガッカリ。
志摩子さんはそんな祐巳の手を取って言った。
「判らないから、調べましょう?」
早速だけど、会議が始まった。
司会、というか仕切り役の志摩子さんがまず言った。
「まず祐巳さんの定義によると、『年端の行かないガキ』が必要ね」
「というか必須。主人公だもん」
主人公が『世界の命運』に巻き込まれるのがセカイ系だ。
「つまり祐巳さんがヒロイン?」
「いやだ、由乃さんヒロインだなんて、照れるなぁ〜」
思わず頬に手を当てて顔をぶんぶん振り回してしまう。
「誉めてないわよ。それより、本当に祐巳さんが世界の命運を左右してるの? 私そこから疑問なんだけど?」
それはそうだ。その辺は見抜いた志摩子さんに聞いてみるに限る。
「ねえ、志摩子さん?」
「それはおいおい判ると思うわ。今は『ボク』役を確保することが最優先よ」
「そうなの?」
「ええ、ヒロインの秘密はストーリーの終盤まで明かされないものなのよ。場合によっては完結しても謎のままってこともあるくらいだから」
「なるほど」
「……そんなことで良いの?」
由乃さんはいかにも納得行かないって顔をしていた。
「それでこそ『セカイ系』よ」
「うん! そうだね」
「はぁぁ……」
由乃さん、なにやら疲れた顔をしてる。
そんな由乃さんの顔を、志摩子さんは見つめていたが、やがてなにかを思いついたように目を輝かせて言った。
「そうだわ、由乃さんはどうかしら?」
「え?」
「はぁ?」
ちょっと訳がわからず、祐巳はぽかんと、由乃さんは訝しげな表情をした。
「『ボク』役よ。別に男の子である必要はないのよ。“平凡な日常をむしろ流されるように送っていた少年あるいは少女が思いもかけずに、非日常に巻き込まれる”王道だわ」
「王道ってあなた、勝手に私を巻き込まないでよね」
「でも“勝手に巻き込まれる”のもセカイ系の特徴なのよ。由乃さんは山百合会で祐巳さんと出合った。それは紛れも無い事実よ。そして、知らなかった祐巳さんの真実に由乃さんは少しずつ巻き込まれていくの」
「ちょっと、勝手に決めないでよね。私は非日常なんてごめんだわ!」
「そう、それは主人公の条件なの。由乃さんは変わらない日常ってものにどこかで疑問を感じつつも、それが当然と思い込むことでそこから外れようとしなかった。“現実”という一種の“諦め”によって」
だんだん、志摩子さんの口調がナレーションっぽくなってきた。
「語りださないで! 私そんなのじゃないわ。そりゃ令ちゃんが卒業してちょっとは心細さも感じてるけど……」
「そう。最愛の令さまも卒業してしまった。いずれ自分もこの学園を去って、いつかは汚い大人社会に出て行かなければならないんだって、漠然とそれが当然なんだって思っていた。いえ、思い込もうとして思い込めないそんなどこか追い詰められたような閉塞感。そんなとき、由乃は彼女に出会った」
「やめて、って言ってるでしょ! 私は……」
「由乃さん、一人称は『ボク』にしましょ」
「は?」
「少女×少女のセカイ系では一方が『ボクっ娘(こ)』というのが今時のスタンダードなのよ?」
「知らないわよ! だいだい、私やるなんて言ってないし」
「由乃さん」
そこで志摩子さんは由乃さんの肩を抱くようにして、
「なによ?」
会議室の端に連れて行った。
なんだろう。
祐巳が見ていると、志摩子さんは由乃さんの耳に口を寄せ、何かを話している。
そのうち、由乃さんがビクっとなったかと思うと顔色がさーっと青くなった。
そして、由乃さんは人形みたいにガクガクと首を縦に振った。
何を言ったのだろう?
やがて満面の笑みを浮かべた志摩子さんは、魂が抜けたようになった由乃さんを伴って祐巳の所へ戻ってきた。
「由乃さん? どうしたの?」
祐巳がそう聞くと、まだビクっとなって由乃さんは言った。
「え? な、なに? “ボク”は何も聞いてないよ?」
「うふふふ……」
慌てたように早口で言う由乃さんの横で志摩子さんは微笑むばかりだった。
志摩子さんの笑みにちょっと怖いものを感じた祐巳は心にはこの言葉が浮かんだ。
『聞かぬが花』
「……例の実験は上手くいってる。発現は小規模だが確認した」
あれから、祐巳は由乃さんと薔薇の館を追い出されて、銀杏並木のあたりをぶらぶらしていた。
「観察を続ける」
さっきから木陰でぶつぶつ言ってるのは乃梨子ちゃんだ。
どうやら、祐巳の秘密の関係者役らしい。
やはりセカイ系だから世界の命運を左右する祐巳の秘密とやらを監視する世界的組織が必要なのであろう。
乃梨子ちゃんがエージェントではいささか小規模に見えてしまうのだけど。
「ねえ由乃さん?」
「な、なにかしら?」
「そんなに緊張しないでよ」
「え、ぼ、ボクは緊張してないよ?」
なんか、ボクっていう由乃さんは可愛い。
でも、志摩子さんに何を言われたのか、ガチガチに緊張しているから可愛さが三割方マイナスだ。
「いや、してるって。別に志摩子さんがなにかしなくても私セカイ系になってるから、普通にしててもいいんだよ?」
「だからー、そのセカイ系になったって何なのよ? わた、ボクはワケ判んないわ、いや、判んないよ?」
「とにかく普通にして」
「普通っていってもさ……」
そう言って由乃さんは木陰の乃梨子ちゃんの方へ視線を向けた。
なるほど、乃梨子ちゃんは監視も兼ねてるんだ。
「じゃ、言葉遣いは頑張ってもらうってことにして、ほら見て……」
祐巳と由乃さんの見ている前で、乃梨子ちゃんが何者かに囲まれてそのまま連れて行かれた。
「え? なに? あの黒服たち」
「多分祥子さまの家のエージェント」
「小笠原家の? 何やってるのよ?」
「それは私の口からはいえないよ……」
β
そして話は急激な展開を見せたのだ。
突然、祐巳と由乃の前の立ちはだかる小笠原祥子。
「由乃ちゃん、祐巳を渡してもらうわ」
祐巳はなぜか怯えている。
「祐巳、どうしたの?」
「い、いやっ!」
そして、走り出す祐巳。
「ちょっと!?」
「確保しなさい!」
祥子が命令を下し、武装したエージェントたちが祐巳を追う。
「な、何で銃なんか持ってるのよ! 祐巳をどうするつもり!?」
驚き、憤慨し唖然とする由乃に祥子は歩み寄り、言った。
「……祐巳をこのまま野放しにしておくわけには行かないの」
「え?」
「あの子を放っておけば大変なことになるわ」
「大変なことって?」
「そうね、ある意味、世界が滅びる、いえ、そのキッカケになりかねない」
「ええっ!?」
「だから、処分するの」
「処分!? 祐巳を? 何でよ!」
「私がそう決めたのよ。私は祐巳の姉である前に小笠原の人間なの。だからそうすることしかできない。祐巳が世界の敵になる前に確保して、そう、いっそ私の手で……」
由乃の目には、祥子が何かを堪えているように見えた。まるで泣いているように見えたのだ。
「いやー!」
遠くから祐巳の悲鳴が聞こえた。
やがて、黒服の男達に羽交い絞めにされて祐巳が連れ戻されてきた。
「祐巳……」
祥子がそう呟くのを聞いた。
由乃は黙って見ていることしか出来なかった。今聞いた事実に心が硬直して叫ぶことも走りだすことも出来なかったのだ。
いやいやをしながら大きな車に連れ込まれる祐巳。
体格の良い男達に囲まれて、祐巳の姿はいやに小さく儚げに見えた。
やがて祐巳の姿がドアの中に消え、祥子が車の助手席に乗り込んだとき、それは起こった。
その瞬間、由乃の目の前が真っ白に染まった。
なにが起こったか判らなかった。
だが、次の瞬間、由乃が目にしたのは、上部が抉り取られたように無くなった車のボディだった。
「祐巳っ!」
黒服たちは運転手も含めて皆倒れていた。助手席の祥子さえも。
祐巳は後部座席の中央に頭を抑えてうずくまっていた。
由乃は慌てて駆け寄って、もはや意味をなさないドアの欠片を蹴ってどかし、気絶してるらしい手前の黒服を押しのけて祐巳の手を取った。
「……よ、しの?」
「うん、はやく!」
由乃は逃げなくてはと思った。祐巳を逃がさなければと。
でも何処へ?
判らない。判らないけど、祐巳を守りたいって思った。
「……由乃ちゃん」
その時、搾り出すような声が前の座席から聞こえた。
「祥子さま?」
「行くのなら、お行きなさい」
「え?」
由乃は一瞬戸惑った。
次の瞬間、祥子が怒鳴った。
「早く! 早く行きなさい!」
「は、はい!」
反射的に祐巳の手を引いて立たせ、ほとんど下半分だけになった車を飛び降りて走った。
「祐巳を、お願い」
祥子の呟きは由乃の耳には聞こえていなかった。
γ
そしていろいろあって、ついに話は佳境に入った。
「由乃、今までありがとう」
「え?」
由乃はこのまま世界の果てまででも逃げてやるつもりだった。
祐巳と一緒なら世界がどうなってもいいって思っていた。
これ以上祐巳を戦わせたくなかった。
なのに――。
祐巳はその繋いでいた手を自ら解き、由乃から離れてしまった。
「ちょっと、手を離しちゃだめよ、ほら手を出して」
祐巳は手を出すことなく言った。
「私、由乃が好き」
「え、急になに?」
「この世界も」
「な、何を言っているの?」
祐巳の様子の変化に由乃は急に不安が押し寄せてきた。
「由乃の居るこの世界がすきだから」
「祐巳っ!?」
「だからこの世界を守りたいの。私、由乃に生きて欲しい」
「なんで、そんな遺言みたいなこと言うのよ!」
「私、行くわ」
「なんでよ!」
その時、由乃は知った。祐巳があの過酷な戦いに戻る決心したことを。
「どうして祐巳なのよ? なんで祐巳じゃないといけないのよ!!」
「私なら世界を守れる、私しか由乃を守れないから……」
「ま、待って!」
「さよなら」
その瞬間、光が溢れた。
青緑色の強烈な発光の中、必死に目を凝らす由乃の目に、祐巳の泣き笑いの表情が見えた。
そしてその口が、こう動くのを。
『い・き・て』
光が収まった時、由乃の目の前に祐巳の姿は無かった――。
「祐巳ぃぃぃぃ――」
δ
「祐巳さんの心を守っていたのは由乃さんだったのね。由乃さんが居たからこそ、言われるがままに戦っていた祐巳さんは初めて自らの意思で戦う決心をしたんだわ。でもその時既に祐巳さんの体はぼろぼろで、由乃さんが祐巳さんを見たのはそれが最後だったのね――」
失意のうちに薔薇の館に戻ってきた由乃は、何故か夜中になったというのに乃梨子ちゃんと紅茶を楽しんでいた志摩子さんに一部始終を報告した。
そう、あれは放課後から日が暮れるまでの出来事だったのだ。
「ううっ、祐巳さま、なんて健気な……」
話を聞いた乃梨子ちゃんが感動して思い切り泣いている。
「ちょっと、何落ち着いて解説なんかしてるのよ! 祐巳、消えちゃったのよ! あんなぼろぼろで戦いに行っちゃって!」
「そう、結局由乃さんは何も出来なかった。結局短い時間を一緒に過ごしただけで、祐巳さんが勝手に戦って勝手にぼろぼろになって、勝手に決心して勝手に行ってしまった。けっきょく心を乱されただけで由乃さんにはぶつけどころのない想いが残っただけだった……」
「そ、そうよ! なんだっていうのよ!」
「それが『セカイ系』よ」
「理不尽だわ!」
「でも、もう終わったわ」
「終わったって、祐巳は帰ってこないわ」
そう言って由乃は俯いた。
「そうかな」
「そうよ。あんな小さなカラダで世界の命運を背負って……。『私しか守れない』なんて何格好つけてるのよ!」
「格好良かった?」
「良くないわ。ただのバカよ。バカ」
「えー、由乃、私のこと嫌い?」
「嫌いよ! 私なんかの為に自分を犠牲にする祐巳なんか大っ嫌い!」
「はぁ、嫌われちゃった」
「………」
あれ、っと由乃は思うのだった。
「気にしないで、私は祐巳さんのこと好きよ」
「志摩子さん」
「あ、私も、志摩子さんの次にだけど」
「乃梨子ちゃんも」
なにやら背景に花を散らして見詰め合ってる。
「ちょっと待って」
「なにかな?」
「ゆ、祐巳?」
「祐巳だよ?」
何事もなかったように目の前でにこにこしているのは確かに祐巳だった。
「………」
由乃は俯いてぷるぷると震えていた。
「どうしたの?」
そして爆発した。
「祐巳ぃぃーー!!」
目を血走らせ、祐巳のむなぐらを掴んで思い切り迫る由乃。
「なんであなた、ここに居るのよ!!」
祐巳はこともなげに言った。
「え? 終わったから帰ってきたんだけど?」
これぞセカイ系?