それは風も無く、朝から穏やかな天気で、誰もが平穏な一日をすごせるだろうと思うような日のことでした。
お昼休み、薔薇の館の二階で祐巳は穏やかな空気に包まれながら、由乃さんと祐巳さんが向かい合ってお弁当を広げて居ました。
祐巳さんのお弁当は今日は海苔段々とか海苔弁当と呼ばれる、ご飯の上に海苔をぺたっと乗せてそれが二層になっているようなお弁当です。
海苔が湿って強度を増しているのか、箸で一生懸命切りながら食べている祐巳さんの姿が微笑ましいですね。
そんな祐巳さんが、ふとその手を止めてポツリと言いました。
「由乃さん」
「んぅ?」
食べながら返事をしたので由乃さんの返事が変な風になっています。
そんなことは別に良いのです。
このとき祐巳さんはなんと言ったと思いますか?
「わたし、アメーバになっちゃった」
「……」
アメーバです。
アメーバと言えば、アメーバ目に属し、原形質流動によってその形を変形しながら運動する単細胞生物のことを言います。
由乃さんは手を止めて、何を考えているのかわからない表情で祐巳をじっと見つめました。
「……祐巳さん、悪いんだけど、もう一度言ってくれるかしら?」
「わたし、アメーバになっちゃった」
祐巳さんはもう一度、そういいました。果たして祐巳さんは本当にそんなものになってしまったのでしょうか?
「ふうん?」
由乃さんは目を三白眼にして、見下す目ような目で祐巳さんを見ました。どうやら信じていない様子です。
祐巳さんはそれを見て言いました。
「あっ、いま馬鹿にしたでしょ?」
「ううん、祐巳さんがとうとう原生動物まで身を落としてしまったのねって、嘆いただけよ」
そう言って、由乃さんは遠い目をしました。それはそうでしょう。お友達が原形質流動をするような単細胞生物になったと知ったら誰でもその身の不幸を嘆きたくなるというもの。
でも祐巳さんはそれに異議を唱えました。
「むぅ、なったばっかりなのにそんな言い方ないでしょ? アメーバは数億年も昔から独自の進化を遂げた高等生物なんだよ?」
なんと、高等生物と言っています。確かに、どこか人類がまだ到達していない領域に、そのようなアメーバから進化した高等生物がいないとは言い切れません。
でもそれは……。
「そんなこと聞いたこと無いわ。何処のSF小説よ?」
由乃さんはそんなものは架空の話であるとして信用しませんでした。
「しらない」
「さすが、単細胞生物ね」
「また馬鹿にした」
「祐巳さんが馬鹿なこと言うからよ」
「あとで後悔しても知らないからね」
「しないわよ」
このようにして、由乃さんは祐巳さんの言うことを全然真面目に取り合いませんでした。
「はぁ……」
ため息混じりにうつむいた祐巳さん。
つんとしてお弁当を食べつづける由乃さんに対して、祐巳さんは食べかけのお弁当を見つめたまま手が止まっていました。
「……馬鹿なこと言ってないで小テストの予習でもしたら?」
あくまで信じてくれない由乃さんですが、祐巳さんは言いました。
「ねえ、由乃さん」
「なあに?」
「私のこと、好き?」
この言葉が始まりだったのです。
「なっ!」
絶句して手が止まり、由乃さんは顔を上げて祐巳さんを見ました。
「どうかな?」
「き、嫌いじゃないわよ?」
ちょっと落ち着き無く由乃さんはそういいました。
急に「好きだ」なんて真顔でいわれたら、誰だってこうなります。
「じゃあ好きなんだ」
「お、お友達だから。大切な」
由乃さんは目を逸らしながらそう言いました。顔が赤くなっています。
「ありがと。私もだよ」
祐巳さんは本当に嬉しそうに、素敵な笑顔でそう返しました。
そうすると、由乃さんは顔を逸らしたまま、目だけ祐巳さんの方を見て言いました。
「でもそれと、アメーバがどうのって話は別だからね」
「べつに、だから信じて、なんて話じゃないよ」
「だったらいいわ。っていうか何で急にそんな話?」
由乃さんはここに至ってようやくその違和感に気づきました。
その時、由乃さんは何気なく祐巳さんの空の弁当箱に視線をやったのです。
――空の?
変ですね? ついさっきまで祐巳さんは海苔段々のご飯を突き崩すのに苦心していて、お弁当はまだ半分以上残っていたはずです。
いつの間に平らげてしまったのでしょうか?
「あのね、私ね」
祐巳さんは由乃さんを見つめて言いました。
ここで由乃さんが、その目に光る獲物を見つめる獣のような輝きに気づいていればあんな結果にはならなかったのかもしれません。
「由乃さんが好きだから――」
甘い言葉です。
でも、由乃さんにはその言葉がなぜか恐ろしく響きました。
そのときです。
なんということでしょう、祐巳さんは由乃さんが一瞬目を逸らした隙に“箸と制服をそのままにしたまま”姿を消してしまったのです。
「え!?」
驚いて立ち上がった由乃さんは身を乗り出して、今まで中身があった祐巳さんの制服を確認しました。
その制服は、まるでその椅子に座ったまま祐身の体が消えてしまったかのように、椅子の上に載っていました。
制服の上にはさっきまで祐巳さんの両側の髪を縛っていた臙脂色のリボンも“結び目がそのまま”で服の上に載っています。さらに制服の襟首の中に白い下着まで見えたのです。つまり、衣服を全て残して祐巳さんの身体だけが消えてしまったということです。
「ゆ、祐巳さん!?」
由乃さんは慌てて椅子から離れて、テーブルにかかっている布を捲ってテーブルの下を覗きました。
そんなことは物理的に不可能って判っています。でも由乃さんは祐巳さんがテーブルの下に隠れていないか確認せずにはいられませんでした。
テーブルの下からは椅子に垂れ下がった制服のスカートの部分とその下にソックスが入った一足のシューズが見えました。
そしてその手前、テーブルの下から由乃さんの足元にかけて、何か白っぽい物が広がっていました。
その“何か”はある程度厚みをもっていて、ちょうど粘度の高い液体のように見えました。
「スライム?」
それは白っぽいピンク色をしてて、まるで意思を持っているかのように流動して急速に由乃さんの足の周りに集まって来ました、
「ひっ!? 何よこれ? ひぃぃっ!?」
その白い流動体は生暖かかくて、由乃さんの足に集まって盛り上がり、さらに足首をつたって這い上がってきました。
「由乃さま?」
乃梨子ちゃんの声が響きました。
乃梨子ちゃんと志摩子さんは由乃さんたちとは離れてお弁当を食べながら、先ほどのやり取りの様子を伺っていました。
でも祐巳さんが突然消えて、由乃さんががなにやら騒ぎ出したのを見て唖然とし、先に乃梨子ちゃんが反応したのです。
「い、いやぁぁっ!」
由乃さんの足はもはや完全にそのピンク色の流動体に覆われていました。
ちょうどアメリカンドックを揚げる前のソーセージに小麦粉を練ったものを被せたような状態といったら判りやすいでしょうか?
「た、助けて!」
思わず乃梨子ちゃんに助けを求めた由乃さんですが、乃梨子ちゃんはどうしたら良いかわかりません。
「で、でもどうやって?」
そのとき、志摩子さんが叫びました。
「乃梨子っ! 氷よ!」
「え?」
「早く!」
志摩子さんのアドバイスに乃梨子ちゃんは流しのそばの冷蔵庫に走りました。
その薄ピンク色の流動体は由乃さんのの制服の下を這い上がって、もはや両足は一本の太いイチゴポッキーのようになってしまっていて、全身が揚げる前のアメリカンドックになってしまうのも時間の問題のように思えました。
「由乃さまっ!」
造り貯めしてあった氷を冷蔵庫の製氷室から出して乃梨子ちゃんが戻ってきました。
もう、“白いピンク色”は由乃さんの首を覆いつつあります。
「何処でもいいから“それ”を冷やして!」
志摩子さんがそう叫んだので、乃梨子ちゃんは由乃さんの足元にまだ広がっている“それ”に氷をぶちまけました。
そうすると、目を見張るような効果がありました。
いまや由乃さんの顔まで覆っていた“それ”はみるみる撤退して、由乃さんから離れて、床の上で一箇所に盛り上がって大きなおまんじゅうのような一塊になりました。
そして、その塊はやがて、映画のCGシーンのような変形を見せて、赤ん坊のように膝を抱えて横になった人間の形へと変わっていきました。
折り曲げた足、丸めた背中、そして頭には髪の毛が見えて、膝を抱える手も現れています。
「祐巳さん?」
「祐巳さま?」
その“人間の形”はよく見るとさっき消えうせた祐巳さんに見えました。
いいえ祐巳さんそのものでした。
そう、由乃さんを取り込もうとした、あの流動体は祐巳さんだったのです。
「うぅ、酷いよ、乃梨子ちゃん……」
祐巳さんは体を丸めて震えていました。
きっと氷が冷たかったのでしょうね。
「思った通りね」
優雅に席を立った志摩子さんは、乃梨子ちゃんの横に立って、わけしり顔でそう言いました。
何が思った通りだったのでしょう?
「どうなってるんですか?」
乃梨子ちゃんが志摩子さんにそう聞きました。
志摩子さんは一言だけこういいました。
「祐巳さんはアメーバになったのよ」
「……」
由乃さんはその答えになんて答えたらいいか判らないで変な顔をしました。
志摩子さんは続けていいました。
「やはり低温が弱点だったようね」
「なんで知ってるのよ?」
「古い映画にあったのよ」
確かに、ずいぶん昔の映画にそんなようなのがあったようです。
「さいですか」
由乃はやってらんないって顔をしました。
乃梨子ちゃんが心配そうに聞きました。
「で、もう危険はないの?」
「祐巳さん、どう?」
みんなが話しているうちにテーブルの下に潜っていた祐巳さんは、ごそごそと服を着ながら言いました。
「氷に触ったらこうなっちゃうみたい、って言うか、私危険じゃないよ?」
さっきの由乃さんの恐怖を知ってか知らずか、祐巳さんは何事も無かったようにそう言いました。
「……だ、そうよ」
「ふうん。じゃあ氷嚢用意しないと」
それはそうでしょう。
きっと由乃さんの心の深層にトラウマが刻み込まれているに違いありません。
「えーっ?」
祐巳さんはテーブルの下でぶーたれていました。
「ちょと悪戯しただけなのに……」
さっき由乃さんが言った通り、祐巳さんは頭に氷嚢を載せています。
アメーバ化するとそれが破れる仕組みになっているようです。
「私を食べようとしたじゃない」
「食べないよ? 一つになろうとしただけで」
「一緒じゃない!」
「違うもん! 取り込んでもちゃんと再構成して吐き出せるもん」
「取り込むなっ!」
祐巳さんの“能力”は、どうやら由乃さんには不評なのでした。
この日から祐巳さんは頭に氷嚢を乗せて登校するようになりました。
でも、これから季節は夏。
いつか氷が溶けきって、また、祐巳さんがあの白っぽいピンク色の流動体に変わるかも知れないのです。
その時、祐巳さんを冷やすことができなかったらきっと学園は……。
(FIN?)