窓ガラスから差し込む光を、両方のまぶたが敏感に感じ取った。
その刺激はやがて脳に伝わって、起きろというメッセージを体に送る。
上下のまぶたは互いにまだ仲がよく、離れることをいまだ拒んでいるようにさえ見える。
「う〜…」
うなり声をあげながら目を覚ました1人の少女。
窓辺に向かい、朝の光を浴びると大きな伸びをした。
「…まさに絶好の洗濯日和ってやつかしらね」
太陽が自分の体を照らせば照らすほどに、心の中に重い澱のようなものが沈んでいく。
これから始まるいろんな家事仕事を思い、大願寺美咲は朝から憂鬱な気分になった。
リリアンに入学して1か月後のマリア祭。
確かこのイベントは、かつての白薔薇さま、藤堂志摩子さまと二条乃梨子さまが
姉妹としての関係を正式に認められたというエピソードのあるイベントだ。
あのときは相当な紆余曲折があったと純子さまから伺っているが、いったい何があったのか、聞くのはためらわれた。
純子さまといえば乃梨子さまの「孫」である。
その代になってまで伝わるくらいの話なのだから、かなり大変な話なのだろう。
気にならないといえば嘘になるが、今すぐ聞きたいと思う話でもない。
その年のマリア祭は、何のサプライズもなく、例年通りに行われた。
その帰り道。
「この1か月間、あなたをずっと見てきたの。
やっと分かったわ…私が『お姉さま』と呼んでほしいのは、あなたなんだって」
そう言って自分の目の前にロザリオを掲げる紅薔薇のつぼみ、瀬戸山智子。
「私の妹になってちょうだい」
美咲にそれを断る理由はなかった。
「はい…智子さま、いえ、お姉さま」
新たに自分の人生に現れたその人に連れられて、薔薇の館に向かうまでは。
「え…?家事、ですか…?」
目の前にいる新しい紅薔薇さまこと佐伯ちあきが、威厳ある態度で自分に問いかけている。
家事はどのくらいできるのか、親の手伝いはどの程度やっているのかと。
「その前に1つ質問してもよろしいですか?」
「何かしら?」
「なぜ、私にそのようなことを聞くのですか?」
ちあきの目がその瞬間、よくぞ聞いてくれたといわんばかりに光った。
「美咲ちゃん、あなたは初等部からリリアンなのよね?」
「はい、確かに私は初等部からずっとリリアンですが」
「ならば」
ひとつ呼吸したあと、ちあきは切り出した。
「あなたのおうちは、ある程度の財産があると見たけれど、どうかしら?」
「財産、ですか。あまり詳しいことは存じ上げませんが、少なくとも祐巳さまのお宅とほぼ同じかと…」
「そうするとうちともほぼ同じになるというわけね…誰か人を雇って家の仕事をやらせるわけにはいかない家だと」
「そうなりますね」
質問に1つ1つ答えながら、美咲はなんともいえぬやりきれなさを感じていた。
もしかしたら、ちあきさまは自分をいびり出そうとしているのではないだろうか。
だとしたら、あのとき断ってしまうべきだったのか。
しかし今頃ロザリオを返すほどの度胸もない。
由乃さまではないんだから。
美咲の動揺が分かったのか、ちあきは安心させるように微笑んだ。
「美咲ちゃん、私は何もあなたをいじめたくてこんな質問をしたわけではないのよ。
私なりにちゃんとした考えがあってのことなのよ」
ちあきはふっと、どこか遠くを見るようなまなざしを窓に向けた。
「今は女性もどんどん社会に出ている…それはとてもいいことだし、これからも社会に積極的に出るべきだと思っている。
たとえ女でも、昔のように男に頼ってさえいればOKなんて考えは許されない。
自分の身の回りのことはちゃんと自分でできないとだめだと思ってるの」
言いたいことはなんとなく分かる。
だが、先ほどの質問の理由にはなっていない。
美咲はいぶかしく思っていた。
「あなたのお姉さまになった智子だけれど…この子は自分の身の回りのことはみんな他人任せで、
一通りできるようになるまでにはずいぶん時間がかかってしまったわ」
「ちょっとお姉さま、そんなこと美咲の前でばらさないでください」
あわてる智子におかまいなしで、ちあきはなおも続けている。
「智子だけじゃない…リリアンに入ってみて愕然としたわ。
家庭科の授業はあるにはあるけど、どの子もみんなお嬢様ばかりで、基礎的なことさえ
ろくにできていない…今までご両親に何を教わってきたのかしら。
先代の紅薔薇さま、瞳子さまもそう」
美咲はついに、自分の疑問を口にした。
「ちあきさま、いったい何をおっしゃりたいんですか?私にはまったく話が見えません。
瞳子さまはご自分のお姉さまでしょう?なぜあの方のことを悪くおっしゃるんですか」
ちあきは動じる気配もなく答える。
「悪く言っているわけではないわ。私にとってお姉さまと呼べる方は、瞳子さまただお1人だもの。
でもいくら瞳子さまが相手でも、私がすべての面倒を見ることはできないし、いずれはあの方も自分で生きていくべき時がくる…だからこそ」
「だからこそ?」
ちあきは再び、美咲と智子にまっすぐ向かい合った。
「あなたには、家のことをきちんとやれる人でいてほしいのよ」
「ちあきさま…」
「どんなに時代が変わろうが、生きていくうえでは大事なことだから、ね?
いきなり質問されてびっくりしたでしょう?ごめんね」
(だから今度、あなたの家事の腕前を見せてほしい…)
ちあきの力強さに押されて、つい「はい」と返事をしてしまったが、
美咲はちあきの要求を満たす自信はまるでなかった。
そして美咲は今、自宅の洗濯物を干している。
「ほら、洗濯物を干すときはこうやってパンパンとたたく!」
濡れたシャツを手で挟み込んで、パンパンとたたいて見せるちあき。
「あと15分以内にすべて干してしまいなさいね。それが済んだらお掃除よ」
ちらりと見えたリビングは、生活感いっぱいのあらゆる物が床に散らばっている。
(鬼姑…)
聞こえないように言ったはずだったが。
「何か言った?」
「いいえ、何でも…」
とにかく急がなくては。
美咲は洗濯物の山と必死に戦った。
それからは戦争だった。
床に掃除機をかけ、窓ガラスを拭き、廊下を水拭きし、水周りも念入りに掃除。
「この床は拭き方が甘いわね」
これは何の嫌がらせだろうか。
いい加減にしてくれと怒鳴りたくなっていた。
でもここで怒鳴ればすべてが水の泡。
美咲は耐えるしかなかった。
リビングから軽快な音楽が鳴り響く。
その音楽は時計が奏でるもので、正午になったことを知らせるものであった。
「さて、と。ごはんにしましょうか。冷蔵庫には何があるの?」
「…たぶん何もないです。買い物してないんで」
野菜室にあったありあわせの野菜と卵、それに鶏肉。
ぶっきらぼうに美咲が答えたとおり、主だった食材はそれ以外になかった。
「これなら野菜入りオムレツができるかもね」
ちあきの目が期待に輝く。
「…私に作れというんですか」
「そういうことvv」
(こうなったら出たとこ勝負だ)
半ば諦め加減で、美咲は卵を割った。
「ふむ、なかなかうまく出来ているわね」
「恐れ入ります」
「欲を言えばもう少し味が濃くてもよかったんじゃないかしら。
あと形が崩れてる。鶏肉のソテーはOKね」
「……」
昼食後、今度は2階の掃除が待ちうけていた。
(いったいどんな育ち方をすればこんなに主婦も顔負けの女子高生ができあがるんだろう…
噂じゃあの祥子さまに家事全般を叩き込んだというし…)
一部生徒の間では、「世話薔薇さま」という称号が定着しつつあるらしい。
(さもありなん、ってやつね。これだけ完璧に家事ができるなら)
将来この人の息子と結婚する人はかわいそうだな、と漠然と思った。
ぞうきんがけをする手を動かしながら。
「さて、終了ね。お疲れ様」
ちあきのねぎらいの言葉も聞こえないほど、美咲は疲れ果てていた。
リビングには、きれいにたたまれた洗濯物が種類別に分けられている。
「美咲ちゃん、頑張ったじゃない。よくできているわよ」
「…ああ、そうですか」
今だこちらを見ようともしない美咲。
「ほら、こっち向いてよ」
そっと美咲の二の腕に手をかけると、ちあきはその体を自分の方に向けた。
「あなたの表情、とても一生懸命で輝いてた…私、本当言うと、少し不安だったの。
智子がどんな妹を連れてくるか…あの子は頼りないところがあるし。
でも今日の美咲ちゃんを見ていて、智子もなかなか人を見る目があると思った。
私、今日はかなり厳しくしたけど、美咲ちゃんは何も言わないできちんとやっていたでしょ?普通ならまずキレて投げ出すわよ」
言いたいことなら山ほどありますが、という言葉は喉元でどうにか押さえた。
「これからいろいろ厳しいことも言うかもしれないけど、あなたなら絶対にできる」
そう言うちあきの目に、いかなる嘘偽りもないのを美咲はきちんと見てとった。
美咲の返事はただひとつ。
「…くれぐれもお手柔らかにお願いしますね」
「さあ、それはどうかしら」
「ちあきさま〜!」
どうやら家事の実地試験は合格のようだった。
しかしこれで終わりとは限らない…。